第四次中東戦争 戦争の推移

第四次中東戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/03 14:10 UTC 版)

戦争の推移

以下、本稿では「ゴラン高原」とはゴラン高原周辺の戦区を、「シナイ半島」とはスエズ運河・シナイ半島周辺の戦区を指すものとする。

開戦

第四次中東戦争の開戦時において、エジプト軍スエズ運河渡河作戦を計画した。その作戦名が、バドル作戦(バドルさくせん、アラビア語: عمليةبدر‎)またはバドル計画(バドルけいかく、アラビア語: خطة بدر‎)である。1973年10月6日、スエズ運河西岸に展開したエジプト軍第2軍英語版第3軍英語版が10地点で渡河を行い、東岸のイスラエル軍防衛線(バーレブ・ライン)を突破、10月8日までに縦深10から13kmの橋頭堡を確保した。また、本作戦と並行してシリア軍によるゴラン高原進攻ヘブライ語版が行われた。

イスラエル軍は予期していなかったエジプト・シリア軍の奇襲攻撃により、緒戦で敗北を喫し、各地で苦戦を強いられることとなった。

戦況図を見つめるエジプト軍首脳。
(中央)サダト大統領、(右)ガマシィ作戦部長、(左)イスマイル英語版国防相。

10月6日

1973年10月6日のエジプト軍による攻勢とイスラエル軍の反撃。
赤:エジプト軍、青:イスラエル軍

1973年10月6日13:50から14:43にかけてエジプト軍は、スエズ運河東岸のバーレブ・ラインに対して攻撃準備射撃を行い、135個砲兵大隊約2,000門の砲迫から約3,000tの砲弾が拠点、機甲部隊集結地、砲兵陣地、指揮所等の目標に降り注ぎ、土塁の前方斜面に埋設された地雷等の人工障害物は多連装ロケット砲の掃射で破壊された。また、戦車砲等の直接照準火器約2,000門も攻撃に加わり、各種工作物を砲撃した。14:20からは3か所の陣地に展開したスカッド地対地ミサイル10基とFROG地対地ロケット20基が、ウムハシバ(Umm Hashiba)のSIGINT施設、タサ(Tasa)、ビルギフガファ(Bir Gifgafa)の師団指揮所を攻撃した[61]

14:00には240機のエジプト空軍機がスエズ運河を越え、シナイ半島の航空基地3か所、補助航空基地3か所、ホーク地対空ミサイル陣地10か所、砲兵陣地2か所、指揮所3か所、レーダーサイト2か所、SIGINT施設2か所、段列地域3か所、拠点ブダペストを空爆した[62][63]

スエズ運河渡河

築堤に消火用ポンプで放水して開口するエジプト軍工兵。

14:05、エジプト軍本隊の渡河に先立ち、対戦車火器を携行したレンジャー部隊がゴムボートで渡河し、ロープや竹梯子で堤防をよじ登り、東岸1kmまで進出して阻止陣地を構築、イスラエル軍機甲部隊の反撃に備えた[64]。14:20に第一波の5個歩兵師団8,000名が1,000艘のゴムボートに分乗して渡河を開始。この第一波には工兵のほか、誘導要員、砲兵隊の前進観測班も含まれていた[65]。第二波には歩兵部隊と消火用ポンプを装備した工兵隊80組が含まれ、15分間隔で15波に分かれて渡河した。

ポートサイド方面

アラブの二正面作戦(1973年10月6日 - 10月10日)

ゴラン高原方面

ナファク基地手前で(停戦ライン上の「拠点116」とする文献も存在する)撃破されたシリア軍のT-55戦車。

ゴラン高原方面では13時58分からのシリア空軍機による空爆に続き、14時5分、野砲・ロケット砲約300門が15時まで攻撃準備射撃の後、5個師団(3個歩兵師団、2個戦車師団後方で待機)がゴラン高原に突入した。[66] 対するイスラエル軍部隊は停戦ライン上の警戒部隊を除けば1個機甲師団(第36機甲師団)、戦車数にしてシリア軍1,220輌[注 14]対イスラエル軍177輌[68] である。

ゴラン高原北側へのシリア軍第7歩兵師団の攻撃はうまくいかなかった。第36機甲師団所属の第7機甲旅団は停戦ライン付近の丘に陣取り、第7歩兵師団の戦車や車輌を次々と撃破したのちに「涙の谷」と呼ばれることになるこの場所で、第7歩兵師団は後方に待機していた第3戦車師団や精鋭の共和国親衛旅団の増援を得つつ、昼夜を問わず攻撃を仕掛けた。10月9日には第7機甲旅団も稼働戦車が7輌(定数105輌)にまで低下した[69] が、シリア軍は結局最後まで第7機甲旅団の陣地を突破することはできなかった。シリア軍は戦車260と他車輌500[69] を失う。

これと対照的に、ゴラン高原中部・南部の攻撃を担当した第9、第5歩兵師団の攻撃は比較的順調に進んだ。こちらの守備を担当したイスラエル軍の第188機甲旅団(戦車定数72輌[70])は第7機甲旅団と同様、停戦ライン上でシリア軍戦車を迎え撃ったが、担当正面が広すぎ(停戦ラインは全長65km[66] だが、うち40kmを第188機甲旅団が担当した[71])、6日夕方にはシリア軍の450輌に対して第188機甲旅団の稼働戦車は15輌[72] にまで低下、シリア軍に包囲された上(夜間にシリア軍の間隔を縫って退却した)、翌7日には第188機甲旅団の旅団長、副旅団長、作戦参謀が三人とも戦死するという事態が起こった。最終的に将校の9割が死傷した[73] 第188機甲旅団にシリア軍を止めるすべはなく、シリア軍は後方の第1戦車師団も投入してゴラン南部でイスラエル軍の防衛線を突破した。

6日夜、これらのシリア軍とイスラエル本土の間にイスラエル軍の部隊が皆無なことに気付いたイスラエル軍は、動員を完了した予備役部隊を中隊ごと、時には小隊ごとに逐次ゴラン高原に投入しなければならなかった。こうした部隊を率いた戦車兵の一人、ツビ(ツビカ)・グリンゴールド英語版中尉が指揮した小隊規模の戦車隊「ツビカ隊」は夜間にゴラン高原を南北に走るTAPライン上に展開、ゴラン高原中部に位置する第36機甲師団の指揮所があったナファク基地ヘブライ語版に向かおうとする第5歩兵師団の戦車を一晩中延滞させることに成功した。

だが7日正午にはシリア軍第1戦車師団のT-55戦車がナファク基地に突入、第36機甲師団長ラファエル・エイタン少将や師団参謀も武器を取るほどの混戦となったが、「ツビカ隊」をはじめ各戦車隊がこれを撃退。

この頃になると、イスラエル軍の予備役部隊である2個機甲師団(第210英語版第146予備役機甲師団ヘブライ語版)がゴラン高原展開を完了。8日からこれら2個師団によりゴラン高原南部で反撃に出たイスラエル軍は、10日までにシリア軍をゴラン高原から追い出した。

これに前後して10月6日、シリア軍第82空挺大隊がヘルモン山頂のイスラエル軍監視哨を占領。イスラエルにとって「国家の目」であるヘルモン山をシリア軍に砲兵観測所として利用されるのを恐れたイスラエル軍は8日、ゴラニ歩兵旅団による奪回作戦を試みたが、失敗した。

シナイ半島方面

シナイ半島方面(南部戦線)の戦況。
左:1973年10月6日 - 13日、右:同14 - 15日
赤:エジプト軍、青:イスラエル軍

シナイ半島方面ではエジプト軍の5個歩兵師団がスエズ運河を渡河、橋頭保を築くと同時に運河沿いに作られたイスラエル軍の拠点群、通称「バーレブ・ライン」に対して攻撃をかけた。 イスラエル軍はすぐさま第252機甲師団(3個旅団基幹、以下第252師団)と空軍機が反撃を行ったものの、第252師団の3個機甲旅団はすべてエジプト軍の構築した対戦車兵器による防衛網によって次々と壊滅させられた。空軍機も同様に、低空用・高空用対空火器を巧妙に組み合わせたエジプト軍の「ミサイルの傘」の前にほとんど有効な航空攻撃を行えなかった。

ゴラン高原同様7日から8日にかけてイスラエル軍予備役部隊の第162予備役機甲師団(以下第162師団)と第143予備役機甲師団(以下第143師団)が到着、8日にはこれら2個師団による反撃が行われたが、第162師団は6日同様エジプト軍の対戦車兵器によって大損害をこうむり、第143師団は戦場を迷走したためほとんど戦闘に参加できず、イスラエル軍の反撃は再び失敗した。

一方、エジプト軍は「スエズ運河東岸に橋頭保を築いて停戦を待ち、シナイ半島は戦後交渉によって奪還する」という作戦の第一段階が完了したため、むやみな攻撃をかけずに橋頭保の強化につとめ、戦況は膠着状態となった。

その他

イスラエル軍はゴラン高原、シナイ半島で二正面作戦を強要され、一時はゴラン高原、シナイ半島の放棄、そして「第三神殿の滅亡[注 15] も考えられた。 このためイスラエルでは核兵器の使用が真剣に検討され、実際にディモナ核施設では航空機用核弾頭13発が用意された。しかし、戦況がやや好転したため、使用の機会は免れることとなった[74]

イスラエルの反撃(1973年10月11日 - 10月17日)

ゴラン高原方面

10月11日、イスラエル軍は再編成ののちゴラン高原北部からシリア領への逆侵攻を開始。シリア軍や新たに参戦したイラク・ヨルダン軍などの抵抗を受けながらも、イスラエル軍はシリアの首都ダマスカスを長距離砲の射程に収められる位置まで進軍したが、それ以上の進撃は中止された。アラブ側が必死の抵抗をしただけでなく、ダマスカスを陥落させるとソ連軍が参戦するとの警告がアメリカよりもたらされたからとされている[要出典]

シナイ半島方面

「中国農場」近郊で遺棄されたイスラエル軍のマガフ戦車とM113兵員輸送車。

8日以降戦況は膠着し、大規模戦闘はなかったものの、シリアから自国の苦戦を救うためシナイ半島での攻勢がエジプトに要請された。このためエジプト軍は全面攻勢を開始、10月14日、イスラエル軍との間に大規模な戦車戦が発生した。「ミサイルの傘」を出たエジプト軍は待ち伏せするイスラエル地上軍だけでなく空軍からも苛烈な反撃を受け、エジプト軍が約200輌の戦車を喪失、攻撃は失敗した。この戦闘の勝利によってイスラエル軍はシナイ半島でも戦闘の主導権を取り戻し、スエズ運河の逆渡河作戦を進めることとなった。

15日、イスラエル軍の逆渡河作戦「ガゼル作戦」(Operation Gazelle)が開始された[注 16] 。イスラエル軍は渡河点近郊の農業試験場、通称「中国農場」などでエジプト軍の強固な抵抗にあったものの、16日未明には空挺旅団と戦車旅団が逆渡河に成功、17日には第162師団主力が渡河、対空ミサイル基地を掃討しながら「アフリカへの進撃」を開始した。

その他

C-5輸送機から卸下されるM60戦車。

イスラエル・アラブ両陣営は激戦により、戦車・航空機・弾薬を急激に消耗、それぞれの陣営の兵器のおもなクライアントであったアメリカとソ連にとって「自国製兵器で編成された軍隊」が敗北することは中東プレゼンスの弱体化にもつながるのみならず、中東域外における兵器の販売にも悪影響を与える一大事となるため、ソ連は9日からエジプトとシリアの両国に、アメリカは14日からイスラエルに対し大規模な軍需物資輸送作戦を開始。最終的にアメリカが作戦機800機、戦車600輌を含む約2.2 - 2.8万トン、ソ連が作戦機200機、戦車1,000輌を含む約1.5 - 6.4万トン[75][76] の軍需物資を供給。これら物資が損害を完全に埋め合わせることはなかったものの、イスラエルとアラブの両陣営にとって「超大国が支援している」ということの心理的・政治的効果は大きかった。

エジプトおよびシリア以外のアラブ諸国も戦争に協力し、イラクヨルダンはそれぞれ各個独立旅団、2個機甲師団をゴラン高原に派遣し、またモロッコサウジアラビアスーダンの部隊がゴラン高原に、シナイ半島ではアルジェリアリビアモロッコ、PLO、クウェートチュニジア[77][78] の部隊が戦闘に参加。パキスタンの軍[79][80][81] やレバノンの対空レーダー部隊がシリアに派兵され[82]、さらにソ連の後援を受けるキューバも戦車やヘリコプターなどの隊をシリアに送り[83][84]北朝鮮のパイロットはエジプトの空軍基地の防空任務に就いていた[85]

戦況がイスラエル優位に傾きつつあった10月16日、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)はイスラエル支援国(アメリカとオランダ)に対する石油輸出禁止、アラブ非友好国への段階的石油供給削減を決定した。また、同時期、オイルメジャー代表と原油価格交渉を行っていたOPECのペルシャ湾岸産油国(非アラブ国でペルシャのイランを含む)は原油公示価格大幅引き上げを決定。長期にわたる先進諸国の高度成長による石油需給の引き締まりを背景に徐々に上昇していた原油価格は、これを契機に一機に高騰した。その後、OPECは加盟国の原油価格(公式販売価格)を総会で決定する方式を定着させ、国家間カルテルに転じた。高騰した原油価格は、石油禁輸や供給削減という政策が停止した後も、高止まりし、世界経済にも深刻な影響を与えることとなった(オイルショック)。

それまで欧米のオイルメジャーが独占的に原油価格を操作してきた実情をみれば、自国の資源を自国で管理したいという資源ナショナリズムの高まりがもたらした結末であり、この事件をきっかけにして、原油価格と原油生産の管理権はメジャーからOPECへ移った。すでに、1960年代後半から欧米で顕在化していたスタグフレーションは、石油危機によって、先進国全体に一挙に拡大、深化することとなった。

停戦(1973年10月18日 - 10月25日)

ゴラン高原方面

ダマスカス平原周辺では戦闘は小競り合い程度にとどまっていたが、21日夜、停戦決議を前にしてイスラエル軍によるヘルモン山の奪回作戦が再び行われた。シリア側山頂は容易に占領できたものの、イスラエル側山頂ではシリア空挺部隊の反撃が苛烈でイスラエル軍は多数の死傷者を出した。しかし22日の午前11時には山頂の観測所周辺が奪回された。23日、ダマスカス平原においてシリア軍とイラク軍、ヨルダン軍による攻勢が予定されていたものの、シリアが停戦決議(後述)を受諾したために攻勢は中止され、戦闘は終結することとなった。

シナイ半島方面

第162師団に続きスエズ運河を渡河した第143、第252師団の計3個師団は、運河東岸のエジプト第2軍・第3軍を包囲しようとイスマイリアスエズ市に向けて進撃した。第143師団はイスマイリア郊外で進軍を停止、第162師団は運河西岸を確保、第252師団はカイロ―スエズ街道を封鎖し、エジプト第3軍を包囲、停戦交渉の「人質」とした。第三次中東戦争同様エジプトが再び決定的敗北を喫することを危惧したアメリカ・ソ連をはじめとする国連安全保障理事会(以下安保理)は停戦工作を推し進め、10月22日、停戦を求めた国連安保理決議第338号が決議され、同日18時52分より発効した。しかしイスラエル軍は作戦行動を続け、24日には162師団がスエズ市攻略を強行したが、守備部隊の抵抗にあって失敗した。25日には国連安保理決議340にしたがって第二次国際連合緊急軍が編成され、停戦監視の任につくようになった。

停戦交渉と米ソの対立

戦況がイスラエル優位に傾き始め、アラブ側の敗北が現実味を帯びてきた上、停戦決議後も作戦行動を続けるイスラエルに対し、ソ連は実戦部隊の展開準備を進め、実際に空輸作戦(前出)に従事していた輸送機を空挺部隊の兵員輸送用に改装するため空輸作戦は停止され、黒海艦隊も増強された。これに対しアメリカは10月25日、デフコンをデフコン4からデフコン3(防衛準備態勢)に引き上げ、第6艦隊への空母部隊の増援、第82空挺師団の出動準備、核搭載B-52爆撃機のグアムから本国基地への移動をもって対応した。一時は「第三次世界大戦」の勃発も騒がれたが、イスラエル軍の作戦行動中止と同時に事態は沈静化した。


注釈

  1. ^ もっとも、開戦時にイスラエル軍の予備役兵は自宅にいるかシナゴーグで祈祷をしていたため、動員作業はむしろスムーズに進んだ[36]
  2. ^ シナイ半島の南端に位置し、ここを封鎖されるとイスラエルは紅海方面への進出が困難になる。そのためイスラエルはここの封鎖を戦争行為とみなしていた。[38]
  3. ^ 前述のように、史上初めて双方が対艦ミサイルを使用した海戦はラタキア沖海戦である。
  4. ^ これに不満を示した一部メンバーが結成したのが黒い九月である。
  5. ^ ただしソ連の対エジプト兵器供給は続いている。
  6. ^ 1972年7月のソ連軍事顧問団の追放など。実際にはアメリカの中東情勢への介入を求めるものであったといわれる(アメリカはベトナム戦争の対応で忙しかったため介入せず)。
  7. ^ 作戦名は624年ムハンマドが初めてメッカ軍に勝利を収めたバドルの戦いに由来する。
  8. ^ ラジオによる動員の発令なども「労働」に含まれる。
  9. ^ サダトは1971年に「今年は決断の年である」、1973年には「軍事解決のみが残された道」と演説した。
  10. ^ 成果はなく、メイアは「コップ一杯の水も出してくれなかった」と漏らしている。
  11. ^ 平時における最大の警戒レベルで、これが発令されたのは第三次中東戦争以来。
  12. ^ 空軍の対空ミサイル基地掃討作戦は先制攻撃を前提として作られていた。
  13. ^ アラブ側でも作戦開始時刻は厳重に秘匿され、エジプト軍では師団長クラスでさえ作戦開始時刻を知らされたのは6日当日であった。[59][60]
  14. ^ 各歩兵師団の戦車定数は240輌であり、戦車師団は250輌である。[67]
  15. ^ 「第三神殿」とはソロモン王ヘロデ大王の建てた神殿に次ぐ神殿、すなわち現代のイスラエルを意味する隠語である。
  16. ^ ストロングハート作戦」(Operation Strong Heart)とする資料もある。
  17. ^ 2015年現在でもイスラエルを「国家」と承認している周辺国はエジプトと、ヨルダン(1994年)のみ。
  18. ^ BMP-1歩兵戦闘車は本戦争で初めて実戦投入された。

出典

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