石橋政嗣 石橋政嗣の概要

石橋政嗣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/05/01 15:57 UTC 版)

日本の旗 日本の政治家
石橋政嗣
いしばし まさし
生年月日 1924年10月6日(89歳)
出生地 日本の旗 日本台湾台北州宜蘭市
(現・台湾の旗 台湾宜蘭県
出身校 台北高等商業学校(現・中華民国の旗台湾大学)
前職 佐世保地区労働組合会議議長
所属政党 (日本社会党→)
(左派社会党→)
日本社会党
称号 衆議院永年在職議員

選挙区 旧長崎2区
当選回数 12回
任期 1955年2月28日 - 1990年1月24日

任期 1983年9月7日 - 1986年9月8日
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来歴・人物

生い立ち

台湾礁渓庄に総督府官吏・石橋政八郎の長男として生まれる。台北一中を経て、台北高等商業学校(現・台湾大学)に進学する。しかし、太平洋戦争の戦況が悪化すると、学生の徴兵猶予制度は廃止され、石橋も1944年に高等商業学校を繰り上げ卒業させられ、軍隊に編入された。その後、熊本陸軍予備士官学校に入学し、1945年見習士官となったときに終戦を迎えた。

1946年、仕事を求めて、長崎県佐世保市に出た石橋は、同郷の人物の紹介で、進駐軍のための「勤労奉仕隊」の一員となった。現地の労働者の中で最も学歴の高かった石橋はやがて、労働者の代表と見なされるようになり、21歳で舎監に選ばれた。1947年には基地内に労働組合を結成し、その書記長となった。

政治家として

1951年に長崎県議会議員に当選。社会党分裂後は左派社会党に属し、1955年旧長崎2区から立候補して、衆議院議員に当選した。党内では、和田博雄派(和田の死後は勝間田清一派)に属した。その後、石橋は防衛問題で頭角を現し、1960年日米安保条約の改定に際しては、岸信介首相を追い詰め、黒田寿男らとともに「安保5人男」と称された。

1966年、石橋は社会党の党是である非武装中立論の実現のために、自衛隊を国民警察隊に改組し、漸進的に縮小して、非武装中立を実現するという石橋構想を発表した。当初、この考えは「一時的にせよ自衛隊の存在を認めることになる」という声が党内からあがり受け入れられなかったが、後に社会党の政策へと取り入れられた。1980年には、社会党機関紙局から1冊の本『非武装中立論』として出版され、30万部のベストセラーとなった。この本は、英語ロシア語ドイツ語フランス語モンゴル語ラオス語にも翻訳された。

『非武装中立論』はその後長く絶版になっていたが、2006年9月、明石書店より大塚英志の解説付きで復刻された。ただし、この復刻に社会民主党は関係していない。

社会党幹部として

1970年の第34回定期大会で書記長に選出される。以後、7年間にわたって、成田知巳委員長とコンビを組み(成田・石橋体制)、社会党を支えた。石橋は経費の節約による財政再建をすすめる一方、文書の言葉を日常使われる言葉になおさせたり、党員に対して日常活動を勧めるなど、長期低落に陥った党の再建に全力を注いだ。その結果、一時的に党勢は上向いたが、党員の体質を根本的に変えることは出来なかった。

1977年、参院選で社会党が敗北すると成田委員長と共に書記長を辞任する。飛鳥田一雄委員長の下で副委員長となるが、飛鳥田が書記長に若手の馬場昇を抜擢したことに抗議して、副委員長を辞任した。

社会党委員長として

1983年、参院選で社会党が敗北すると飛鳥田委員長が辞任し、後任の中央執行委員長となった。石橋は内閣総理大臣中曽根康弘を相手に非武装中立論に関する論争を仕掛け、社会党の存在をアピールする一方、公明党民社党といった中道政党との連携、すなわち社公民路線をすすめた。自衛隊に関しても、『違憲合法論』を打ち出し、自衛隊の存在を何とか社会党が許容する土台を作ろうと努力した。「違憲なのに、合法というのは矛盾している」と党内外から批判されたが、石橋は「最高裁判所は、1票の格差が大きすぎて違憲と判決した選挙結果を合法と認めている」という例を持ち出して、反対を押し切った。1986年には「日本社会党の新宣言」を採択させ、1964年以来の科学的社会主義に基づく「日本における社会主義への道」を歴史的文書として棚上げし、西欧型の社会民主主義政党へと社会党を脱皮させようとした。

石橋の目的は社会党を「何でも反対すること」を自己のアイデンティティとする政党ではなく、自民党との政権交代可能な政党へと脱皮させることにあった。しかし、社公民路線はもはや1970年代のような自民党に対抗しようというものではなく、逆に自民党政治を補完する性質のものへと変質していた。民社党は基本政策が自民党とほとんど変わらず、公明党も自民党田中派との太いパイプをもっていた。すでに公明党・民社党は1970年代後半から、地方の首長選で自民党と選挙協力するなど、自公民路線が定着しており、石橋が公明党・民社党との連携を深めることは必然的に社会党も自民党との国対政治を常態化させ、地方選挙では、自公民に社会党も加わったオール与党体制を形成することとなった。これが有権者の社会党離れ、無党派層の形成へとつながり、この政治の閉塞状態のなかで有権者は社会党ではなく、自民党内の改革派に期待するようになっていった。

皮肉にも1986年6月の衆院選で社会党は86議席と惨敗し、石橋は委員長を退任することになる。

委員長退任後

その後、後継の土井たか子委員長に対して中道政党との連携を強めるよう進言したが、社会党の独自性を重視する土井は石橋の言葉に耳を貸さなかった。土井も公明・民社を無視していたわけではないが、政策面での妥協を嫌ったのである。この背景には、左派や市民活動派の公民への反発もあったが、消費税問題などでは妥協しない姿勢が幅広い支持を集めたことが大きかった。

土井は次期総選挙で180人を擁立すべく、石橋にも協力を求めた。そうすれば、社公民・社民連合わせて安定多数を上回る候補者を擁立できるとの算段であった。しかし、石橋は「他の野党との信頼関係を損なう」と反発して協力を拒否。1990年、土井に対する抗議の意味を込めて、政界から引退した。第39回総選挙の社会党の候補者は149人に留まり、社公民と社民連合わせた公認候補は257人と過半数(定数512で257)ギリギリだった(他に野党系無所属が35人程度)。一方、自民党は公認だけで338人と、社公民・社民連を圧倒していた(他に保守系無所属は109人)。

引退後は回想録などを執筆。1994年、叙勲(勲一等旭日大綬章)の打診が総理府賞勲局からあったが、これを辞退。以後も10年にわたり、毎年ある打診を断り通した。1964年からの生存者叙勲復活にあたっては、当時の内閣総理大臣池田勇人を相手に、国会で断固反対の論陣を張った。[1]

著書

  • 『非武装中立論』日本社会党機関紙局、1980年。復刻版は明石書店、2006年9月、271ページ。ISBN 4-7503-2398-5
  • 『石橋が叩く―政界四十年、社会党へ最後の叱咤』ネスコ、1991年。ISBN 4890368256
  • 『「五五年体制」内側からの証言―石橋政嗣回想録』田畑書店、1999年。ISBN 480380298X



  1. ^ 栗原俊雄『勲章 知られざる素顔』(岩波新書)、165ページ。


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