琉球王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/05/14 16:03 UTC 版)
- 琉球国
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1429年 - 1879年[1]
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奄美群島を含む最大版図の頃の琉球王国-
公用語 琉球語(琉球方言)の内、主に沖縄方言 首都 首里[2] - 国王
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1421年 - 1439年 尚巴志王(初代) 1469年 - 1476年 尚円王(第二尚氏初代) 1847年 - 1879年 尚泰王(最後) - 三司官(最後)
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1872年 - 1879年 浦添親方朝昭 1875年 - 1879年 富川親方盛奎 1877年 - 1879年 與那原親方良傑 - 面積
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1571年 - 1609年[3] 3,454km² 1609年以降[3] 2,223km² - 人口
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1632年[4] 108,958人 1729年[4] 173,969人 1879年[5] 286,787人 - 変遷
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王国成立(三山の統一) 1429年頃 第二尚氏王統成立 1469年頃 琉球藩の設置 1872年10月16日 琉球処分により消滅 1879年3月11日[6] 沖縄県設置 1879年4月4日
最盛期には奄美群島と沖縄諸島及び先島諸島までを統治した。この範囲の島々の総称として、琉球列島(琉球弧)ともいう。王家の紋章は左三巴紋で「左御紋(ひだりごもん、フィジャイグムン)」と呼ばれた。
勢力圏は小さな離島の集合で、総人口17万に満たない小さな王国ではあったが、隣接する大国明・清の海禁や日本の鎖国政策の間にあって、東シナ海の地の利を生かした中継貿易で大きな役割を果たした。その交易範囲は東南アジアまで広がり、特にマラッカ王国[1]との深い結びつきが知られる。
明及びその領土を継承した清の冊封を受けていたが、1609年に日本の薩摩藩の侵攻を受けて以後は、薩摩藩による実質的な支配下に入った。ただし対外的には独立した王国として存在し、中国大陸、日本の文化の影響を受けつつ、交易で流入する南方文化の影響も受けた独自の文化を築き上げた。
目次 |
国名 [編集]
現在は琉球王国という表記が一般的だが、当時の名称は琉球國(りゅうきゅうこく、ルーチュークク)である。琉球の名称は、7世紀の中国の史書『隋書』卷81 列傳第46 東夷 流求國條に記述される、大業6年(610年)に隋に服属した国、流求に由来するが、この「流求」がそのまま「琉球王国」(今日の沖縄県周辺)を指したわけではない(後述。琉球の項目も参照)。明との交易が本格化した14世紀頃には今日の沖縄県周辺の呼称として定着し、「琉球國」という国号が、1872年の日本政府による琉球藩設置(琉球王国の廃止)まで用いられた。
「琉球(流求)」が指す範囲の変遷 [編集]
隋書においては、「流求」は福建省の東海上に位置する一介の島嶼としている。隋書に続く時代の『北史』、『通典』、『諸蕃志』においては『隋書』の記述を踏襲し、『太平寰宇記』(宋代の地理書)においても内容に大差はなかった。元代に完成した『文献通考』においては、「琉球」は台湾と沖縄県周辺を混同して指す記述となっている。
1874年にサン・デニーが『文献通考』の一部を翻訳し、その琉球条により流求は台湾であるとする説を発表し、1895年にグスタフ・シュレーゲルが、元以前の琉球は台湾で、明からは沖縄県周辺が琉球になったとする説を発表した。1897年、帝国大学文科大学(現東京大学)史学科教授ルートヴィヒ・リースの著書『台湾島史』(吉国藤吉郎訳、1898年)でも流求は台湾とした。
「流求」が史書に登場した7世紀前後から13世紀までは、台湾も沖縄県地方も村落レベルの小勢力の割拠状態であり、中国大陸や日本の中央政権からは認識が薄い状態であった。14世紀、沖縄本島中部を根拠地とする中山王が初めて明の皇帝に朝貢したことで認識が高まり、朝貢した沖縄地方を「大琉球」、台湾を「小琉球」とする区分が生まれた。その後、「琉球」は琉球王国(琉球國)の勢力圏を指す地域名称として定着していく。
歴史 [編集]
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三山統一 [編集]
琉球王国の正史『中山世鑑』や『おもろさうし』、『鎮西琉球記』、『椿説弓張月』などでは、12世紀、源為朝(鎮西八郎)が現在の沖縄県の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖舜天になったとされる。真偽は不明だが、正史として扱われており、この話がのちに曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだ。日琉同祖論と関連づけて語られる事が多く、この話に基づき、大正11年には為朝上陸の碑が建てられた。表側に「上陸の碑」と刻まれて、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した東郷平八郎の名が刻まれている。『中山世鑑』を編纂した羽地朝秀は、摂政就任後の1673年3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、王家の祖先だけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている[2]。最近の遺伝子の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。沖縄学の研究者の伊波普猷は、琉球の古語や方言に、支那文化の影響が見られない七世紀以前の日本語の面影が残っているため、支那文化流入以前に移住したと見ている[3]。高宮広士札幌大学教授が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘[4] するように、近年の考古学などの研究も含めて南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されている。1336年には、明から久米三十六姓が琉球に渡っている。
1429年、第一尚氏王統の尚巴志王の三山統一によって琉球王国が成立したと見なされている。第一尚氏王統は、統一後も地方の諸按司の勢力が強く、有効な中央集権化政策を実施しなかったため内乱が絶えず、63年間で瓦解した。
第二尚氏王統 [編集]
1462年、尚泰久王の重臣であった金丸(尚円王)が、尚徳王の薨去後、王位を継承し、第二尚氏王統が成立した。王位継承に関しては、正史では重臣たちの推挙によって即位したと記されているが、クーデターによる即位だったのではないかとの説もある。
その後、第二尚氏王統は、尚真王の治世に地方の諸按司を首里に移住させ、中央集権化に成功した。1571年には奄美群島北部まで進軍して勢力下におさめ、最大版図を築いた。
薩摩による琉球侵攻 [編集]
詳細は「島津侵入事件」を参照
16世紀後半、豊臣秀吉が明とその進路にある李氏朝鮮を征服しようとし、琉球王国に助勢を命じたが、明の冊封国であったため国王は一旦拒否した。しかし、実際に文禄・慶長の役で日本が朝鮮半島に攻め込んだ時には、琉球は日本軍に食料を提供し、日本軍の兵站の一部を担った。
1609年(琉球暦万暦37年・和暦慶長14年)、薩摩藩の島津氏は3000名の兵を率いて3月4日に薩摩を出発し、3月8日には当時琉球王国の領土だった奄美大島に進軍。3月26日には沖縄本島に上陸し、4月1日には首里城にまで進軍した。島津軍に対して、琉球軍は島津軍より多い4000名の兵士を集めて対抗したが敗れた。4月5日には尚寧王が和睦を申し入れて首里城は開城した。
これ以降、琉球王国は薩摩藩の付庸国となり、薩摩藩への貢納を義務付けられ、江戸上りで江戸幕府に使節を派遣した。その後、明を滅ぼした清にも朝貢を続け、薩摩藩と清への両属という体制をとりながらも、琉球王国は独立国家の体裁を保ち、独自の文化を維持した。琉球王国が支配していた奄美群島は、薩摩藩直轄地となり分離されたが、表面上は琉球王国の領土とされ、中国や朝鮮からの難破船などに対応するため、引き続き王府の役人が派遣されていた。
黒船来航 [編集]
1853年(琉球暦:咸豊3年、和暦:嘉永6年)5月に黒船が那覇に来航し、アメリカ海軍のマシュー・ペリー提督が首里城に入って開港を求めた[5]。薩摩藩はこの件についての裁断を幕府に仰ぎ、アヘン戦争の経過から強硬策が得策でないと考えた幕府は、琉球の開港を許可した[要出典]。黒船は翌1854年にも来航し、両国は琉米修好条約を締結して那覇が開港した。ペリーは、琉球が武力で抵抗した場合には占領することをミラード・フィルモア大統領から許可されていた。
琉球処分 [編集]
1871年、明治政府は廃藩置県によって琉球王国の領土を鹿児島県の管轄としたが、1872年には琉球藩を設置し、琉球国王尚泰を琉球藩王に封じて華族とした。明治政府は、廃藩置県に向けて清国との冊封関係・通交を絶ち、明治の年号使用、藩王自ら上京することなどを再三迫ったが、琉球が従わなかったため、1879年3月、処分官松田道之が随員・警官・兵あわせて約600人を従えて来琉、武力的威圧のもとで、3月27日に首里城で廃藩置県を布達、首里城明け渡しを命じ、沖縄県が設置され[6]、沖縄県令として鍋島直彬が赴任するに至り、王統の支配は終わった(琉球処分)。琉球の王族は、日本の華族とされた。しかし琉球士族の一部はこれに抗して清国に救援を求め、清国も日本政府の一方的な処分に抗議するなど問題は尾を引いた。外交交渉の過程で、清国への先島分島問題が提案され、調印の段階まできたが、最終段階で清国が調印を拒否して分島問題は流産、琉球に対する日本の領有権が確定した。
なお、尖閣諸島の領有問題や東シナ海のガス田開発に絡めて、琉球処分そのものが無効であって、琉球は中国の領土であると主張する中国の現役軍人も存在している。[中国国防大学戦略研究所長の金一南少将の主張。]
- ^ 建国当時はマジャパヒト王国との交易があったことが知られているが、明のムスリム・鄭和の保護下で新興イスラム国家・マラッカ王国が急速に貿易の主導権を奪い、琉球はマラッカ王国と貿易するようになった。
- ^ 真境名安興『真境名安興全集』第一巻19頁参照。元の文は「「此国人生初は、日本より為レ渡儀疑無二御座一候。然れば末世の今に、天地山川五形五倫鳥獣草木の名に至る迄皆通達せり。雖レ然言葉の余相違は遠国の上久敷融通為レ絶故也」。
- ^ 伊波普猷『琉球古今記』 刀江書院 1926年
- ^ 朝日新聞 2010年4月16日
- ^ 『琉球王国評定所文書』
- ^ 琉球藩ヲ廃シ沖縄県ヲ被置ノ件(国立公文書館)
- ^ 真境名安興『沖縄一千年史』記載の「職制創設年表」の一覧(318、319頁)には「表十五人」の職制はない。
- ^ 真境名安興『真境名安興全集』第一巻、392-394頁参照。
固有名詞の分類
琉球王国に関連した本
- 琉球王国 (岩波新書) 高良 倉吉 岩波書店
- 海の王国・琉球 (歴史新書) 上里 隆史 洋泉社
- 琉球王国 -東アジアのコーナーストーン (講談社選書メチエ) 赤嶺 守 講談社
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