治安維持法
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治安維持法 | |
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日本の法令 | |
法令番号 | 大正14年法律第46号 |
種類 | 刑法 |
効力 | 失効 |
成立 | 1925年3月19日 |
公布 | 1925年4月22日 |
施行 | 1925年5月12日 |
所管 |
内務省[警保局] 司法省[検事局] |
主な内容 | 国体変革・私有財産制否定を目的とする結社・運動の取締 |
関連法令 | 刑法、(旧)刑事訴訟法、破壊活動防止法 |
条文リンク | 官報1925年4月22日 |
ウィキソース原文 |
治安維持法 | |
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日本の法令 | |
通称・略称 | 治維法 |
法令番号 | 昭和16年法律第54号 |
種類 | 刑法 |
効力 | 廃止 |
成立 | 1941年3月1日 |
公布 | 1941年3月10日 |
施行 | 1941年5月15日 |
所管 |
内務省[警保局] 拓務省[管理局] 陸軍省[法務局] 海軍省[法務局] 司法省[検事局] |
主な内容 | 国体変革・私有財産制否定を目的とする結社・運動の取締 |
関連法令 | 刑法、(旧)刑事訴訟法、破壊活動防止法 |
条文リンク | 官報1941年3月10日 |
ウィキソース原文 |
1925年(大正14年)に治安維持法(大正14年4月22日法律第46号)として制定された。その後、1928年(昭和3年)6月29日公布の緊急勅令(昭和3年勅令129号)で修正が加えられた。さらに1941年(昭和16年)にも全面改正(昭和16年3月10日法律第54号)された。
十五年戦争(支那事変・大東亜戦争・太平洋戦争・第二次世界大戦)終結直後の1945年(昭和20年)10月15日、戦勝国およびGHQの厳命を受け第44代内閣総理大臣幣原喜重郎が昭和天皇に上奏発布した勅令『ポツダム命令に基づく治安維持法廃止等の件』によって廃止された。
その後、日本植民地から独立した大韓民国において左翼勢力を除去するために制定された国家保安法は、旧宗主国大日本帝国の本法律を母体としている[1]。同じく大日本帝国の植民地だった朝鮮民主主義人民共和国、さらに大東亜戦争で枢軸同盟の一翼だったタイにも少なからぬ影響を与えている。
注釈
- ^ 末弘厳太郎は1934年(昭和9年)6月6日に蓑田胸喜が、「出版法違反」「治安維持法違反」等として告発し、末弘は検事局からの事情聴取を受ける[3]。
- ^ この頃された新聞報道によると、インフルエンザであると発熱の塩梅は診察され、心臓鬱血、大量の吐血など重篤な症状を発症した[6]。
- ^ 司法大臣は、4日間だけ高橋是清農商務大臣が臨時兼任していた。小川は虎の門事件翌日に思想団体青天会を設立し会長となっており、また日本新聞を創刊して国粋を提唱していた。
- ^ 勅令により当時は日本の植民地であった朝鮮、台湾、樺太にも施行され[9]、また関東州及南洋群島にも同様な適用を行う[10]独立運動も含めて内地同様の取り締まりを行った。
- ^ 地方議会を含めれば、1926年9月3日に浜松市議会議員選挙で日本初。
- ^ これには、当時から憲法違反との指摘が根強かった。『安保法制の何が問題か』参照。
- ^ 山村工作隊、曙事件や白鳥事件、大津地方検察庁襲撃事件、大須事件、枚方事件など祖国防衛隊との共闘していた日本共産党第6回全国協議会まで。
- ^ 共産主義者同盟、東アジア反日武装戦線、全学共闘会議、中核派、革マル派、革労協、日本赤軍など。
- ^ 血のメーデー事件、長田区役所襲撃事件、三井三池争議、東大紛争、早大闘争、林健太郎監禁事件、安保闘争、羽田事件、三里塚闘争、渋谷暴動事件、東峰十字路事件、三菱重工爆破事件、三井物産爆破事件、帝人中央研究所爆破事件、大成建設爆破事件、鹿島建設爆破事件、間組爆破事件、オリエンタルメタル社・韓産研爆破事件、間組爆破事件、成田空港管制塔占拠事件、京成スカイライナー放火事件、芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件、ひめゆりの塔事件など。
出典
- ^ 閔炳老(早稲田大学法学部助手)「論説 韓国の国家保安法の過去、現在、そして未来-憲法裁判所の判決に対する批判的考察-」(PDF)『比較法学』第33巻第1号、早稲田大学比較法研究所、1999年7月1日、105-163頁、2015年3月22日閲覧。
- ^ “日本法令索引”. 国立国会図書館. 2018年2月16日閲覧。 『第45回帝国議会衆議院議事摘要 上巻』pp.1193-1194
- ^ 「末広博士の説明を聴く 検事局が慎重な態度」、『東京日日新聞』1934年(昭和9年)8月3日。神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 思想問題(8-061)。
- ^ 荻野富士夫「解説 : 治安維持法成立・「改正」史 I. 過激社会運動取締法案とその前・後史」 1996, pp. 531–532
- ^ 「社会主義は、理非曲直の問題ではない。単に一つの必然である。僕はこの必然を必然と感じないものは、恰(あたか)も火渡りの行者を見るが如き、驚嘆の情を禁じ得ない。あの過激思想取締法案とか云ふものの如きは、正にこの好例の一つである。」
- ^ 『大阪朝日新聞』1925年(大正14年)2月5日. 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 人物伝記(3-020).
- ^ 中澤俊輔 2010, p. 200
- ^ 大阪朝日新聞社編『朝日年鑑 大正15年』朝日新聞社、1925年11月、pp.284-288
- ^ 治安維持法ヲ朝鮮、台湾及樺太ニ施行スルノ件 (大正14年5月8日勅令第175号)『官報』第3811号、大正14年5月8日、p.221
- ^ 関東州及南洋群島ニ於テハ治安維持ニ関シ治安維持法ニ依ルノ件(大正14年5月8日勅令第176号)『官報』第3811号、大正14年5月8日、p.221
- ^ 奥平康弘 2006, pp. 55–56
- ^ 荻野富士夫「解説 : 治安維持法成立・「改正」史 III. 治安維持法の改悪 : 第二次治安維持法」 1996, pp. 584–596
- ^ 荻野富士夫 2000
- ^ 向江璋悦 1974, pp. 89–90
- ^ 荻野富士夫 2006, pp. 211–213
- ^ 荻野富士夫 2006, p. 213
- ^ 荻野富士夫 2006, pp. 213–214
- ^ 荻野富士夫 2006, pp. 214–215
- ^ 永井哲二『転向手記』顕真学苑出版部、1935年。NDLJP:1443545。(コマ番号:23)
- ^ 『抵抗の群像』 2008, p. 2
- ^ 神戸市立中央図書館 (2015年11月15日). “治安維持法で何人亡くなったか知りたい”. 2021年5月22日閲覧。
- ^ “なんだっけ 治安維持法って何?” (日本語). しんぶん赤旗. (2017年2月27日) 2021年5月23日閲覧。
- ^ 衆議院予算委員会. 第77回国会. Vol. 3. 30 January 1976.
実際に若干の数字を挙げてみますと、この治安維持法によってどれだけの人が共産主義者の名をもって逮捕されたか。これは完全な統計はありませんが、司法省の調査によって見ると、検事局に送検されただけでも七万五千六百八十一名であります。送検されない段階の逮捕を合わせれば、これが数十万に上ることは容易に察知されることであります。しかも、この治安維持法で逮捕された被告に対してはあらゆる人権が認められませんでした。そのために多くの人々が共産党員として命を落としました。治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟という組織が調査したところによりますと、逮捕されて、現場で、留置場で拷問などによって虐殺された者が六十五名、そういう拷問、虐待が原因で獄死した者が百十四名、病気その他の理由で獄死した者が千五百三名、全部で千六百八十二名が、われわれがわかっているだけでも治安維持法によって逮捕され、虐殺され、獄死しているわけであります。
- ^ 衆議院予算委員会. 第77回国会. Vol. 3. 30 January 1976.
吾党中央委員会に潜入せるスパイ・挑発者の元凶片野(発言全体についてはNo205[塚本三郎]~251[塚本三郎])
- ^ 「魂の昭和史 すべての日本人に感じてほしい」 福田和也(小学館文庫)[要ページ番号]
- ^ 渡部昇一 2009, pp. 90–91, 104–105
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