橋本龍太郎 人物

橋本龍太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/12 16:55 UTC 版)

人物

人物像

身長165cm、体重66kg。

座右の銘は「誠」、「初心忘るべからず」。趣味は、剣道、登山、写真、読書、プラモデル製作など多彩[4][64]。特に剣道は政界きっての腕前であった。全日本剣道連盟顧問、全日本剣道道場連盟会長、日本美術刀剣保存協会会長を務めた。また山中寅文ともに「名誉森林インストラクター」の称号を持つ。

一般には整髪剤は「ポマードべったり」と受け取られているが、実際には水性のヘアクリームを使っていたと本人が語っている。学生時代から通していたという[65]。ある時、鈴木宗男が橋本に隠れて「あのポマード野郎」と悪口を話していたところ、偶然後ろに橋本がいたため鈴木は顔面蒼白になったが、当の本人は「鈴木君、これはムースだよ」と言って快活に笑ったという。橋本の人柄を表す逸話として鈴木本人がよく語っている。橋本が身なりに気を使ったのは、父・龍伍の最期の言葉が橋本のネクタイの曲がりを戒めるものであったからだといわれる[4]。橋本は1990年にベストドレッサー賞を政治・経済部門で受賞している[66]

高校時からの喫煙者で[67][68][69][70]、「俺は意思が強いから、他人から何と言われようとタバコはやめない」「(鄧)小平が晩年まで頭が冴えていたのは、ヘビースモーカーだったからだ」と断言し、心臓発作を起こすまでチェリーを愛飲していた[27][64]。親友の安部譲二ピースを勧められても、頑なにチェリーを吸い続けていたという。

制服を好み、学生時代は常に詰襟学生服か剣道着で生活していたという。また、日本国有鉄道の民営化の際に運輸大臣を務めていたので国鉄の制服を着て式典に臨み、その時に着用した制服は後々も大事に保管されていた。

橋本は内閣総理大臣在任中も、高知県知事になって東京から離れた腹違いの異母弟・大二郎に代わって、しばしば公務の合間に入院中だった義母を見舞った。

弟の橋本大二郎がNHK記者だったころ、恋人と結婚したいという相談を兄の龍太郎にした。諸々の事情から龍太郎は、母が反対するので結婚しないほうが良い、と助言した。だが、大二郎が二の句を継がせずに結婚したい意志を伝えると、龍太郎は「よしわかった、俺に任せてくれ」と言ってその場を引き取り、時間を要して母を説得して、大二郎の結婚の承諾を得たという[64]。その説得の過程では、龍太郎の苦労と母の涙があったという(2014年4月28日放送『徹子の部屋』より本人談)。

1994年の週刊文春阿川佐和子との対談で「政界の杉良太郎」と呼ばれていますねと問われ「光栄です」と笑い、ご婦人層の人気の秘密はと聞かれ、「まだ、大人になりきってないからじゃないんですか」と答えている[71]

人物評

見識はあるが、人望はない」・・・これが橋本龍太郎に対する自民党内での一般的な評価であった。

橋本龍太郎は政界随一の政策通として知られ、いささかの揶揄の意味を込めて「課長補佐」などと周囲から言われるほど、知識量は多く、各政策部門の細かな部分まで精通していた。しかし、誰かが橋本に、何かわからないことを聞いたりすると、橋本はその相手に対して、「おや、そんなこともおわかりにならない?」、「あなたが知らないことを、どうして私が知っていると思うのです?」などと必ず嫌味な返答をしたとされる。花街で最も嫌われている政治家という不名誉な噂もあった。

また、橋本龍太郎は「一匹狼」タイプの政治家として知られ、誰かと群れることを嫌い、いつも1人で単独で行動した。その為、自民党内では協調性がなく、派閥の中でも積極的に活動したり、子分の面倒を見たりすることはほとんどなかった。前述の自民党総裁選で橋本擁立に奔走した小渕派の幹部からも「橋本さんは水耕栽培だから」と揶揄された。

橋本の兄貴分である竹下登は「怒る、威張る、拗ねるが橋本になければ、とっくの昔にアイツは総理になっていた」と評した[4]田中角栄は「橋龍は、こまっちゃくれた風切り小僧だ。備前長船の出身。切れそうだけど、あの手は人様に好かれない。親父の龍伍は切れ味抜群だったが、仲間がいなかった」と評した。

梶山静六は「橋龍というのは遠くで見ている富士山」と評したことがある。つまり、遠くから見ると立派な人物に見えるが近くに寄って接してみると、橋本龍太郎は理論に走りすぎたり、白黒をはっきりさせないと気のすまない性格で欠点ばかりが目立つというのである[72]

小沢一郎は「龍ちゃんは一人で遊ぶ。だから友達ができない」と述べている[73]。政治評論家の浅川博忠は、橋本が初当選のころの後藤田正晴を「後藤田君」と呼んでいたという逸話を紹介している。後藤田は当選回数では橋本より下だが、23歳年長で警察庁長官内閣官房副長官を経験していた[74]

橋本の総理大臣時代に幹事長代理として仕えた野中広務は「橋本さんは当選1回、2回の議員との接触がほとんどなかった。若手議員の面倒を見てやれず、(2001年の)総裁選敗北になったのではないか」と著書で語っている。橋本が自民党内で田中派、竹下派と最強派閥に属していた割には、橋本は派閥の仕事に日ごろあまり関心を示さなかった。その背景には、「自分は本来佐藤栄作の弟子であり、田中角栄は師匠というより組織の中における上司、竹下登は同じ佐藤の弟子の中における兄貴分であって、腹心ではあるが子分ではない。」という意識だったのでは、という分析がある[60]

政界で唯一の友人と言えるのは、同期当選で同学年の小渕恵三であり、お互い「龍ちゃん」「恵ちゃん」と呼び合う仲で「当選以来お互い騙し騙された事の無い仲だった」と語っている[注釈 3]。また、橋本を取り巻く数少ない側近には、斎藤十朗山東昭子藤井孝男熊代昭彦[注釈 4] らがいた。河井克行は橋本を師と仰いでおり、橋本は河井と河井案里の結婚式の仲人を務めた。

マスコミからは「芝居上手」ともいわれていた。芝居がかった喋り方などの特徴から「橋龍さんは非常に芝居が上手い」などともいわれていた。首相時代に自民党のCMにも出演していた際にもその様子が窺える。

一方で、久美子夫人はインタビューで「実はわりと涙もろい人なんです」と橋本を評していて[75]、実際に橋本の人情家としての側面を示す以下のようなエピソードがある。

橋本龍太郎は首相執務室の扉を閉めることをひどく嫌い、いつも扉を開いた状態にした。そして、廊下に誰が歩いてくるのかその人たちの足音を聞いた。また、橋本龍太郎は本人自らが頻繁に秘書室に行って顔をよく出したりした。

同僚議員の母親の葬儀の時には、橋本は直筆の弔辞を送るのが常であった[4]

また田勢康弘は、水俣病問題への対応の末に自死した山内豊徳(環境庁企画調整局長)の遺族に心のこもった手紙を宛てたエピソードなどを紹介しつつ、「橋本には『使用説明書(取扱説明書)』が必要だと常々思っている」と評している。この手紙の内容を知った佐高信は「(生意気、キザと思っていた)橋本に対する見方が変わった」という[76]

田中秀征は橋本内閣の経済企画庁長官時代に普天間基地返還問題に関して橋本が、「戦中も戦後もわれわれのために大きな苦難を担ってくれた沖縄の人たちに、できる限りのことをするのは当然だ。」と発言したことに身震いするような感動を受け、それまでキザなイメージが強かった橋本への人物感を改め尊敬するようになったという[77]。名護市市長の比嘉鉄也が辺野古移設受け入れ表明とバーターで辞任したときには、「申し訳ない」と執務室で涙を流した[4]。橋本が沖縄問題に精力的に取り組んだ背景には、沖縄戦で戦死した従兄の存在があるとされる[78][79]

橋本龍太郎は、95年の総裁選で総裁に選出された際、うっすら涙を浮かべていた。通商産業大臣に就任した塚原俊平は、橋本に会の報告に行った際の様子について、「ただ『有難う』といって、『僕も疲れたよ』とそんな感じでした。でもその後聞いたら、我々が帰った後で涙を流して喜んだということでした。おかしな人ですね。それなら私たちの目の前で喜べばいいのに。それが彼のシャイなところというか、パフォーマンスが下手な人ですね。」と述べている[80]

最後に総裁選に出馬したころは、テレビ座談会で司会の久米宏(「ニュースステーション」のニュースキャスター)に「(私を)睨まないでくださいよ」と言われて、橋本龍太郎は「睨んでないですよ。優しい眼差しを投げかけているんじゃないですか」と切り返す余裕も備わっていた。

当選前の猛勉強ぶりとその後の行動を見ていた俵孝太郎は、橋本のこれらの性格に関して、父の龍伍が障害者だったことから、健常者に負けないという障害者を抱えた家族特有の気負いが強かったことが、生意気と言われながらも、シャイで涙もろい要因だったのではと著書で分析している[60]

登山家として

橋本龍太郎は日本山岳会の会員でもあり、日本山岳ガイド協会の会長を長きにわたり務めた。1973年第2次RCCエベレスト南壁(現:南西壁)の遠征隊の総隊長を務めた。この他にも、多くの海外遠征登山隊の総隊長に就任したり、あるいは総指揮を担当した。生前、「七十歳になったら、もう一度エベレストに登りたい。君たちも夢を大事にして追いかけてほしい」と少年たちに語っていた[4]

登山家の野口健とも親しかった。2000年にエベレストの清掃登山を行っていた野口健は、12年前に同じく登頂を果たした橋本総隊長のJPNテレビ登山隊(日中ネパール合同隊)が置いていった酸素ボンベを発見し、帰国後橋本の議員会館事務所を訪れて酸素ボンベを届けた。当初、橋本は野口を失礼な人間だと感じたが、これがきっかけで2人は親しくなり、野口は橋本を父親の様に慕っていたという。2006年正月に野口は橋本から「自分はもう登山は無理だから、これを持って行け。」と橋本愛用のピッケルを渡されたという。山をこよなく愛したことから、青山墓地にある一家の墓とは別にエベレストを望むネパールのタンポチェ村に慰霊碑がある。野口はヒマラヤ登山の度に訪れている。慰霊碑は2007年に完成し、同年3月30日に、日本からの関係者も出席して式典が営まれた[注釈 5]

橋本との縁で橋本没後、野口事務所には橋本龍太郎の当時公設秘書だった藤村健が環境アドバイザー・マネージャーとして入所している[注釈 6]

内閣総理大臣在任中の1997年に発生したペルー早稲田大学探検部員殺害事件の報に接して、1997年12月28日に記者団の前で橋本龍太郎は「ペルーはMRTAだけでなくほかにもテロ組織があって、当然、政府軍との間でピリピリしている。十分事前に準備して最小限にとどめる必要がある。十分事前に準備をできていたのか、冒険好きの僕からみると疑問に思う」と述べた[81]。ただし、実際に殺害したのはペルーの正規軍兵士で、金銭目当ての犯行だった。橋本の発言に対し、早稲田大学探検部OBの船戸与一が厳しく反論し、探検部OB会有志47人の連名で、「内閣総理大臣・橋本龍太郎にたいする糾弾文」(原文ママ)を1998年1月26日発売の『週刊ポスト』183ページに意見広告として掲載した[82]

女性スキャンダル

橋本龍太郎は自民党幹事長に就任してからテレビによく出るようになった。選挙戦では、幹事長として各地の選挙区を飛び回り積極的に応援演説をした。そんなテレビに映った橋本の活躍は有権者たちに好感を与え、特に女性たちから人気を集めた。やがて、そんな橋本に女性関係の噂を指摘する声が多くなり、そのために首相になり損ねたことがあった、という意見がある。

宇野の退陣後に総理に就任した海部俊樹は回顧録で、金丸信から首相就任を持ち掛けられた際、「橋本はこれ(右手の小指)があるから駄目だ」と言われたために、その後、金丸が橋本に直接確認のために質したところ、橋本は「残念ながら、おれにはあるんだ」と答えたと回想している[83][注釈 7]。もっとも久美子夫人の立ち振る舞いもあってか、この橋本の女性関係の噂は政治的スキャンダルに発展することはなかった。

1990年に銀座ホステスとの関係が週刊誌で「橋本龍太郎の一夜妻」として取り上げられ、総理在任中の1996年に当人が暴露本を出版しマスコミを賑わせた。

諸君!」1998年6月号で、加藤昭は橋本龍太郎が総理在任中に中華人民共和国の女性官僚と関係があったと報じた。これについて橋本側は、女性は中国大使館に勤務する通訳であり、職務上接点があっただけと釈明したが、女性は北京市公安局の情報工作員であったといわれる[84]。なお、橋本龍太郎は日中友好団体の日本国際貿易促進協会会長を務めており、中国へのODA事業などを積極的に進めていた。

文藝春秋」(2008年9月特別号)では、米原万里に橋本から関係を迫られたと聞いたとする佐藤優の記事が掲載された。米原万里は橋本が総理在任中のモスクワ外遊時に通訳を務めていた。佐藤優は後に自著『インテリジェンス人間論』においても同様の記述をしている。両者とも故人のため、コメントは得られていない。


注釈

  1. ^ 日本の法人税は1990年度以降は37.5%であったが、1998年度に削減されて34.5%となった。1999年度にはさらに引き下げられ、30%になっている。財務省:法人税の推移
  2. ^ 高鳥は「野中さんだと派閥が分裂する」として橋本に総裁選出馬を進言した
  3. ^ 橋本の父・龍伍と小渕の父・光平第24回衆議院議員総選挙の当選同期であり、同じ吉田茂派に在籍していた
  4. ^ 同じ岡山県出身で、橋本に見いだされて政界入りした
  5. ^ 「橋本龍太郎氏の慰霊碑」『野口健ブログ』
  6. ^ また首相在任中に行われた党首討論(日本記者クラブで各党首による公開討論)で日本共産党委員長の不破哲三が「北方領土が日本固有の領土という点においては、なぜか自民党と一致している」と発言したのに対して、「山登りも同じだよ」と混ぜっ返して会場を和ませた。不破もまた登山を趣味としていた。
  7. ^ なお、ここで海部は「河野(洋平)にもあった」と余計な発言をしている。
  8. ^ なお龍太郎本人は東京生まれの東京育ちであるが、岡山を選挙区として政治活動を始めてからは“岡山県総社市出身”と称した。本籍東京都渋谷区(『人事興信録』より)。昭和43年(1968年)総社市に家を建てた(橋本久美子『夫 橋本龍太郎 - もう一度「龍」と呼ばせて 』p.48より)

出典

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  5. ^ 『橋本龍太郎・全人像』pp.98-100
  6. ^ 『橋本龍太郎・全人像』p.108
  7. ^ a b 安倍譲二署「塀の中の懲りない面々」より
  8. ^ 仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』pp.31-32
  9. ^ 『橋本龍太郎・全人像』p.116
  10. ^ a b 『橋本龍太郎・全人像』p.118
  11. ^ 『自由 第44巻、第507~510号』2002年
  12. ^ 仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』p.35
  13. ^ 仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』p.39
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