松竹
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/30 23:41 UTC 版)
主要映画
歴代社長
- 初代:1920年 - 1925年:大谷竹次郎
- 2代目:1925年 - 1936年:白井松次郎
- 3代目:1936年 - 1954年:大谷竹次郎
- 4代目:1954年 - 1960年:城戸四郎 - 大谷竹次郎の娘婿
- 5代目:1960年 - 1962年:大谷博 - 大谷竹次郎の娘婿
- 6代目:1962年 - 1963年:大谷竹次郎
- 7代目:1963年 - 1971年:城戸四郎
- 8代目:1971年 - 1984年:大谷隆三 - 大谷竹次郎の子
- 9代目:1984年 - 1991年:永山武臣
- 10代目:1991年 - 1998年:奥山融 - 専務の子
- 11代目:1998年 - 2004年:大谷信義 - 大谷隆三の長男
- 12代目:2004年 - :迫本淳一 - 城戸四郎の孫
現代から8代目までの出典:「松竹年表」『松竹九十年史』松竹、1985年12月28日、657-696頁。全国書誌番号:87001945。
主要監督
主要脚本家
主要俳優
男優
- 五味国太郎
- 諸口十九
- 岩田祐吉
- 鈴木伝明
- 岡田時彦
- 毛利輝夫
- 高田稔
- 上原謙
- 佐野周二
- 佐分利信
- 高田浩吉
- 笠智衆
- 大坂志郎
- 山内光
- 大内弘
- 結城一朗
- 宇佐美淳
- 鶴田浩二
- 佐田啓二
- 高橋貞二
- 三國連太郎
- 大木実
- 田村高廣
- 杉浦直樹
- 石濱朗
- 津川雅彦
- 吉田輝雄
- 高宮敬二
- 菅原文太
- 寺島達夫
- 三上真一郎
- 石坂浩二
- 竹脇無我
- 勝呂誉
- 藤岡弘
- 中村嘉葎雄
- 田村正和
- 三橋達也
- 川津祐介
- 山口崇
- 宗方勝巳
- 佐々木功
- 南原宏治(南原伸二)
- 原保美
- 小笠原弘
- 夏川大二郎
- 若原雅夫
- 小坂一也
- 菅佐原英一
- 佐竹明夫
- 若杉英二
- 北原隆
- 船山汎(船山裕二)
- 片山明彦
- 川喜多雄二
- 高城丈二
- 園井啓介
- 森美樹
- 早川保
- 松原緑郎
- 北上弥太郎
- 清川新吾
- 松川勉
- 片桐真二
- 花ノ本寿
- 山下洵一郎(山下洵二)
- 山本豊三
- 田浦正巳
女優
- 澤村春子
- 川田芳子
- 栗島すみ子
- 柳さく子
- 五月信子
- 英百合子
- 梅村蓉子
- 岡田嘉子
- 伏見直江
- 水谷八重子
- 飯田蝶子
- 三村千代子
- 岡村文子
- 吉川満子
- 歌川八重子
- 八雲恵美子
- 田中絹代
- 松井千枝子
- 松井潤子
- 伊達里子
- 龍田静枝
- 川崎弘子
- 桑野通子
- 高杉早苗
- 逢初夢子
- 三宅邦子
- 高尾光子
- 井上雪子
- 出雲八重子
- 及川道子
- 水久保澄子
- 水島光代
- 黒田記代
- 坪内美詠子
- 水戸光子
- 高峰三枝子
- 木暮実千代
- 三浦光子
- 小桜葉子
- 高峰秀子
- 桜むつ子
- 宮城千賀子
- 笠置シヅ子
- 望月優子
- 幾野道子
- 利根はる恵
- 津島恵子
- 滝瑛子
- 淡島千景
- 角梨枝子
- 桂木洋子
- 岸惠子
- 香川京子
- 小林トシ子
- 高千穂ひづる
- 野添ひとみ
- 有馬稲子
- 岡田茉莉子
- 淡路恵子
- 草笛光子
- 小山明子
- 牧紀子
- 古賀さと子
- 岩下志麻
- 芳村真理
- 桑野みゆき
- 倍賞千恵子
- 加賀まりこ
- 真理明美
- 香山美子
- 鰐淵晴子
- 尾崎奈々
- 倍賞美津子
- 由美かおる
- 中野良子
- 高橋洋子
- 松坂慶子
- 早乙女愛
- 桜田淳子
- 森昌子
- 原田美枝子
- 浅茅陽子
- 冨士真奈美
- 月丘夢路
- 芦川いづみ
- 忍節子
- 久原良子
- 御影公子
- 由美あづさ
- 西條鮎子
- 小畠絹子
- 雪代敬子
- 田代百合子
- 杉田弘子
- 有沢正子(山内敬子)
- 有田紀子
- 東谷暎子
- 瞳麗子
- 泉京子
- 浅茅しのぶ
- 日比野恵子
- 黒木瞳
- 伊吹友木子
- 藤乃高子
- 山田百合子
- 水原真知子
- 中川弘子
- 紙京子
- 七浦弘子
- 槇芙佐子
- 生田悦子
- 瑳峨三智子
- 中村晃子
- 井川邦子
- 榊ひろみ
- 炎加世子
- 藤田泰子
- 北原三枝
この元専属の男女優達の中で『小津映画最後のヒロイン→映画「極道の妻たちシリーズ」へ』の岩下志麻を象徴として、松竹退社後や1970年代初めの日本映画界の斜陽化以降、映画・テレビドラマでの役柄や世間のイメージが松竹時代から激変してしまったスターが多い。
しかし、今ではDVD化・ビデオ化の充実やテレビ放映(上記の衛星劇場など様々なチャンネル)で、誰もが彼らの変わる前の松竹時代の作品に気軽に接することが出来る。
オープニングロゴ
1936年に撮影所を蒲田から大船に移した時期に富士山の背景による松竹タイトルが初登場した。横書きで「松竹映画」の文字が出てくるのは戦中で、戦後は様々なバリエーションの松竹タイトルが作られるも結局は富士山背景のバージョンに落ち着いた。 1980年代序盤に夜明けのアニメーションが追加され、1993年には富士山をイメージしたCGを背景に「松竹映画」に加えローマ字で「Shochiku」と表記するようになったが、2000年「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の配給に際して、既存のロゴが似合わないという声があり、2003年に既存のオープニングを基に図案化したCGによる富士山の下にローマ字で「SHOCHIKU」と表記するオープニングが新たに製作され、それ以降に製作されたほとんどの映画がそのロゴを使用するようになったが、前述した一世代前のロゴは主に時代劇や山田洋次監督作品で引き続き使用されていた。後述する新ロゴリニューアル後も、洋画で使用されるケースがある(「天才作家の妻 40年目の真実」など)。
2015年の創業120年を機に、チームラボ製作の「継承」と「発展」を表現したもの[7]と、IMAGICAウェスト製作の本物の富士山の映像をバックに「松竹」の文字とロゴと、ロゴの下にローマ字で「SHOCHIKU」の文字を映し出したもの[8] の2種類にリニューアルされたが、IMAGICAウェスト製作のロゴが主に使用されるようになった。ただし、チームラボ制作のロゴも一部作品で使用されている(「あした世界が終わるとしても」など)。
ちなみに1930年代前期から戦中にかけてエンドタイトルの後に松竹マークが数秒間映し出される作品共通の演出が用いられていた。この演出は戦中から終戦期の作品では松竹マークを背景に「終」の文字が映し出されるものに変わり、戦後は用いられなくなった。
撮影所
2011年現在、京都撮影所のみ現存している。
松竹洋画
洋画買付
1920年(大正9年)11月1日、松竹キネマ合名社創業と同時に、東京歌舞伎座にて自社作品との併映の形で洋画の興行を開始したのを嚆矢とする。松竹キネマ合名社内には外国部が設置され、洋画の買い付けにあたった。同年12月31日、銀座金春館を洋画専門劇場として開場。生駒雷遊や徳川夢声といった一流活弁士を出演させた。翌1921年(大正10年)からは浅草の帝国館を松竹洋画の拠点と定めたが、大作の一部は歌舞伎座や明治座でも興行を行った。
一方、関西松竹合名社の手により、1923年(大正12年)5月17日には道頓堀に大阪松竹座が完成。洋画興行と松竹楽劇部(のちのOSK日本歌劇団)による音楽舞踊のアトラクションを採り入れ話題となった。同年9月1日の関東大震災により、松竹キネマ合名社の外国部は大阪に移転。浅草帝国館は復興し、引き続き松竹洋画の本拠としたが、外国映画社の日本支店の多くは京阪神地区に移転していたため、事実上大阪松竹座が基幹劇場となっていた。
1924年(大正13年)、関西松竹合名社は国産映画の量産に力を入れることになり、洋画の輸入買付を手控える。以降同社は外国映画社から提供を受けた作品を配給する事に専念した(フリー・ブッキング制)。
松竹座チェーン
1924年(大正13年)6月、松竹キネマ合名社は新宿武蔵野館と提携。1926年(大正15年)には新宿武蔵野館に代わり目黒キネマが封切館に加わったが、やがて自社作品の拡充のため外国部を廃止して洋画興行および配給から撤退した。
一方、関西松竹合名社は大阪松竹座の成功に伴い、1924年12月31日に新京極の明治座を「京都松竹座」に改称して洋画興行を開始、翌1927年(昭和2年)には新開地の「神戸松竹劇場」を「神戸松竹座」に改称し、また「名古屋末広座」を買収して「名古屋松竹座」とするなどにより、松竹座チェーンが形成された。
1928年(昭和3年)8月、浅草松竹座が開業し、翌1929年(昭和4年)9月には四谷大木戸の「山手劇場」を「新宿松竹座」と改称。松竹座チェーンは東京に進出。また大阪松竹座・浅草松竹座にそれぞれ輸入部を設け、洋画の購入を再開した。
SPチェーン
1931年(昭和6年)5月、松竹座チェーンのライバルであったパラマウント映画チェーンと合併することとなり、松竹パ社興行社を設立。浅草大勝館・新宿松竹座・有楽町邦楽座・新宿武蔵野館・浅草電氣館・大阪松竹座・京都松竹座・神戸松竹座・大阪公楽座を直営劇場として洋画興行を行なったが、これに11月から日比谷帝国劇場が加わった。
トーキーと字幕の発達により、活動弁士の解雇が相次いだ。
SYチェーン
1933年(昭和8年)5月、パラマウント側が本来の映画配給に専念すべく、興行も含めた松竹パ社興行社から撤退。同年6月からSYコンパニー(松竹洋画興行部)が発足した。浅草常盤座・新宿昭和館が新たに加わり、都内の配給網は2系統になった。この後も契約館を増やし、運営母体も1936年(昭和11年)4月には松竹興行から独立して松竹洋画興行社となった。
1937年(昭和12年)4月、松竹キネマが松竹興行を合併し、現在の「松竹株式会社」となったため、松竹洋画興行社も合併に参加して、松竹株式会社の洋画部になった。さらに翌1938年(昭和13年)洋画の新規輸入が許可制になったため、輸入件数が減少し、洋画部は映画部洋画課に、翌1939年(昭和14年)には映画部洋画興行係に機構が縮小されていった。
1940年(昭和15年)、帝国劇場を失い、洋画購入件数も減少するが、却って希少価値を生んだため興行成績は良好であった。しかし1942年(昭和17年)4月に戦時統制に伴う「社団法人映画配給社」が設立され、松竹の洋画興行はここで一旦終止符が打たれた。
1946年(昭和21年)、占領軍により設置された「セントラル映画社」から、東宝と共に洋画興行を引き受けて復活。セントラル映画社との交渉がこじれ一旦打ち切られるが、翌1947年(昭和22年)、松竹保善社の名で再契約し、「浅草ロキシー映画劇場」(旧金龍館)で洋画興行を行い、同館内に「ロキシー興行社」を設置して洋画興行を復活させた。1949年(昭和24年)3月、接収されていた「有楽町邦楽座」が「ピカデリー劇場」として返還されたのを機に、ロキシー興行社を解消して松竹本社内に洋画係を復活。1950年(昭和25年)に洋画配給課が設置され、1927年(昭和2年)以来(※)の洋画配給を復活させた(※松竹キネマ時代から数える)。
1951年(昭和26年)11月、ユナイテッド・アーティスツ社(ユナイト映画)と提携。興行・配給成績共に洋画界の覇権を握る。配給部門は1955年(昭和30年)に外画部、1958年(昭和33年)に外国部に改められると共に業容を拡大した。
1959年(昭和34年)ユナイト社との提携を解消。別途セレクト・インターナショナル映画社と合弁で「松竹セレクト国際映画」を設立して、洋画配給部門を独立させた。しかし、翌1960年(昭和35年)には基幹劇場の築地・松竹セントラル劇場等数館が日本映画の上映館に転換したことにより、8月上旬よりSYチェーンの番組編成権が東宝に移行[9]。1961年(昭和36年)12月8日松竹、東宝が京浜地区洋画興行における両社提携とそれに伴うTY(東宝洋画系)、SY(松竹洋画系)両チェーンの解体、拡大強化を共同発表した[10]ことで「SYチェーン」は事実上崩壊し、全国をカバーする洋画興行はすべて東宝が握る事になった。
STチェーン
1962年(昭和37年)、松竹セレクト国際映画はセレクト側が撤退したため、松竹国際映画に改称。しかしながら依然として洋画配給としては弱体であったため、映配株式会社と合併することとなり、同年10月、松竹映配が発足。一方の興行チェーンも同年9月に東急文化会館と全面提携[11]。配給面でも翌1963年1月9日に同社と提携することで東急との繋がりが生じ[12]、1965年(昭和40年)2月27日独自の興行チェーンを復活。「松竹・東急チェーン」(STチェーン)が発足した[13]。なお、東急との関係で東映洋画系もこれに含まれることがある。
一方、買付映画の不振により松竹映配の業績は悪化。1973年(昭和48年)8月に解散することとなり、受け皿会社として同年9月に富士映画を発足。1983年(昭和58年)、松竹富士に改称したが、これも1999年(平成11年)に合理化のため解散、配給部門としては長期低迷が続いている。現在、松竹の洋画配給は本社映像本部が行っている。
映画館
2011年3月までの直営映画館
(以下の映画館、シネコンはいずれも2011年3月から松竹マルチプレックスシアターズが運営。)
子会社経営
- MOVIX(シネマコンプレックス。京都を除く全国21箇所)
共同経営
- 札幌シネマフロンティア(12スクリーン中4スクリーン。東宝、ティ・ジョイとの共同事業。松竹遊楽館、札幌東映劇場にあった松竹東急系、東映系劇場の後継映画館。)
- 横浜ブルク13(ティ・ジョイ、東急レクリエーションとの共同事業)
- ミッドランドスクエアシネマ(7スクリーン中3スクリーン。中日本興業との共同事業)
- なんばパークスシネマ(11スクリーン中6スクリーン。ティ・ジョイとの共同事業。道頓堀角座、道頓堀東映など、難波・千日前地区にあった松竹東急系、東映系劇場の後継映画館。)
- 大阪ステーションシティシネマ(12スクリーン中6スクリーン。TOHOシネマズ、ティ・ジョイとの共同事業。2011年1月に閉館した、梅田ピカデリー後継映画館。)
2011年3月1日に松竹本社が映画興行部門を松竹マルチプレックスシアターズに譲渡したため、松竹本社の直営映画館やシネコンは現在存在しない。
早稲田松竹を経営している松竹映画劇場株式会社は松竹グループに属していない別会社である。同社の実態は不動産賃貸業で、シブヤ西武(旧渋谷松竹映画劇場跡)が主な物件である。ただし、現松竹社長の迫本淳一が大学卒業後の一時期所属していたことがある。
興行成績
注釈
出典
- ^ 企業情報 - 松竹株式会社
- ^ a b c d e f g h i j k 松竹株式会社『第155期(2020年3月1日 - 2021年2月28日)有価証券報告書』(レポート)2021年5月26日。
- ^ 松竹株式会社 定款 第1章第1条
- ^ 裏に東宝対松竹の抗争『東京朝日新聞』(昭和14年4月1日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p741 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ “松竹120年の歴史を彩る映画音楽集発売、坂本龍一が手がけた「母と暮せば」など”. 映画ナタリー (2016年1月7日). 2016年1月7日閲覧。
- ^ 株式会社 TBS ホールディングスとの資本業務提携に関するお知らせ
- ^ “松竹オープニングロゴと松竹創業120周年のロゴを、チームラボが制作”. News Detail. チームラボ (2014年12月17日). 2015年2月19日閲覧。
- ^ “松竹オープニングロゴを制作” (PDF). IMAGICAウェスト (2014年12月25日). 2015年2月19日閲覧。
- ^ 東宝三十年史編纂委員会 編『東宝三十年史』 東宝 1963年 p229
- ^ 東宝 編『東宝75年のあゆみ ビジュアルで綴る3/4世紀 1932 - 2007』東宝、2010年4月 p215
- ^ 『松竹七十年史』松竹 1964 p969
- ^ 『東宝五十年史』東宝 1982 p480
- ^ 『東宝五十年史』東宝 1982 p483
- ^ “REVENGER:ニトロプラス×松竹のアニメ 2023年1月スタート 笠間淳が主人公声優に 梅原裕一郎、武内駿輔、金元寿子、葉山翔太も”. まんたんウェブ (MANTAN). (2022年10月28日) 2022年10月28日閲覧。
- ^ “歌舞伎に関する諸権利|松竹グループ 歌舞伎ライセンス ポータルサイト”. www.shochiku.co.jp. 2022年10月11日閲覧。
- ^ a b c 京都市学区大観(京都市学区調査会、1937年8月1日発行) p.550
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