松平忠誠 (武蔵国忍藩主) 松平忠誠 (武蔵国忍藩主)の概要

松平忠誠 (武蔵国忍藩主)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/11 01:06 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
 
松平忠誠
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 天保11年1月5日1840年2月7日
死没 明治2年6月5日1869年7月13日
改名 八五郎(幼名)、忠誠
戒名 霊源院殿潤渓了沢大居士
墓所 埼玉県行田市埼玉の天祥寺
官位 従四位下下総守侍従、従四位上左少将
幕府 江戸幕府
主君 徳川慶喜明治天皇
武蔵忍藩
氏族 大久保氏奥平松平家
父母 大久保忠声
松平忠国
太田資始
忠敬
テンプレートを表示

生涯

大久保忠声(下野国烏山藩主・大久保忠保の弟)の長男として誕生。忍藩の後継として入嗣していた忠毅の死により、新たに養子となった。

文久3年(1863年)4月1日、養父・忠国の隠居により家督を譲られる。8月26日、従四位下・侍従・下総守に叙任する。同日、京都警備のために上洛を命じられ、9月22日に孝明天皇に拝謁する。元治元年(1864年)3月12日には幕府から帰国の許可を得て、4月18日には従四位上・左少将に昇進する。8月21日、長州征討に際して江戸警備を命じられる。翌慶応元年(1865年)閏5月2日、長州征討の費用として5千両を献上する。

慶応2年(1866年)5月25日、京都警備を再び命じられ、7月4日に上洛する。10月22日、帰国の許可を得る。

慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いの敗北による徳川慶喜の大坂退去に伴い、忠誠は紀伊から船で退却した。その後、藩内が新政府軍に抗戦するか恭順するかで二分したとき、忠誠は藩論を一つにまとめられなかったが、隠居の忠国の登場によって藩論は恭順でまとまり、2月に忠誠は新政府に恭順した。明治2年(1869年)6月5日、忠国の後を追うように30歳で没した。

系譜






「松平忠誠 (武蔵国忍藩主)」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「松平忠誠 (武蔵国忍藩主)」の関連用語

松平忠誠 (武蔵国忍藩主)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



松平忠誠 (武蔵国忍藩主)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの松平忠誠 (武蔵国忍藩主) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS