松平容保 松平容保の概要

松平容保

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/04/30 22:45 UTC 版)

 
松平 容保
Matudaira Katamori.jpg
京都守護職時代の容保
時代 江戸時代末期 - 明治時代
生誕 天保6年12月29日1836年2月15日
死没 明治26年(1893年12月5日
改名 銈之丞(幼名)→容保
別名 祐堂、芳山(法号)、会津侯
神号 忠誠霊神
墓所 福島県会津若松市東山町松平家院内御廟
東京都新宿区正受院
官位 従四位下侍従若狭肥後守左近衛権少将、左近衛権中将、正四位下参議
幕府 江戸幕府京都守護職、陸軍総裁、軍事総裁職、日光東照宮宮司(明治維新後)
主君 徳川家定家茂慶喜
陸奥会津藩
氏族 高須松平家会津松平家
父母 父:松平義建、母:古森氏
養父松平容敬
兄弟 徳川慶勝武成徳川茂徳容保定敬義勇、義姉:照姫
正室敏姫松平容敬の娘)
側室:佐久(田代孫兵衛の娘)、名賀(川村源兵衛の娘)
容大、健雄、英夫、恒雄保男
養子:喜徳
松平容保肖像画(会津武家屋敷所蔵)

生涯

会津藩主就任

天保6年(1836年2月15日)に江戸の四谷にあった高須藩邸で藩主・松平義建の六男として生まれる。母は側室の古森氏。弘化3年(1846年)に叔父の会津藩第8代藩主・容敬(高須松平家出身)の養子となり、嘉永5年(1852年)に家督を継ぐ。安政7年(1860年)に桜田門外の変が起こった際には、水戸藩討伐に反対し、幕府と水戸藩との調停に努めた。

京都守護職就任

文久2年閏8月1日1862年9月24日)に京都守護職に就任する。はじめ容保や家老の西郷頼母ら家臣は、京都守護職就任を断わる姿勢を取った。しかし政事総裁職松平春嶽が会津藩祖・保科正之が記した『会津家訓十五箇条』の第一条「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在である」を引き合いに出すと、押し切られる形で就任を決意した。

京都守護職に就任した容保は、12月に会津藩兵を率いて上洛した。そして、孝明天皇に拝謁して朝廷との交渉を行い、また配下の新選組などを使い、上洛した14代将軍・徳川家茂の警護や京都市内の治安維持にあたった。会津藩は幕府の主張する公武合体派の一員として、反幕府的な活動をする尊王攘夷派と敵対する。八月十八日の政変では長州藩の勢力排除に動き、孝明天皇から容保の働きを賞揚する宸翰(天皇直筆の手紙)と御製(天皇の和歌)を内密に下賜された(詳細は後述)。容保はそれらを小さな竹筒に入れて首にかけ、死ぬまで手放すことはなかったという。

慶応3年(1867年)に15代将軍・徳川慶喜大政奉還を行い、江戸幕府が消滅すると同時に、京都守護職も廃止された。その後、鳥羽・伏見の戦いが勃発して旧幕府軍が敗北すると、大坂へ退いていた慶喜が戦線から離脱するのに従って、弟の桑名藩主・松平定敬らとともに幕府軍艦で江戸へ下った。

鳥羽・伏見の戦いにより朝廷は、旧幕府を朝敵とした。慶喜が新政府に対して恭順の姿勢を示すと、旧幕臣の間では恭順派と抗戦派が対立し、会津藩内でも同様の対立が起こった。

会津戦争

容保は会津へ帰国し、家督を養子の喜徳へ譲り謹慎した。西郷隆盛勝海舟の会談により江戸城が無血開城されると、新政府軍は上野戦争彰義隊を駆逐して江戸を制圧し、北陸地方へ進軍する。

容保は新政府に恭順の姿勢を示したが、会津藩内は主戦派が占めており、それを察知していた新政府軍も会津の恭順姿勢を信用していなかった。会津藩に同情的な仙台藩米沢藩は、奥羽越列藩同盟を結成して、新政府軍に会津藩赦免を求め、一方で会津藩に対しても新政府に対する謝罪を求めるも容保はこれを拒否。さらには鎮撫使として派遣された世良修蔵が仙台藩士によって殺害されたことにより、新政府軍と奥羽越列藩同盟の衝突は決定的となった。

晩年の容保

ここにきて容保は恭順姿勢をやめ、奥羽越列藩同盟の中心として新政府軍に徹底抗戦することを決意。しかし会津戦争では、新政府軍に敗北を重ねる。戸ノ口原の戦いでは、自ら兵を率いて滝沢村まで出陣するも、新政府軍が滝沢峠に迫っていることを知ると急ぎ若松城へと帰城。この時、新政府軍は容保の背後まで迫っており、主君を出迎えた白虎隊に銃弾が撃ち込まれている。

若松城に篭城した際、家老・西郷頼母に降伏を勧められるもこれを却下した。しかし、頼みとしていた同盟諸藩が次々と降伏し、完全に追い詰められた容保はついに新政府に降伏する。その後は、なおも抗戦を主張する佐川官兵衛らに降伏を呼びかけた。

容保の降伏後、新政府軍には容保の死罪を求める声もあったが、薩摩藩桐野利秋と長州藩士の前原一誠の計らいによって謹慎処分となり、鳥取藩に預けられることになった。

晩年

明治4年(1871年)、会津松平家は容保嫡男の容大が新たに陸奥国内で3万石を与えられ、斗南藩として家名存続を許された。

容保は明治5年(1872年)に蟄居を許され、明治13年(1880年)には日光東照宮宮司となった。正三位まで叙任し、明治26年(1893年)12月5日に東京小石川の自邸にて肺炎のため薨去。享年59。

死後

昭和3年(1928年明治維新から60年目)、秩父宮雍仁親王大正天皇第2皇子)と松平勢津子(容保の六男・恒雄の長女)の婚礼が執り行われた。会津松平家皇族の結婚は、朝敵会津藩の復権であると位置づけられているといわれる。

官職および位階等の履歴

※日付は明治4年までは旧暦

容保の墓



注釈

  1. ^ 容保の隠居後に、養嗣子の松平喜徳が家督を継ぎ会津藩主になったとみなすかどうかについては、見方が分かれる。
  2. ^ 日露戦争において乃木希典の副官を務め、出師営の会見に同行している。なお息子の貞夫は陸軍中尉としてインパール作戦に従軍し戦死。高木俊朗によると、その死は花谷正に自決を強要されたものであった[8]
  3. ^ 会津戦争によって藩内を戦火に巻き込んだことも災いした

出典

  1. ^ 『官報』第1351号、「叙任及辞令」1887年12月28日。
  2. ^ 磯田道史 『龍馬史』 文藝春秋2010年ISBN 4163730605
  3. ^ 中須賀哲朗・訳「英国公使館員の維新戦争見聞記」より
  4. ^ 『男爵山川先生遺稿』「14 忠誠神君の御逸事」
  5. ^ 『男爵山川先生遺稿』「15 英照皇太后陛下より忠誠神君へ牛乳を賜りしこと」
  6. ^ 『西忠義翁徳行録』
  7. ^ ドラマCD「彼岸獅子の入城」(追加情報あり)”. 萌えの桜. 2014年10月8日閲覧。
  8. ^ 『戦死 インパール牽制作戦


「松平容保」の続きの解説一覧





松平容保と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

松平容保に関係した商品

辞書ショートカット

カテゴリ一覧

全て

ビジネス

業界用語

コンピュータ

電車

自動車・バイク

工学

建築・不動産

学問

文化

生活

ヘルスケア

趣味

スポーツ

生物

食品

人名

方言

辞書・百科事典

すべての辞書の索引

「松平容保」の関連用語

松平容保のお隣キーワード

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   
検索ランキング

画像から探す

古沢滋

内藤湖南

新島襄

原敬

岩崎弥太郎

井上準之助

後藤象二郎

徳富蘇峰





松平容保のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの松平容保 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2015 Weblio RSS