松平容保 松平容保の概要

松平容保

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/03/26 01:39 UTC 版)

松平 容保
Matudaira Katamori.jpg
京都守護職時代の容保
時代 江戸時代末期 - 明治時代
生誕 天保6年12月29日1836年2月15日
死没 明治26年(1893年12月5日(享年59)
改名 銈之丞(幼名)→容保
別名 祐堂、芳山(法号)
会津侯
神号 忠誠霊神
墓所 福島県会津若松市東山町松平家院内御廟
東京都新宿区正受院
官位 従四位下侍従若狭肥後守左近衛権少将、左近衛権中将、正四位下参議
幕府 江戸幕府京都守護職、陸軍総裁、軍事総裁職、日光東照宮宮司(明治維新後)
主君 徳川家定家茂慶喜
陸奥国会津藩
氏族 高須松平家会津松平家
父母 父:松平義建、母:古森氏
養父:松平容敬
兄弟 徳川慶勝武成徳川茂徳
容保定敬義勇
義姉:照姫
正室:敏姫松平容敬の娘)
側室:佐久(田代孫兵衛の娘)、名賀(川村源兵衛の娘)
容大、健雄、英夫、恒雄保男
養子:喜徳
松平容保肖像画(会津武家屋敷所蔵)
晩年の容保

生涯

会津藩主就任

天保6年(1836年2月15日)に江戸の四谷にあった高須藩邸で美濃国高須藩主・松平義建の六男として生まれる。母は側室の古森氏。弘化3年(1846年)に叔父の会津藩8代藩主・容敬(高須松平家出身)の養子となり、嘉永5年(1852年)に家督を継ぐ。安政7年{万延元年}(1860年)に桜田門外の変が起こった際には、水戸藩討伐に反対し、幕府と水戸藩との調停に努めた。

京都守護職就任

文久2年閏8月1日1862年9月24日)に京都守護職に就任する。はじめ容保や家老の西郷頼母ら家臣は、京都守護職就任を断わる姿勢を取った。しかし政事総裁職松平春嶽が会津藩祖・保科正之が記した『会津家訓十五箇条』の第一条「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在である」を引き合いに出すと、押し切られる形で就任を決意した。最後までこの遺訓を守り、佐幕派の中心的存在として戦い、幕府と運命を共にした。

京都守護職に就任した容保は、12月に会津藩兵を率いて上洛した。そして、孝明天皇に拝謁して朝廷との交渉を行い、また配下の新選組などを使い、上洛した14代将軍・徳川家茂の警護や京都市内の治安維持にあたった。会津藩は幕府の主張する公武合体派の一員として、反幕府的な活動をする尊王攘夷派と敵対する。八月十八日の政変では長州藩の勢力排除に動き、孝明天皇から容保の働きを賞揚する宸翰(天皇直筆の手紙)と御製(天皇の和歌)を内密に下賜された。

慶応3年(1867年)に15代将軍徳川慶喜大政奉還を行い、江戸幕府が消滅すると同時に、京都守護職も廃止された。その後、鳥羽・伏見の戦いが勃発し大坂へ退いていた慶喜が戦線から離脱するのに従って、弟の桑名藩松平定敬らとともに幕府軍艦で江戸へ下った。慶喜が新政府に対して恭順を行うと、江戸城など旧幕臣の間では恭順派と抗戦派が対立し、会津藩内でも同様の対立が起こった。

会津戦争

容保は会津へ帰国し、家督を養子の喜徳へ譲り謹慎する。西郷隆盛勝海舟の会談により江戸城が無血開城されると、新政府軍は上野戦争彰義隊を駆逐して江戸を制圧し、北陸地方へ進軍する。

容保は幕府派の重鎮と見られて敵視され、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の中心として新政府軍に抗戦して会津戦争を行い篭城するが、その後新政府軍の降伏勧告に応じ、抗戦を主張する佐川官兵衛らに降伏を呼びかける。

晩年

その後は鳥取藩に預けられ、東京に移されて蟄居するが、嫡男の容大が家名存続を許されて華族に立てられた。

容保はそれから間もなく蟄居を許され、明治13年(1880年)には日光東照宮宮司となった。正三位まで叙任し、明治26年(1893年)12月5日に東京小石川の自邸にて肺炎のため死去。享年59。

なお、容保は八月十八日の政変での働きを孝明天皇から認められその際、宸翰と御製を賜ったが、それらを小さな竹筒に入れて首にかけ、死ぬまで手放すことはなかったという。また会津戦争については周囲に何も語ることはなかった。

死後

昭和3年(1928年明治維新から60年目)、秩父宮雍仁親王大正天皇第2皇子)と松平勢津子(容保の六男・恒雄の長女)の婚礼が執り行われた。会津松平家皇族の結婚は、朝敵会津藩の復権であると位置づけられているといわれる。また、同年には子母澤寛新選組始末記』、平尾道雄『新撰組史録』が刊行されており、この年は維新後に逆賊とされた、新選組再評価の転機となる年であった。

官職および位階等の履歴

※日付は明治4年までは旧暦

容保の墓



  1. ^ 容保の隠居後に、養嗣子の松平喜徳が家督を継ぎ会津藩主になったとみなすかどうかについては、見方が分かれる。
  2. ^ 日露戦争において乃木希典の副官を務め、出師営の会見に同行している。なお息子の貞夫は陸軍中尉としてインパール作戦に従軍し戦死。高木俊朗によると、その死は花谷正に自決を強要されたものであった(『戦死 インパール牽制作戦』)。
  3. ^ 磯田道史 『龍馬史』 文藝春秋2010年ISBN 4163730605
  4. ^ 『男爵山川先生遺稿』「14 忠誠神君の御逸事」より
  5. ^ 『男爵山川先生遺稿』「15 英照皇太后陛下より忠誠神君へ牛乳を賜りしこと」より
  6. ^ 『西忠義翁徳行録』


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