松平容保 松平容保の概要

松平容保

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/25 10:38 UTC 版)

 
松平 容保
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京都守護職時代の容保
時代 江戸時代末期 - 明治時代
生誕 天保6年12月29日1836年2月15日
死没 明治26年(1893年12月5日
改名 銈之丞(幼名)→容保
別名 祐堂、芳山(法号)、会津侯
神号 忠誠霊神
墓所 福島県会津若松市東山町松平家院内御廟
東京都新宿区正受院
官位 従四位下侍従若狭肥後守左近衛権少将、左近衛権中将、正四位下参議
幕府 江戸幕府京都守護職、陸軍総裁、軍事総裁職、日光東照宮宮司(明治維新後)
主君 徳川家定家茂慶喜
陸奥会津藩
氏族 高須松平家会津松平家
父母 父:松平義建、母:古森氏
養父松平容敬
兄弟 徳川慶勝武成徳川茂徳容保定敬義勇、義姉:照姫
正室敏姫
側室:佐久、名賀
容大、健雄、英夫、恆雄保男
養子:喜徳

生涯

松平容保肖像画(会津武家屋敷所蔵)

生誕

天保6年(1835年)1歳

12月29日、江戸四谷土手三番丁の高須藩邸で藩主・松平義建の六男として生まれる。母は側室の古森氏。幼名を銈之允と称す。[1]

弘化3年(1846年)12歳

4月27日、実の叔父にあたる会津藩第8代藩主・容敬(高須松平家出身)の養子となり、和田倉門内、会津松平家上屋敷に迎えられる。「お子柄がいい」と会津家の男女が騒ぐほど美貌の少年だったという。ここで藩主容敬より会津の家風に基づいた教育を施されることになる。それは神道(敬神崇祖における皇室尊崇)、儒教による「義」と「理」の精神、そして会津藩家訓による武家の棟梁たる徳川家への絶対随順から成り立っており、のちの容保の行動指針となった。[2]

嘉永4年(1851年)17歳

会津へ赴く。文武を修め、追鳥狩を行い、日新館に至り文武の演習を閲す。[3]

会津藩主就任

嘉永5年(1852年)18歳

2月10日、藩主容敬が亡くなり、2月15日、封を継ぎ会津藩主肥後守となる。[4]

嘉永6年(1853年)19歳

4月、安房、上総の警備地を巡視し、士卒の操練や船の運用を見る。[5]

10月、会津藩、品川第二砲台管守を命じられる。[6]

安政元年(1854年)20歳

10月3日、台命(将軍の命)により、駒場野にて老中・若年寄に藩士1000人余りを率いた教練を見せる。[7]

安政2年(1855年)21歳

10月2日、大地震により和田倉邸・芝邸が焼失。死者165名。救済にあたる。[8]

安政6年(1859年)25歳

9月、品川の守備を解かれ、蝦夷地の守備を命じられる。[9]

幕府水戸間の調停と幕政参画

万延元年(1860年)26歳

桜田門外の変が起こる。老中久世広周安藤信正尾張紀伊に水戸家問罪の兵を出させようとしたが、容保はこれに反対し徳川御三家同士の争いは絶対不可なるを説き、幕府と水戸藩との調停に努めた。これには家茂も容保の尽力に感謝した。これに続き容保は問題となっていた水戸家への直接の密勅の返還問題に着手。家臣を水戸に派遣し武田耕雲斎原市之進らの説得にあたらせる一方、容保は委細を幕府に言上し言いなだめ、一滴の血も流さずして勅書を返上せしめ、解決に至らせる。[10]

京都守護職就任

文久2年(1862年)28歳

5月3日、家茂より「折々登城し幕政の相談にあずかるように」と命じられる。幕政参与。[11]

閏8月1日京都守護職に就任する。この時容保は時疫にかかって病の床にあり再三これを固辞した。容保は、「顧みるに容保は才うすく、この空前の大任に当たる自信はない。その上わが城は東北に僻在していて家臣らは都の風習にはくらく、なまじ台命と藩祖の遺訓を重んじて浅才を忘れ大任に当たれば、万一の過失のあった場合累は宗家におよび、すなわち国家におよび、一家一身万死を持ってしても償いがたい」と、断り続けたが、しかし政治総裁や幕臣達は日夜勧誘に来た上で、会津藩家訓を持ち出し「土津公ならばお受けしただろう」と言い詰めより、辞する言葉もなくなり奉命を決心する。[12]

家老の西郷頼母田中土佐らは急ぎ会津より到着し、京都守護職就任を断わる姿勢を取った。西郷・田中や家臣たちは容保に謁し「このころの情勢、幕府の形勢が非であり、いまこの至難の局に当たるのは、まるで薪を背負って火を救おうとするようなもの。おそらく労多くして功少なし」と、言辞凱切、至誠面にあふれて戒める。しかし容保は、「それはじつに余の初心であったが台命しきりに下り臣子の情誼としてもはや辞する言葉がない。聞き及べば余が再三固辞したのを一身の安全を計るものとするものがあったとやら。そもそも我家には宗家と盛衰存亡を共にすべしという藩祖公の遺訓がある。余不肖といえども一日も報效を忘れたことはない。ただ不才のため宗家に累を及ぼすことを怖れただけである。他の批判で進退を決めるようなことはないが、いやしくも安きをむさぼるとあっては決心するよりほかあるまい。しかし、重任を拝するとあれば我ら君臣の心が一致しなければその効果は見られないだろう。卿ら、よろしく審議をつくして余の進退を考えてほしい」とのことであったので、家臣いずれも容保の衷悃に感激し、「この上は義の重きにつくばかり、君臣共に京師の地を死に場所としよう」と、君臣肩を抱いて涙したという。[13]

幕府への建議書

容保はまず、家老田中土佐、公用人等に先発させ、京の在任準備、情勢視察をさせた。国家混乱を治めるため目的は公武一和(天皇と幕府が協力し国内の混乱を平定。その上で対外政策を取る)となり、そのため容保は幕府へ建議書を提出する。その内容は低頭謙虚な挨拶から始まり、天下の体制、朝廷の幕府への不信、孝明天皇の叡慮である鎖国、下は人民たちの主張の攘夷、これらを尊重しつつ、諸外国の長所を取ること、巨艦大砲の軍備の備え、などに至っている。孝明天皇が幕府と力を合わせることを望んでいることから、この時点で容保の考えは朝廷と幕府が力を合わせ(公武合体)、叡慮(天皇の考え)や世論は鎖国攘夷であるがこれを徐々に少しづつ開国に向かわせることとなっている。その上で次の対策を上げている。[14]

①夷人の無礼や驕慢に毅然とした態度をとり、江戸府内の居住を制限する。

②すでに開港した三港(長崎・横浜・箱館)はそのままとしその他の条約で定められた兵庫・新潟の開港と江戸・大坂の開市は延期するよう外国と交渉する。

③朝廷より江戸へ下る勅使の待遇を改め、礼節をもって迎えること。

この容保の建白を幕府は採用し開港を五年延期することに成功し、列国の公使館が品川の御殿山に新築され制限された。また、勅旨を携え江戸に到着した三条実美は好感をもって帰京し、孝明天皇はこの建議書の話を聞き「中正の卓見である」と嘉賞されお喜びになった。[15]

「言路洞開」と「策を用いるな」

12月24日、会津藩兵を率いて上洛。この日は道の両側にその行列を見る市民が蹴上から黒谷まで隙間なく続いた。容保は宿舎より先に関白近衛邸にて天機(天皇の御機嫌)をお伺いし金戒光明寺に入った。[16]

文久3年(1863年)29歳

1月2日、参内。小御所にて初めて孝明天皇に拝謁し、天杯と緋の御衣を賜う。「陣羽織か直垂に作り直すがよい」と恩詔がある。これは前年に幕府へ意見した「勅使待遇の礼を改め、君臣の名分を明らかにすること」に尽力した功であり、武士で御料の御衣を賜るのは古来稀有のことであった。[17]

2月、この頃容保は公卿の薄禄と窮乏の改善にも取り掛かっている。天皇家の御料は戦国以来旧習の定額にもかかわらず物価は何倍にもなり窮乏を極め、中には内職で生計を立てている者もいた。そこへ幕府の裕福へのねたみがあり、さらにはそこへつけいり利用する過激浪士がいたことから公武一和の障害となっていたためである。容保は天皇家の御料の見直しと定額制廃止を建議する。孝明天皇の食卓にでる魚に関しても、食べられる品質のものではなく箸をつける素振だけすることが決められていた。それを聞いた容保は急ぎ大阪湾より新鮮な魚を直輸送し献上している。天皇は「これは肥後の魚か、これは肥後の魚か」と繰り返し、喜び、更にはほぼ魚の身を食べたというのに「次の食事の時に続きを食すのでそのまま出すように」と名残惜しんだという。

また、次に京市中の治安維持にとりかかる。京都守護職は夜中巡邏の制度を作り暴徒の警戒を行った。この頃京は過激な論を唱え暗殺と脅迫を手段とする攘夷派浪士が横行する巷と化し治安の最も下がった状態にあり、日に2~3度は暗殺が行われその首や耳や手が脅迫文書と共に公卿の屋敷に投げ込まれるといった事態であった。これは攘夷派による過激な手段の幕府批判であり邪魔となる者への殺戮と脅迫であった。しかし容保はすぐには鎮圧にはあたらず「言路洞開」の方針を打ち出した。浪士が騒ぐのは意見が上に通らない為、話せばわかると考えた容保は「国事に関することならば内外大小を問わず申し出よ。手紙でも面談でも一向に構わない。その内容は関白を通じて天皇へ奉じる」と布告を出し発令し幕府へも建議した。しかしこの時一橋慶喜は「全て聞いていてはきりがない。やるならば勝手にせよ」とあしらっている。肥後の轟武兵衛、長州の久坂玄瑞が「三願(攘夷期限の設定、言論の自由、国事掛の厳選)」を願い出た時も、慶喜や松平春嶽は逮捕させようとしたが容保だけは寛大の処置を置き、言路洞開こそが浪士鎮撫の良策だと論じている。[18]

2月7日、山内豊信の館に首と脅迫文が投げ込まれる。容保はこれを聞いて安心できず、病を押して鷹司卿のもとへ伺い「この輩は天威を恐れず尊貴を侮る。罪万死に当たるが、その根底をきわめてみれば上下の事情が隔たりすぎていることによる。ゆえにあまねく令を発して言路を開く方法をとることにした。それでもなお令に従わない者、人心を惑乱させる振る舞いの者あれば、容保、職責をもって厳にこれを逮捕する。ゆえに朝廷内においてもみだりに動揺されることのないように」と述べた。[19]

2月22日、足利三代木像梟首事件が起こる。攘夷派浪士により等持院にある足利将軍三代の木像の首が引き抜かれ三条大橋に晒された。立てられた板札は公然とこの首を徳川に擬していた。これには容保も激怒し「尊氏には世論が様々あるが、いやしくも朝廷から官位を賜り政権を預かった者、このような尊貴の者を辱めることはそのまま朝廷を侮辱すると同じである。もし彼らに尊王の心があるならば先に言路洞開にて進言を許しているのにその令を奉さずこのような兇暴をなすはずがない。これは実に、上は朝憲をあなどり下は臣子の本分を忘れたもの。ことにその暴行は屍に鞭打つに等しい残虐の行い。暴行ここに至れば許すべからず」として町奉行に追捕を厳命。

2月25日、すると過激浪士は京にいるだけでも500人はあるという噂が立ち、恐れた町奉行や三条実美から逮捕の中止を求める声が上がったが、容保は「たとえ浮浪の徒が幾百いようとも、国家の典型は正さねばならない」とした。

以後治安維持は警戒を強めていく。ある家臣が容保に「様々な策謀が巡る混乱の時局、こちらも策を弄して参りましょう」と進言したところ、容保は「策は用いるな。最後には必ず一途な誠忠が勝つ」と家臣を叱った。容保は家臣の勤めが至らぬ時も、民から凶暴の訴えがあった時も、それらは全て自分の不肖として一言も家臣を責めなかったという。やがて家臣もこれにならい職の責任を重んじ尽くした。[20]

孝明天皇の御宸翰

3月、将軍家茂は和宮降嫁の御祝言上のため上洛。これに先立ち過激浪士たちはこれを妨ぐために伊勢奉幣使派遣を画策するが、容保はこれを事前に察知。未然に防ぐ。

3月10日、京壬生村の浪士残留組の差配を幕府より命じられ、近藤勇芹沢鴨ら17名の浪士から会津藩へ嘆願書が提出される。12日には彼らを「会津藩お預かり」とする。[21]

3月11日、過激派の企画により加茂社行幸が行われるが、容保、厳重な警戒により事なきを得る。家茂も行列に参加し、孝明天皇は将軍の頼もしさを語ったと容保は聞き、公武一和の成果に喜んだ。[22]

3月17日、この頃イギリスが横浜来航し生麦事件や英国公使館焼き討ちの賠償金を幕府に請求し応答によっては戦端が開かれそうな問題が発生。この混乱を理由に将軍家は江戸へ帰りたがり朝廷へ帰国を奉請した。これに容保は大いに驚き引き止めた。 「横浜の問題については、いよいよの際には代わりに後見職・総裁職に東下して頂き、それ以上に公武一和が重要であり将軍は京を離れるべきではない」として「天朝より御一和相整い、人心帰嚮するまでは長く御滞京あそばされ、上は宸襟を安んじ奉り、下は万民の帰嚮を致させられ、神州の治安の基本相立ち候よう。強いて御東帰あそばされては天朝に対しても御不都合の儀、深く心痛仕る儀に御座候。下は天下の人心を失い、救うべからざる事態に至るであろう」といっている。

賠償金問題に関して幕府は混乱し決定できぬ状況に陥り、慶喜は「今となっては攘夷と決定したので一文も払う必要なし」としたが容保は「予はむしろ因循の汚名を着ても、外国に信義を失うには忍びない。そもそも生麦のことはわが方に非があり相手はこれを責めているので理にかなったことである。攘夷にしても名義だけは正しくしておかねばならない。ゆえに要求を認め償い、しかる後に攘夷を決行すべきである」と、その由を朝廷に上奏した。[23]

この夜、将軍家を京に引留める勅旨が下ったが、その内容にあった「浪花港に英艦を引き入れ戦端を開き…」との部分に容保は不審に思い怪しんだ。のちに天皇自身から真勅が下り「浪花は帝都の要港。万一にも無謀な戦争はしないように。先の勅旨は朕の知らざるところ」と、先の勅旨が攘夷派の起こした偽勅であったことが判明した。また真勅には「万事幕府に委任する。なお滞京し諸侯を指揮するように。諸藩にもその指揮を受くべきと命ずる。公武一和は臆兆の安堵の基である。朕は特にこれに意を注ぐ」とあり、天皇は過激攘夷派を忌み嫌い憂いた。[24]

4月11日、過激派の公卿の計画により石清水八幡宮への行幸が行われ、この時天皇を奪い将軍を暗殺するという噂が漏れたが、これもまた警戒を厳重にし事なきを得る。[25]

6月25日、京都守護職に江戸へ下るようにと勅命が下る。しかしこれは容保と会津藩を京から遠ざけるための過激派による偽勅であった。容保は八方に家臣を出したが状況をつかめず無駄に終わる。会津としては「今は公武一和の途上である。なぜこのような勅命が」と困惑した。孝明天皇はこの事態を大いに憂慮し決心する。宮廷の慣例を破る手段であるが、前関白を通じ容保に直接手紙を届けさせた。これが天皇直筆の御宸翰である。容保は衣冠束帯で文箱をおしいただき、内容には「今、守護職を東下させることは朕の少しも欲しないところで、驕狂の者がなした偽勅であり、これが真勅である。今後も彼らは偽勅を発するであろうから真偽を察識せよ。朕はもっとも会津を頼りにしている」とあり、容保は君恩の深さに哭きつづけ頭を上げることが出来なかった。[26]

7月30日、建春門外にて藩兵の馬揃え(軍隊操練)を天覧に供す。孝明天皇は非常に楽しみにしていたが、3日程雨が続き、はじめ過激派公卿は「雨天順延」の命を出しておきながらが急に叡覧の命を出し会津の狼狽や不備をさらし容保に恥辱を与えようとしたが、会津は準備一つもかけることなく大軍の操練をした。天皇はこれを褒めたため(「いささかの差支えもなく、かねて武備充実、行届き候段、実に頼もしく」との恩賜)、8月5日、再度天覧に供した。終わったあと容保は天皇の御車寄に召され叡感の詔を賜る。 京都守護職時代の容保の写真はこの日のものである。天皇より賜わった緋の御衣にて作られた陣羽織を着ている。[27]

この間、江戸へ帰りたがる将軍家やその首脳陣を引き留めるために家臣を奔走させている。容保は「国内を一つにまとめるのが先決。さすれば外交方針が一定し人心の不安は自然と鎮静することができる。目先の横浜問題は枝葉のことである」と考えたが幕府には伝わらず大いに困らされている。容保はこの先も京の政局において、伝わらぬ幕府と過激な攘夷派とに困らされ悩まされ続けていくことになる。のちに家臣山川浩は当時のことを「わが公の多忙なことは、一つ処理すればすでに数件の難事件が双肩にかかるありさまで、禁中・二条城・各屋敷を奔走し、その苦心は筆舌にあらわし得ないほどであった」と書いている。

八月十八日の政変

8月13日、大和行興の詔が発せられる。しかしこれは真木和泉による討幕のための偽勅であり、長州藩はすでに錦旗・武器を準備し、有力六藩に対し軍用金を醵出させる勅命(偽勅)も発せられる。容保は驚愕し、急ぎ薩摩派の中川宮に奏請。近衛前関白・二条右大臣の賛成を取り付ける。

8月16日、中川宮はひそかに参内して奸臣を除く議を奏上。同日、孝明天皇より「国家の害を除くべし。容保に命を伝えよ」との真勅が下る。

8月17日夜半、会津、薩摩、その他四藩にて御所九つの門を固め、翌朝事態に気づき出動した長州藩との激論にらみ合いになる。

戦に慣れぬ宮廷内も大騒ぎとなり「長州兵は三万」という流言も飛び交い震えあがったが、孝明天皇は「全て容保に任す」と言い、容保は落ち着いた様子で「敵が何万居ようと我等会津の精鋭にて一挙に殲滅仕ります」と場を鎮めたという。結果、七卿落ちとなり、謹慎蟄居を命じられた三条実美を始めとする過激攘夷派の七卿は逃亡し京から離れた。

8月19日、休まず御所を守護していた容保へ孝明天皇は特にその労を思し召され「引いて休むように。黒谷では遠いので施薬院を仮の住居にあてよ」とされた。それから容保は毎日参内ししばし朝議にも参画し、時には徹夜になるなど万一に備え力をつくし報じた。

8月26日、過激派公卿や浪士から「十八日以前の勅諚こそ真の叡慮で、その後のものは中川宮、肥後守などの奸臣が勝手に作った偽勅である」との宣言があり、これに悩まされた孝明天皇は「十八日以前の勅命は預かり知らぬ。今後の勅命こそ真の朕の存意に候間、諸藩一同にも心得違いあるべからず」と発した。[28]

10月9日、孝明天皇より宸翰ならびに御製二首を賜る。(後述)「公卿達が暴論をつらね、その不正や増長は耐え難く、その方へ内命を下したところ速やかな憂患掃攘と朕の存念貫徹の段、全くその方の忠誠にて、深く感悦の余り…」と天皇は容保の忠誠を称えた。

10月11日、朝廷より将軍家の再度上洛の勅書が容保に伝えられ、家臣小室当節にこれを持たせ東下させたが幕府は鎖港商議を理由に辞退。

10月29日、さらなる将軍家上洛の勅書を賜る。「公武御一和の天下の大策を立てられたき厚き叡念の御次第」容保は家臣柴田太一郎にこれを持たせ、さらに詳しく書面を老中に送って早急な上洛を勧めた。[29]

11月29日、一橋慶喜松平春嶽らとともに朝議参与を命じられる。しかしこれはもともと容保の素志ではなく、また、伝奏・議奏と相対峙し政令が二途に出るという弊害が生じたために翌年の3月には辞退。[30]

12月15日、公武合体派の中心である中川宮は天皇の厚い信認を受けていたが、浮浪の徒がこれを除こうと策を按じ「中川宮は関東の兵力を利用し天位につく野心がある」と流言した。容保は「このような児戯は天皇の心を動かすに足らない」と知ってはいたが、噂の力を恐れ書を奉っている。「宮の日月を貫かせられ候御高義、御忠誠は、臣ら社稷に換え死を誓って奏上し奉るべく候」[31]

12月、この頃、孝明天皇の島津へ残している手紙から天皇の意思と方向性が確認でき、容保と天皇が意思疎通させていたことがうかがえる。以下宸翰より抜粋。

一つ、攘夷の一件、今更申すまでもなく、神明神州に盟って皇国の輝照を汚穢せず、永代限りなく万民の快楽のみを存慮候より、従来数度申し出で候えども、なにぶん年久しき治世にて、武備充実せずしては無理の戦争に相成り、真実、皇国のためとも存ぜられず。

一つ、関東への委任と王政復古との両説これあり。これも暴論の輩、復古を深く申し張り、種々計略をめぐらし候えども、朕に於ては好まず、初発より不承知を申し居り候。いずれにも大樹(将軍)へ委任の所存に候。いずくまでも公武は手を引き、和熟の治国に致したく候。深く心得もらいたく候。

一つ、幕府に従う者は、深く勤王尊奉の道を相立て候えば、万民、幕府をやはり尊ぶの道理にて、欣悦これにすぎず候事。

一つ、八月十八日脱走の実美以下七人は、じつもって暴激、私情のみの人体、従来苦心し候ところ、すでに脱走後も種々の姦策をめぐらし、じつもって害の基に候えば、きっと厳重の所置に致したく存じ候。なにぶん大胆の輩ゆえ厳重になくてはいかがかと深く存じ候。復職などの沙汰もこれあるやながら、決してなるまじく候。[32]

12月30日、一橋慶喜松平春嶽らとともに朝議参与を命じられる。

一統の一和を懇望

元治元年(1864年)30歳

1月21日、将軍家の参内に病をおしてこれに従う。孝明天皇より将軍家茂に勅を賜る。この勅には現状を憂う心情や将軍家茂を信頼し依頼し、容保など公武合体派の藩主達と協力して事に計るようにと書かれている。以下抜粋「上下の解体、百姓の苦しみ、瓦解土崩の色をあらわし、これを思いて夜も眠れず。朕は汝を愛す。汝も朕を愛せよ。その親睦の厚き薄きが天下挽回の成否に関係す。無謀の征夷はじつに朕が好むところにあらず。然るゆえんの策略を議して朕に奏せよ」[33]

2月8日、孝明天皇より「深秘の宸翰」が届けられる。これはこの日の夜、野宮定功が来て「容保つねに和歌を好む由が天皇の耳に入り、特別に御製を数首送る」と、一封の書を渡して帰っていた。感激した容保が開封してみると、御製ではなく手紙だった。内容には「極く密々に書状を遣わします。昨年来、京に滞まって、万々の精忠、深く感悦の到りです。じつに容易ならざる時勢につけても、その方の忠勤、深く悦服、深く頼みにしています…」といった調子で書かれた長文の手紙で、「密々の面会も難しいので手紙にて…」といって別紙に細々と容保に依頼するところを述べ、「今までの宮廷内の暴論がいかに自分の意志ではないところで」行われてきたか説明し「なにとぞ極密の計略をもって私の心底を貫徹してくれまいか」と訴えている。[34]

2月10日、上洛以来の功により5万石を増封される。[35]

2月11日、陸軍総裁(のちに軍事総裁と改め)に任じられる。これは長州征伐のための転任であり京都守護職には松平春嶽が任命された。するとさっそく天皇から手紙が届き「容保が京都守護職を辞めるのははなはだ残骸の至り」と残念がり、慶喜からは「天下のことには替えられません」と言われても天皇は「それにしても守護職を免じる話は深く残骸に候」と繰り返し残念がり、「長州の件が済めば戻ってくれるだろうか、そのように周旋できないだろうか、春嶽に相談してみようか」と迷いつつも、本当に容保に頼り切っている有様が手紙の行間に溢れている。[36]

2月12日、参議就任の詔があったが容保はこれを辞退。容保は「私にいささか功ありとすればそれは全て藩祖保科正之公の故あってである。正之に贈賜下さりますように」と奉答した。20日に重ねて恩命があったが、重ねて辞退している。これにより保科正之に従三位が追賞された。

2月16日、病の容態悪く、辞退したが召命がしきりに下るので、やむをえず抱きかかえられながら二条城に登り、その際家茂手ずから備前秀光の刀を賜り、守護職の労を労い「現職の軍事総裁も勉励するように」と命じられる。しかしこれより病状は悪化。この後数十日の間起き上がることも出来なくなる。

2月18日、会津の重臣たちに親書を届ける。この親書には京都の現状や会津国元の困窮を心配する容保の心情、「会津も海軍を持つように、財政のやりくり、倹約には特に気をつけるように」など、今後の方針や国元の方針などが細かく書かれ「繰り言ながら…頼み入り候」と念を押して依頼している。またこの親書に年始の天皇より将軍家茂に賜った勅諚の写しを付けて、「この書状、江戸・蝦夷・国元、士分以上のものには漏れなく見せ、それ以下、下々にも本文の趣意を見せ、また聞かせるように」と依頼し、会津の気持ちを一つにと願う容保の心情が伺える。[37]

2月24日、幕府からの命により会津の兵制を革新。軍備更張し西洋式を伝習。

2月28日、家臣小室当節、秋月胤永らに命じて摂海の砲台築造工事を監督。この日容保は職の辞退を願い出る。病の身で寝たきりのまま職を全うできず時を過ごすことを恐れたためであり、同時に時事の意見を建議した。しかし幕府は慰め諭し許さず。また、この頃、会津の家臣達は容保が慶喜の指揮を受けることについて「これが実に難儀、切に憂慮である」と心配している。[38]

4月7日、京都守護職に復職。復職の要望は天皇始め幕府内にも多く、板倉勝静からは「当時の急務は肥後殿の復職」、徳川茂承からは「皇国の安危に関係仕り候」とあり、新選組に至っては春嶽の支配下を嫌がり容保の下で働きたいと願ってやまないので、50日ぶりの復職となった。

しかしこの頃には病が重く、食物は喉を通らず衰弱甚だしく、医者も手をこまねいて術の施しようがなかった。家臣たちは皆呆然として明日はどうなるかと憂慮するのみで、家臣達から「天朝と幕府の寵命は感銘にたえないけれども、真にいかんともすることもできない」として職の辞退の書面を呈した。書面には「たとえ家来ども力を合わせて周旋仕らせ候とも、行き届き候見込みこれなく、かえって公辺御為筋に相成らず」とある。

4月14日、幕府から命があり辞職は許されず。

4月17日、事務の渋滞を恐れて重ねて辞職を願い出る。「心外千万ながら何とも致し方御座なく候」

しかし幕府は懇切にさとして、あえて願いを聞こうとしなかった。[39]

4月21日、容保は朝廷より賜った横浜鎖港と長門藩処置についての勅諚を見て、「慄然として痛心にたえず、絶命重大、病気保養している時ではない、むしろ職に斃れて祖宗に報ずべきだ」と決意。守護職の命を拝した。

4月28日、天皇の将軍家への恩遇は厚く公武一和が結ばれつつあったが、参与となった雄藩諸候と幕府有司との間に溝があり容保を困らせた。幕府有司としては旧来の権威にこだわり、諸侯の声望が上回るのを恐れ参与の連中を嫌悪し、幕府の不利を謀るもののように疑い、権威の失墜を恐れた。参与もまた幕府有司の大勢に暗いことを侮り、有司の意見を退けることが多く、このため大議の度に議論の場は紛然とした。これにより幕府側は江戸への帰国を謀り、将軍家東帰につながった。国内の安定を願った容保は愕然痛嘆するばかりであった。

5月6日、将軍家は東帰の途に就き、容保は続けて京を任された。[40]

蛤御門の戦い

6月5日、池田屋事件起こる。配下の新選組が京都の大火を未然に防ぎ、容保の暗殺も阻止した。

容保は将軍家に人材の登用を勧め、先に賠償金問題で職を引いていた小笠原長行など有能な諸有司の名を上げ力を合わせるようにと書面にしたためた。「いずれも長ずるところこれある人物に候間、国家の急を重んじ、銘々の存意を張らず、一致一和にて合力致し候よう、直に仰せ付けられたく存じ奉り候」[41]

6月27日、長州兵襲来の気配アリとの知らせが入る。容保は隊を従え参内。守護し奉るようにと詔をたまい兵を九条河原まで向かわせた。

6月29日、孝明天皇より宸翰が守衛、総督に伝わる。「昨年八月十八日の議、且つその後申し出候件々、真実に候。偽勅との風説これあり候えども必々心得違いあるまじきこと。守護職の議、肥後守へ申し付け候、同人忠誠の周旋、決して私情をもって致し候にてはこれなく、その旨心得べきこと。長州人の入京は決して宜しからざること」

7月6日、数日の間撤兵を勧告したが長州兵は従わず、容保は「長州人の主のために哀訴しようというのは臣子の情として無理もないことであるが、大勢の兵で禁裏に迫るのは実に不臣も甚だしきもの。再び諭して、もし応じなければすみやかに掃蕩すべきである」としたが慶喜は「おだやかに事を運ぶに越したことはない。追討のことはやむをえないという時になってからで遅くはない」と意見が割れた。これをみて会津兵と新選組の面々が「慶喜卿が優柔不断で大事を誤る」と憤り、慶喜の屋敷に直談判しようと乱入する事件がおこる。これには会津の首脳や新選組組頭らも鎮撫に方法がなく、容保に急使を馳せて報じ、容保が外島義直を出して諭し、ようやく事なきを得た。

7月18日、長州兵より送戦状が届く。内容には「肥後守はその性剛腹にて庸劣、名分等を相弁えず、神州崩裂の勢を醸し候はまったくもって松平肥後守その職を得ざるよりのこと、国賊を誅除仕り候ほかは御座あるまじく、尋常に天誅を請け候よう」とある。

7月18日夜、禁門の変(蛤御門の戦い)起こる。容保は玉座を守護し奉ろうと常御殿の廊下まで進み孝明天皇に拝謁。そこで天皇へこの騒動に至った止むをえぬ事情を奉り「数刻で沈めます。どうかご心配なさらぬよう」と述べた。天皇はこれを諒承。容保は小御所の庭に席を設けて宿衛し天皇を守った。もともとこの半年程前から病にて伏せていた容保はこの日も両肩を家臣に抱えられながらの戦となり、庭上での露営は徹宵すること数夜に及び病は悪化した。

7月24日、京の地がようやく静まり幕府方の宿衛を免じたが会津の兵は尚も禁門を守り、朝廷から容保と会津兵へ連日の宿衛をねぎらい御饌を賜わう。また、この戦において起きた六角獄舎の悲劇について容保は後になってこれを聞き、大いに憂い厳しく町奉行らを戒めた。

容保はこの時「公武一和の基礎を作ろうとするならば、戦勝の余威に乗じて将軍家自ら進発して征長の任に当り、一挙に長防を破り、傾きかけた幕府の威信を張るに如くはない」として関東の幕閣に建議書を送った。[42]

征長問題

8月2日、将軍家上洛を促すため家臣野村直臣、広沢安任を江戸へ派遣。しかし老中の人々からは謁見の許しも出ず。

8月19日、容保は再び書面にて関東に提出。「…なにとぞ一刻も早々御進発あそばされ候よう仰望奉り候。万一御遅延に相成り候ようにては、自然気勢相弛み、顧慮、傍観の念を生じ候やも計り難く、兵は拙速を貴ぶともこれあり、くれぐれも急速に御進発…」

8月28日、江戸へ派遣中の家臣柴太一郎よりの報告には「着後は御城にて御目付衆に申し上げ候までにて未だ閣老方へ拝謁も仕らず、遂に激論に及び候えども、いつも空しく帰り候次第。せっかく諸藩憤発候とも瓦解の懸念あり」[43]

9月2日、容保の病気を心配した孝明天皇より「天下多事の今日、一日も早く全快するよう」と内々に煎薬と菓子を賜わる。

9月5日、孝明天皇より禁門の変の戦功として勅賞と御剣を賜わる。

9月6日、孝明天皇は内侍所へ出向き容保の病気が早く治るよう祈り、その洗米を容保は賜わる。[44]

9月17日、将軍家進発は幕府の死活に関わると考える容保は、老中の人々が形勢にうとく征長を重要視しないことを深く憂え、将軍徳川家茂に直に書を奉った。以下抜粋「…禁門へ発砲致し候程の者を御征伐のための御進発御遅緩に相成り候ては、天朝御尊崇筋へも相響き、せっかく一心一致して勇躍奮起仕り諸藩も追々瓦解致すべく、中興の御大業いかがあらせらるべきかと…」

しかし、江戸にある会津の重臣からの知らせにも「昼夜奔走致しおり候儀に候ところ、御憤発の御様子もいちじるしく相見えざる段、当惑の事に候」とあり、「あまりに迫って申し上げたら閣老方にもっとも嫌われ、目付にも嫌な顔をされる」とまで言っている。[45]

10月25日、孝明天皇より短刀と勅状を賜る。「国家のためじつに励忠、出格の廉、殊に七月以来の苦勤を厚く褒賞なされ候事」[46]

10月29日、朝廷では「将軍家へ再三長州征討の勅命を下しているのに未だその様子もない。もはや専命の勅使を将軍家へ発するほかはない」と朝議にて決定。容保はこれを聞き「しかしながらそれにては将軍家の御威光が立たず」と、勅使を引き留めるよう願い出、再度将軍家へ親書を奉る。「この上御延引に相成り候ては勅使いよいよ差し下され候」

しかし幕府内では財政難や士気の低下などから、互いに責任転嫁し、軍勢を見せれば降伏するだろうという、旧態依然の権威に捉われた風潮のままであった。[47]

12月27日、容保の意に反し征長総督徳川慶勝が解厳の令を発し、長州攻めの陣払いを命じる。

元治2年(慶応元年・1866年)31歳

1月4日、徳川慶勝から朝廷へ毛利敬親父子伏罪の状を上奏。よって長州の処置のために、朝廷より将軍家へ再度上洛を要請。しかし幕府では「ひたすら悔悟、伏罪致し、長防共に鎮静したならば上洛の必要はない」とした上に、「毛利父子、三条以下脱走公卿を江戸へ護送せよ」と命じるなど勅に反した。一方、朝議では諸大名を召して意見させようとした。

容保はこの状況を見聞し憂悶に絶えず「幕府有司達が朝旨を顧みず、みだりに旧態の権威に依存し得意になっている迷夢は厳しく警告し覚まさなければならない。と同時に、朝議もまた、先に幕府に政治を委任すると聖詔を出しておきながら今また勅を下し諸侯を召さば、政令が二途になり物議紛乱を招くだろう。幕府有司の京の事情に暗いことは、遂には朝令に反し、結果、公武の間の不協和をきたすこと図り知れない」として、諸侯を召す命の延期を請い、同時に幕府の有司の無経験を陳弁。そして「みずから江戸へ出向き、天皇の真意をよく説き諭し、将軍家と相携え速やかに上京する」旨を内奏。許可される。

1月、幕府より阿部正外松平宗秀が上京。二名に京の情勢や上洛征長の重要性を説き、正外が将軍家上洛の任に、宗秀が大阪にて征長のことにあたることになり、これにより容保の東下は中止となる。[48]

4月28日、召により参内、孝明天皇に拝謁し、病気快癒について優渥な恩詔を賜る。容保は感泣してこれを拝した。

5月22日、将軍家入京。征長の勅書を伝えられる。容保も参内し迎え入れる。

閏5月24日、将軍家は二条城を発して大阪城へ。容保も28日大阪に至り一心寺に館を決め日々登城する。

6月15日、帰京。

9月1日、京の官邸が完成しここに移る。[49]

10月2日、老中小笠原長行らが突然伏見まで来て何かを上奏しようとしていることを聞き、容保が馬を飛ばし駆け付け「何事か」と問うと、「一つは兵庫開港の勅許、一つは将軍職を慶喜卿にゆずることの奉請である」と答えた。その様な重大事を慶喜や自分に説明も相談もなく朝廷へ奉じようとしたことに容保も家臣も茫然自失した。この日この件が将軍家から上奏される。

10月3日、将軍徳川家茂が大阪を発して東帰すると報告が入る。容保は愕然として立ち上がり「今将軍家が東帰すれば大事はことごとく去る。引き止めねばならぬ」として馬を飛ばした。「陸路である」「海路である」など、定まらぬ情報が飛び交う中、橋・伏見を駆け回り、ようやく翌日未明に伏見にて家茂に拝謁。容保は「開港の事は天皇へ至誠を尽くして情勢を説明し奉請すれば必ず理解頂ける。また、征長を中途にして東帰すればたちまち天下の人心を失いこれを挽回するのは不可能である。願わくば二条城にて朝旨を奉じ庶績を上げるように」と再三申し上げ、家茂もようやく心を開き東帰を取りやめた。

10月4日、条約勅許を奉る。

10月5日、容保は家臣を諸藩に遊説させ遂に十余藩の会議に持ち込み、開港の勅許をえることに成功。容保は守護職就任してからこれまで、攘夷の不可能なことを知りながらも天皇の意思が攘夷であったことから、心中では天皇の意思が変わることを望みながらも謹んで天皇に奉従してきた。この日、初めて条約問題は解決した。[50]

12月22日、西国視察に出た近藤勇から「長州は表向きは謹慎恭順しているが裏では戦闘の準備を進めている」との報告。[51]

慶応2年(1866年)32歳

1月に幕府では長州処分を「十万石取り上げ」と決まり朝廷においても裁可されたが、長州ではその命を奉じず備中倉敷などで挙兵の行動に出たために幕府軍が進発。6月には戦端が開かれた。[52]

7月20日、将軍徳川家茂大阪城で病死。容保は哀痛の情の中であったが、情勢は一変し、薩摩藩は挙動を変え、征長軍と長州の戦闘は敗報がしきりに続いた。[53]

7月22日、薩摩藩が幕府の失体を条挙し長州の救解を上奏。容保は奮然として「長門藩兵が勢いに乗じて近畿に迫ることがあれば京の薩摩兵は必ずこれに応じるであろう。しからば前門の虎、後門の狼となり、なすすべがなくなる。座して敵の来るのを待つよりも、我から機先を制するにしくはない。すなわち京師の守護を所司代に譲り、みずから在京の兵を引き連れて石州口から進み、慶喜卿は山陽道の軍を監督し、互いに約して勝敗を一挙に決めれば、他の諸軍も軍気を挽回することができよう」として、慶喜や老中に出征を催促した。しかし慶喜は「肥後守が京から離れれば朝議がたちまち一変する恐れがある」としてひたすらに許さない。[54]

8月11日、更に続く敗報に慶喜は休戦の評議にかかる。容保は大いに不可として慶喜と争ったが容れられず。

容保は書簡を呈する。以下抜粋、

一つ、将軍家御決定、勅命をもって諸藩へ出兵を仰せ付け、粉骨をつくし藩あり、城を失いし藩あり。しかるに今に至り、筋道に反していない幕府側が解兵を言い出せば、上は天朝、中は諸侯、下は万民への信義立たせざること。 一つ、奉命尽力の諸藩を見殺しなされ武道筋に於いていかがこれあるべきや。 一つ、違勅をもって賊名負いし者に、再勅出しては、義賊分明せず。忠否乱れ、天下の耳目違乱致し事。 一つ、長州が休戦に応じず勢いに乗じ押し寄せるに至りては、一度惰気に相成り人衆の奮発、これあるまじき事。 一つ、これまで天幕の命に応じ攻めかかり諸藩へ長州より報復致し候わば、いかがいたすのか。 一つ、天前において仰せ立てられ件々にことごとく相反し、節刀をも賜り、申訳これなく。勅諚を改めとなってはこれまでのことも皆偽勅と相成り申すべき事。

しかし慶喜も老中も容保の意見は聞かず、容保はただただ慨嘆するのみであった。[55]

10月17日、容保は「中納言(慶喜)は京に於いて内外諸制の革新を実行に移す。不肖、守護職が嘱望を集めて対立するようなことがあっては新立の将軍家にとって有害であろう」として守護職の辞職を申請。しかし老中より却下される。この間、過激派公卿が勢い付き巻き返しを図り、二条殿下・中川宮を威嚇し辞職に追い込むよう画策、追放された公卿の復権など上奏したが孝明天皇の怒りに触れ退けられている。[56]

12月25日、孝明天皇が突然の崩御。容保は最も頼りにして忠義を尽くしてきた二人を続けて失くし、公武一和の策を失うことになる。「これを私にしては数回優渥の聖詔が髣髴として今なお耳にあり、当時を追想する毎に哀痛極りて腸を断んとし、暗涙千行、満腔の遺憾はどこにも訴える所なく、遂に慶応二年も暮れ行きぬ」と容保は回想している。[57]

鳥羽・伏見の戦い

慶応3年(1867年)33歳

2月12日、容保は辞表を提出。この頃会津藩士達の幕府への怒りは怫然として高まる。以下抜粋「いったい幕府は先帝の叡旨を奉行することもできず、軍職にありながら武力の発揚もできず、尽言を進めても採用もしない。わが公に大政に参与するよう命じておきながら大事の決定にも相談せず。今ではもはや輔翼の道は絶えた。天恩の万分の一は報い宗家への義務も尽くした。藩祖公への遺訓にも背かなかったと信ずる。辞職し領土に帰る、今が時期である」容保は重臣を集め、「国に帰ろう」と言い、重臣等は一人も異議はなかった。しかし所司代松平定敬、老中板倉勝静らは「中将が今京を離れれば何が起きるか分からない」と止められ続ける。

2月13日、幕府より「将軍家に代わり征長の解兵を奏上せよ」と命じられるが容保は「この使命はあえてお断りする」と辞退。

11月、15代将軍・徳川慶喜大政奉還を行い、江戸幕府が消滅すると同時に、京都守護職も廃止された。同じ日に出された「討幕の密勅」には「会津宰相に速やかに誅戮を加えよ」と命ずる勅書も出されていた。

12月9日、王政復古の詔勅下る。慶喜は容保、松平定敬を従え二条城より大阪城へ移る。

慶応4年(1868年)34歳

1月3日、慶喜、京師の奸を除かんとして大阪を出発、鳥羽・伏見の戦いが勃発する。旧幕府軍が敗北。

1月6日、大坂へ退いていた慶喜が戦線から離脱し夜に紛れて幕府軍艦で江戸へ下った。容保は慶喜の命によりこれに随行することになる。これは慶喜による策(君臣一体となっては戦うことになる会津藩士から容保を引き離す)であるが、容保にとっては大切な家臣達を戦場に残し逃げる形となってしまう。家臣誰一人にも告げる暇もなく大阪湾上の開陽丸に連れられたという。[58]

2月4日、容保は大阪脱出の責任を取るために藩主を辞任し家督を養子である喜徳に譲る。

2月15日、容保は藩兵全員を江戸の和田倉邸内に集め鳥羽伏見戦争における奮戦を慰労、同時に自身の大阪城脱出を大いに恥じて謝罪。会津を回復したいと藩士を励ました。[59]

2月16日、会津・桑名を朝敵とする勅命が下り、慶喜より江戸城登城の禁止と江戸追放を言い渡される。容保は江戸を発し会津へ向かう。江戸詰めの藩士や婦女子も会津の人間のほとんどが江戸を後にした。

2月22日、会津に到着。容保は謹慎して朝廷の命を待つ。会津は武装防衛と降伏嘆願の二方向へ動く。

3月、奥羽鎮撫総督九条道孝は参謀世良修蔵らとともに東北諸藩に対して会津・庄内の征討を命ず。

4月、容保は仙台・米沢・庄内各藩を通じて降伏嘆願書を提出。しかし世良はこれをしりぞける。会津に同情的な奥州の各藩からも嘆願書が出されるがしりぞけられ、逆に各藩は会津征討を迫られてしまう。横暴な態度が目立ち奥羽の反感を買った世良は仙台藩士に襲われ殺害される。戦争は不可避となった。

奥羽越列藩同盟

5月、東北諸藩34藩からなる奥羽越列藩同盟が成る。

7月、13日に磐城平城、26日に三春藩、29日に二本松城、29日に長岡城が落城する。

会津戦争

8月21日、会津藩は各国境へ主力を送り出し守備に付かせていたが石筵口である母成峠の戦いにて東軍が破れ、西軍は破竹の勢いで進行した。

8月22日、容保、滝沢本陣にて宿陣。戸ノ口原の守備を固めるため白虎隊(士中二番隊)もここより出陣。

8月23日、戸ノ口原の戦いにて東軍が崩れ、西軍が若松城下に侵入。城下の戦いと籠城始まる。これより一ケ月余りの長い籠城戦の中で会津藩の家臣達は婦女子や子供に至るまで戦い、又は自決をし、会津の武士道に殉ずる道を選び、多くの悲劇を生んだ。西郷頼母の家族に代表される婦女子の自刃は140家族239名にのぼり、白虎隊の飯盛山での自刃、中野竹子娘子隊の戦いなどがおこり、その他多くの会津藩士が胸に辞世の句を入れるなどして戦った。対する西軍は32藩からなり大砲100門、3万ないし4万人に上り城を包囲し一昼夜鶴ヶ城へ砲弾を打ち続けた。

9月22日、会津藩降伏。鶴ヶ城開城。容保は妙国寺へ移される。

10月19日、容保、会津を発し東京へ護送、池田邸に永預けとなる。

戦後

晩年の容保

明治2年1869年)35歳

5月18日、家老萱野長修、戦争責任を一身に負い自刃。

6月3日、容保の実子、慶三郎(容大)が生まれる。

11月4日、容大に家名相続が許され華族に列し子爵を授かり、陸奥の国3万石の支配を命じられる。

12月7日、容保は和歌山藩へ預け替えとなる。

明治3年1870年)36歳

5月15日、容大が斗南藩知事に任じられ、青森県五戸へ向かうこととなる。

明治4年1871年)37歳

容保も斗南藩預け替えとなり、7月~8月の約1カ月間田名部にて居住するが、その後東京へ移住する。

明治5年1872年)38歳

1月、蟄居を許される。

明治13年1880年)46歳

2月、日光東照宮宮司に任じられる。

3月、上野東照宮祠官を兼務し保晃会会長に就任。

6月、土津神社の祠官を兼務。

明治26年1893年)59歳

12月5日、東京小石川の自邸にて肺炎のため薨去。神号は忠誠霊神。

死後

昭和3年(1928年明治維新から60年目)、秩父宮雍仁親王大正天皇第2皇子)と松平勢津子(容保の六男・恆雄の長女)の婚礼が執り行われた。会津松平家皇族の結婚は、朝敵会津藩の復権であると位置づけられているといわれる。

官職および位階等の履歴

※日付は明治4年までは旧暦

容保の墓



注釈

  1. ^ 容保の隠居後に、養嗣子の松平喜徳が家督を継ぎ会津藩主になったとみなすかどうかについては、見方が分かれる。
  2. ^ 日露戦争において乃木希典の副官を務め、出師営の会見に同行している。なお息子の貞夫は陸軍中尉としてインパール作戦に従軍し戦死。高木俊朗によると、その死は花谷正に自決を強要されたものであった[61]
  3. ^ 当時の慣習としては、婚約、幕府の認可、結納を経ていれば、婚儀の一部は成立しているとみなされるため、系図上は継室と記される。
  4. ^ 会津戦争によって藩内を戦火に巻き込んだことも災いした

出典

  1. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p7
  2. ^ 『松平容保』新人物文庫269/p24~p28
  3. ^ 『松平容保』新人物文庫269/p264
  4. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/略年譜p7
  5. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/略年譜p7
  6. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/略年譜p7
  7. ^ 『松平容保』新人物文庫269/p264
  8. ^ 『松平容保』新人物文庫269/p264
  9. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/略年譜p7
  10. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p5~p6
  11. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p6
  12. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p21~p23
  13. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p26~p27
  14. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p28~p33
  15. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p34~p35
  16. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p38~p39
  17. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p43
  18. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p44~p50
  19. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p52~p53
  20. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p72~p76
  21. ^ 『会津藩庁記録』
  22. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p89~p90
  23. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p91~p94
  24. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p96~p99
  25. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p104~p105
  26. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p160~p166
  27. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p181~p183
  28. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p184~p209
  29. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p212~p214
  30. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p219
  31. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p219~p221
  32. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫49/p221~p227
  33. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p6~p10
  34. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p13~p17
  35. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p17
  36. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p18~p29
  37. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p31~p33
  38. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p34~p39
  39. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p40~p49
  40. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p50~p55
  41. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p70~p71
  42. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p68~p98
  43. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p100~p106
  44. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p110
  45. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p112~p118
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  47. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p120~p134
  48. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p136~160p
  49. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p166~p168
  50. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p170~p182
  51. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p183
  52. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p184~p194
  53. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p194~p202
  54. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p204~p205
  55. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p205~p206
  56. ^ 『京都守護職始末』山川浩著/東洋文庫60/p208~p219
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  58. ^ 『昔夢会筆記』
  59. ^ 『京都守護職始末』山川浩著
  60. ^ 『官報』第1351号、「叙任及辞令」1887年12月28日。
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  62. ^ 『七年史』北原雅長著
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  64. ^ 『京都守護職始末』山川浩著
  65. ^ 『京都守護職始末』山川浩著
  66. ^ 『同志社談業』第20号『新島八重子刀自懐古談』
  67. ^ 磯田道史 『龍馬史』 文藝春秋2010年ISBN 4163730605
  68. ^ 中須賀哲朗・訳「英国公使館員の維新戦争見聞記」より
  69. ^ 『男爵山川先生遺稿』「14 忠誠神君の御逸事」
  70. ^ 『男爵山川先生遺稿』「15 英照皇太后陛下より忠誠神君へ牛乳を賜りしこと」
  71. ^ 『西忠義翁徳行録』
  72. ^ 歴史ロマン朗読CD「城物語 松平容保と会津若松城」 - COSMICRAY”. 2016年5月24日閲覧。
  73. ^ ドラマCD「彼岸獅子の入城」(追加情報あり)”. 萌えの桜. 2014年10月8日閲覧。


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