東映アニメーション 沿革

東映アニメーション

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沿革

1940 - 1960年代

東映動画(東映アニメーション)は、東映の長年に亘る教育映画活動から生み出されたものである[5][6]。同社の教育映画事業は1947年(昭和22年)1月に東映の前身である東横映画に開発部が設置されたことに始まる[6]。開発部は16mmで製作した教育映画を農山漁村での巡回上映を行う「十六ミリ映写隊」等の活動を行い[5][6]、常時120班ほどの上映班が全国を巡回し、「東横16ミリ」と呼ばれ親しまれていたという[6]終戦直後には、講堂や映写機材も多くが戦災で不足していたことから、1940年代後半を中心に映画館への引率観覧が積極的に行われ、それは「映画教室」として全国的に波及していった[6]。当時、この映画教育運動に最も積極的に取り込んでいたのは、後に東映動画に買収される日動映画社の前身、日本動画社と関係していた東宝教育映画部だった[6]。そこで主要なプログラムとして盛んに上映されていたのは、『捨て猫トラちゃん』や『ムクの木の話』といった短編アニメーションであった[6]。教育映画と映画会社の関係は、東映のみならず、1910年代後半の国産アニメーションの登場直後から密接に関わり[6]、日本製アニメーションも「教育映画のサブジャンル」という位置付けを強く担っていた[6]。東映でも社長の大川博が教育映画に強い関心を寄せ[5][6]1954年(昭和29年)に教育映画祭が開始されるなど、教育映画が社会的脚光を浴び始めたこともあり、同年9月、東映でも教育映画の自主製作を始めた[5][6][7]。「十六ミリ映写隊」は「営業部十六ミリ映画課」と名称を変えていたが、1954年9月に設置された教育映画自主製作配給委員会での検討を経て、「営業部十六ミリ映画課」は「十六ミリ映画部」として独立し、1955年(昭和30年)6月に「教育映画部」と格上げされた[5][6]。教育映画製作は興行映画に比して事業規模も低く製作費も安く抑えられていた[5]。また劇映画が常設館での上映に対して、教育映画は学校や公民館などでの不定期な上映に依存していた[5]。しかし当時は映画自体を教育上好ましくないとみなし、学童、学生の映画館入場に厳しい視線を向ける地域も少なくなく、特に当時の東映が得意としていた剣戟主体の時代劇は俗悪と見られがちで、これと対照的な教育映画を製作・配給することは、東映にとって社会的地位や評価の向上をもたらすもので、こうした背景から教育映画が劇場の上映プログラムに組み込まれるようになった[5]。このような歴史を経て「教育映画部」の中でアニメーション映画が注目され、1955年3月31日に東映内で「漫画映画自主製作委員会」が開かれ[6]、「十六ミリ映画部」による教育用のアニメーション映画『うかれバイオリン』の制作が決まり[5][6]、日動映画へ製作が委託された[5][6]

日本動画株式会社は、1948年(昭和23年)1月、政岡憲三山本善次郎らにより設立され[8]、設立当初は新宿成城高校の空き教室約60坪[9]を根拠地に制作が行われた[9]1952年(昭和27年)8月、日動映画株式会社に商号変更していた[8]

1955年(昭和30年)、日動映画の藪下泰司と山本善次郎が東映の今田智憲営業課長を訪ね[10]、「自分たちは日動というアニメの会社を24、5人でやっているんだが、どうも難しい。協力してもらえないか」と相談があり[10][11][12][13]、国際的な映像の仕事としての大きな可能性を感じた今田が大川博東映社長に「東洋のウォルト・ディズニーになりましょう」と進言し日動映画の買収を決めた[10][11][13]。今田は東映の新規事業拡大に多く関わった重役だった[5]。大川は映画はズブの素人で[14][15]、映画にはあまり関心がなかったとされるが[15]、教育事業には強い関心を寄せており[5]、1955年10月完成の『うかれバイオリン』を大川が気に入り[5]、日動映画の買収を決めたという[5]

1956年(昭和31年)1月、東映は東映動画の設立に向け「漫画映画製作研究委員会」を立ち上げ[6]、委員長は大川社長で、副委員長・山崎季四郎、設立準備の実務担当委員として赤川孝一管理課長[注釈 2]や、今田智憲らが任命された[16]。ところが、事業計画案を巡り赤川と今田の意見が対立した。今田は「カラー長編制作に加え、ディズニー社を始めとするアメリカの長編アニメ制作会社と提携し、その制作技術を導入すること」「作品制作事業だけでなく、関連商品販売やテーマパーク運営など、広範囲にわたる事業展開を図るべし」「絶対に天然色で、長編漫画でなければ収入はあがらない」などと提案[5][16]。今田は今日のキャラクター・ビジネスやマーチャンダイズに近い発想を既に持っていたが、結局赤川の教育映画部の意見が優先され、今田の意見は却下された。

同年8月、東映が日動映画を買収[5]。日動映画は機材も少しで人員も30人で企業価値も低く、買収額は100万円と、東映にしては同社の買収は大したエポックでもなかった[5]。東映動画の公式サイトの同社沿革でも日動映画の設立から歴史が始まっているが[8]、東映動画にとっては日動映画が前身ということではなく[5]、日動映画を買収したことにより、大川博や今田智憲、山崎季四郎、赤川孝一らが、教育映画のラインナップとバリエーションを充実化する手段としてアニメーション映画に注目する切っ掛けの一つになっただけに過ぎない[5]1956年(昭和31年)8月1日[17]東映動画株式会社が発足した[8]。設立に森康二、藪下泰司らも参加した。これ以前にも商業アニメーションは細々と存在したが[18]、東映が買収したことで初めて日本のアニメーションに光が当たった[19][注釈 3]。発足当時の35名の社員はほとんどが旧日動の社員で、会社住所も日動と同じ新宿区原町であった[20]。東映動画の発足にあたっては短編・中編制作の事業計画のみが記載され、長編の記載はなかったが[16]、もとは香港からの持ち込み企画であった『白蛇伝』の制作をスタートさせた。当時、日本国内にアニメーション制作会社はごく少なく、長編制作の経験もほとんどなかった中で、東映は日動映画を買収することによりアニメーション制作のノウハウを得ようとしたのである。

発足から4ヵ月後の1956年(昭和31年)12月[21]、まだ武蔵野の面影が残る閑静な東京都練馬区の東映東京撮影所南側に隣接してスタジオが完成[17][21]。延建坪330坪[22]。東映動画は1957年(昭和32年)1月9日、この新スタジオに移転[8]。日本に於ける本格的アニメーションの製作が開始された[18][21]。スタジオ完成とともに新たに採用された東映動画第一期生の中には大塚康生楠部大吉郎らがいた。スタジオ竣工時就業人員80人[17]。また1958年から手塚治虫が『西遊記』の製作のために嘱託として参加している[23]。1958年延建坪500坪[22]。この時のノウハウが旧虫プロダクションで活かされることとなる[23]。東映動画の遺伝子は後の日本のアニメーションの歴史に大きな影響力を持った[24][25][26][27][28][29][30]岡田茂は「東映が日本のアニメーターを養成したようなもの」と述べている[31]

新スタジオでは『白蛇伝』制作のためのスタッフ急増とCMフィルムの需要の増加に対応して同年末に第1次増設工事に着工して同年4月10日に竣工し、その2年後の1959年(昭和34年)6月15日には第2次増設工事竣工。延建坪850坪に拡大され[22]。さらに『狼少年ケン』などのテレビアニメーション(テレビ漫画)の制作に対応するため1964年(昭和39年)6月2日には第3次増設工事が竣工して現在のスタジオに成長した。

スタジオの完成によって長編アニメーション制作の体制が整い、まず手慣らしとして旧日動映画スタッフの指導の下で1957年(昭和32年)5月、初の短編作品『こねこのらくがき』を制作した。続いて1958年(昭和33年)10月には『白蛇伝』を完成した。日本でテレビ放送が始まって5年8ヵ月後のことで[32]、当時としては破格の製作費4000万円、製作期間9ヶ月を費やした[32]。東映動画は「日本でもここまでできる」と後進を刺激し[27][32]家内制手工業の動画制作を近代産業に発展させ、同時に日本アニメーションの戦後を終わらせた[26][33]

藪下泰司によれば、日本の動画の正統が手工業的な日動映画から、近代的な東映動画に引き継がれていく中で最も大きく変わったのが製作技術と述べており[34]、「東映以前の漫画は、画家が描きながらアイデアを作っていた。そこには演出はなかった。画家にはカット割りとか、カメラアングルの定石も分からなかった。ところが企画・脚本・演出・原画という分化が行われるにつれて、アクションの設定なども入ってきて、動画が著しく映画的になった」などと論じている[34]。動画の特徴として同じアイデアを二度繰り返すことが出来ない、東映時代劇など、映画では監督と俳優を代えれば、同じことを繰り返すことが出来るが、動画はスターがいないため、繰り返しは出来ない。また製作期間が一年かかる動画はアイデアが古くなりやすい等がある[34]。その後、『わんぱく王子の大蛇退治』、そうして宮崎駿などの『白蛇伝』に影響を受けたスタッフらも制作に参加した『太陽の王子 ホルスの大冒険』、『長靴をはいた猫』などの長編作品を発表し、1960年代における東映動画の長編時代が築かれた。輸出向けに日本人の顔や言語のデメリットを克服する漫画映画は、子供向けの壁を超えて、家族映画のマーケットを確保していく[26]。社員総数は1959年(昭和34年)には250名にまで増えたが、そのうちCMアニメの制作に100名が従事しており、東映動画の主たる仕事は常にCMアニメの制作であった[20]

1961年(昭和36年)、虫プロダクションが設立されると手塚治虫にアニメ制作の才能を請われたアニメーターたちが虫プロに移動したり、両方の作業をするという混乱期があった[20][35][36]。虫プロは設立に当たり、人材の大半を東映動画からの引き抜きに依存した[35][37]。東映動画という先行者がなしでは、虫プロも手際よく発足し、設立から一年半の間にテレビ漫画シリーズをスタートさせることはできなかった[37]。一時期の虫プロは、東映動画のスタジオが一部分そのままそっくり移転したかのような様相を呈した[37]。東映動画は作画関係者だけに限らず、演出家、美術家、カラープランナー、カメラマン、プロデューサーに至るまで抱えて育んでいたため、東映動画はアニメーション業界に、人材をつぎつぎと送り込む供給源になっていった[37]。手塚も『西遊記』『シンドバッドの冒険』『わんわん忠臣蔵』の東映動画の製作に誘われ、実際の作業の現場を経験したことにより、アニメーション制作の意を強くした[23]。東映動画に残ったクリエーターの多くは劇場公開アニメーションの制作など、東映動画の従来のアニメ制作の方針に拘った者であった[20]

当時、連続テレビ漫画番組は制作に占める人件費の割合が多く、テレビ劇映画に比べて三倍の制作費がかかるといわれ[38]、毎週テレビ放送されるアニメシリーズの制作を企画したプロダクションやテレビ局はなかった。手塚は破格の安値で明治製菓に「鉄腕アトム」のスポンサーになってもらい[39]、低い放映権料で番組制作を請け負った[20][39]。赤字分は自分の漫画の収入で補填した[39]。手塚は「漫画は本妻、アニメは愛人」と冗談半分に言った[39][40]。このしわ寄せで「鉄腕アトム」の作業者(アニメーター)は徹夜に近い作業の連続[39]。「アニメーターは低賃金で長時間労働、好きでなければやっていられない」という産業構造を生み[39][41]、手塚アニメの安値受注が業界の水準となったため[39]、後々までアニメ業界は受注金額が低く抑えられる状態が続くことになった[20][39][42]。また「鉄腕アトム」の例から、漫画雑誌に掲載された漫画作品を元にすれば知名度の点から人気が取れることが分かり、動画の技術としては手抜きな作品であっても視聴率が取れるとされ[43]、東映が劇場用で目指したのとは異なる種類のマーケットが確立し、拡大していくことになった[44][45]

白蛇伝』の制作から[46]、急ピッチに労働が強化され始めて、会社側も「7月までに仕上げぬと、日動の連中はクビだ」と暴言を吐いた[46]。『白蛇伝』を機会に芸術家たちの団結が進み、1958年10月に密かに組合準備委員会が作られ[46]、1959年(昭和34年)3月25日[46][47]、終業時間とともにスタジオを出た約140人は、練馬区医師会館に集合し、労働組合の結成大会がもたれた[46]。当時のスタジオ・メンバーの大部分が参加したのに会社側はそれまで何も知らず、管理課長さえも「なぜこんなに早く帰るのか」と不思議そうな顔をしていたという[46]。翌日、決議された要求は高橋勇(高橋秀行)東映専務兼東映動画所長に提出されたが、高橋所長は組合員全員を動画試写室に集めて「組合は認めない。そういう人はウチから出て行って欲しい」と頑迷さを丸出しにした[46]。続いて組合幹部を呼び出し、一日中入れ代わり立ち代わりに動画幹部が詰問を行い、入社時の保証人を通じて反省を求め、各部課長が組合員の自宅を訪問して切り崩しをして回った[46]。1959年3月28日に高橋所長が全員を集合させ「場合によってはスタジオを閉める。東映にとってはそれくらいは何でもない、東映にはそれくらいの金はある。半年ほど閉めて、新規採用者を再教育する」と圧力をかけてきた[46]。これら一連の切り崩し策が成功したと見るや会社側は、最後に組合員の要求をすり替える方式を執って組合にトドメを刺した。会社側は「要求が通ればそれでいいのだろう。要求を聞こうではないか」と言い出し、稚い経験のない組合幹部たちは31項目の要求事項を会社に提出したが、「個人の事情を極端に無視した残業命令は出さないでほしい」「残業のときには、夕食を支給してほしい」「ラッシュを休憩時間に見せるのはやめて、作業時間中に見せてほしい」「昼休みの行動を制限しないでほしい」「課長の職権乱用を禁止してほしい」などと、他の大企業ではすでに姿を消しているような要求で、当時の東映動画の悪い労働条件が浮き彫りになった[46]。高橋所長はこれらの要求を受け取り、「要求は実行するが、労働組合は認められない。組合はやめて、社員懇談会を作れ。今回の問題で処分者は出さない。労組は大会を開いて解散すること」と逆要求をたたきつけ、すでに内部を切り崩されていた組合はもろくも崩れ去り、1959年3月31日朝、圧倒的多数で会社側の要求を飲んだ[46]。"社員懇談会"の発案は大川博である[48]。組合結成から僅か一週間であった。組合側にとっても、トレエスや彩色の主力である女性群は、経済的な要求があるわけではなく、管理者が"職権を乱用して"過度の親愛の情"を示すことに反撥を感じて組合を支持していたので、それさえ無くなればよいという考えだけで、組合に結集する意欲を急速に失った[46]。会社側が強硬態度を執った背景には、労組が出来ることを極度に嫌ったという事情があった。東映は1958年5月にアメリカの動画製作会社・ヒッツ・インコーポレーテッドと3年の合作協定を結んでおり、同社の社長ハーマンは、ワーナー・ブラザースの動画部を作った人で[46]、アメリカのメジャーとも関係が深く、労組の結成は合作協定に影響することを恐れたとされる[46]。会社側は組合側の要求に対して「誠意をもってやる」と厳かに誓ったが、現実に一年間に挙げた成果は午後3時に休憩時間を15分獲得しただけだった[48]。会社側はこの勝利をもとにさらに積極的に職場規律の確立と合理化を進めた[48]。1961年7月19日に公開された『安寿と厨子王丸』のベタ褒め批評が『週刊〇〇』に載った[48]。それを元組合員が職場に持ち込み、記事の余白に「マスコミがこういうふうに馬鹿だから、悪い映画が日本にはびこる」「バカがバカを呼び、一番バカを見るのはおれたちだ」などと落書きしていたら、たまたま会社の幹部に見つかり「会社の仕事にケチを付けた」と怒り、それをひったくって所長室に駆け込み、元組合員も殺気立って所長室になだれ込み、「返せ」「返さない」で大揉し、元組合員が『週刊〇〇』を取り返した[48]。当時『シンドバッドの冒険』が製作進行中だったが[48]、この作品に対しても会社側はかなり強硬な残業指令を出して来ており、この頃から動画の従業員は、激務から入院する者、辞めて行く者が相次いだ[48]

1961年(昭和36年)秋に東映動画に再び労働組合が結成され[41][46][47][49]、1962年10月、東映東京撮影所の敷地内に置く東映動画、東映テレビ・プロダクションなどの組合員を糾合して全東映労連が結成される[50][51]。過密労働と低賃金の改善という一般的な労組の目的の他、作品本数や出来高で賃金を払う契約者と呼ばれる個人請負の労働者の待遇改善[44][49][注釈 4]、東映本社が企画権を握り、漫画映画らしい作品の企画とその制作が制限されている状況を打開したい等の要求が増していく[20][28][47][49][52]。1959年(昭和34年)就業人員270人[17]。1964年(昭和39年)就業人員575人[17][53]、売上約5億円[53]。同年の東映は、就業人員2149人で売上約120億円[53]。1963年(昭和38年)頃から赤字を出し始めた[17]。アニメーションの制作は、実写作品より多くの人員と長期の期間を必要とするため能率が低い[53]。不採算要因は他にもあるが、やはり人件費の問題は重く捉えられ、その後様々な対策が図られ、それは動画の職員たちに有形無形に波及した[53]。時には様々な工夫を生み出し、或いは未解決のまま引き継がれ、場合によっては重大な破綻をもたらした[53]

1960年代はテレビの普及に伴い、劇場用アニメーションからテレビ用アニメーションへ主流が交代していった時代であったが[21]、この時代に『狼少年ケン[35]や『魔法使いサリー』『ゲゲゲの鬼太郎』『ひみつのアッコちゃん』『タイガーマスク』などを手掛け、テレビ用アニメーションの市民権獲得に貢献した[21]。東映動画がテレビシリーズ制作を開始した具体的な切っ掛けは、代理店業務の強化を図っていた東映商事が森永製菓のスポンサードを取り付け、東映動画に持ち込んだことにあった[54]。東映動画が主体的に関わった「東映まんがまつり」で育った親たちが、自分の子供たちを安心して連れて来れる「まんがまつり」に連れて行ったという評価もある[55]

ガリバーの宇宙旅行』が製作された1965年(昭和41年)2月から毎週テレビ番組『狼少年ケン』『少年忍者風のフジ丸』『宇宙パトロールホッパ』の三本製作態勢に入ったため[56]、業界関係者からは長編動画の製作は事実上終了だろうと見られた[56]。時間も手間もかかる長編動画は群小プロには製作は不可能で[44][56]、東映動画一社だけが長編動画の製作を続けていた[56]。1965年に親会社である東映が定期採用を止めたことに倣い、東映動画も1965年を最後に正社員の定期採用を中止し[41]、以降1991年まで26年間採用をしなかった[41]。これに伴い、1965年から長編動画製作は、原則として正社員の作画職が従事し、テレビアニメ製作は、作業量に基づいて個人別に業務委託契約を結ぶ契約者が行うことが定められた[57]。これはスポンサー動向からの影響を受けるテレビアニメ製作と違い、東映本社を発注元とする長編動画製作は、東映動画の経営能力を証明しなければならないという特徴を持つものだったからである[57]

東映本体は邦画市場の縮小に対し、1964年(昭和39年)に東映娯楽版の制作を停止し[54]、1965年から製作本数削減への対策として一本立て大作の強化を宣言した[54]。しかしその第一弾『冷飯とおさんとちゃん』など数本の芸術映画が不入りに終り、館主会から「もっと娯楽作品に重点を」という意見が出たことから、従来の二本立て路線へ回帰した[54]。東映動画の長編製作は、この方針のもとで再編を余儀なくされた[54]。当時の東映動画の長編は8000万から9000万円の受注額で制作されていたが、これは劇映画の高い方の額に比肩する規模だった[54]。こうして東映本体に本数削減と予算の引き締めが実施されたのに対し、東映動画の制作体制については、増産の実現と生産効率を上げることでコストを抑圧するという判断が下された[54]。1966年(昭和41年)内に完成予定だった長編は『ふしぎな世界の大冒険』(『少年ジャックと魔法使い』)、『太陽の王子 ホルスの大冒険』と60分程度の中編「B作」だったが[54]、長編2本は年内に完成しなかった[54]

この「B作」は白川大作の提言で[54][58]夏休みのまんがまつりから、長編動画の呼び名「A作」に対して、「A作」とTVアニメの中間に位置する「B作」と呼んだ60分前後の中編『サイボーグ009』がプログラムに加えられた[54][58][59]。これが他作品と合わせて大ヒットことで[58]、テレビアニメや人気漫画原作の低予算映画に観客のニーズが高いと判断され、長編動画の存在意義が激しく揺らいだ[58]。長編動画の製作がなお続けられたのは、長編動画が日本の映画文化に果たした業績も極めて大きく[56]、長編動画を楽しみにしている子供たちもいる、長編製作の火を消してはならない、長編動画は東映の良心、という考えが大川社長にあり[60]大塚康生は「大川社長は脚本もよく読んでなかったんじゃないかでしょうか。『君たち、任せたよ』という感じでね。これは作り手にとって一番いいタイプの経営者であり、一番怖い経営者でもある」などと話しているが[15]、長編動画を含めた東映動画の赤字は大川が黙認することで不問に付されていたといわれる[60]。1969年売上高約9億円、営業利益が約500万円[13]。1970年から制作赤字が発生しはじめ、1971年からは連続して売上高の10%程度の赤字を発生させた[13]

東映動画の外部導入は1966年(昭和41年)から始まる石ノ森章太郎とのコラボレーションサイボーグ009』から漫画家との企画段階からの共同作業に至り[26]、『仮面ライダー』の変身ブームや、永井豪とのコラボ『マジンガーZ』はロボットアニメの興隆を生み出した[26][61]

東映アニメーションのマスコットキャラクターは、『長靴をはいた猫』・『ながぐつ三銃士』・『長靴をはいた猫 80日間世界一周』の主人公ペロである。

1970 - 1990年代

大川博が1971年(昭和46年)8月に逝去し、後任として東映社長に就任した岡田茂は(同月兼東映動画会長)[25][62]躊躇なく赤字噴出の東映動画の経営改善に踏み切り[17][63][64]、激しいリストラを敢行した[25][63][65][66][67][68][69]。大川の後を継いだ岡田は大川時代・旧体制の産物を再審に付した[63]。事業の多角化は大川時代から行っていたが[63]、岡田は東映社長就任後の1972年6月に映画会社で初めて事業部制を敷き[63][70]、邦画不況という当時の映画を取り巻く厳しい状況もあり、経営多角化をさらに推進させた[7][71][72]。「独立採算制の強化と部内別収益性の高揚、権限の分割・委譲による事後処理の簡素化を促進」を目的とし[63]、経営多角化の新規事業でサラ金[73]葬儀屋[73]クラブ経営[74]、出版事業(『テレビランド』など)[75]東映太秦映画村[7][73]アニメショップアニメポリス・ペロ[13][76]などに手を拡げる一方[7][73][77]、東映動画などの既存の傍系会社にも自主独立の姿勢を求めた[63]。岡田は東映動画労組との団交の席上「動画は東映のガンだ。ガンは放置しておいたら、やがて病巣は東映の全身に広がる。ガンは小さいうちに切開手術するのが医者(経営者)の義務だ」と発言し労組が猛反発した[13][63][78][79][80]。当時東映は映画製作ではただ一社黒字を出していたが[80]、岡田は赤字会社に350人もの従業員がいることを問題視し[31]、このまま東映動画を放っておくと他のセクションに悪い影響が拡がると判断[31][80][81]、「最悪の場合解散も止むをえない」という姿勢で対応を行った[13]。岡田は恫喝[82]、泣き落とし[83][84]、逃走[85]、俳優全員の前で土下座[84]とあらゆる手を使って、専属契約を結んでいたベテランの時代劇俳優・脚本家・監督を根こそぎ切り[86]京都撮影所の従業員数を2100人から900人に減らしたこともある[86][87]東映の長年の労務担当者でもあった[30][84][85][86][88][89][90][91]。この頃長編動画の製作コストが上昇して作れば作るほど赤字を出していた[65]。東映動画は累積で赤字を3億円出して倒産寸前であった[92]

東映労組(東制労)の強力な拠点となっていた東映動画には[41][80]、責任者として行くことを皆嫌がったが[78]、岡田はギブアップして病気療養中の[92]高橋勇社長に替えて[17]、元東映勤労部長で労務管理のベテラン・登石雋一を言い含めて東映動画の社長に据え[17][69][92][93]、強硬なリストラを命じた[13][65][78][92]。岡田と登石は製作本数を減らし、さらに従業員320名(うち契約者104人)のうち約半数の150人の希望退職を募集[51][65][78][80]。希望者がない場合は指名解雇に踏み切る態度を匂わせ、また組合の強硬手段を計算に入れ、買い取り作品で番組編成を行うなど対戦の長期化に備えた[80][94]。労組は激しく反発し、東映東京撮影所機動隊が導入されるなど東制労闘争は激化[51][88][95]、労使の間で団交が繰り返されたが、希望退職の募集は何度も延期され、のち5カ月間に及ぶロックアウトが敢行され[13][44][51][65]、約120名が退職し東映動画は存続した[41][65][67][69][78][96]。その後も訴訟紛争は続き、労使紛争は二年に及び[17]、労使とも深い傷を残した修羅場の二ヵ年であった[13][17]。当時の東映の主な赤字部門は、東映フライヤーズと東京タワー交通、ボウリング部門、東映動画の4つで[78][92]、東映動画は関連会社で最も赤字幅が大きかったが[97]、岡田は動画以外の3つを切り動画のみ残した[31][78][86]。岡田が東映動画の独立採算体制を厳格に打ち出したことで[57]、1971年(昭和46年)の『どうぶつ宝島』で長編動画製作は終了し[57]、結果として自社で養成し抱えていたクリエーターの多くは他のプロダクションに移るなどで東映動画を去った[25][30][49][57][63][68]。岡田、登石と1974年(昭和49年)8月、後任として岡田から東映動画社長に抜擢された今田智憲の尽力により[17][78][68][98][99]、1970年代はじめに3億円あった東映動画の累積赤字は一掃されて、1981年(昭和56年)に東映動画は売上げ70億円、利益2億円を出すまで回復し[17][30][68][78][100]、1990年半ばに東映グループの稼ぎ頭になった[92]。登石、今田とその後の泊懋で、合計32年間動画の社長を務めた三人は、いずれも岡田から「お前、動画の社長やれ」と強要されたものであった[17][69][101]。登石の前に大川博の指名で[102]動画の社長を務めた高橋勇は、労働三法を全く知らず、労務管理の全然できない人で[93][103]、行く先々で労使交渉に敗北して、にっちもさっちもいかなくなり[103][104]、毎回岡田が尻拭いを行った[103][104]

1970年代に入ると人気・制作本数ともに拡大し始めたテレビシリーズの制作に推されて、コストのかさむ劇場用長編作品の制作は縮小されていった。大手の制作会社というイメージが、仕事を安心して任せられる印象を放送局や広告代理店、出版社などに与えたこともあり、東映動画には週刊少年漫画誌原作のテレビアニメ制作の依頼が多く入るようになった。人気テレビアニメの焼き直しの方が独立した内容で単発の長編動画よりも利益幅が大きかった[65]。岡田茂が各部門に経営の引き締めを強化したことも拍車をかけ[63]、制作の中心はテレビシリーズへと移り、劇場用作品は漫画原作の「東映まんがまつり」が中心となり、さらに仮面ライダーシリーズのような実写ヒーロー物が「東映まんがまつり」に入るようになったことで東映動画の長編時代は1971年春の『どうぶつ宝島』を最後に終焉を迎えた[25][57][63][105]。東映動画に特有の執着を持たない岡田体制では、コストの高いアニメーション映画製作の見直しが進んだ[63]。制作本数の増加と労働争議の激化により1973年(昭和48年)からは韓国への制作委託を開始した。国外発注の強化とともに、自社のスタジオ周辺に下請けプロダクションを増やして制作の下請け・外注化を進めた。 

大川博の息子・大川毅と反りが合わずユニオン映画に行っていた今田智憲が盟友・岡田に呼び戻され1974年(昭和49年)に東映の社長に就任すると[68][93][98][106][107][108]、岡田が東映動画の整理で組合と大揉めしていた時期に、一度東映を出た人がまた帰ってくるとは大川社長時代では考えられないことで[108]、組合を抑えた岡田の力量も相当なものだが[108]、岡田としても今田が東映動画の再建に失敗するようだと自らの任命責任を追及されるところだった[93]。今田は岡田との個人的親交によって、自らの裁量に基づいた独自の経営を可能にした[93]。今田は1993年(平成5年)まで、歴代最長の20年間東映動画の社長を務め[109]、この間一度も赤字を出すことなく[17]東映ビデオの社長も16年間兼任しながら大きな功績を残した[17][20][68][93]。今田はそれまでの強硬路線と違い、柔軟路線をとり労組に対応[13][68]。裁判での敗訴を予想し、和解交渉を持ち掛け、先のリストラ時の解雇者の中で裁判に訴えていた18名の解雇を取り消して労使は和解し[20]労組問題に揺れた東映動画を立て直す[68][110]。続いて制作の赤字構造の改善に向けた経営方針として、東映動画の組織改編を行い[13]、(1)版権ビジネス・キャラクター商品化の営業強化、(2)海外への販路拡大、(3)制作を下請け化して、その下請けプロを管理する、(4)海外にも下請けを拡大させる、(5)技術革新で省力化を図る、などを示した[13][17][20][93]。その後に今田の施策は続々と実現されていった[17][20][68][93]

1972年(昭和47年)に放映開始した永井豪とのコラボレーション『マジンガーZ』に始まる"巨大ロボットもの"で一時代を築いた[33][61][111]。初期長編の朗らかな作品世界とは一変し、劇画タッチの荒々しいメカアクションは、超合金ロボットという玩具の分野を合わせて開拓し[111]、男児向けアニメの一大ジャンルとなった[33][111]。これ以前にも実写のキャラクター商品はあったが[111]、アニメのテレビ放映に合わせてヒットしたキャラクター商品は『マジンガーZ』が初めてであり[111]、これ以降、アニメ作品の二次利用(版権利用)が大きな収益を生むビジネスモデルとして定着した[111]。またそれまではアニメが放映されて人気を博したところでキャラクター商品が投入されていたが[111]、『マジンガーZ』では放映開始と同時に行なわれた[111]。これはテレビ放映権料が値上がりしたため、それまでのお菓子メーカーなど、子供向けアニメのスポンサー以外の業種にも広げてスポンサーを獲得せねばならなくなり、『マジンガーZ』の広告を担当した旭通信社が放映開始と同時にキャラクター商品を出すことを条件にスポンサーを納得させたものであった[111]。アニメの歴史はビジネス面ではいかにして採算をとるかの挑戦でもあったが[112]、良い作品を作っても採算が取れずに倒産した製作会社の多い中で、いち早く玩具メーカーと連携して関連グッズから利益を生み出すビジネスモデルを確立させた[112]

多くの場合、漫画家は主要なアイデアマンとして基本的な設定やデザイン、ストーリーラインなどを提供し、「原作者」としてクレジットされたが、テレビシリーズの具体的なストーリー展開には、東映動画やマーチャンダイジングを行うスポンサー側の意向も反映され、マンガを基にテレビシリーズが制作されるのではなく、アニメーション制作会社が漫画家やスポンサー、テレビ局や代理店などとともに共同で企画を立案、或いは漫画家側に企画案が提供されることもある[13][93]。この無形の企画からテレビアニメ、玩具、マンガが派生する[13][93]。また、東映テレビ事業部に新設されたテレビ関連事業室が企画編集に携わった雑誌『テレビランド』などのテレビ情報誌・児童誌で盛んに特集記事を載せ、出版社や漫画家に依存することなく、東映自体でメディアミックス展開をさせた[93]

東映の版権事業は、1960年の『西遊記』が始まりとされ[93]、以降も東映動画とテレビ部門特撮テレビものなどで多くの人気商品を生んだが、今田の社長就任以降に版権事業は大きく伸長し[13]、年々事業規模が拡大した[93]。東映動画再建の大きな分岐点となったのは1975年(昭和50年)に岡田が東映動画とテレビ部門など、東映グループの版権事業を東映本社に一括して集約しようとしたことだった[93]。これらの制作事業はすべて東映本社を通して受注されていて、基本的に東映側に諸権利が集約されており[93]、本来、拒否は出来なかったが[93]、今田が「それでは動画の自主的な経営が崩れる。版権は再建の生命線で渡せない」などと強く主張[93]。この主張は岡田の掲げた独立採算制の発想とも合致し[93]、また岡田との交友関係もあり[93]特撮もの戦隊ものなどの実写番組の版権のみが東映本社に引き上げられ[93]、東映動画の版権営業は維持されることになった[93]。このとき版権事業を東映本体に取られていたら、東映動画の自主再建は出来なかったかも知れない[93]

1976年(昭和51年)に放映開始した『キャンディ・キャンディ』が高い視聴率を確保すると、一年後の版権収入は11億5000万円を記録し[17]1981年(昭和56年)に放映開始した『Dr.スランプ アラレちゃん』が視聴率30%を維持して突っ走ると商品開発部の売上げも40億円を超えた[17]。時代の流れを捉えた今田の動画事業の多角化展開は目論見通りの成果を生むようになった[17]

東映動画作品の海外販売は当初からその成果を嘱望されたが、実際は長らく継続的な成果を上げられなかった[93]。東映作品の海外展開が一定の成果を上げ始めるのは、1960年代半ばであるが、より拡充されたのは岡田茂体制下であった[93][113]。1972年の東映洋画の設立で、映画輸入事業が本格的に開始され、東映国際部の事業が強化され、岡田が映連幹部として海外の映画祭見本市などで日本代表団団長を務める機会も増え[114][115]洋画の買い付けも含め[116]、カラテ映画や東映動画作品、特撮ヒーローものなどを自ら海外各国へ売り込んでいた[93][113][114][117]

今田は東映動画の創業時から、"アニメは日本の映像産業が世界に輸出し得る唯一の商品である"という考えを持っていたので[10]、今田が社長に就任してようやく東映動画は海外の市場にも眼を向けていく方針となった[17][118]。日本アニメの海外進出の推進役として陣頭指揮を執り[10][17][20][118][119]、それまで東映本体が行っていた海外販売を1975年(昭和50年)から新設した動画版権営業部に行わせて、東アジア東南アジアを手始めとして欧州アメリカなど、世界各国のテレビ・映画の見本市に毎年出展をした。今田みずから世界各地の映画祭配給会社を訪ねて、日本アニメの輸出促進を働きかけ[10]、フィルムの輸出と海外版権の販路拡張を推し進めた[17][119]

今田が有賀健[25]や、林幸夫(東映国際部)らを連れて世界的マルシェ(フィルムマーケット)に出掛けたのは1976年(昭和51年)のカンヌ国際映画祭が最初であり[17]、ブースを確保して『マジンガーZ』などを展示したが、当時のヨーロッパにおける日本のアニメの認知度は無であった[17]。そのため誰も寄り付かず、相手にもされず、「アニメは世界の共通語」と意気込んで出掛けた今田たちはショックに打ちひしがれてブースに坐り込んだ[17]。既に「鉄腕アトム」や「マッハGoGoGo」などがアメリカでもテレビ放送され[120][121]、その他にも輸出されたアニメは多々あったが、全体的には1970年代前半まで日本製のアニメは漫画と同様に、ほとんどの海外の国からは相手にされていなかった[120]。今田や有賀らはヨーロッパのテレビ局に何度も売り込みに行っては門前払いを食らった[120]。それでも懲りずに毎年売り込みを繰り返すうちに認知は広がっていき[120]、ヨーロッパにおいて東映アニメが最初に受け入れられたのは当時放送番組コンテンツが不足していたフランスイタリアスペインであった[61][120]。1978年7月には、フランスのアンテンヌ2で『キャンディ・キャンディ』と『UFOロボ グレンダイザー』(Goldorak(ゴルドラック))が放映されて高視聴率を獲得し[17]、それが突破口となった[17]。『マジンガーZ』はイタリアやスペインで人気を博した[61]。1978年にフランスとイタリアで改題されて放送された『UFOロボ グレンダイザー』は最高視聴率が80%を記録して社会現象になった(UFOロボ グレンダイザー#日本以外での放送)。また『キャンディ・キャンディ』もプライムタイムに放送されて人気を博した[120]。1970年代から1990年代の半ばにかけて日本のアニメがヒットしたのはフランス、イタリア、スペインなど欧州ラテン圏だけで[122]イギリスドイツ北欧など、言語文化が中心のアングロ・ゲルマン圏では、漫画やアニメには抵抗があり、個人主義で家族関係が冷めているとされて[122]、ほとんど放送されなかった[122]。またヨーロッパで日本アニメの熱が一気に上がらなかったのは、ヨーロッパは商品規制が厳しく、日本のキャラクター商品が入り込めず、テレビ放映の人気に限られたからで、子供たちの人気になかなか火が着かなかった[17]1990年(平成2年)にフランスで規制が外れると『聖闘士星矢』(フランス題名;Les Chevaliers du Zodiaque(星座の騎士))から、テレビとマーチャンで一挙に大展開し[17]、『ドラゴンボール[注釈 5]が続き、海外市場を切り拓いていった[17]。それ以降も自社制作作品の日本国外への売り込みを積極的に行った。特に『UFOロボ グレンダイザー』、『キャンディ・キャンディ』、『ドラゴンボール』、『美少女戦士セーラームーン[注釈 6]は世界各国で放送され、日本のアニメ輸出に弾みをつけた[17][20][123]

東映及び、東映と『仮面ライダー』から商品開発を連動させてきたバンダイ[124][125]等に莫大な利益をもたらした『パワーレンジャー』の仕掛人・ハイム・サバン[126][127][128]、『マジンガーZ』か[128]UFOロボ グレンダイザー』が[127]、フランスで初めて放送された際に、音楽の一部入れ替えが行われ[128]、これを担当したプロデューサーがフランス在住時のサバンで[128]、子どもを対象にしたビジネスは国を超えて全世界で商売になると見てとったサバンは[128]、アメリカ移住後も東映とビジネスを続け、東映の特撮番組を購入し[注釈 7]、全米ネットワークに挑戦したが、アメリカは子どもの教育問題や暴力シーンの規制が厳しく、何度も失敗しながら『パワーレンジャー』でようやく長年抱き続けた夢を果たしたものであった[127][128]。『パワーレンジャー』のベースとなった『恐竜戦隊ジュウレンジャー』の「原型を残すから作り変えさせてくれ」というサバンからの要望を認めたのは、当時東映会長の岡田である[126][129]。また『パワーレンジャー』の1993年からのフォックス・テレビネットワークを通じての全米放映は、岡田と20世紀フォックスの長い間の協力関係が実を結んだもので[129][130][131][132][133][注釈 8]、1993年7月12日に、東映と20世紀フォックスとの間で、フォックス作品の長期間国内独占テレビ配給及びテレビ映画の共同製作に関る契約という東映国際化の一環として[81]、岡田が先行投資を締結した際の契約の一つであった[129][130][132][131]。フォックスとの共同会見で岡田は「これまでウチがFOX映画の数々のヒット作を独占的にテレビ配給して成功を収めてきた。この実績をもとに今回、FOXの全ての作品を配給する契約を結んだ。FOXの会長であり、最高責任者のマードックは7年前にお会いしたとき意気投合し、一緒に仕事をやろうと話し合った昵懇の仲で今回の契約が成立した。『恐竜戦隊ジュウレンジャー』のアメリカでの放映も決まり、大いに期待されるだろう」などと話した[130]。岡田はマードックや孫正義とも親しく[134]、1996年11月に来日したディズニーを含むハリウッドの最強代理人・マイケル・オーヴィッツが「数分でも会えれば奇跡」と面会希望者が殺到したが、そのオーヴィッツからの「会いたい」という申し出に「時間が合わない」と袖にしたこともある日本のエンターテインメント業界では数少ないメディア通の一人でもあった[134]

将来を見据えたコンピュータの導入では1974年(昭和49年)、社内にプロジェクトチームを作り、1977年(昭和52年)正式に技術委員会プロジェクトを発足させた[20][106][135][136]。これが同社のデジタル化(デジタルアニメ)の切っ掛けとなる[106]。国内大手家電メーカーと連携して研究開発に取り組んだが、1980年代に於いては初期費用、ランニングコスト天文学的な数字にのぼり実現できなかった[106][135][136]。しかし1990年代に入ってパソコンの性能が飛躍的に向上し価格もどんどん下がり、1992年(平成4年)の『北斗の拳』のゲーム用データ作成を手始めに、一部実験的に試用を始め、1997年ゲゲゲの鬼太郎 第4シリーズ』4月放映分からデジタル制作に完全に切り替えた[20][106][137]。それまで熟練した職人芸が要求された工程を全て画面上で処理するシステムの稼働で[137]、これが日本アニメのデジタル化第一作である[106][112][137]

1970年代後半から劇場用・テレビ用アニメーションの製作だけでなく活動領域を拡げ[21]、スーパーマーケットや遊園地、ホテルなどでのイベントに積極的にコミットし[17]、各種キャラクター商品やイベントを通じ、市民生活に溶け込み、新たなファン層を獲得した[17][21]。レジャーメディアでの開発は、1976年の三重県桑名市にあるナガシマスパーランドに於ける「マジンガーZロボット館」でのスペース構成が最初といわれる[21]。これによりアニメーションの製作のみならず、映像が生み出すキャラクターを主体とした関連事業が拡大した[21]1987年(昭和62年)はイベント関連売上げが売り上げが約40億円になった[138]。イベント関連事業は東映本社映像事業部、映画村エンタープライズと共にその中核として[138]北九州市スペースワールドの施設計画の立案等を手掛けた[138][139]。またマーチャンダイジング営業強化の施策では、制作部門に対して付帯・関連部門を強化し、関連部門の売り上げが全体の60~70%を占めるようになり、制作の差損を営業によって埋め合わせる仕組みを作った[20]。1990年代に手掛けた『美少女戦士セーラームーン』のキャラクター商品は、1995年時点で1000アイテムを超えた[17]。これらは今田が長い期間、営業体制の強化を計り実効を上げたものであった[17]。同社の版権事業は1960年の『西遊記』から始まっており[93][21]、この分野も日本に於ける草分けであった[21][140]。1987年には年間売上げ155億円を記録[21]

1977年11月、東映はマーベル・コミックスパイダーマン等の日本における版権業務の契約を締結し[93][141]、翌1978年に東映側のキャラクターをマーベルを通じてアメリカに紹介した[93]。マーベルは1988年まで多くの作品を東映動画に発注し続けた[93]

中国文化大革命終結後の1979年秋に、岡田茂日本映画製作者連盟会長と徳間康快らの尽力で[142][143][144][145]中国で初めて日本映画祭が開催され[143][146]、東映は中国で初めて上映されたアニメーション映画といわれる[143]龍の子太郎』を出品した[142][143]。映画祭の準備段階で、当時中国がアニメ制作に力を入れていたことから[143]、岡田が徳間に橋渡しを頼み[142]、代表団に中国のアニメーションと手を組んで一緒に仕事をしたいと頼んだら、中国から東映動画と組みたいと返答があり、中国に招待されたため、今田がスタッフを連れて訪中し[142]、従来韓国で行っていたアニメ制作の下請けを中国にやってもらおうと[143]、1979年からアニメ制作の下請けを中国に移した[143]。1981年より新人採用を再開させる[93]

1980年代以降は、東映の屋台骨を支えていく存在になった[17]。大川時代から変わって、岡田=今田時代の東映動画は、"アニメーションの総合商社"として第2の創業といえるものであった[21][147]

1966年から放送された日本初の少女向けアニメの『魔法使いサリー』は"魔女っ子もの"というジャンルを開拓し[33][112]、この流れは『ひみつのアッコちゃん』などの"変身もの"へ繋がり、その系譜は『美少女戦士セーラームーン』や『おジャ魔女どれみ』、『プリキュア』などに受け継がれた[112]。魔法使いの少女アニメと変身して敵を倒すヒーローアニメ、人気の二大路線を東映動画が合体させたのが『美少女戦士セーラームーン』[148]。世の女の子を夢中にさせた同作は"女の子の独立宣言"とも評され[148]、海外50ヵ国で放映された[148]。同シリーズの版権売上高は「ドラゴンボール」シリーズと同程度の3000億円に達した[136]。"女子向けアニメ"を確立したのも東映動画であった[33][112]

1980年代以降は『Dr.スランプ アラレちゃん』『キン肉マン』『北斗の拳』『ドラゴンボール』『スラムダンク』『ONE PIECE』と立て続けに『週刊少年ジャンプ』作品をアニメ化、"ジャンプ黄金時代"を併走した[136][33]

1992年(平成4年)、フィリピンに地元企業EEIとの合弁でEEI-TOEI Animation Corp.[注釈 9]を設立[8]。これによりコスト的に日本国内とほぼ変わらなくなった韓国に代わりフィリピンへの制作委託体制が確立した[136]1996年(平成8年)、東映グループにおける大人事改革の影響でそれまで継続していたテレビアニメ作品の全てを一旦終了。

1995年(平成7年)、人材育成を目的として東映アニメーション研究所を開設[8]。ディレクター・アニメーター・美術デザイナー・CGクリエーターの研究生募集を開始(現在は閉所)。1998年(平成10年)、東映アニメーション株式会社に商号変更した[8]

2000年代以降

2000年(平成12年)、ペンタブレットによる作画工程のデジタル化システムを導入。同年、フィリピンおよび日本国内の制作プロダクションを光ファイバー通信で結ぶ「東映アニメ製作ネットワークシステム」[注釈 10]の運用を開始[8][149]。これにより素材の輸送にかかる時間を大幅に短縮。生産性を大幅に向上させることに成功し、テレビシリーズ・劇場作品をあわせ現在に至るまで業界最多クラスの制作本数を維持している。

2003年(平成15年)に大泉スタジオ内に東映アニメーションギャラリーを開館。歴代作品がパネルで展示されているほか、時期により特定の作品にクローズアップした企画展が行われている。入場料は無料だが、社屋内に立ち入ることになる関係上、入館の際は守衛に申し込んで手続きする必要があった。2003年頃の従業員は動画制作部門に170人、CM制作部門に90人、それに事務部門を加え約300人である[22]

2006年(平成18年)には幻冬舎と共同でアニメや映画とは異なる映像カテゴリー「画ニメ(がにめ)」レーベルを立ち上げる[注釈 11][150]

2013年(平成25年)7月16日、営業・管理部門及び子会社でもある東映アニメーション音楽出版のオフィスを、神楽坂新宿区横寺町)から中野セントラルパークイースト中野区中野)に移転した。2014年には株主総会での承認を得た上で登記上の本店を実質的な本社機能のある中野オフィスに移したほか、同年9月より老朽化した大泉スタジオの建て替えを含めた敷地内の全面リニューアルを行うため、大泉スタジオの機能を2017年頃まで約3年間、練馬区光が丘に一時移転した[151]。大泉の新スタジオは2017年8月に竣工し、2017年末に引っ越し作業を行った上で2018年1月より稼働を開始している[注釈 12][152]。大泉スタジオ内にあった東映アニメーションギャラリーについても同年9月23日より長期休館に入っていたが[153]、2018年7月28日に東映アニメーションミュージアムとしてリニューアルオープンしている[154]


注釈

  1. ^ 東映の連結子会社、テレビ朝日の親会社であるテレビ朝日ホールディングス持分法適用会社である。
  2. ^ 後の教育映画部次長、赤川次郎の父。
  3. ^ 一般人のアニメーションへの知識や関心が高まったのは、1978年に『アニメージュ』などのアニメ雑誌が創刊されて以降の話で、それまではアニメーターや演出家などのスタッフ名まで知っている人はほとんどいなかった(『大塚康生インタビュー』15頁)。
  4. ^ 社員でない契約者は労働者ではない、契約期間が過ぎたら、資本側が一方的に契約打ち切り(解雇)する自由があるという会社側の主張(佐伯俊道「終生娯楽派の戯言 第三十六回 佐渡でサド」『シナリオ』2015年6月号、日本シナリオ作家協会、66-61頁)。
  5. ^ 『ドラゴンボール』のフランスでのテレビ初放映はTF1で、1988年9月から104話(各30分)が放送され、裏番組のディズニーアニメの平均視聴率14%に対して最高視聴率は67%を記録した(『AVジャーナル』1989年4月号、7頁)。
  6. ^ 『美少女戦士セーラームーン』のフランスでの初放送は1993年末(『毎日新聞』夕刊1994年12月21日、3頁)。
  7. ^ 、岡田は「1980年代にサバンに『超電子バイオマン』や『超人機メタルダー』などの権利を売った」と後に話している(『AVジャーナル』1995年3月号、27頁)。また1996年に入ると、ルパート・マードックソフトバンク孫正義と組んでテレビ朝日を買収しようとして、日本の電波業界が大揺れした際(ソフトバンクが豪社と合弁で、テレビ朝日に資本参加、『日経ビジネス』1997年2月17日号、『財界』2011年6月7日号、61頁、『AVジャーナル』1996年9月号、7頁)、東映グループ全体で当時22%前後の株式を持つ岡田がマードックとの交渉にあたり(『財界』2011年6月7日号、61頁、『経済界』1996年8月27日号、45-47頁)、サバン・エンターテイメントフォックステレビ傘下に入っていたため、事務折衝の当事者として岡田と交渉を持ったのが岡田と付き合いの長いサバンであった(『AVジャーナル』1997年3月号、22-27頁)。「無理やり日本に進出しても支持されない」とマードックを説得し、マードックがテレビ朝日の当時の大株主・旺文社から買ったテレビ朝日の株を同額で朝日新聞に引き取らせる交渉を行ったのは岡田であった(『財界』2011年6月7日号、61頁)。
  8. ^ 岡田と20世紀フォックスの付き合いは『トラ・トラ・トラ!』の製作協力を始まりとしており(『映画監督 舛田利雄 ~アクション映画の巨星 舛田利雄のすべて~』 242–248頁、報知新聞1969年2月26日、10頁、日刊スポーツ1969年2月26日、15頁)、1973年、フォックス作品の日本のテレビでの放映権独占契約を結び(『映画時報』1973年7、8月号、35-36頁)、同年10月に木曜洋画劇場で放映された『ミクロの決死圏』を皮切りに、以降、『スター・ウォーズ』『エイリアン』『ダイ・ハード』『ホーム・アローン』などが(『映画時報』1973年7、8月号、35-36頁)、東映を通じて日本のテレビ局に売り込まれた(『映画時報』1973年7、8月号、35-36頁、『経済界』1996年8月27日号、45-47頁、『週刊読売』1982年2月21日号、30頁)。1982年には東映が『スター・ウォーズ』を他作品30本と抱き込みで13億円で日本テレビに売り、映画テレビ関係者を驚かせた(『週刊読売』1982年2月21日号、30頁)。
  9. ^ 1999年よりTOEI ANIMATION PHILS., INC. 略称:TAP、Toei Phils.
  10. ^ 略称: PRO2NET、プロツーネット
  11. ^ 当時はイラストなどに音楽やナレーションなどを加えて、画の持つ魅力やメッセージ性を強調していく表現手法として、また少人数、低予算で製作でき、作者のカラーを出しやすくなることも特徴」と説明された。(なお、同レーベルは数年後にほぼ終息した。)
  12. ^ 写真は建替前の建物。新社屋は2018年1月稼働開始。
  13. ^ ただし、『北斗の拳』や『Dr.スランプ アラレちゃん』など社員でない外部の演出家がシリーズディレクターになった場合は、音響監督(オーディオディレクター)を設置することがある他、国際映画社制作の作品や『ドラゴンボール』シリーズ(『ドラゴンボール超』の第76話まで)など、自社の演出家がシリーズディレクターになった際にも稀に音響監督を設置することがある。なお、録音スタジオでもあるタバックが移設された後の作品では、基本的に音響監督を設置している。
  14. ^ かつて存在した五社協定の名残で、NHKの番組に東映本体が属する映画会社自体の直接関与が規制されているため。
  15. ^ かつて、社名が東映動画だった時代には一部作品において、東映本体名義でクレジットされる例が見られた。現在でも、東映本体が制作する番組と放送時間が被らない一部作品においては、製作協力として東映本体がクレジットされている。
  16. ^ クレジット上は東映東京撮影所である。
  17. ^ テレビ朝日がシンエイ動画とも提携・資本関係を強化し、同社を完全子会社としたことやアニメ枠が減少したことも影響した。なお、シンエイ動画は元々、東京ムービーの協力企業だったAプロダクションが発祥で、テレビ朝日との関係が深まる以前は東京ムービーを通じてTBSテレビ(現在の東京放送ホールディングスに相当する旧法人が東京ムービーに設立に関与。)・日本テレビや、在阪局の朝日放送(現:朝日放送テレビ)毎日放送読売テレビと親密な関係だった。
  18. ^ その間、テレビ朝日系では在阪準キー局朝日放送(現:朝日放送テレビ)との作品で全国同時ネット放送を維持していた(2022年現在、東映アニメーションは朝日放送グループホールディングスの株主となっている他、同社は東映本社と相互に資本関係がある。)。上述の経緯から放送枠上では1970 - 1980年代初期と2000年代で在京局(NET→テレビ朝日)・在阪局(毎日放送→朝日放送)と制作会社(シンエイ動画 / 東映アニメーション)との取引関係が実質逆転状態となっていた。
  19. ^ フジテレビ系では2013年現在も全国同時ネットは途絶えているが、『ONE PIECE』は個別スポンサードネット・番組販売扱いを組み合わせる形で遅れネットも含め全国で放送している(系列局所在地でも大分県のみ、編成上の都合で同地域の系列外局に放映権を移譲)。
  20. ^ 「円環のパンデミカ」 東映アニメがゲームに乗り出した理由を訊く
  21. ^ 東映動画が参加していたのはシーズン3(1989年)まで。
  22. ^ 深い提携関係のため、アニメ版ゲゲゲの鬼太郎(第1作)の実映像も提供を受ける形でも劇中に堂々と使われており、NHKオンデマンドによる配信版でも削除されていない。

出典

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