杉原千畝 親族

杉原千畝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/05 05:50 UTC 版)

親族

杉原家

杉原幸子(1914年 - 2008年)
妻で歌人。『六千人の命のビザ』の著者。正教徒(聖名はマリヤ)。香川県志度商業高等学校の校長であった菊池文雄の長女。祖父は岩手県遠野神社の宮司ドイツ語ロシア語に通暁。神奈川県歌人会委員、『朝日新聞湘南版』歌壇選者。作品に『歌集 白夜』(大正出版)など。
杉原弘樹(1936年 - 2001年)
長男。正教徒(聖名はイアコフ)。名前の由来は、北満鉄道譲渡交渉の際の最高責任者で、千畝が自身の外交手腕を高く評価してくれた広田弘毅元首相(戦後の極東国際軍事裁判で死刑)を尊敬していたことから命名された[219]
神奈川県立湘南高等学校を卒業後米国カリフォルニアに留学。翻訳家。『六千人の命のビザ』を英訳[303]。「ドイツにおける日本年」(2001) に、ベルリン日本大使館において講演した際、「僕はまだ子供だったが、ビザを書いたあの時の父の姿を僕は覚えている。今、あの時を振り返り、父の姿を思い出すに、あれは父の心の中に眠る日本人としての《侍魂》があのビザを書かせたのだと僕は思う」と語る[304]
杉原千暁(1938年 - 2010年)
次男。1938年にヘルシンキで生まれる。2002年米国ロスアンジェルスリトル東京で杉原千畝の銅像建立に招待される。「父は同じ人間として助けたと信じている」と感謝した。
杉原晴生(1940年 - 1947年)
三男。7歳の時、小児がんを患い他界。
杉原伸生(1949年 - )
四男。1968年にイスラエルヘブライ大学にイスラエル外務省とユダヤ基金から給費留学生として招待される。千畝の子供で唯一存命。1985年、エルサレム郊外の千畝の森植樹祭に千畝の代理として出席以来、世界各国の数多くの千畝関連イベントに招待を受け出席している。NPOスギハラ(ベルギー)代表。一般財団法人杉原千畝記念財団の名誉顧問。

他に、CBCテレビアナウンサー竹地祐治が、姪孫(竹地の祖母が杉原千畝の妹)にあたる。

元親族

クラウディア・セミョーノヴナ・アポロノワ(1903年(または1905年) -?)
セミョーノフ将軍幕下経理部長、セミョーン・アポロノフの長女[305]チタ女学校卒[38]。音楽に堪能であった[306]

注釈

  1. ^ 千畝の発給したビザによって生き延びた難民たちの子孫は、今日25万人にも及ぶという[5]
  2. ^ 親族が千畝の本籍地である八百津町の戸籍を確認したところによれば、出生地は武儀郡上有知町(こうずちちょう、現在の美濃市)であることが判明した[7]加茂郡八百津町では、千畝直筆の手記を根拠として、千畝が同町で出生したと主張していた[7]が、戸籍の記録から「千畝は現在の美濃市で生まれた」と研究者らが主張。2016年末、日本ユネスコ国内委員会の求めに応じ、"生誕地"としていた申請書の三か所を"出身地"と書き換えた[8]2017年4月にアメリカ合衆国で開催された米国ユダヤ人委員会が主宰する「日本のシンドラーホロコースト救援事件における外交のモデル」と題する各国大使が集まる公式会合において、外務省冨田浩司イスラエル特命全権日本大使は、各国大使を前に「杉原の出生地である美濃市」と言及し美濃市が生誕地であることを表明した[9]
  3. ^ 教泉寺の住職が2016年に語ったところによれば、千畝がここで出生したかは不明だが、寺の庫裏で間借り人が共同生活を送っていたという[7]
  4. ^ 現在の千畝町。
  5. ^ 「外務次官」の演説を報じた当時の新聞王ハームウォーズによる「紙」面の意。
  6. ^ 「それから“Under secretary of State”を具合良く訳せない人もあったらしい。副外務卿、副外務次官、下外務大臣とやった人もあった様に聞いたが、恐らく日本の下五位式の応用であろう。こんなものは、日々の新聞を少し注意して読めば、其の国々に適した邦語が施せる道理である」と、千畝は余裕のコメントを寄せており、若き日の千畝の猛勉強と矜恃を知るユーモラスな資料となっている。この長文の受験体験記は「雪のハルビンより」と題され、研究社の許諾を得て、『真相・杉原ビザ』に転載されている[23]
  7. ^ 早稲田大学本科の『大正八年四月入学・伊呂波名簿』には、杉原千畝に関して、「八年十一月除名・英語・杉原千畝・岐阜」という記録があり、千畝の早稲田大学在籍期間は、1年半にも満たない。しかし、戦後49年経った1994年(平成6年)8月2日、千畝の事績を知って感激した早大第13代総長の小山宙丸(哲学)が、杉原夫人を訪ね顕彰状を渡し、千畝は早稲田大学「校友」として遇されることになった。小山はこの顕彰の後早大を退職、キリスト教カトリック)に改宗した[24]
  8. ^ 日露協会幹事の倉知鉄吉(対露輸出組合理事長)が、1929年に幣原外相に宛てた事業報告書には、別途「高等試験免除申請」が添付され、清水三三(東京外語卒)、水谷健行(協会学校卒)、杉原千畝(協会学校卒、ハルビン総領事館書記生)計3名の名前が職員リストに掲載されていた[33]
  9. ^ 旧満洲国外交部同人会の野中清次が所有する書簡において、笠井は、「杉原さんは北鉄買収交渉の随員でしたが、主としてハルビンにあって対ソ連諜報、特に北満鉄道の状況につき極めて詳細かつ正確な情報を蒐集され、交渉が有利に解決したのも杉原さんの活躍があったといっても、過言ではない」と述べている。満洲国側の交渉出席者は、丁士源・駐日大使、大橋忠一・外交部次長、杉原千畝。外交部北満特派員公所事務官など計6名。外交部の人員配置の詳細については、cf. 中見立夫「満洲国の〝外務省〟-- その組織と人事」、『近代中国東北地域史研究の新視角』pp.121-153. また、第1回から第6回までの会議の概要は、外務省外交史料館所蔵 (F.1.9.2.5-11) の外務省情報部『北満鉄道譲渡交渉関係発表集』(昭和9年1月)を参照。[疑問点]
  10. ^ 杉原幸子夫人や長男・弘樹も洗礼を受けた。聖名はマリヤ(マリア)とイアコフ(ヤコブ)である。
  11. ^ 千畝自身の書いた杉原メモのなかに「多額の工作費提案あり、一切拒否した」という明確な記述がある[40]
  12. ^ 満洲国外交部に勤務した後輩の笠井唯計は、「杉原さんがハルビンを去られたことについての、真相は余り知られておりませんが、私の知る限り、憲兵隊の圧力があったことです」と、満洲国外交部同人会宛ての書簡で述べている[41]
  13. ^ この調書は、外務省外交史料館では、昭和戦前期外務省記録の分類で、「移民、旅券」関係のJ門の「外國ニ於ケル旅券及査證法規竝同取扱事件雜報 蘇聯邦ノ部 本省員關係」というファイルに綴じられている。
  14. ^ 書簡のなかに、戦後オーストリア大使などを歴任した古内広雄が衆議院選で「今年初めて当選した」という記述があり[51]、その初当選が1967年(昭和42年)である。
  15. ^ 文字通り訳すと「ブルジョワ的」。
  16. ^ 本来の首都は、現在と同じヴィリニュスだが、ポーランド・ソビエト戦争の結果、ポーランドに同地を奪われ、カウナスに首都機能が移転していた。ソ連のポーランド侵攻後一旦はリトアニアに返還されたが、その後ソ連はリトアニアを他のバルト諸国同様に併合した。
  17. ^ 杉原は地元紙のインタビューに対して「私が知る限り、リトアニアにいる日本国民は数人だけです」と答えている[52]
  18. ^ 通過の場合の条件は、行先国の入国手続き完了と250円以上の提示金を有することである[59]。当時の250円は、市電運転手の初任給4-5ヶ月分。
  19. ^ 原文は"Le consulat des Pays-Bas à Kaunas déclare par la présente que l'admission d'étrangers au Suriname, au Curaçau et d'autres possesions néerlandaises en Amérique un visa d'entrée n'est pas requis."である[64]
  20. ^ 実際にソ連領として併合されてしまうと、そこからの出国は、ソビエト体制に不満を持つ反革命分子として摘発されるおそれがあったので、避難民たちは出国を急いでいた。西方からのナチスの脅威と東方からのソ連軍の進駐によって、難民たちは窮地に陥っていたのである。
  21. ^ 幸子夫人の著書『六千人の命のビザ』の巻末年譜にも掲載されている『約束の国への長い旅』(p.35) では、「私は主人に、あのユダヤ人たちを助けて下さい、とたのみました」という言葉の直前で、2章19節が引用されており、『六千人の命のビザ』(p.40) には、「ビザを待つ人群に父親の手を握る幼な子はいたく顔汚れり」という短歌が挿入されている。また、同書には、「神は愛である」(p.200) という「ヨハネの手紙I」(4章)の言葉が引用されている。
  22. ^ 8月31日は、ホテル・メトロポリスに避難していた時期であり、実際のベルリン行き列車の出発は、9月5日である。
  23. ^ このロシア語書簡は、千畝に情報を独ソ間の情報を提供していた亡命ポーランド政府の将校、ミハウ・リビコフスキによって、ワルシャワのポーランド軍事博物館に寄贈されたものだが、誰に宛てられた書簡かは不詳。阪東宏は「リビコフスキからの依頼に応じて[72]」としているが、書簡中でリビコフスキが三人称で記述されていることからして、その可能性は薄い。[独自研究?]
  24. ^ 「としかず」と読み、スイス公使の「かせ しゅんいち」とは別人である。
  25. ^ ゴム印の文面は、英仏語で"TRANSIT VISA. Seen from the journey through (Surinam, Curaçau and other Netherlands' colonies.) Consul du Japon à Kaunas"(通過ビザ スリナム、キュラソーその他のオランダ植民地へは入国ビザ不要と認む。在カウナス日本領事館)というものであり、これは、オランダ領事がタイプで打ち込んだ仏語の書面の英訳である[77][78]
  26. ^ ビザ発給の手数料は、当時のリトアニアの通貨で2リタスであり、レオ・メラメドは、「米ドル、1ドルの手数料」と述べている[84]
  27. ^ 幸子夫人の『六千人の命のビザ』の「六千人」に関して、白石仁章は、「何にもとづいて流布されたのか不明」[85]としているが、1941年2月以降新聞記者がユダヤ人を中心とする避難民を話題として集中的に採り上げており、2月7日付の『大阪毎日新聞』にも「敦賀から上陸した者は、2月6日までに合計5,500人」の記述があり、2月13日には、さらに「335名」が追加され、翌3月、4月にも避難民の上陸が続いている[86]
  28. ^ レオ・メラメドは、ソ連当局が「ユダヤ難民から通常運賃の二倍以上をとることにして、その差額を自分たちのポケットに入れた」と述べている[87]
  29. ^ エレミア書16章15節の「イスラエルの子らを、北の国、彼らが追いやられた国々から導き上られた主は生きておられる、というようになる。わたしは彼らを、わたしが先祖に与えた土地に帰らせる」(新共同訳)を踏まえている[92]
  30. ^ 『六千人の命のピサ』(p.175) で、千畝と一緒にラクダに乗った写真に登場する杉原伸生は、イスラエルのヘブライ大学出身。英語とヘブライ語、イディッシュ語に堪能で、特にヘブライ語の巧みさは、ポーランドのユダヤ系作家、マレク・アルテールに、「彼の方が私よりうまくその言葉を操っている」と驚かせるほどである[94]ミュージカルアニー』に主演したベルギー在住の歌手・女優の杉原晴香は、この伸生の四女[95]
  31. ^ いわゆる「杉原リスト」が完成したのは、やっと2月28日になってからである。
  32. ^ ポーランドの作家、シュトルンフ=ヴォイトキェヴィチ (Stanisław Strumph-Wojtkiewicz, 1898-1986) には、『ティーアガルテン』(Tiergarten, 1978) という、日本とポーランドの対独諜報機関の協力を描いたノンフィクション小説がある。
  33. ^ 「クンツェヴィッチ」ことヤクビャニェツ大尉の逮捕は、「女好き」であった大尉が、リトアニア人のマルティンクス少佐の見目麗しいアンナ夫人に接近し、少佐の嫉妬からドイツ側に密告されたとされていた[101]。しかし阪東宏は、「『歴史雑誌』112号、1995、に掲載されたポナルスキの回想録によると、マルティンクスは嫉妬からではなく、Abwehr〔注、ドイツ諜報部のこと〕に属していた職務上『クバ』に疑いを抱いていたと述べている」[102]として、嫉妬説を退けている。ルトコフスカの説明によれば、「マルティンクスはゲシュタポの手先」[101]と所属は異なるが、ドイツ側の間諜説は同じである。
  34. ^ 1923年(大正12年)、東大法卒。同年、第31回文官高等試験合格。ベルリン大使館時代の職名は参事官。法学博士。著書に、『基本的人權の研究』『日本における憲法事件の判決』など。
  35. ^ レドホウスキ神父は、独ソ間のモロトフ・リッベントロップ協定でポーランドが分割された1939年9月28日、バチカンから「私は叫ぶ、ポーランドよ、おまえは決して打ち砕かれはしない。おまえは、再び栄光のうちに立ち上がるだろう、わが愛する、わが殉教のポーランドよ!」と放送して、ポーランドの抵抗運動を鼓舞した[103]
  36. ^ 千畝が残したメモには、"VOLKSDEUTCHER(sic) WOLFGANG GUDZE"という言葉が、縦横を逆にした原稿用紙のヘッダーに書き込まれ、その下部が鋏で切り取られている。グッチェに関して千畝が指摘する「フォルクスドイチャー」(国外ドイツ人)とは、元々はドイツ住民だったのに、国境線の変更や新国家建設に伴い他の国民になったドイツ人の内、ドイツ語を母語として、民族的・文化的にドイツ人としてのアイデンティティを自覚する人々を指す。この語は、とりわけ第一次世界大戦後に使われ初め、ナチス政権は、人種主義に利用した。グッチェは、杉原たちのベルリン行きに同行し、ベルリンの駅で別れてから、あれほど親しかった一家の前から忽然と姿を消し、おそらくゲシュタポの要員ではないかと推測されている[109]
  37. ^ この「当初600名分の通過ビザ」とは、戦後ミハウ・リビコフスキが回想録に記しているもので、それを山脇正隆中将の発意としているが、日本側の資料にはないもので、阪東宏は、山脇中将の発意か否かは「確認はできない」としている[117]
  38. ^ 現在、リトアニアのクライペダ市は、岩手県久慈市と姉妹都市であり、両都市は「琥珀」の産出という共通点を持っている[118]
  39. ^ "American Jewish Joint Distribution Committee"。略称:JDC。日本での難民受入れ、滞在中の援助、米西海岸行き船便のスケジュール管理などに関与[122]
  40. ^ 内務省調査によると、ウラジオストクの他に下関および神戸からも入国[125]
  41. ^ 日本の在外公館は、「受入国のビザ、受入国までの旅費および日本滞在中の費用を所有」の3条件を課して、1940年1月から41年3月なかばまでに、杉原がカウナスで発行したビザ(「杉原ビザリスト」)以外にドイツおよびその他国籍のユダヤ人に日本通過ビザ3,448件を発給[126]
  42. ^ 杉原が発給したビザリストの内訳は、ポーランド1993人、ドイツ43人、その他104人で、ドイツとその他国籍の中にも少数の杉原が発給したビザを持った人がいた。
  43. ^ 中南米行きビザの一部は賄賂などの違法行為により権限外で発給されていたことが明らかとなり、これらのビザで入国してきた難民は国内に留まった[128]
  44. ^ このモットーは、元々は、ロンドンでボーイスカウトの訓練を見て深く心に期するところがあった後藤新平が、1922年(大正11年)に全国少年団をつくった時に、「自紀の三訣」として案出した標語である[130]
  45. ^ 「一連の撮影には若き日の手塚治虫が撮影に随行した」とも言われていたが、手塚の実弟の手塚浩によれば、撮影に連れていかれたのは自分であると証言している。もっとも、治虫自身も直接間接的に神戸のユダヤ人に興味を示し、そこからの発想が漫画『アドルフに告ぐ』(1986) に結実した可能性が示唆されている[134]
  46. ^ 出典の表示は、JACAR(アジア歴史資料センターの略称).レファレンスコード,資料番号/ページ番号。
  47. ^ 杉原は本省からの問い合わせに対し、ビザ発給数は2,132、うちユダヤ系は約1,500と返電[141]
  48. ^ 杉原が発給した日本通過ビザはあるが行先国ビザがないもの。偽造ビザの可能性が高い[143]
  49. ^ Jewcom資料はJDCへの報告のために作成されたもの。
  50. ^ 原文はポーランド語、google翻訳で英訳。文中に「ポーランド系はキュラソー行きビザのみを所有していた」と記されているが、福井県の調査から実際には多くの正規ビザ入国者がいた。
  51. ^ シベリア鉄道は6月16日に閉鎖され、Jewcom資料と合致せず、JDC年次報告書にも説明(難民の日本滞在費全額を支援)がなく、外務省資料にもこれを裏付ける記録がない。なお、他に約200人がウラジオストクから直接上海へ渡り合計3,000人との記述があるが、約50人との記録がある[158]
  52. ^ 『新版 六千人の命のビザ』1993年には、序文で、エドモンド・ロスチャイルド卿が「約六千人の命を救うという」と記述。
  53. ^ 原著はヘブライ語1984年、英語版"Refugee and Survivor: Rescue effort during the Holocaust" は1988年発行。
  54. ^ 在日ポーランド大使資料では946人。JDC年次報告書(1941年)pp.33には1,300人とあるが、これは上海経由でその他の国へ出国した人を含んだ人数。
  55. ^ 出典の表の合計値は、小計の合計値で修正。
  56. ^ 在日ポーランド大使資料では400人。
  57. ^ 藤沢市の南部中央にある鵠沼は、広田弘毅、杉原千畝、森島守人という三名の著名外交官ゆかりの地である。
  58. ^ ゾラフ・バルハフティクイスラエル共和国宗教大臣)は新生イスラエル建国の重要人物となった。
  59. ^ かつて「外務省の同僚であった人たち」の間で流布していた風説[179]
  60. ^ 『孤立する大国ニッポン』が出版された1981年の時点で、千畝はまだヤド・ヴァシェム賞を受賞 (1985) しておらず、幸子夫人による回想録の初版 (1990) も出版されていない。
  61. ^ 四男・伸生(のぶき)は、ポーランドの作家、マレク・アルテールに対し、千畝の名誉回復の動きについて、「リトアニアが独立したときのことで、新生リトアニアにたいする日本政府からの贈り物のようなもの」[187]と述べているが、その洞察の正しさを裏付けるかのように、[独自研究?]リトアニアとの国交回復の日に行われた千畝への顕彰演説のなかで、河野外務大臣は、「杉原氏が御活躍されたリトアニアと我が国との間の新たな外交関係が9年前に始まった今日、すなわち10月10日という機会に、外務省としても、同氏の業績を改めて称え、日本外交の足跡として後世に伝える」趣旨を述べている[188]
  62. ^ 難民たちを「見捨て」ることが「神に背く」ことになるとは、「正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない」(エレミア書、22章3節)という主命に違背することになるということである。
  63. ^ 「ヴァジャ・コン・ディオス!」とは、長旅などをする相手に対して「さようなら、ご無事を!」くらいの意のスペイン語だが、Adios!よりもやや改まった用法。当時の切迫した状況を考えると、「神と共に行け!」という字義通りの意味と二重の含意。「人物」欄にある千畝に対する追悼文では、後者の意味が強調されている。この言葉の初出の際、ソリー・ガノールは、"Voya con Dios. Go with God. I don't know why he said in Spanish, but the words were from the heart, and to this day those tree words invoke deep feeling in me."(「ヴァジャ・コン・ディオス」。神と共に行け。彼がどうしてスペイン語で述べたのか、私にはわからなかった。しかし、今日に至るまでこの心のこもった三語が私に深い感情を呼び起こすのである)と英語に直訳している。
  64. ^ これは、ルカによる福音書(17章10節)の「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」という個所を踏まえた表現である。
  65. ^ 「“命のビザ”杉原氏がいたから私たちがいる[224]」。cf.「多くの者の救いとなった人々はとこしえに星と輝く」(ダニエル書、12:3)。
  66. ^ 『幸せな子 -- アウシュビッツを一人で生き抜いた少年』の「日本語版によせて」(p.10)には、「この日本語版を杉原氏の記念碑として捧げたい」 とある。なお、同書の日本語翻訳者の池田礼子と渋谷節子は、千畝の「名誉回復」時に外務事務次官だった小和田恆の実娘であり、著者のバーゲンソールは、国際司法裁判所における小和田恆の同僚。
  67. ^ オーストラリアの慈善事業家。元・駐メルボルン・イスラエル総領事ロナルド・クロンゴールドの父。
  68. ^ 1916年(大正5年)1月4日生まれ。外交官試験に合格し、東大法卒業後入省[231]
  69. ^ もちろん、戦後一時しのぎの仕事を転々とし、電球売りの訪問販売までして、その生涯を通じて清貧を貫いた千畝に対する事実無根の中傷である。ユダヤ人避難民の代表であり、後に新生イスラエルの宗教大臣になったバルハフティィク自身が、以下のように証言している。「それは絶対にない。ビザを取得する時には、今でもビザ代を多少なりとも支払うが、私たちはその時、ほんのわずかのビザ代のお金を払った。杉原氏が多額のお金を受け取るということは、まったくない。そんな話はでたらめだ。ビザ代はそんなに高い額ではなかったが、私も支払ったように、皆がそのビザ代のみを支払っていた。それに私たちは、多額のお金を持っていなかった」[235]
  70. ^ 1914年(大正3年)生まれ。外交官試験に合格し、東大法中退後入省。ユーゴスラビアパキスタン西ドイツ大使等を歴任。終戦の翌年6月には、「調査局第二課(ソ連関係事務の主管課)課長心得」の役職にあった[237]
  71. ^ 1914年(大正3年)生まれ。東京文理大、東大を経て文官高等試験合格。上海総領事勤務を経てフランス、ドイツ大使館勤務。オーストリアで米軍に抑留された後、大島浩・駐独大使とともに帰国。
  72. ^ メダルの裏面には、仏語で「杉原千畝に、ユダヤ民族は感謝する」(A SEMPO SUGIHARA LE PEUPLE JUIF RECONNAISSANT) という献辞の後にこの一節 "Celui qui sauve une vie sauve l'univers tout entier" (traité Baba Batra, 15b, Talmud) があり、エルサレム・タルムードのサンヘドリン篇 (23 a-b) によれば、この後には、「このために人は一人で生まれた」という一節が続く。
  73. ^ 曲題は、杉原夫妻と交流があったフィンランドの作曲家ヤン・シベリウスによる讃美歌を転用したもの。
  74. ^ 戦後カナダに渡る際に、アングロ・サクソン風の Solly Ganor への改名する前の名前は、ザルケ・ゲンキント (Zalke Genkind) である[287]
  75. ^ 英文学者。日本福祉大学教授。高校生用教科書『杉原千畝物語』(1992) の編纂者として知られる。
  76. ^ ヤン・ズヴァルテンディクの長男は、自姓にZwartendykの異綴を用い、Jan Zwartendyk, "Jan Zwartendijk: His Activities as Dutch Consul in Lithuania" (October 1, 1996; Updated December 3, 2005) なる草稿がある。

出典

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