杉原千畝 年表

杉原千畝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/03/27 14:45 UTC 版)

年表

  • 1900年(明治33年) - 1月1日、岐阜県加茂郡八百津町で生まれる。
  • 1912年(明治45年) - 古渡尋常小学校(現・名古屋市立平和小学校)を全甲(現在の「オール5」)の成績で卒業。
  • 1917年(大正6年) - 愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高校)卒業、京城へ転居。
  • 1918年(大正7年) - 京城府より上京、早稲田大学高等師範部英語科(現・早稲田大学教育学部英語英文学科)予科入学。
  • 1919年(大正8年) - 早稲田大学中退。外務省留学生採用試験受験に合格。外務省ロシア語留学生としてハルビンに渡る。
  • 1920年(大正9年) - 朝鮮京城府龍山歩兵79連隊9中隊に一年志願兵(陸軍少尉)として入営。
  • 1924年(大正13年) - 外務省書記生に採用。2月、満州里在勤命令。12月、ハルビン在勤命令。
  • 1926年(大正15年) - 『ソヴィエト聯邦國民経済大観』を外務省より刊行。日露協会学校講師に任命される。
  • 1932年(昭和7年) - 満洲国外交部特派員公署事務官(薦任六等)となる。
  • 1933年(昭和8年) - 満洲国側書記官に任命される。
  • 1934年(昭和9年) - 満洲国外交部理事官、政務局ロシア科長兼計画科長に任命される。
  • 1935年(昭和10年) - 北満鉄道譲受交渉の満洲側の実務担当官として、対ソ連外交を有利な解決に導く。満洲国外交部依願退官後、外務省大臣官房人事課勤務、情報部第一課勤務を命じられる。菊池文雄(香川県志度商業高等学校校長)の長女・幸子と結婚。
  • 1936年(昭和11年) - 日露漁業交渉の通訳官としてペトロパブロスクに着任、半年後モスクワ日本大使館二等通訳官に任命される。
  • 1937年(昭和12年) - ソ連より杉原の入国拒否通告。フィンランドの在ヘルシンキ公使館へ転勤。
  • 1939年(昭和14年) - 1月、リトアニアの在カウナス領事館・領事代理に任命される。
  • 1940年(昭和15年)- 7月、領事館に救いを求めてやって来たユダヤ避難民等に同情し、本省の訓命に反して通過ビザを発給。外務省より領事館退去命令。8月29日領事館閉鎖。9月5日、カウナス駅より国際列車で退去、ベルリン経由にてチェコスロヴァキアの在プラハ総領事館に着任。
  • 1941年(昭和16年) - 2月28日、ドイツ領の在ケーニヒスベルク総領事館勤務を命じられる。11月、ルーマニアの在ブカレスト公使館勤務任命、一等通訳官に任命される。
  • 1943年(昭和18年) - 三等書記官に任命。
  • 1944年(昭和19年) - 勲五等瑞宝章を受章
  • 1945年(昭和20年) - ブカレスト郊外のゲンチャ捕虜収容所に連行される。
  • 1946年(昭和21年) - ブカレストを発ち帰国の途につく。
  • 1947年(昭和22年) - 4月、博多経由で帰国。6月7日、外務省を依願退職。
  • 1969年(昭和44年) - イスラエル政府からヤド・バッシム勲章を授与される。
  • 1981年(昭和56年) - ゲルハルト・ダンプマン『孤立する大国日本』にて杉原への献辞が掲載。
  • 1985年(昭和60年) - イスラエル政府より日本人として初めてヤド・ヴァシェム賞を受賞し、「諸国民の中の正義の人」に列せられる。受賞メダルには、タルムードから引用された「ひとりの命を救うことは全世界を救うのと同じである」という句[脚注 55]が刻まれていた。現在でも、エルサレム郊外のベート・シェメッシュの丘には千畝の顕彰碑が建っている。
  • 1986年(昭和61年) - 7月31日、鎌倉市にて逝去(86歳)。
  • 1990年(平成2年) - 6月30日、『六千人の命のビザ』の初版刊行。
  • 1991年(平成3年) - 9月、リトアニア政府のヴィータウタス・ランズベルギス議長は、杉原の功績を讚えるため、ヴィリニュス(首都)の通りの一つを「スギハラ通り」と命名する。
  • 1992年(平成4年) - 杉原幸子夫人の著書にもとづく『命のビザ』が、フジテレビ系列で放映。加藤剛秋吉久美子の演技で、日本中で「杉原千畝」の名前が知られる。
  • 1995年(平成7年) - 3月8日、岡崎市の度会隆広により、千畝にちなんだワインが、バチカンのローマ法皇、ヨハネ・パウロ2世に届けられる。
  • 1996年(平成8年) - 8月26日、駐日ポーランド大使、ヘンリック・リプシッツより、幸子夫人にポーランド復興勲章のなかの「コマンドルスキ十字勲章」(三等)が授与される。
  • 1997年(平成9年) - 映画『ビザと美徳』(千畝役は日系米人のクリス・タシマ)が米国で上演され、翌年、第70回アカデミー賞短編実写部門賞受賞。
  • 1998年(平成10年) - イスラエルを初めに、日本[146](2000年)、ガンビアグレナダグレナディーン諸島(2002年)、リトアニア(2004年)等、各国郵政省で千畝の記念切手が発行される[147]
  • 2000年(平成12年) - 杉原の生誕百周年に当たり、杉原の業績をたたえる顕彰プレートが外務省外交史料館に設置される。顕彰プレートには、「勇気ある人道的行為を行った外交官杉原千畝氏を讃えて」等の文言が記載されている。10月10日の除幕式には、イスラエル及びリトアニア各臨時代理大使、杉原幸子夫人らが参列するなか、当時の河野洋平・外務大臣が顕彰演説を行い、日本政府による公式の名誉回復がなされた。「平和の鐘」が千畝の母校の名古屋市立平和小学校に設置される。11月19日、カナダ在住の天文学者・楊光宇が新しく発見した惑星を「杉原」(25893 Sugihara) と命名。岐阜県八百津市に杉原千畝記念館が設立され、以来来館者は年間約2万人を数える[148]
  • 2001年(平成13年) - 母校の早稲田大学の構内に記念碑が建立される。米国で杉原千畝記念 "Do the Right Thing"(正しいことをしよう)エッセイ・コンテスト始まる。7月31日、東京タワーの蝋人形館にて杉原千畝像が設置される。
  • 2002年(平成14年)リトアニアの作曲家、ヨーナス・タムリオーニスに委嘱された "Natus in curas"(苦難の中の獅子)[脚注 56]が、早稲田グリークラブの第50回定期演奏会で扱われる[149]
  • 2005年(平成17年)10月11日 - 反町隆史飯島直子を主演とし渡辺孝好監督によって製作された『日本のシンドラー杉原千畝物語 六千人の命のビザ』が、「終戦60周年記念ドラマ」として読売テレビ系列で放送される。米国テレビ局 Sugihara: Conspiracy of Kindness[150] を放映。
  • 2006年(平成18年) - 福井テレビ、『扉開きしのち 敦賀に降り立ったユダヤ人の軌跡』を放映。
  • 2007年(平成19年) - 5月26日、今上天皇・皇后夫妻がリトアニアの杉原千畝の記念碑を訪問[151]。同日ビリニュス発共同通信は、リトアニア大統領ヴァルダス・アダムクスが歓迎昼食会の際に、杉原領事代理が「両国の間に特別な懸け橋をつくり」、「人道的な功績で国民の尊敬を集めている」と賛辞を贈った。10月10日に、ポーランド大統領レフ・カチンスキより叙勲が決定。
  • 2008年(平成20年) - 1月16日、東京都目黒区にあるポーランド大使館でポーランド大使から、千畝の孫・千弘(長男・弘樹の息子)にポーランド復興勲章のなかの「星付きコマンドルスキ十字勲章」(二等)が手渡される。これは五段階中上から二番目の勲章であるが、一番上の勲章が授与されることはほとんどなく、実質最高位とされている。10月8日幸子夫人逝去(94歳)。
  • 2009年(平成21年) - 7月、オリコンの「世界に誇れる日本人」のランキングにおいて、外交官として唯一人ベストテンに入る[152]。10月13日、在シカゴ日本総領事館において、「杉原千畝を偲ぶ夕べ」を開催。
  • 2010年(平成22年) - 5月5日から7月25日まで、米アトランタのキング牧師記念館で、「命のビザ ユダヤ人たちを救った外交官」と題する展示が行われる。5月28日、リトアニアの首都ビリニュスで、ビルギニア・ブデネ大統領上級補佐官や日本初の女性大使である明石美代子英語版日本大使ら約20人が出席するなか、広島の爆心地で原爆の熱線を浴びた路面電車の敷石に平和を祈る女性像を刻んだ「祈りの石」が、杉原千畝ゆかりの公園で贈呈される。10月18日、「あいちトリエンナーレ2010」において、舞踏家スティーヴン・コーヘンが『The Wandering Jew – 杉原千畝の崇高なる記憶に捧ぐ』と題するパフォーマンス(在日フランス大使館後援)を行う。
  • 2011年(平成23年) - 1月27日、日独交流150周年記念行事として、「諸国民の中の正義の人と見られた日本のシンドラー杉原千畝副領事」と題する講演がパッサウで催される。3月、米国のユダヤ人組織であるオーソドックス・ユニオンが、東日本大震災によって被災した人々に対する義援金を募るにあたり、「窮状にある人々に手を差し伸べることは、主のいつくしみの業に倣うこと」であり、「今こそ、身職を賭して通過ビザを発給し、リトアニアから6,000人ものユダヤ人を救ってくれた杉原夫妻の恩義に報いる時である」[153]との声明。10月24日、千畝の母校の早稲田大学において、顕彰碑が建立される。
  • 2012年(平成24年) - 2月27日、来日したリトアニアのクビリウス首相が野田佳彦首相に「故杉原氏がユダヤ人を助けたことはリトアニアの日本理解に大きな影響を与えている」と述べる。3月22日、フロリダ州ボカラントン市で千畝の功績を記念する式典が挙行され、ニューヨーク総領事館から川村泰久首席領事をはじめ約100人が出席。5月5日、年4回の季刊誌として、杉原千畝研究会から『せんぽ -- The World of Chiune Sugihara』が創刊される。
  • 2013年(平成25年)- 2月21日、白石和子駐リトアニア大使が、岐阜大学で「日本とリトアニアの関係について」と題する講演を行う[154]。3月9日、「命のビザ」の実態調査をした敦賀の日本海地誌調査研究会(会長:井上脩)が「野の花文化賞」を受ける[155]。9月10日、千畝のひ孫の杉原織葉(おりは)が、ミュージカル「SEMPO」に出演[156]

[ヘルプ]
  1. ^ 千畝の発給したビザによって生き延びた難民たちの子孫は、今日25万人にも及ぶという。cf. 千畝のレリーフ 八百津町に贈呈 早大OB(『読売新聞』2012年3月13日付)
  2. ^ シンドラーのユダヤ人救出の動機は、「自らが助かるため」であり、また工場労働者としてユダヤ人を使役して利益を得ていたこともあり、外務省を失職した千畝の後半生が不遇であったことを多くの日本人が知っているだけに、「日本のシンドラー」という海外での便宜的呼称は、日本国内では概して不評である。cf.『杉原千畝の悲劇』p.31. ちなみに、ホロコーストからユダヤ人を救った者に「諸国民の中の正義の人」賞を授与するヤド・ヴァシェム委員会は、その授与の条件として、自己の生命に危険があったことと、実利的対価を受けなかったことに関して綿密な調査が行われる。戦後外務省を追われた千畝の一家は貧窮を極め、「電球売りの訪問販売」までして糊口をしのいだ。cf.『真相・杉原ビザ』p.35.
  3. ^ 番地は八百津町786。(杉原幸子 1993, p. 214)
  4. ^ cf.『真相・杉原ビザ』p.131. 岐阜県八百津の棚田は、日本の「棚田百選」にも選ばれる佳境として知られている。千畝と「棚田」に関しては、cf. 中島峰広「早稲田が生んだ二人の偉人 杉原千畝と中村十作」(ロシア・CIS・東欧地域研究会)。なお、八百津は千畝の出生地だが、父親の転勤のため、一家は八百津に住んだことはない。
  5. ^ 「外務次官」の演説を報じた当時の新聞王ハームウォーズによる「紙」面の意。
  6. ^ 「それから“Under secretary of State”を具合良よく訳せない人もあったらしい。副外務卿、副外務次官、下外務大臣とやった人もあった様に聞いたが、恐らく日本の下五位式の応用であろう。こんなものは、日々の新聞を少し注意して読めば、其の国々に適した邦語が施せる道理である」と、千畝は余裕のコメントを寄せており、若き日の千畝の猛勉強と矜恃を知るユーモラスな資料となっている。この長文の受験体験記は「雪のハルビンより」と題され、研究社の許諾を得て、『真相・杉原ビザ』(pp.388-414) に転載されている。
  7. ^ 早稲田大学本科の『大正八年四月入学・伊呂波名簿』には、杉原千畝に関して、「八年十一月除名・英語・杉原千畝・岐阜」という記録があり、千畝の早稲田大学在籍期間は、1年半にも満たない。しかし1994年(平成6年)8月2日、千畝の事績を知って感激した早大第13代総長・小山宙丸(哲学)が、杉原夫人を訪れ顕彰状を渡し、千畝は早稲田大学「校友」として遇されることになった。小山はこの顕彰の後早大を退職、キリスト教(カトリック)に改宗した。cf. 杉原千畝顕彰状
  8. ^ 日露協会幹事の倉知鉄吉(対露輸出組合理事長)が、1929年に幣原外相に宛てた事業報告書には、別途「高等試験免除申請」が添付され、清水三三(東京外語卒)、水谷健行(協会学校卒)、杉原千畝(協会学校卒、ハルビン総領事館書記生)計3名の名前が職員リストに掲載されていた。cf.『戦間期の日ソ関係』p.243.
  9. ^ 旧満洲国外交部同人会の野中清次が所有する書簡において、笠井は、「杉原さんは北鉄買収交渉の随員でしたが、主としてハルビンにあって対ソ連諜報、特に北満鉄道の状況につき極めて詳細かつ正確な情報を蒐集され、交渉が有利に解決したのも杉原さんの活躍があったといっても、過言ではない」と述べている。満洲国側の交渉出席者は、丁士源・駐日大使、大橋忠一・外交部次長、杉原千畝。外交部北満特派員公所事務官など計6名。外交部の人員配置の詳細については、cf. 中見立夫「満洲国の〝外務省〟-- その組織と人事」、『近代中国東北地域史研究の新視角』pp.121-153. また、第1回から第6回までの会議の概要は、外務省外交史料館所蔵 (F.1.9.2.5-11) の外務省情報部『北満鉄道譲渡交渉関係発表集』(昭和9年1月)を参照。
  10. ^ 「パウェル」は、パウロの日本正教会における表記であり、教会スラヴ語のロシアにおける再建音に由来する。杉原幸子夫人や長男・弘樹も正教徒であり、聖名はマリヤ(マリア)とイアコフ(ヤコブ)である。
  11. ^ 千畝自身の書いた杉原メモのなかに「多額の工作費提案あり、一切拒否した」という明確な記述がある。cf.『真相・杉原ビザ』p.177.
  12. ^ 満洲国外交部に勤務した後輩の笠井唯計は、「杉原さんがハルビンを去られことについての、真相は余り知られておりませんが、私の知る限り、憲兵隊の圧力があったことです」と、満洲国外交部同人会宛ての書簡で述べている。cf.『真相・杉原ビザ』p.180.
  13. ^ この調書は、外務省外交史料館では、昭和戦前期外務省記録の分類で、「移民、旅券」関係のJ門の「外國ニ於ケル旅券及査證法規竝同取扱事件雜報 蘇聯邦ノ部 本省員關係」というファイルに綴じられている。
  14. ^ Чиуне Сугихара”, w Archiwum Museum Wojsko Polskiego, Teczka D-1, ss10. 書簡のなかに、戦後オーストリア大使などを歴任した古内広雄が衆議院選で「今年初めて当選した」という記述があり、その初当選が1967年(昭和42年)である。
  15. ^ 文字通り訳すと「ブルジョワ的」。
  16. ^ 本来の首都は、現在と同じヴィリニュスだが、ポーランド・ソビエト戦争の過程で、ポーランドに同地を奪われ、カウナスに首都機能が移転していた。その後ソ連によって一旦はリトアニアに返還されたが、その後ソ連はリトアニアを他のバルト諸国同様に併合した。
  17. ^ 8月31日は、ホテル・メトロポリスに避難していた時期であり、実際のベルリン行き列車の出発は、9月5日である。
  18. ^ このロシア語書簡は、千畝に情報を独ソ間の情報を提供していた亡命ポーランド政府の将校、ミハウ・リビコフスキによって、ワルシャワのポーランド軍事博物館に寄贈されたものだが、誰に宛てられた書簡かは不詳。阪東宏は、「リビコフスキからの依頼に応じて」(『日本のユダヤ政策』p.167)としているが、書簡中でリビコフスキが三人称で記述されていることからして、その可能性は薄い。
  19. ^ 『日本・ポーランド関係史』pp.229-235.原文は、"Le consulat des Pays-Bas à Kaunas déclare par la présente que l'admission d'étrangers au Suriname, au Curaçau et d'autres possesions néerlandaises en Amérique un visa d'entrée n'est pas requis."である。cf.『日本に来たユダヤ難民』p.95.
  20. ^ 実際にソ連領として併合されてしまうと、そこからの出国は、ソビエト体制に不満を持つ反革命分子として摘発されるおそれがあったので、避難民たちは出国を急いでいた。西方からのナチスの脅威と東方からのソ連軍の進駐によって、難民たちは窮地に陥っていたのである。
  21. ^ 幸子夫人の著書『六千人の命のビザ』の巻末年譜にも掲載されている『約束の国への長い旅』(p.35) では、「私は主人に、あのユダヤ人たちを助けて下さい、とたのみました」という言葉の直前で、2章19節が引用されており、『六千人の命のビザ』(p.40) には、「ビザを待つ人群に父親の手を握る幼な子はいたく顔汚れり」という短歌が挿入されている。また、同書には、「神は愛である」(p.200) という「ヨハネの手紙I」(4章)の言葉が引用されている。
  22. ^ 「としかず」と読み、スイス公使の「かせ しゅんいち」とは別人である。
  23. ^ ゴム印の文面は、英仏語で"TRANSIT VISA. Seen from the journey through (Surinam, Curaçau and other Netherlands' colonies.) Consul du Japon à Kaunas"(通過ビザ スリナム、キュラソーその他のオランダ植民地へは入国ビザ不要と認む。在カウナス日本領事館)というものであり、これは、オランダ領事がタイプで打ち込んだ仏語の書面の英訳である。cf.『自由への逃走』p.141;『真相・杉原ビザ』p.301.
  24. ^ ビザ発給の手数料は、当時のリトアニアの通貨で2リタスであり、レオ・メラメドは、「米ドル、1ドルの手数料」と述べている。cf.『エスケープ・トゥ・ザ・フューチャーズ』p.64.
  25. ^ 幸子夫人の『六千人の命のビザ』の「六千人」に関して、白石仁章は、「何にもとづいて流布されたのか不明」(『諜報の天才 杉原千畝』p.157)としているが、1941年2月以降新聞記者がユダヤ人を中心とする避難民を話題として集中的に採り上げており、2月7日付の『大阪毎日新聞』にも「敦賀から上陸した者は、2月6日までに合計5,500人」の記述があり、2月13日には、さらに「335名」が追加され、翌3月、4月にも避難民の上陸が続いている。cf. 渡辺勝正 「杉原ビザは六千人を救ったか」(『真相・杉原ビザ』pp.335-337)。
  26. ^ レオ・メラメドは、ソ連当局が「ユダヤ難民から通常運賃の二倍以上をとることにして、その差額を自分たちのポケットに入れた」と述べている。cf.『エスケープ・トゥ・ザ・フューチャーズ』p.62.
  27. ^ 『日本に来たユダヤ難民』p.105. エレミア書16章15節の「イスラエルの子らを、北の国、彼らが追いやられた国々から導き上られた主は生きておられる、というようになる。わたしは彼らを、わたしが先祖に与えた土地に帰らせる」(新共同訳)を踏まえている。
  28. ^ 『六千人の命のピサ』(p.175) で、千畝と一緒にラクダに乗った写真に登場する杉原伸生は、イスラエルのヘブライ大学出身。英語とヘブライ語、イディッシュ語に堪能で、特にヘブライ語の巧みさは、ポーランドのユダヤ系作家、マレク・アルテールに、「彼の方が私よりうまくその言葉を操っている」と驚かせるほどである。cf.『救出者 -- なぜユダヤ人を助けたのか』 pp.173-174. ミュージカル『アニー』に主演したベルギー在住の歌手・女優の杉原晴香は、この伸生の四女。cf. Haruka Sugihara sings "Tomorrow & Maybe" from Musical "Annie"
  29. ^ いわゆる「杉原リスト」が完成したのは、やっと2月28日になってからである。
  30. ^ ポーランドの作家、シュトルンフ=ヴォイトキェヴィチ (Stanisław Strumph-Wojtkiewicz, 1898-1986) には、『ティーアガルテン』(Tiergarten, 1978) という、日本とポーランドの対独諜報機関の協力を描いたノンフィクション小説がある。
  31. ^ 「クンツェヴィッチ」ことヤクビャニェツ大尉の逮捕は、「女好き」であった大尉が、リトアニア人のマルティンクス少佐の見目麗しいアンナ夫人に接近し、少佐の嫉妬からドイツ側に密告されたとされていた。cf. エヴァ・パワシュ=ルトコフスカ『日本・ポーランド関係史』p.255.しかし阪東宏は、「『歴史雑誌』112号、1995、に掲載されたポナルスキの回想録によると、マルティンクスは嫉妬からではなく、Abwehr〔注、ドイツ諜報部のこと〕に属していた職務上『クバ』に疑いを抱いていたと述べている」(『世界のなかの日本・ポーランド関係 1931-1945』p.284)として、嫉妬説を退けている。ルトコフスカの説明によれば、「マルティンクスはゲシュタポの手先」(『日本・ポーランド関係史』p.255)と所属はことなるが、ドイツ側の間諜説は同じである。
  32. ^ 1923年(大正12年)、東大法卒。同年、第31回文官高等試験合格。ベルリン大使館時代の職名は参事官。法学博士。著書に、『基本的人權の研究』『日本における憲法事件の判決』など。
  33. ^ レドホウスキ神父は、独ソ間のモロトフ・リッベントロップ協定でポーランドが分割された1939年9月28日、バチカンから「私は叫ぶ、ポーランドよ、おまえは決して打ち砕かれはしない。おまえは、再び栄光のうちに立ち上がるだろう、わが愛する、わが殉教のポーランドよ!」と放送して、ポーランドの抵抗運動を鼓舞した。cf. Stewart A. Stehlin, Weimar and the Vatican, 1919-1939 : German-Vatican Diplomatic Relations in the Interwar Years, Princeton University Press, 1983, p.53.
  34. ^ cf.『自由への逃走』p.41. 千畝が残したメモには、"VOLKSDEUTCHER(sic) WOLFGANG GUDZE"という言葉が、縦横を逆にした原稿用紙のヘッダーに書き込まれ、その下部が鋏で切り取られている。グッチェに関して千畝が指摘する「フォルクスドイッチュ」(国外ドイツ人)とは、元々はドイツ住民だったのに、国境線の変更や新国家建設に伴い他の国民になったドイツ人の内、ドイツ語を母語として、民族的・文化的にドイツ人としてのアイデンティティを自覚する人々を指す。この語は、とりわけ第一次世界大戦後に使われ初め、ナチス政権は、人種主義に利用した。グッチェは、杉原たちのベルリン行きに同行し、ベルリンの駅で別れてから、あれほど親しかった一家の前から忽然と姿を消し、おそらくゲシュタポの要員ではないかと推測されている。cf.『真相・杉原ビザ』pp.310-314.
  35. ^ この「当初600名分の通過ビザ」とは、戦後ミハウ・リビコフスキが回想録に記しているもので、それを山脇正隆中将の発意としているが、日本側の資料にはないもので、阪東宏は、山脇中将の発意か否かは「確認はできない」としている。cf.『世界のなかの日本・ポーランド関係 1931-1945』p.287.
  36. ^ 現在、リトアニアのクライペダ市は、岩手県の久慈市と姉妹都市であり、両都市は「琥珀」の産出という共通点を持っている。cf.「久慈市とリトアニア共和国クライペダ市との姉妹交流の20年を振り返って
  37. ^ このモットーは、元々は、ロンドンでボーイスカウトの訓練を見て深く心に期するところがあった後藤新平が、1922年(大正11年)に全国少年団をつくった時に、「自紀の三訣」として案出した標語である。cf. 「少年團と自治精神」(子爵後藤新平)
  38. ^ 藤沢市の南部中央にある鵠沼は、広田弘毅、杉原千畝、森島守人という三名の著名外交官ゆかりの地である。
  39. ^ この通告書は、日付と宛名だけが手書きで書き込めるようになっているガリ版刷りのもので、退職を自明の前提としたものである。
  40. ^ 杉原夫人も特別映像に出演する、加藤剛主演『命のビザ』(フジテレビ、1992年)において、同一人物と理解されている。
  41. ^ 『六千人の命のビザ』p.171. このニシュリは、バルハフティクらと共にビザの受給交渉をした5名の代表の一人。5名の代表とは、B. Gehashra Nishri(在日イスラエル大使館参事官)、ゾラフ・バルハフティク英語版(イスラエル共和国宗教大臣)、Shimon Yaeeon(ニシュリの後任として在日イスラエル大使館参事官)、Gileene Klementyroveski、Zvi Klementyroveski(テル・アヴィヴ市助役)であり、いずれも新生イスラエルの要路を占める人物となった。
  42. ^ 四男・伸生(のぶき)は、ポーランドの作家、マレク・アルテールに対し、千畝の名誉回復の動きについて、「リトアニアが独立したときのことで、新生リトアニアにたいする日本政府からの贈り物のようなもの」(『救済者』p.172.)と述べているが、その洞察の正しさを裏付けるかのように、リトアニアとの国交回復の日に行われた千畝への顕彰演説のなかで、河野外務大臣は、「杉原氏が御活躍されたリトアニアと我が国との間の新たな外交関係が9年前に始まった今日、すなわち10月10日という機会に、外務省としても、同氏の業績を改めて称え、日本外交の足跡として後世に伝える」趣旨を述べている。なお、名誉回復に関しては、cf. 「杉原千畝氏 顕彰プレート除幕式」における河野大臣挨拶
  43. ^ 「皆さまは杉原千畝のストーリーご存じのことと思います、少なくとも彼の名前をお聞きになったことがあるでしょう。1940年、リトアニアの総領事だった杉原千畝は、少なくとも6000名のリトアニア在住のユダヤ人に日本への立ち入りを可能にするビザを発行してナチスの魔の手から命を救いました。私たちはその恩に完全にむくいることはできませんが、多くユダヤ人が今こそ杉原千畝への敬意を表すべく、日本を助ける時であると言っています。ユダヤ人が助けを必要とする時に日本の皆さまに手を差しのべていただきました、そして今度は私たちユダヤ人が日本に手を差し伸べる時なのです」。cf. ニシム・ベンシトリット駐日イスラエル大使講演
  44. ^ 杉原幸子、前掲書、p.200. 難民たちを「見捨て」ることが「神に背く」ことになるとは、「正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない」(エレミア書、22章3節)という主命に違背することになるということである。
  45. ^ Light One Candle. A Survivor’s Tale from Lithuania to Jerusalem, p.47. 「ヴァジャ・コン・ディオス!」とは、長旅などをする相手に対して「さようなら、ご無事を!」くらいの意のスペイン語だが、Adios!よりもやや改まった用法。当時の切迫した状況を考えると、「神と共に行け!」という字義通りの意味と二重の含意。「人物」欄にある千畝に対する追悼文では、後者の意味が強調されている。この言葉の初出の際、ソリー・ガノールは、"Voya con Dios. Go with God. I don't know why he said in Spanish, but the words were from the heart, and to this day those tree words invoke deep feeling in me."(「ヴァジャ・コン・ディオス」。神と共に行け。彼がどうしてスペイン語で述べたのか、私にはわからなかった。しかし、今日に至るまでこの心のこもった三語が私に深い感情を呼び起こすのである)と英語に直訳している。
  46. ^ Visas for Life, p.134. これは、ルカによる福音書(17章10節)の「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」という個所を踏まえた表現である。
  47. ^ 「“命のビザ”杉原氏がいたから私たちがいる」(『中日新聞』2009年9月18日付)cf.「多くの者の救いとなった人々はとこしえに星と輝く」(ダニエル書、12:3)。
  48. ^ 『幸せな子 -- アウシュビッツを一人で生き抜いた少年』の「日本語版によせて」には、「この日本語版を杉原氏の記念碑として捧げたい」(p.10) とある。なお、同書の日本語翻訳者の池田礼子と渋谷節子は、千畝の「名誉回復」時に外務事務次官だった小和田恆の実娘であり、著者のバーゲンソールは、国際司法裁判所における小和田恆の同僚。
  49. ^ オーストラリアの慈善事業家。元・駐メルボルン・イスラエル総領事ロナルド・クロンゴールドの父。
  50. ^ 杉原幸子、前掲書、p.151. もちろん、戦後一時しのぎの仕事を転々とし、電球売りの訪問販売までして、その生涯を通じて清貧を貫いた千畝に対する事実無根の中傷である。ユダヤ人避難民の代表であり、後に新生イスラエルの宗教大臣になったバルハフティィク自身が、以下のように証言している。「それは絶対にない。ビザを取得する時には、今でもビザ代を多少なりとも支払うが、私たちはその時、ほんのわずかのビザ代のお金を払った。杉原氏が多額のお金を受け取るということは、まったくない。そんな話はでたらめだ。ビザ代はそんなに高い額ではなかったが、私も支払ったように、皆がそのビザ代のみを支払っていた。それに私たちは、多額のお金を持っていなかった」(『真相・杉原ビザ』p.41)。
  51. ^ 1914年(大正3年)生まれ。外交官試験に合格し、東大法中退後入省。ユーゴスラビア、パキスタン、西ドイツ大使等を歴任。終戦の翌年6月には、「調査局第二課(ソ連関係事務の主管課)課長心得」の役職にあった。cf.『ソビエトウォッチング40年』p.17.
  52. ^ 歳川隆雄『外務省の権力構造』講談社、2002年、pp.95-105. その他、竹本信介「戦後日本外務省内の『政治力学』-- 外交官試験と外務省研修所の考察を手がかりに」(立命館大学『立命館法學』2010年)、戦後日本における外務官僚のキャリアパス」(立命館大學『立命館法学』2011年)などを参照。
  53. ^ 1914年(大正3年)生まれ。東京文理大、東大を経て文官高等試験合格。上海総領事勤務を経てフランス、ドイツ大使館勤務。オーストリアで米軍に抑留された後、大島浩・駐独大使とともに帰国。
  54. ^ 安江仙弘や樋口季一郎とともに、イスラエル建国功労者として「ゴールデンブック」に名前が記載されている。
  55. ^ メダルの裏面には、仏語で「杉原千畝に、ユダヤ民族は感謝する」(A SEMPO SUGIHARA LE PEUPLE JUIF RECONNAISSANT) という献辞の後にこの一節 "Celui qui sauve une vie sauve l'univers tout entier" (traité Baba Batra, 15b, Talmud) があり、エルサレム・タルムードのサンヘドリン篇 (23 a-b) によれば、この後には、「このために人は一人で生まれた」という一節が続く。
  56. ^ 曲題は、杉原夫妻と交流があったフィンランドの作曲家ヤン・シベリウスによる讃美歌を転用したもの。
  57. ^ 戦後カナダに渡る際に、アングロ・サクソン風の Solly Ganor への改名する前の名前は、ザルケ・ゲンキント (Zalke Genkind) である。cf. Essays by Holocaust Survivor Solly Ganor.
  58. ^ 英文学者。日本福祉大学教授。高校生用教科書『杉原千畝物語』(1992) の編纂者として知られる。
  59. ^ ヤン・ズヴァルテンディクの長男は、自姓にZwartendykの異綴を用い、Jan Zwartendyk, "Jan Zwartendijk: His Activities as Dutch Consul in Lithuania" (October 1, 1996; Updated December 3, 2005) なる草稿がある。
  1. ^ “イスラエルで杉原千畝に感謝する式典”. NHKニュース (日本放送協会). (2013年4月8日). オリジナル2013年4月8日時点によるアーカイブ。. http://megalodon.jp/2013-0408-1255-08/www3.nhk.or.jp/news/html/20130408/t10013747701000.html 2013年4月8日閲覧。 
  2. ^ 名古屋市立平和小学校のホームページ
  3. ^ 瑞陵会(愛知五中、瑞陵高校などの同窓会)のホームページ
  4. ^ 杉原直樹の講演「千畝・伯父について」(『華の樹』月例会、2010年6月14日)による。
  5. ^ 『自由への逃走』p.107.
  6. ^ 「杉原手記」、『決断・命のビザ』p.289.
  7. ^ 『自由への逃走』p.107.
  8. ^ a b 杉原幸子 1993, p. 52.
  9. ^ 研究社『受驗と學生』大正9年4月号、『真相・杉原ビザ』p.392.
  10. ^ 『自由への逃走』 p.107.
  11. ^ 『真相・杉原ビザ』p.395.
  12. ^ 『真相・杉原ビザ』p.141.
  13. ^ 『自由への逃走』 p.110.
  14. ^ 同上、p.111.
  15. ^ 哈爾濱への思い
  16. ^ 『決断・命のビザ』 p.64.
  17. ^ 『自由への逃走』 p.113.
  18. ^ 「外務省官制及内規関係雑件」八巻。
  19. ^ 「『キリスト精神 早稲田にも』 奉仕園開設百周年迎える今年、沿革まとめる」(『日本経済新聞』2008年11月13日付)
  20. ^ 公益財団法人 早稲田奉仕園
  21. ^ 早稲田奉仕園/友愛学舎
  22. ^ Secret Agent of Japan, pp.195-206. Sabine Breuillard, “L'Affaire Kaspé revisitée” in Revues des études slaves, vol.73, 2001, pp.337-372.
  23. ^ 『諜報の天才 杉原千畝』p.40、p.82.
  24. ^ 『決断・命のビザ』p.291
  25. ^ 『真相 杉原ビザ』pp.175-182.
  26. ^ 同上、pp.189-190.
  27. ^ 『決断・命のビザ』p.291.
  28. ^ 杉原幸子 1993, p. 34.
  29. ^ 「インテリジェンス・オフィサーの無念 -- 史料が語る日本の情報戦」
  30. ^ 『杉原千畝の悲劇』pp.88-90.
  31. ^ 『真相・杉原ビザ』p.265.
  32. ^ 『自由への逃走』p.213.
  33. ^ 『坂の上のヤポーニア』
  34. ^ 『自由への逃走』pp.26-27.
  35. ^ 外務省外交史料館 『民族問題関係雑件/猶太人問題 第四巻 分割2』 国立公文書館アジア歴史資料センター〈ref.B04013205200〉、1938年10月7日 
  36. ^ 『日本のユダヤ政策 1931-1945』pp.362-363 の解説。
  37. ^ 『日本に来たユダヤ難民』pp.93-105.
  38. ^ 『決断・命のビザ』p.295.
  39. ^ 「第二次世界大戦と秘密諜報活動」p.18.
  40. ^ 同上、pp.29-30.
  41. ^ 「千畝手記」、『決断・命のビザ』p.300.
  42. ^ quoted in Mordecai Paldiel, Diplomat Heroes of the Holocaust, p.52.
  43. ^ 杉原幸子 1993, p. 32.
  44. ^ 「千畝手記」、『決断・命のビザ』p.300.
  45. ^ Japanese Diplomats and Jewish Refugees, p.110.
  46. ^ 『諜報の天才 杉原千畝』pp.165-175.
  47. ^ 杉原幸子 1993, p. 38.
  48. ^ 『日本・ポーランド関係史』p.233.
  49. ^ 杉原幸子 1993, pp. 42-43.
  50. ^ 『日本・ポーランド関係史』p.227.
  51. ^ 『独ソ戦とホロコースト』pp.12-13.
  52. ^ 『ホロコースト全史』p.185.
  53. ^ Alexander Neumann, "Leben und Streben im Ghetto Kaunas 1941" in Vincas Bartusevičius, Joachim Tauber u. Wolfram Wette, Holocaust in Litauen. Krieg, Judenmorde und Kollaboration im Jahre 1941, Wien, Böhlau Verlag, 2003, S.146.
  54. ^ 杉原幸子 1993, p. 45.
  55. ^ 杉原幸子 1993, p. 206.
  56. ^ 「三国同盟と杉原ビザの意外な関係」、『歴史街道』2001年3月号、p.45.
  57. ^ 同上、p.45.
  58. ^ 『サキエル氏のパスポート』pp.114-115.
  59. ^ 『日本・ポーランド関係史』pp.253-255.
  60. ^ The Memoirs of Hitler's Spymaster, pp.144-154.
  61. ^ 山本武利「第二次大戦期における北欧の日本陸軍室の対ソ・インテリジェンス活動」、『インテリジェンス』第009号、pp.53-54.
  62. ^ 『日本・ポーランド関係史』pp.220-221.
  63. ^ 『大戦略なき開戦 -- 旧大本営陸軍部一幕僚の回想』p.218.
  64. ^ 『日本軍のインテリジェンス』p.178.
  65. ^ 『日本・ポーランド関係史』pp.221-222.
  66. ^ 杉原幸子 1993, p. 28.
  67. ^ 『決断・命のビザ』pp.211-212.
  68. ^ Der » Bericht über japanische Spionage im Reich « von Reinhard Heydrich.
  69. ^ "Japan in Poland's Secret Neighbourhood War", pp.238-245.
  70. ^ 『杉原千畝の悲劇』pp.112-115.
  71. ^ 「第二次世界大戦と秘密諜報活動」p.22.
  72. ^ 『日本のユダヤ人政策 1931-1945』p.167.
  73. ^ 『自由への逃走』p.141.
  74. ^ 「第二次世界大戦と秘密諜報活動」p.37.
  75. ^ 『杉原千畝の悲劇』pp.136-143.
  76. ^ 『日本の情報機関』pp.143-147.
  77. ^ 『日本のユダヤ政策 1931-1945』p.181.
  78. ^ 哈爾濱への懐い
  79. ^ 『真相・杉原ビザ』pp.342-346.
  80. ^ 安井仲治が撮った『命のビザ』のユダヤ人
  81. ^ 新潮文庫、1972年、p.24.
  82. ^ The Vanished World of Lithuanian Jews, p.218
  83. ^ 『自由への逃走』pp.145-147.
  84. ^ Francisco Veiga, Istoria Gărzii de Fier, 1919-1941: Mistica ultranaţionalismului, Bucharest, Humanitas, 1993, p.301.
  85. ^ 杉原幸子 1993, p. 98.
  86. ^ プレプク・アニコー「ルーマニアの反ユダヤ主義」、『ロシア、中・東欧ユダヤ民族史』pp.187-192.
  87. ^ 杉原幸子 1993, pp. 113-121.
  88. ^ 泉孝英『日本・欧米間、戦時下の旅 -- 第二次世界大戦下、日本人往来の記録』p.333.
  89. ^ 『決断・命のビザ』p.258.
  90. ^ a b 杉原幸子 1993, p. 171.
  91. ^ 『真相・杉原ビザ』pp.40-41
  92. ^ かつて「外務省の同僚であった人たち」が流布した風説。(杉原幸子 1993, p. 151)
  93. ^ 『孤立する大国ニッポン』p.221.
  94. ^ a b c 杉原幸子 1993, p. 177.
  95. ^ 杉原幸子 1993, p. 183.
  96. ^ a b 杉原幸子 1993, p. 184.
  97. ^ article by Chef Dennis Wasco, 21 March 2011.
  98. ^ "OU Earthequake Emergency Fund"
  99. ^ Conspiracy of Kindness Charity Event
  100. ^ 「早稲田キャンパスに杉原千畝レリーフを設置」 早稲田大学
  101. ^ がんばれ東北」(泰野版『タウンニュース』2012年1月7日号)
  102. ^ 日本・リトアニア首相会談(外務省、平成24年2月20日)
  103. ^ 千畝の母校に友好植樹 イスラエルが愛知の高校」(『東京新聞』2012年10月6日付夕刊)
  104. ^ 千畝への感謝映像に」(『中日新聞』2013年5月11日付)
  105. ^ 杉原千畝さん描いた舞台 ひ孫がユダヤ人役で出演」(『スポニチ』2013年8月14日付)
  106. ^ 杉原幸子・杉原弘樹『杉原千畝物語』p.60.
  107. ^ 『決断 命のビザ』p.301.
  108. ^ ロシア語タイプライターによる書簡(ポーランド軍事博物館文書部所蔵)より
  109. ^ Diplomat heros of the Holocaust, pp.55-56.
  110. ^ 『自由への逃走』 p.113.
  111. ^ 杉原幸子 1993, p. 76.
  112. ^ 『救出者 -- なぜユダヤ人を助けたのか』 p.173.
  113. ^ 『日本に来たユダヤ難民』 p.105.
  114. ^ Light One Candle. A Survivor’s Tale from Lithuania to Jerusalem, p.48.
  115. ^ Solly Ganor, “Remembrance
  116. ^ テレビ朝日 『千畝の伝言』(「サンデー・フロントライン」2011年9月25日放送分)
  117. ^ 『杉原千畝の悲劇』 p.159.
  118. ^ リトアニア・カウナス 今も息づく杉原千畝の勇気(『産経新聞』2012年12月2日付)
  119. ^ (杉原幸子 1993, p. 53)
  120. ^ 安藤富雄「カウナスにおけるビザ大量発給の考察」日本福祉大学『日本福祉大学研究紀要』第109号、2003年、p.54 に引用。
  121. ^ 『自由への逃走』pp.57-59.
  122. ^ テレビ朝日 『千畝の伝言』(「サンデー・フロントライン」2011年9月25日放送分)
  123. ^ 杉原幸子 1993, pp. 150.
  124. ^ 都倉栄二『外交官の決断』p.163.
  125. ^ 同上。
  126. ^ 『第二次世界大戦下 ベルリン最後の日』p.219.
  127. ^ 『真相・杉原ビザ』pp.29-33.
  128. ^ 『第二次世界大戦下 ベルリン最後の日』p.188.
  129. ^ 『杉原千畝と日本の外務省』pp.200-201.
  130. ^ 『外交官の決断』p.163.
  131. ^ 『杉原千畝の悲劇』pp.10-26.
  132. ^ 『萬里を征く』p.129.
  133. ^ 『決断・命のビザ』p.288.
  134. ^ 『自由への逃走』p.217.
  135. ^ 「千畝手記」、『決断・命のビザ』p.288.
  136. ^ 古崎博『水銀と戦争』近東出版社、1971年、p.205.
  137. ^ 『諸君!』(2002年6月号)「堺屋太一、加藤寛、渡部昇一対談 : バッシングのカゲで焼け肥り、《官勢いや増すばかり》」、『杉原千畝の悲劇』pp.13-16.『杉原千畝の真実』p.240.
  138. ^ 『杉原千畝の悲劇』p.15.
  139. ^ 『日米の悲劇』pp.234-235.
  140. ^ 外務省 : よくある質問 欧州」にある、千畝の退職に関する外務省の見解。
  141. ^ 新潮文庫版、p.364.
  142. ^ 「歪曲される杉原千畝像」
  143. ^ 同上。
  144. ^ 衆議院会議録情報第123回国会予算委員会第二分科会第1号
  145. ^ 「杉原千畝氏 顕彰プレート除幕式」における河野大臣挨拶
  146. ^ 郵政省発行の切手シート
  147. ^ 伊藤眸「あきた郵趣」(第55号 2006.8.19発行)
  148. ^ 来館者は年間2万人・・『読売新聞』2013年9月26日付。
  149. ^ 早稲田大学グリークラブ100周年特設サイト
  150. ^ "Sugihara: Conspiracy of Kindness"
  151. ^ 今上天皇・皇后夫妻がリトアニアの杉原千畝の記念碑を訪問
  152. ^ 世界に誇れる日本人
  153. ^ "OU Earthequake Emergenvy Fund"
  154. ^ リトアニアに県産品を 白石大使が来県」(『岐阜新聞』2013年2月22日付)
  155. ^ 命のビザ実態調査 敦賀の団体「野の花文化賞」」(『読売新聞』2013年3月9日付)
  156. ^ 杉原千畝さん描いた舞台 ひ孫がユダヤ人役で出演」(『スポニチ』2013年8月14日付)
  157. ^ 下村信貞(豊前市ホームページより)
  158. ^ 原書房版の邦訳は、ヘブライ語原著の英訳 (Refugee and Survivor : Rescue Efforts During the Holocaust, 1984) からの重訳。
  159. ^ 「日本、立ち直る 「命のビザ」に救われた『先物の父』」(時事通信、2011年4月3日)
  160. ^ Sylvia Wassertheil-Smoller, Faculty Profile
  161. ^ 『日本福祉大学紀要』(第116号、2007年)所収。
  162. ^ 「ホロコースト」に学ぶ人類全体に通じる問題
  163. ^ ホロコースト記念館「ジョン・ストシンガー博士講演」
  164. ^ Seana K. Magee, "Samuil Manski, Holocaust survivor belives in fate" in The Japan Times, 13 January, 2011
  165. ^ チェスナッヒルの顕彰碑の碑石
  166. ^ Diplomat heros of the Holocaust, pp.55-56.
  167. ^ Wywiad Polski na Litwie
  168. ^ "Historia stosunków polsko-japońskich"
  169. ^ 川村カオリ『ヘルター・スケルター』p.11.
  170. ^ むさしの・多摩・ハバロフスク協会
  171. ^ cf. Joe Eskenazi“Hiroki Sugihara, son of Japanese Schindler dies at 64”(Jewish Weekly, June 22, 2001)
  172. ^ cf. Mariko Sakamoto, “SUGIHARA YUKIKO STORY”.
  173. ^ 特定非営利活動法人「杉原千畝 命のビザ」理事長の挨拶
  174. ^ cf.「タイ・バンコク国連ビルでスピーチ」(英語)
  175. ^ cf. Hieronder kan je kennismaken met Haruka
  176. ^ Haruka Sugihara sings "Tomorrow & Maybe" from Musical "Annie"
  177. ^ 杉原千畝さん描いた舞台 ひ孫がユダヤ人役で出演」(『スポニチ』2013年8月14日付)







固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

杉原千畝に関連した本

杉原千畝に関係した商品

辞書ショートカット

カテゴリ一覧

全て

ビジネス

業界用語

コンピュータ

電車

自動車・バイク

工学

建築・不動産

学問

文化

生活

ヘルスケア

趣味

スポーツ

生物

食品

人名

方言

辞書・百科事典

すべての辞書の索引

「杉原千畝」の関連用語

杉原千畝のお隣キーワード

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   
検索ランキング

画像から探す




杉原千畝のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの杉原千畝 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2014 Weblio RSS