本草綱目
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/15 22:11 UTC 版)
概要
作者は明代の李時珍(1518年 - 1593年)で、1578年(万暦6年)頃に脱稿、死後の1596年(万暦23年)に南京で上梓された[1]。
李時珍は本書の執筆にあたって26年の歳月をかけ、700余りの文献を調査し、自らの調査と合わせて約1900種の薬物について記載した[2]。
中国の『神農本草経』以降の歴代本草書は、前の本草書に増補改訂する際に先人の文を直接改めるのではなく、見解の相違があれば新註の中で述べるという共通の原則が守られたが、『本草綱目』では全く新しい独自の見解に基づく構成となっている[3]。
1951年には世界和平会議ウィーン会議で世界文化著名人の史冊に掲載された[4]。また、2011年5月22日から25日にかけて開催されたユネスコの会議にて世界記録遺産に登録された[5]。
構成
全52巻、収録薬種は1892種(374種は新収)、図版1109枚、処方11096種(うち8000余は李時珍自身が収集、確定したもの)にのぼる。ただし、収録薬種について時珍は1892種としているが、荏や七仙草など4条は目録があるのに本文がなく、砭石や百両金など4条は本文があるのに目録が欠けているため正確には1898種である[3]。
従来の本草書の上中下の三分類を廃止し、自然物(薬用動植物や鉱物など)を16部60類に分けて配列している[1][6]。薬の正式名称を「綱」とし、各綱に釈名(正名と別名、名称の由来)・集解(産地や採取時期、形状等)・正誤(それまでの文献における疑いを分けて間違いを正す)・修冶(製造方法)・気味(寒温の別などの特性)・主治(効用)・発明(不明な点に対する解釈)・附方(処方)の8項目を「目」として解説している[1]。なお、第52巻には人体の薬物利用について、35の部位が収載されている。詳しくはヒトに由来する生薬を参照のこと。
諸版本
『本草綱目』は斬新な内容だったことから中国で版を重ねた[7]。
- 金陵本
- 初版は王正貞の序を付したもので、出版地が金陵(後の南京)だったことから「金陵本」と呼ばれている[7][3]。「金陵本」は稀本で完本は世界に7点しか現存しないが、そのうち日本には国立国会図書館、東洋文庫、内閣文庫、東北大学狩野文庫の4点がある[7]。
- 江西本
- 万暦31年(1603年)に江西巡撫夏良心らによって校刻されたもので江西本と呼ばれている[3]。
- 武林銭衛本
- 崇禎13年(1640年)に銭蔚起によって校刻されたもので武林銭衛本と呼ばれている[3]。
- ^ a b c d “温故知新 農学・本草学シリーズ 2 李時珍の『本草綱目』”. 静岡県立中央図書館. 2023年4月15日閲覧。
- ^ a b “「李時珍と本草綱目」(りじちんとほんぞうこうもく)”. 日本薬科大学漢方資料館. 2023年4月15日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 岡西為人「本草綱目を読むに当つての注意」『日本東洋醫學會誌』第1巻第1-6号、日本東洋医学会、1950年、24-28頁。
- ^ a b c d 藍 正字「『本草綱目』と林羅山」『アジアの歴史と文化』第2巻、山口大学アジア歴史・文化研究会、1995年10月31日。
- ^ “ユネスコの「世界の記憶」に『本草綱目』などが新たに登録される”. current.ndl.go.jp. 国立国会図書館 関西館. 2022年8月22日閲覧。
- ^ a b c d e f 上野 益三「本草綱目と日本の博物学」『甲南女子大学研究紀要』第7号、甲南女子大学、1971年、153 - 163頁。
- ^ a b c d e “第一章 江戸博物誌の歩み I 発展のきっかけ―17世紀”. 国立国会図書館. 2023年4月15日閲覧。
- ^ 宮本義己「徳川家康と本草学」(笠谷和比古編『徳川家康―その政治と文化・芸能―』宮帯出版社、2016年)
- ^ 牧野富太郎「『増訂草木図説』巻末の言」『植物研究雑誌』第8巻第9-10号、植物研究雑誌編集委員会、1933年、403-409頁。
本草綱目と同じ種類の言葉
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