明智光秀
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系譜
明智氏は「明智系図」(『続群書類従』所収)によれば、清和源氏の一流摂津源氏の流れを汲む土岐氏の支流氏族であるとされており、おおよそ伝記・系図類ではこの見解は一致している。ただしその詳細な系譜や近親者については史料によって相違が甚だしく、並列に扱うことが難しい。
発祥の地は、美濃国明智庄(現在の岐阜県可児市または恵那市の旧明智町)とされる。『土岐文書』[204] では、美濃国土岐郡妻木郷(現在の岐阜県土岐市妻木町・下石町・駄知町・曽木町・鶴里町、土岐郡笠原町(現・多治見市笠原町))になっている[30]。
系図
『続群書類従』所収の「土岐系図」による。『続群書類従』所収の「土岐系図」は美濃国守護の土岐家の系図で、そこには土岐支族の系図も書かれており、明智家の系図も含まれる。頼尚以前と土岐定政の系統は『上野沼田 土岐家譜』とも共通する。
- 『系図纂要』所収の「明智系図」では土岐頼清の系譜とされている。頼清の嫡男である頼康の子・頼兼を明智氏初代とする。その7代目の子孫が明智光継であり、その子を光綱、そしてその子が光秀とある。
- 『明智氏一族宮城家相伝系図書』では頼清の子・頼兼を明智氏初代とし、頼重は頼兼の養嗣子であったとする。また頼弘の子が頼典となっており、頼典は後に光継と改名したという。欠落した頼定と頼尚は、それぞれ頼典の弟とその長男となっており、頼明は頼尚の弟とされる。
- 『続群書類従』所収の「土岐系図」には、異本として、頼秀の子は頼高であり、その子は光高(始め頼久)、光高の子は光重、その弟は政宣、光重の子は光兼、光重は文明期の人という系譜が載っている[205]。『連歌辞典』には政宣は玄宣の子で幕府奉公衆とある[206]。延徳2年(1490年)ごろ、兵庫頭入道玄宣と兵部少輔頼定の間に内部抗争が発生し、明応4年(1495年)、玄宣は総領としての地位を無視され、頼定と知行折中で和睦を結ぶ。この和睦を機に、玄宣の本宗家が没落し、頼定の庶流が台頭して、文亀2年(1502年)には頼尚が知行の大部分を支配し、その正当性を主張。そして嫡子頼典を義絶し、所領はすべて彦九郎頼明に譲る[30]。
父母・兄弟等
- 父親の名は、光綱・光隆・光国と諸説ある。『明智氏一族宮城家相伝系図書』によると光隆から光綱と改名したとされる。『明智物語』[207] では、光秀の養父は明智頼明とある。
- 母親は若狭武田氏の出身で、名はお牧の方と伝わる[注釈 49]。『総見記』などの軍記物では、光秀が老母を敵方へ人質に差し出す話が伝わっているが、事実ではない[209]。
- 光秀に兄弟がいたとする、『鈴木叢書』収録の「明智系図」によると、次弟・信教は後の筒井順慶、三弟・康秀は三宅左馬助と号し、後に左馬助を称したという。いずれも別人の存在が明らかであり、事実との相違が甚だしい。『明智物語』では、光秀には定明、定衡の義兄がいたとある。
- 光秀の出自を明智氏としない俗説も多い。
- 『明智氏一族宮城家相伝系図書』では母を光綱の妹とし、実父を山岸信周(進士信周)としている。熊本県菊池市の安国寺蔵「土岐系図」でも、光秀を信周の四男としている。
- 『若州観跡録』では、若狭国の刀鍛冶・藤原冬広の次男としている。
- 『明智光秀の乱』(著者:小林正信)では、明智光秀の前半生がわからないのは名前を改姓した事によるものだとして、明智光秀になり得る者を室町幕府の奉公衆の中にいる人物と断定し、僧体から還俗した進士知法師に注目した。進士氏は鎌倉時代より続く名門であり、包丁式進士流を伝える家柄で、御膳奉行を務めることでも知られている。永禄の変で死んだ足利義輝の側室・小侍従局の父が進士晴舎であった。そして、永禄の変で殉死した筈の進士晴舎の嫡子である進士藤延こそが明智光秀になった人物だと特定し、明智光秀の家臣で進士貞連は実弟で進士氏の家督を継いだとした。また、永禄の変で死んだ筈の妹の小侍従局は明智光秀の妹である御ツマキなり、小侍従局の身籠った子供は明智光慶になったとしている[76]。ただし、同書の説はあくまで著者による憶測である。
妻室
正室は『明智軍記』などに記載のある糟糠の妻・妻木氏(煕子)。俗伝として喜多村保光の娘、原仙仁の娘という側室がいたともある。本室の前に、山岸光信(進士光信)の娘(千草)に未婚で庶子を産ませたとする説もある[210]。後年には「側室を儲けなかった愛妻家」と一般に伝わる。
子女
史料のしっかりした定説は存在せず、確たる証拠のある男系子孫は存在しない。一方で、「光秀の子孫」と称する家は複数系統ある。光秀の書状などにより確認できる男子は「十五郎」であり、当時の史料の上で十五郎の諱は明らかではない。
- 『明智軍記』では3男4女がいたとする。
- 『鈴木叢書』所収の「明智系図」では側室の子も含めて6男7女があったとする。
- 長女:菅沼定盈の妻 - 養女(実父・三宅長閑)
- 次女:桜井家次の妻 - 養女(実父・三宅長閑)
- 三女:織田信澄(津田信澄)の妻
- 四女:細川忠興の妻(細川ガラシャ)
- 五女:筒井定次の妻[注釈 53]
- 六女:川勝丹波守の妻
- 長男:玄琳[注釈 54] - 妙心寺に入る。
- 次男:安古丸 - 山崎の戦いで戦死。
- 三男:不立 - 天龍寺に入る。
- 七女:井戸三十郎の妻
- 四男:十内[注釈 55] - 坂本城落城の際に死亡。
- 五男:自然[注釈 56] - 坂本城落城の際に死亡。
- 六男:内治麻呂 - 喜多村保之(喜多村弥平兵衛)。家伝に拠れば光秀の末子で、伊賀国柘植氏分流の北村(喜多村)保光の娘の子と伝わる。のち江戸幕府の江戸町年寄。
- 不明:定頼
- 大阪府岸和田市にある本徳寺の開基とする南国梵桂は、一説に光秀の子とされるが定かではない。また光慶と同一人物とする説もある。
- 宣教師のルイス・フロイスは光秀の長子のことを「非常に美しく優雅で、ヨーロッパの王族を思わせるようであった」と伝えている。
- 自然は津田宗久の茶会記で実在が確認される。
- 「光慶」の諱は『連歌総目録』『集連』などの愛宕百韻の写本などにその名が残るが、いずれも後世の書である。
縁戚
- 叔父叔母
- 『明智軍記』では光安、光久、光廉の3人の叔父と、その家族の名がある。
- 『明智氏一族宮城家相伝系図書』によると、上記に加えて叔父・光広、叔母に岸信周の室、岸信周の後室、斎藤道三の室・小見の方[注釈 57]など5女があったという。
- 従兄弟
子孫
山崎の戦いで明智家は滅んだとされるため、確証のある光秀の子孫は他家へ嫁いだ光秀の娘たちの女系子孫たちである。細川忠興へ嫁いだ珠(細川ガラシャ)の子孫は細川家の他、令和の皇室にもつながる。
細川家
光秀の娘、珠(細川ガラシャ)と細川忠興の間に忠隆、忠利、多羅(稲葉一通室)などが生まれる。
- 長岡(細川)内膳家 - 忠興の嫡男である忠隆の家系。忠隆は廃嫡され、子孫は細川家臣内膳家となるがガラシャの血を継ぐ。子孫に衆議院議員:細川隆元、政治記者:細川隆一郎(隆元の甥)、政治記者:細川隆三(隆一郎の子)、政治記者:細川珠生(隆一郎の子)、先祖研究者:片平凌悟(珠生の子)。片平凌悟は、2020年5月23日放送の『サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん』にて、明智光秀の子孫である「明智光秀博士ちゃん」としてリモート出演した[212]。母:細川珠生もリモート出演した。この番組内で、第79代内閣総理大臣:細川護熙も光秀の子孫のように紹介されたが、護熙の家系は肥後国熊本藩主家であり、後述のとおり光秀の子孫ではない。
- 肥後細川家(豊前小倉藩、肥後熊本藩主家) - 忠興の三男である忠利の家系。第8代治年に嗣子なく、支藩の宇土藩主家(光秀、ガラシャの血をひいていない立孝〈忠興の四男〉の家系)より養子を迎えたために熊本藩主家における光秀の血は途切れている。
- 長岡(細川)刑部家 - 光秀、ガラシャの血をひいていない興孝〈忠興の五男〉の家系であるが、第6代として養子に入った長岡興彭は細川忠利の玄孫であり、光秀、ガラシャの血をひいている。
明智光秀 - 珠(細川忠興室:細川ガラシャ)- 忠利 - 光尚 - 利重 - 宣紀 - 長岡興彭(細川刑部家の長岡興行の養子)
皇室
光秀の娘、珠(細川ガラシャ)と細川忠興の子孫。光秀の9代後の子孫である仁孝天皇と10代後の子孫である正親町雅子の間に孝明天皇が誕生し、以降の歴代天皇に血縁関係が続いている。
- 明智光秀 - 珠(細川忠興室:細川ガラシャ) - 多羅(稲葉一通室) - 信通 - 知通 - 恒通 - 女(勧修寺顕道室) - 経逸 - 婧子(光格天皇典侍) - 仁孝天皇 - 孝明天皇 - (以降歴代天皇)
- 明智光秀 - 珠(細川忠興室:細川ガラシャ) - 忠隆(長岡休無) - 徳(西園寺実晴室) - 公満 - 女(久我通名室) - 広幡豊忠 - 女(正親町実連室) - 公明 - 実光 - 雅子(仁孝天皇典侍)- 孝明天皇 - (以降歴代天皇)
竹田家(旧皇族竹田宮家)
光秀の娘、珠(細川ガラシャ)と細川忠興の子孫。孝明天皇の子孫は自動的に光秀の子孫となり、孝明天皇以降の皇室のほか皇室から皇女を迎えた家(旧皇族の朝香家、東久邇家、竹田家など)も該当するが、特に竹田家は孝明天皇以外からの光秀の血筋も受け継いでいる。子孫に現在の旧宮家の祭祀継承者:竹田恒正(恒徳の子)、在ブルガリア共和国日本国特命全権大使:竹田恒治(恒徳の子)、日本オリンピック委員会(JOC)会長:竹田恆和(恒徳の子)、政治評論家:竹田恒泰(恆和の子)。竹田恒正、恒治、恆和兄弟は両親ともに正親町実光の子孫であり、明智光秀の子孫である。
- 明智光秀 - 珠(細川忠興室:細川ガラシャ) - (略) - 正親町実光 - 雅子(仁孝天皇典侍)- 孝明天皇 - 明治天皇 - 昌子内親王(竹田宮恒久王妃) - 恒徳王(竹田恒徳) - 恒正王(恒正) - 恒貴
- 明智光秀 - 珠(細川忠興室:細川ガラシャ) - (略) - 正親町実光 - 実徳 - 実正 - 静子(三条公輝室) - 光子(竹田宮恒徳王(竹田恒徳)妃) - 恒正王(恒正) - 恒貴
織田家信勝系昌澄流
光秀の娘と津田信澄の間に昌澄などが生まれる。昌澄は大坂の陣で豊臣方に加わるが助命され、のちに旗本となり家を残す。
その他
- 伝承、落胤説、系統不明の子孫
- 坂本龍馬 - 坂本城に由来するという坂本家の家紋は組み合わせ角に桔梗だが、総合的にみて明智氏との関係はない可能性が高いとみられ、明智後裔説は後世の作家の創作と考えられている[213]。
- クリス・ペプラー/ALAN J - 兄弟どちらもタレント。母方の祖母が明智光秀の実子説がある土岐頼勝[注釈 58]の子孫。一次史料での確認はできていないが、歴史番組での検証結果などを受け、歴史研究家や日本家系図学会も「末裔と言って構わない」という見解を示した[214]。
- 明智ハナエリカ - 歌手。母はイタリア系メキシコ人。
- 三宅艮斎 - 祖父玄碩、父英庵を初め、代々医者の家系であった蘭方医。お玉ケ池種痘所(現・東京大学医学部の起源)の開設に携わる。
- 三宅秀 - 三宅艮斎の長男。東京大学医学部初代学部長。帝国大学医科大学長。日本初の医学博士の一人。
- 三宅鑛一 - 三宅秀の長男。東京大学医学部教授。
- 三宅仁 - 三宅鑛一の長男。東京大学医学部教授。
- 明智潔 - 明治時代になってから、残党狩りを逃れた光秀の子?の於隺丸(おづるまる)なる人物の子孫と自称し明田性から明智性に改姓。ただし於隺丸なる人物は現時点では史料上で一切確認できず、学術的には実在が否定されている架空の人物である。
- 明智滝朗、明智憲三郎 - 滝朗は明智潔の養子。憲三郎はその孫。主な著書に前者は『光秀行状記』、後者は『本能寺の変 431年目の真実』。
注釈
- ^ 寛永年間(1624 - 1645年)の成立と推測される『当代記』の享年67歳説が、成立時期や史料の性格から最も信が置けるとみられるが、断定はできない[1]。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u ユリウス暦による。
- ^ 森乱丸の弟の家系である美作森家(津山藩)家臣・木村昌明が記した史料。岡山大学附属図書館所蔵池田家文庫に収められている。
- ^ 『明智軍記』では没年が天正10年6月14日(1582年7月3日[注釈 2])の享年55。『武家聞伝記』[注釈 3] では享年70。『明智系図』(『続群書類従』第5輯下)では生年月日が享禄元年3月10日(1528年3月30日[注釈 2])、『明智一族宮城家相伝系図書』では享禄元年8月17日(1528年8月31日[注釈 2]))。これ以外の説には『細川家記』の大永6年(1526年)、また『当代記』の付記に記された67歳から逆算した永正13年(1516年)などもある[3]。
- ^ 生年を1528年とするのは確かな根拠があるものではなく、光秀の年齢はわからないとする説もある[4]。
- ^ 『明智物語』では天文18年(1549年)に光秀は元服前であったことが書かれている[5]。
- ^ 徳永真一郎『明智光秀』(PHP研究所、1988年)363頁に言及あり。
- ^ 漢字で書けば金柑頭(「ん」は通例読まない)で、金柑のように禿げた頭をさす一般的な表現で、特に光秀を指すわけではない。また、金華頭ともあてられることもあり、いわゆる藤原病でもある。
- ^ 土岐定政の父。
- ^ 実妹とは考えにくく、妻の妹であろう[21]。
- ^ 前室・側室があったとの説もあり。
- ^ 土岐氏は建武の新政から美濃国で200年余り守護を務め、数十家の支族を輩出した[24]。
- ^ 始め頼久と名乗り、頼宣、頼連と改名し、出家して玄宣を名乗る。明応9年(1500年)以降に還俗して光高を名乗ったと見られる。玄宣(光高)の子は光重と奉公衆の政宣、政宣に子はなく、光重の子は光兼。玄宣の父は頼高、祖父は頼秀。
- ^ 他に、明知城(現・岐阜県恵那市明智町)[34] や、山県市美山出身などの伝承もある。前者は遠山氏の築城した城でもあり、後者は20世紀を下る記録は無い[35]。
- ^ a b 『遊行三十一祖 京畿御修行記』(遊行同念の天正8年(1580年)7-8月の旅行記、随行者が記述)天正8年正月24日(1580年2月9日[注釈 2])条に、阪本城の光秀へ南都修行のために筒井順慶への紹介状を称念寺僧を使者にして依頼し、知人として「惟任方はもと明智十兵衛尉といって、濃州土岐一家の牢人であったが、越前国の朝倉義景を頼り、長崎称念寺門前に十年居住していた。そのため称念寺使者僧とは旧情が深くて坂本にしばらく留め置かれた」と記述[41]。
- ^ 同時代の朝廷の武士との連絡役の役職者である立入宗継の『立入左京亮入道隆左記』にも、光秀を「美濃の住人とき(土岐)の随分衆也」と記述[42]。
- ^ もともと斎藤利良の書であったものを、一族の花村利房が永禄12年(1569年)、花村利昌が文禄3年(1594年)、不明の人物が元和3年(1617年)に様々な資料から書き加え、最終的に伊東實臣が元文3年(1738年)に作製したものである
- ^ 「朝倉氏滅亡時の混乱の中で光秀と縁の深い、越前にいた竹という者の面倒を見て命を救った様子の感謝と服部七兵衛を百石加増した」内容。
- ^ 沼田清長、奉公衆を務めた沼田家の庶流の人物と考えられ、義昭の側近として仕えていた[50]。
- ^ 前半に永禄6年(1563年)正月〜翌年2月頃の奉公衆、後半に永禄9年(1566年)8月〜翌年10月頃の奉公衆を列挙したもので、後半は足利義昭が編纂を命じたものという説がある[69]。後半部分は永禄10年2月から永禄11年5月までの間に追加して作成されたことが明らかにされた。さらに義昭はたどり着いた一乗谷で永禄11年4月に元服しており、その前後に作成された可能性が挙げられている[50]。
- ^ 「一僕の身」は中世から江戸時代にかけての慣用句で、小身の「一人奉公」の侍を貶めた言い方である[78]。
- ^ 『武家雲箋』所収一色藤長書状による[88]。
- ^ 『年代記渉節』に公方衆として記載している[97]。
- ^ 『明智家法』については長く福知山の御霊神社にしか伝えられておらず偽文書説が有力であったが、平成8年(1996年)に同じものが尊経閣文庫から発見されたことから真書説が有力となり、確定したと断定する記述もある[133]。しかし、その一方で『明智家法』に書かれた軍の編成が江戸時代のものに酷似していることから、山本博文や堀新のように依然として偽文書説を採る研究者もおり、その根拠として「戦国期の主要な兵器である弓に関する編成の規定がない」「当時の軍法の基本的な規定である『(戦闘時の)抜け駆け禁止』や家臣の従者の統制に関する規定がない」「制定日が本能寺の変のちょうど1年前という不自然さ」などを挙げている。堀は光秀の名誉回復の動きがあり『明智軍記』が編纂された17世紀後半の制作の可能性を指摘している[134][135]。
- ^ 茶室の床の間は貴人の座の象徴である[136]。
- ^ 「御ツマキ」が、実妹か義妹かは、論が分かれる。また苗字ならなぜ「御」が付くのか、「妹御」の誤りか[138]、名前と間違えたのか、などの疑問も言われる [139]。
- ^ 『兼見卿記』天正6年(1578年)6月14日、信長祇園会見物の日に「妻木所」へ「台の物、肴色々・2つの瓶を使者に持ち遣わした」。天正7年4月18日条に、「妻木惟向州(光秀)妹が参詣するときの生理事のことを、書状で尋ねてきたので回答した」。また、同年9月25日条には「惟任姉妻木が在京の時に双瓶と食物を籠に入れて持参したが他の用で不在で「女房館」へ渡し帰る」とある[140]。さらに『言経卿記』天正7年5月2日条で「父言継の死去に伴う信長への挨拶の際に近所の女房衆のツマキ・小比丘尼・御ヤヽへ帯2本を進物する」。
- ^ 妹がもしも妻木なら、光秀の本姓も土岐明智でなく土岐妻木であった可能性がある[138]。妻木家から明智家に養子入りした仮説もありうる[139]。
- ^ 『惟任謀反(退治)記』という史料によると、斎藤利三ら重臣が本能寺の宿所を取り巻いた際、光秀は途中で控えたと記されていたり、文献『乙夜之書物』によると、「斎藤利三と、光秀重臣の明智秀満が率いた先発隊2千余騎が本能寺を襲い、光秀は寺から約8キロ南の鳥羽に控えていた」と記されていたりと、攻撃に参加せず後方に控えていた説もあるが、実際に光秀が重臣らとともに本能寺の攻撃に加わっていたのか、あるいは後方に控えていたのかは、明確にまだわかっていない。
- ^ 利治は病で加治田城において静養していると考えていたようである。
- ^ 「班久勇武記するに遑あらず且諸記に明らけし、終に忠志を全ふして天正十壬午六月二日未刻、京師二条城中において潔く討死して、君恩を泉下に報じ、武名を日域に輝かせり」
- ^ 実弟・山岡景猶が光秀の寄騎近江衆の一員であった。
- ^ 場所については、小栗栖あるいは本経寺付近の竹薮、または醍醐か山科と当時の各日記でも情報が分かれている。
- ^ 8日浅野長政宛て秀吉書状でも「明智め山科の藪の中へ逃れ入り、百姓に首をひろわれ申し候」としている(『浅野家文書』)[153]。
- ^ 亀岡市は亀山城の城下町。伊勢の亀山との混同を避けるため、明治2年(1869年)に改称した。
- ^ 「明智が信長を殺した頃、津の国の殿たちや主だった武将らは毛利との戦いに出陣していたから、同国の諸城の占領をすぐに命じなかったのは、明智が非常に盲目であったからで、彼の滅亡の発端であった。それらの諸城は、信長の命令によってほとんど壊された状態にあり、しかも兵士がいなかったので、500名あまりの兵をもって、人質を奪い、彼らを入城せしめることは、彼にとって容易な業だったはずである」「明智は勘違いして、(高山)右近殿は中国から帰って来れば自分の味方になるに違いないと考えていたからである。そこで彼はジュスタ(右近の妻)に対して、心配するには及ばない、城はあなたのものだ、と伝えさせた。高槻の人たちは、彼に美辞麗句をもって答えた。それは時宜に処した偽りのものであったが、明智はそれを聞いて無上に喜び、人質を要求しようともせず、また同様の目的で、我々(イエズス会員)に手出しすることもなかった。しかもジュストが敵になった後においてさえ、その態度は変わらなかった。彼は、信長がかつて荒木(村重)に対して行ったことを知っていたし、そのようなことを彼はなすことができ、高槻の人々をなんら苦労しないで捕らえ得たはずであった。彼の都地方の全キリシタンが明智が死ぬまで抱いていた最大の苦悩と心配の一つは、もしかすると、明智は、我々を人質として捕らえはしまいかということであった」[163]
- ^ この系図は江戸時代の物で、しかも美濃多羅(現・岐阜県大垣市)が、まったく明智に縁が無い土地で、しかもこの系図の人物は研究が進んでいるが「明智」の土地を伝領した形跡がなく、信用できないとの指摘がある[174]。
- ^ 江戸時代に起きた「越後騒動」で自害した小栗美作の辞世の偈「五十余年夢 覚来帰一元 載籤離弦時 清響包乾坤」を真似た偽作との説もある。
- ^ 天野信景の随筆集。元禄元年(1688年)刊。
- ^ 土岐琴川著、宮部書房、大正4年(1915年)。
- ^ 支援を求める内容ではなく、「光秀は信長の上洛の日程をあらかじめ把握していた」と読み解くことができる、すなわち突発的な襲撃ではない、と推測することもできる、そのような史料である。また、この数日後に同じ使者が美濃の西尾氏に送られている。この距離の移動は現実的ではないため、どちらかの書状が日付に誤り、もしくは偽文書である可能性がある。
- ^ 『フロイス日本史』およびフロイスの書簡には「信長は酒は飲まない」と記されている事や、この逸話を記している『柏崎物語』では本能寺l変の1ヶ月前の出来事としており、柴田勝家が同席している描写があるのだが、当時、勝家は北陸前線で釘付けの状態であり、酒宴に参加できる状態ではなかった。こうした事などから、疑問視する声もある。(二木謙一など)
- ^ 前の話は『絵本太功記』などによる創作とされる。
- ^ 光秀の讒言であったとの説がある[190]。
- ^ この説には信長の大艦隊による海外進出計画も根拠として用いられる。
- ^ 内側の花が桔梗で明智光秀を表していると解釈して、光秀=天海説の根拠の一つとされることがある。ただし、桔梗紋の花弁と木瓜紋等に用いられる唐花とは花弁先の尖り具合が異なり、随身像の紋は桔梗紋というよりは木瓜紋の唐花に近い。
- ^ 天海が「ここを明智平と名付けよう」と言うと「どうしてですか?」と問われ、「明智の名前を残すのさ」と呟いたと日光の諸寺神社に伝承がある[202]。
- ^ 光秀の出身地である岐阜県可児市から天海の廟所がある日光の方向を向くと「後ろの正面」が日本で唯一明智光秀の肖像画を所蔵している本徳寺(元は現在の大阪府貝塚市鳥羽にあった海雲寺が、岸和田藩主岡部行隆の命で現地に移され、寺号も本徳寺と改められた。)がある大阪府岸和田市(貝塚市)になる[203]。
- ^ 「牧」という名の典拠は不明[208]。
- ^ 『明智軍記』では当初より光春の室としているが、『綿考輯録』では元は荒木村安の室で、荒木氏没落の際に離縁し、光春に再嫁したという。
- ^ 「愛宕百韻」でも名前が見られ、実在の人物であると言われる。
- ^ 光秀滅亡の際に死亡したとされているが、岐阜県山県市に伝わる伝承では荒深氏を称し、荒深小五郎と名を変え生き延びた光秀とともにこの地に土着したという。
- ^ 一説に織田信長の三女・秀子と同一人物とされる。
- ^ 『明智軍記』における光慶と同人とする説もある。また安国寺蔵「土岐系図」では、進士晴舎(同系図では光秀の実兄)の後身とする。
- ^ 経歴は『明智軍記』における十次郎と、明智光春のものを混同している。
- ^ 『明智軍記』における十次郎の幼名。
- ^ 濃姫、姉小路頼綱の室の生母。
- ^ 史料によれば土岐頼次の長男。頼次の玄孫である高家旗本の土岐頼泰が泥酔傷害事件を起こし改易配流処分し断絶。
- ^ 複数の主君に仕えたが、山崎の合戦では明智方の将として福島正則の隊に捕縛された記録が残る。
- ^ シェイクスピアの『マクベス』を翻案とし、本邦初の歌舞伎と新劇の合同公演にて上演。四幕七場。初演は1957年8月、東横ホール。出演は八世松本幸四郎一座と文学座。
- ^ 池波正太郎のオリジナル脚本による映画化で、『絵本太功記』や『明智軍記』の数々のエピソードを組み入れて構成した大作。
- ^ 大河ドラマで初めて主人公として描かれた作品。制作決定までには関連自治体などによる誘致運動が行われていた[216][217][218][219]。番組の時代考証を担当した小和田哲男は「(長谷川博己演じる光秀により)光秀像が一新された」と発言した[220]。
- ^ タイトルに『太閤記』となっているが、主人公は光秀。光秀と秀吉(間寛平)が幼馴染で、出世を重ねる秀吉に信長(オール巨人)が自らの地位を脅かされると危惧し、秀吉を夜襲する計画を立てる。最後は、事前にその計画を察知した光秀が秀吉を守るために信長を討つという新たな設定・展開に基づく喜劇。
出典
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