日置流 日置流の概要

日置流

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/18 03:07 UTC 版)

流祖:日置弾正政次(14401500?)

特徴

日本の弓術は、主に戦場における徒歩による弓射から発展した「歩射」と、馬上から射る弓射から発展した「騎射」、三十三間堂における通し矢の弓射から発展した「堂射」に分類することが出来る。今日的な分類では、武射と礼射に分ける考え方が主流となった。武射系と言えば日置流系統の射を指し(この場合は歩射・堂射が含まれている)、礼射系と言えば、小笠原流騎射・歩射から儀礼・儀式的なものを加味されつつ発展した射の系統を指す。900年近く続く小笠原流と比べると日置流の歴史は新しく500年程である。ただ、戦国時代の一時期、没落した小笠原家に変わり、日置吉田流一門が宮中で射礼を行った事もある。

なお、の引き方を儀礼的に行うことを一般に「礼射」というが、その際に小笠原流が「礼射」と称するところのものを日置流では「体配(たいはい)」または「体拝」と呼び、区別している。日置流の体配は、簡略な動作から生まれる武士らしい気合の充実が特徴である。

小笠原流が騎射を出発点とし、主に見た目の美しさや品位を重視するものであったのに対して、日置流は的中や矢の貫通力に重点を置いた実利的な歩兵用弓術であった。

現在では、同じ「弓道」という競技において、本来は目的の異なる別のものである「歩射」「騎射」「堂射」の違いを深く理解している射手は少数となってしまった。また、今日では日置流や小笠原流、日置流堂射流派の垣根が低くなってきている。しかし、発展過程がそれぞれ異なる、日置流(武射系)や小笠原流(礼射系)の文化的・歴史的な背景に敬意を払い、よく理解して弓道を学ぶことが望ましい。

日置流には、途切れたものや現存するものを含めると多くの派が存在するが、古来の「派」の位置付けは「教えを受けた~家・~師匠の流れを汲むもの」程度の意味合いであったと考えられ、伝承してきた教えの解釈等の違いから生ずる小さな違いはあるが、根幹となる教えはどの派でも同一である。

射法

日置弾正の射影

小笠原流歩射(一部を除外して)や流鏑馬に代表される騎射は、射の行程における打起し(弓矢を構えて頭の高さ程度に上げる事)と呼ばれる動作において身体の正面で弓を構える、いわゆる「正面打起し」をとるのに対し、日置流では弓を身体から見て左前方に構える「斜面打起し」をとる(本多流系統を除く)。しかし、視野を日本の外に向けると、弓は通常身体の斜め前方に構えて引き取る射法が基本である(洋弓や民族固有の弓を指す)。歩射(近的・遠的)は明治末期から大正期までは身体の斜め前方に構える遣り方が殆どを占めていたが、学校教育の中で文部省が率先して正面打起しを導入した経緯もあって、正面に弓を構えて打ち起こす射法が大流行した。この時期に流行した正面打ち起こしの射法の多くは本多流を縦糸としている。

弓の握り方には種々の遣り方があり、正面打起しであれ斜面打起しであれ重要な技術であることは言うまでもない。しかし、正面打起しにおいては一旦身体の正面上方に弓矢を上げて、頭上で左斜め前に弓を移行させながら弓の握りを整えなければならず、手の内(弓の握り方のこと)だけの視点で見れば非常に不利な遣り方である。日置流系統では手の内の整え方や働かせ方を特に重要視し、日置流諸派それぞれに独特の教えがあって、矢を放つ際に的中率・貫通率を高める等々実利を追求している。例えば、印西派ではこの握り方を「紅葉重ね」といい、古来から秘伝とされた。

なお、和弓では利き手にかかわらず、弓は左手で押し、弦は右手で引くのが通常である。これは、弓兵を集団で訓練し運用する事を容易にし、また規格を統一する事で弓具を大量生産する為の名残であると考えられる。

武士が戦場での実戦を出発点として磨き上げてきた弓術は、江戸時代に戦場を離れて武士の表芸として大成され(弓馬の道)、今日まで日置流として受け継がれている。

歴史

日置流は、「吾国弓術中興始祖也」(『本朝武芸小伝』)と称される日置弾正正次(生没年不詳)を祖とする。日置弾正は室町時代中期(15世紀後半)の大和の人といわれているが、その経歴については不明な点も多く、実在説、架空人物説、吉田流初代・吉田重賢と同一人物とする説などがある。神仏の化身とも称された。日置弾正の高弟の一人に吉田重賢がおり、以後主に吉田氏により継承されたので吉田流ともいうが、現在では一部を除き日置流と呼ぶ場合が多い。

左:日置弾正、右:吉田重賢

吉田重賢(太郎左衛門・上野介・出雲守など、号:道宝)(寛正4年(1463年) - 天文12年(1543年))は南近江戦国大名六角氏家臣で、川守城(現竜王町川守)を本拠としていたと伝わる。

吉田氏は主家の六角氏と同じ近江源氏佐々木氏)の一族で、源頼朝に従って活躍した佐々木定綱らの弟厳秀に始まる。近江吉田荘、または出雲吉田村を名字としたという。山陰の戦国大名尼子氏(佐々木氏支族)配下にも吉田氏がおり、同族ともいう。

江戸時代後期に編纂された寛政重修諸家譜の吉田氏系図(印西派宗家の旗本吉田氏が提出したもの)には、出自について「宇多源氏 佐々木庶流 今の呈譜に吉田厳秀より出るといふ。」とあり、重賢については「某(註:諱不明の意) 出雲守 今の呈譜、太郎左衛門下野守重政〔ママ〕につくる。佐々木家に属し、旗下七人のうちたり。日置弾正豊秀にしたがひて射芸を学ぶ。豊秀が門人多しといへども、出雲守ひとりその妙をうるがゆへに、豊秀家伝をつがしむ。これより世こぞりて吉田流と称す。子孫にいたるまで代々相伝てその術を教授す。法名道宝。」[1] と記されている。(豊秀は日置弾正の別名。重政は重賢の誤りか。重賢ら吉田氏の人物には別名が多く伝わっている。)

重賢の後は嫡子重政(助左衛門・出雲守、号 一鴎)(文明 16年(1484年) - 永禄12年(1569年))が継承した。天文年間頃、重政は主君の六角義賢から家伝の伝受を求められるが、これを拒み、一時越前の朝倉氏の下に身を寄せた。その後和解して近江に帰還し、義賢と養子縁組をして家伝を伝授した。

この騒動時に、家伝が絶えることを危惧した重政は、四男の重勝に家伝を授け京都に移らせたという。この重勝の系統は後に雪荷派と呼ばれた。重政の嫡子重高には義賢から返伝がなされ、家伝は再び吉田氏で継承された。この系統は出雲派と呼ばれる。

以後、出雲派からは分派が多く生じ、雪荷派分派の道雪派などともに九流十派などと呼ばれるほど多くの分派が生じた。またこの時期に石堂竹林坊如成を祖とする竹林派も成立した。如成は重政の弟子とも、日置弾正とは別の日置弥左衛門範次(伊賀の人と伝わる)を祖とする流れを汲むともいう。以降の日置流の歴史については下記の「諸派」を参照。

日置流の影響は非常に強く、以降の弓術はほとんど日置流に依ったと言っても過言ではない。また日置流後に成立した弓術流派も様々な名称のものがあったが、多くは日置流の系譜に連なるものである。江戸時代、各藩は弓術師範を召し抱えたが、それらのほとんどは日置流の射手であった。


  1. ^ 『寛政寛政重修諸家譜』第七巻、p.243
  2. ^ 石岡久夫「弓術流派の沿革と特徴」『現代弓道講座』第1巻pp.173-175.
  3. ^ 『三百藩家臣人名事典』福山藩吉田豊辰の項
  4. ^ 「弓術流派の沿革と特徴」p.200
  5. ^ 尾州竹林派の江戸に伝わった系統で、江戸竹林派とも呼ばれる。ただし紀州竹林派の影響も指摘されている。
  6. ^ 熊本の古武道―日置吉田流
  7. ^ 弓祭り―「お祭り弓」神事の紹介
  8. ^ 熊本の古武道―日置流道雪派
  9. ^ 尾州竹林流 徳風会
  10. ^ 熊本の古武道―日置流肥後竹林派


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