日中国交正常化 日中国交正常化の概要

日中国交正常化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/08/17 05:11 UTC 版)

経緯

民間貿易協定

1949年10月1日、中華人民共和国が建国された。この時点で日本が『中国を代表する政府』として承認していたのは中華民国政府であり、これ以降も日本と中華人民共和国との交流は細々とした民間交流に過ぎなかった。

1950年10月1日には日中友好協会が設立されたものの、日本では、同年勃発した朝鮮戦争の影響もあって反共産主義の色彩が強くなり、12月6日には対中輸出を全面禁止するなど中華人民共和国を警戒する政策がとられていった。

さらに1952年4月、日中貿易促進会議を設立していた高良とみ帆足計、宮腰喜助の各国会議員が、政府方針に反しソ連から直接北京を訪問。第一次日中民間貿易協定に調印し、国内に大きな議論を巻き起こした。

1953年7月に朝鮮戦争が休戦に至ると、「日中貿易促進に関する決議」が衆参両院で採択された。そして池田正之輔を団長とする日中貿易促進議員連盟代表団が訪中、第二次日中民間貿易協定を結び、民間貿易が活発化した。

さらに1955年4月になると、バンドン会議において高碕達之助と対談した周恩来総理は、平和共存五原則の基礎の上に中華人民共和国が日本との国交正常化推進を希望すると表明した。依然として日本国内の反対論は根強かったものの、同年11月に片山哲元総理が訪中するなど交渉が進みかけたかに見えた。

ところが1957年2月に総理大臣に就任した岸信介は、中華人民共和国政府との関係構築を躊躇し日中民間貿易協定を無視した。このため中華人民共和国サイドは態度を硬化。周恩来が「政治三原則」(中国人民を敵視しない、2つの中国を作らない、両国の関係正常化を妨害しない)を表明し、事態の収拾を図ろうとした。しかし1958年5月2日に長崎国旗事件(長崎で暴徒が中国国旗を引きずり降ろした事件)が起こると、一転して日本政府の対応を強く批判。日中貿易が全面中断され、中国歌舞団日本公演も中止された。

LT貿易と覚書貿易

その後日本社会党の訪中や石橋湛山元総理による「政経不可分の原則」の確認、松村謙三古井喜実、高碕達之助、等の貿易再開への努力ののち、中国から「貿易三原則」を引き出すことに成功すると、1962年10月28日に高碕達之助通産大臣が岡崎嘉平太(全日空社長)などの企業トップとともに訪中し「日中総合貿易に関する覚書」を調印。経済交流が再開された(LT貿易。中国側代表廖承志、日本側代表高碕達之助の頭文字からそのように呼ばれた)。

さらに1964年4月19日、当時LT貿易を扱っていた高碕達之助事務所と廖承志事務所が日中双方の新聞記者交換と、貿易連絡所の相互設置に関する事項を取り決めた(代表者は、松村謙三と廖承志)。同年9月29日、7人の中国人記者が東京に、9人の日本人記者が北京にそれぞれ派遣され、日中両国の常駐記者の交換が始まった(日中記者交換協定)。

しかし、1965年総理大臣に就任した佐藤栄作は中国を「アジアの脅威」と批判。中国側は態度を硬化し、再び交流に齟齬をきたした。

1966年3月には日本共産党宮本顕治が訪中したが、毛沢東と路線対立し帰国(日中共産党の関係を参照)。この直後、中国では文化大革命が始まり、やがて党を巻き込んで国内が混乱し、中国の外交活動も停滞した。文化大革命の当初はその正確な状況が日本に伝えられず、当時の学生運動の若者からは一部支持されて、好意的な論調を展開するメディアも存在したが、1969年の中国共産党九全大会で党の立て直しが図られて以降鎮静化した。しかし政府間の関係は冷え切ったままであった。そのような中でも1968年3月に古井喜実が訪中し、覚書貿易会談コミュニケを調印。覚書貿易(MT貿易)が開始された。彼は以後毎年訪中し、その継続に努めた。

米中接近

中華人民共和国が1949年10月に建国されてから、東西冷戦の時代に入ったが、50年代にはイギリスが、60年代にはフランスが承認して国交を樹立していた。折しも1962年頃から中ソ対立が激しくなり、一方で米ソ協調路線となり、フランスの独自外交とアメリカのベトナム戦争への介入、中国の文化大革命など、それまでの東西対立とは違って60年代後半は国際情勢が複雑で多極化していた。1969年春に中ソ間で国境線を巡る武力衝突事件が起きて、中国がソ連を主な敵とする外交路線を取り、また混乱していた国内の文化大革命が落ち着き始めてそれまでの林彪らの文革派から周恩来が実権を回復していた頃から、積極的な外交を展開するようになった。1970年10月にカナダ、12月にイタリアと国交を結び、この頃からアメリカへの働きかけが水面下で始まっていた。

1971年3月に名古屋市で開催された世界卓球選手権に文革後初めて選手団を送り、当時のアメリカ選手団を大会直後に中国に招待するピンポン外交が展開されて後に、7月にヘンリー・キッシンジャー米国大統領補佐官(当時。後に国務長官)が北京を秘かに訪問し、中華人民共和国成立後初めて米中政府間協議を極秘に行った。そして7月15日に、ニクソン大統領が翌年中華人民共和国を訪問することを突然発表して、世界をあっと驚かせた(第1次ニクソン・ショック)。このニクソン大統領の中国訪問は翌1972年2月に行われた。

この当時アメリカにとっては中国をパートナーとした新しい東アジア秩序の形成を模索するもので、また膠着状態にあった北ベトナムとの和平交渉を促進することも目的であった。1965年から武力介入して泥沼化したベトナム戦争を抱えて複雑な状況の中で米国としても主導権を持って外交を積極的に推し進めるためには中華人民共和国を承認することが必要であることをニクソン自身は大統領になる前から考えていた。また前年に国際連合での中華人民共和国の加盟をめぐって賛成票が多数となり(米国の重要事項案も可決されて三分の二以上の賛成票ではないので加盟は実現しなかった)、この年秋の国連加盟が確実視されていた。また大統領選挙で公約したベトナム戦争からの名誉ある撤退を進めるためにも北ベトナムを支援する中国との交渉が必要なことであると認識していたことで、ニクソンの突然の中国訪問が実現した。

このニクソン訪中の時に周恩来との数回の会談の中で日米安保条約は対中国のものでなく、日本の軍事力を抑えて日本の軍事大国化を防ぐ目的のものであることをキッシンジャーが説明して周恩来も理解を示した。このことは後に日中国交正常化の障害を1つ取り除いていたことになった

佐藤内閣

この米中間の対話開始と急速な接近で、当時先進国で中国との国交が正常化していない国は日本と西独だけで他の英仏伊加がすでに承認していたことは、日本外交が取り残されているとの認識が一般にも広がっていった。一方当時の自民党内ではまだ東西冷戦の思考から抜け出せず、また中華民国(台湾)を支持する勢力が多数であり(石原慎太郎浜田幸一なども親台湾派であった)、様々な権益が絡んでいた。また当然のことながら、中華人民共和国、中華民国の両政府はともに、他国による中国の二重承認を認めないために、佐藤首相の外交は60年代の冷戦思考そのままのものであった。1971年3月に訪中した藤山愛一郎氏は周恩来首相の言葉から米国が先行して米中対話を行うことを危惧する旨を外務省に伝えているし、福田赳夫氏は「中国問題では米国が日本に相談に来ている」と語っていた[1]。それが「ある日の朝、目を覚ませばアメリカと中国とが手を握っていた」[2]ことで右往左往することになった。

71年秋に国連総会で中華人民共和国の加盟を審議した際には、日米とも加盟そのものには反対せず、しかし台湾を排除することは重要事項であるとして前年までの方向と全く違う考え方の「逆重要事項案[3]」と中国・台湾両国とも議席を認める「複合二重代表制決議案[4]」の2つの案を共同提案国として提出したが、まず逆重要事項案が否決[5]されて、複合二重代表制決議案は自然消滅となり、中華人民共和国の加盟と中華民国の追放を求めたアルバニア案の採決[6]で日米とも反対したが結局賛成が大きく上回り、加盟と追放が決定された[7]。アメリカは反対を唱えながらもこの時すでにキッシンジャーが訪中して翌年のニクソン訪問の実務的な協議をしており、日本はただ反対するだけで何の対応も出来ない状況に置かれて佐藤外交の無策ぶりが目立った。中国の国連加盟が実現して台湾が国連を脱退した頃に、佐藤内閣でこの年7月まで官房長官を務め、当時自民党幹事長であった保利茂は東京都の美濃部都知事が訪中した際に極秘に周恩来首相宛ての親書[8]を託したが、中国側の対応は冷ややかであった[9][10]。中国側は佐藤内閣には何ら期待しておらず、もはや次の内閣が日中間の正常化をめざすことは誰の目にも明らかになった。

田中内閣

1972年7月5日に自民党総裁選挙で総裁となり、7月7日に内閣総理大臣に就任した田中角栄は就任前から日中関係の打開に積極的な姿勢で、就任した7月7日の首相談話で「日中国交正常化を急ぐ」旨を語り、すぐに異例なことに直後の7月9日に周恩来は「歓迎する」旨を明らかにした。7月16日に社会党の佐々木元委員長が訪中した際には「日本の田中首相の訪中を歓迎する」メッセージを示し、そして7月25日に公明党の竹入委員長が訪中[11]して27日から3日間延べ10時間に渡って周恩来首相と会談して、中国の考え方の内容が示された[12]。帰国後の8月4日に田中首相と大平外相にその内容を書いたメモを手渡している。この竹入メモには「国交回復三原則を十分理解する」「唯一合法政府として認める」「共同声明で戦争状態を終結する」「戦時賠償を放棄する」[13][14]「平和五原則に同意する」「覇権主義に反対する」「唯一合法政府として認めるならば復交3原則の台湾に関する部分は秘してもいい」「日米安保条約を容認する」等の内容で、田中首相はこれを読んで北京に赴くことを決意した[15][16][17]

この時から中国側も田中内閣での日中国交正常化に本腰を入れ、当時上海舞劇団団長として来日していた孫平化中日友好協会副秘書長と肖向前中日備忘録貿易弁事処東京連絡処首席代表の2人が8月15日に帝国ホテルで田中首相と会談する場が設けられて、その場で田中首相は自身の訪中の意向を初めて公式に伝え[18]、中国側から正式に田中首相を本国へ招待することが伝えられた[19]。ここから、日本国と中華人民共和国との交渉がスタートした。

日中国交正常化交渉

ここで田中首相は、アメリカよりも早く日中国交回復を果たすことを決断した。

このとき日本はニクソン訪中の後に日中関係の正常化へ動いたにもかかわらず、アメリカよりも先に中国を承認したのは日本の戦後政治史において例外的なことではある[20]が、ただし田中首相は就任後7月19日にアメリカのインガソル駐日大使にその意思を伝え、8月31日と9月1日にハワイで行ったニクソン大統領との会談でも確認しており、訪中前にアメリカにとってはすでに織り込み済みの話ではあった[21]

1972年9月25日、田中首相は秋晴れの北京空港に降り立ち、自ら中華人民共和国を訪問した。ニクソン訪中から7ヶ月後であった。同日午後から第1回会談が行われた。出席者は日本側が、田中首相、大平外相、二階堂官房長官、高島条約局長、橋本中国課長、栗山条約課長など8名。中国側は、周恩来首相、姫鵬飛外相、廖承志会長、韓念龍外交部副部長、張香山顧問など8名。この席でまず共同声明の形で国交正常化を行うこと、中国側が日米安保条体制を是認すること、日本側が台湾との日華平和条約を終了させることが確認された。夜の晩餐会では、周恩来首相は「双方が努力し、十分に話し合い、小異を残して大同を求めること[22]で中日国交正常化は必ず実現できるものと確信します。」と挨拶して、一方田中首相は「過去に中国国民に多大なご迷惑をおかけしたことを深く反省します[23]」と挨拶した。

26日の午前中の外相会談で「戦争状態の終結[24]」「国交回復三原則」「賠償請求の放棄」「戦争への反省」の4点に関する基本的な見解を提示した[25]。午後の首脳会談で周恩来首相から前夜での「御迷惑」発言と午前中の高島条約局長の「日華平和条約との整合性」発言で厳しく指摘を受けた。これを受けて夕方に日本側からの提案で急遽外相会談が開かれ、台湾は中国の一部とする中国側に対して「不可分の一部であることを再確認する」「この立場を日本政府は十分に理解し、ポツダム宣言に基づく立場を堅持する」旨の案を提示した。

27日の午前中は万里の長城などへ見学に行き、夕方から首脳会談を行った。前日の厳しいやり取りから一転して穏やかな雰囲気で始まった。全般的な外交問題や政策についてが話題となり、中ソ間のことも話題となった。また尖閣列島について田中首相から出されたが周首相から「今、話し合っても相互に利益にはならない」として、それ以前のまだ正常化に向けて残っている案件の処理を急ぐこととなった。夜に田中首相・大平外相・二階堂長官の3氏は毛沢東の私邸を訪ねて、この時に毛主席から「もうケンカは済みましたか」という言葉がかけられた。この日の深夜に外相会談が開かれて、戦争責任について「深く反省の意を表する」という表現で、戦争状態の終結については「不正常な状態の終結」という表現にする案でまとまった。

28日の午前中は故宮博物館を見学して午後の首脳会談で、大平外相から日本と台湾の関係について今回の共同声明が発表される翌日に終了すること、しかし民間貿易などの関係は継続される旨の発言があり、周首相は黙認する姿勢を示した。

そして9月29日に日本国総理大臣田中角栄外務大臣大平正芳が、一方中華人民共和国国務院総理周恩来中華人民共和国外交部部長:姫鵬飛が「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)に署名し、ここに日中国交正常化が成立した。日本が第2次大戦後、戦後処理に関する国際文書の中で歴史認識を示し、戦争責任を認めたのはこれが初めてのことであった。[26]

なお、当時はまだ戦後30年も経過しておらず、交渉には日中戦争の傷が影を落としていたが、周恩来は「日本人民と中国人民はともに日本の軍国主義の被害者である」として、「日本軍国主義」と「日本人民」を分断するロジックによって「未来志向」のポリティクスを提唱し、共同声明を実現させた。この論理によれば、抗日民族統一戦線の戦いをどれほど賛美し、日本の軍国主義の侵略をどれほど非難しても、それは日本との外交関係にいささかもネガティヴな影響を及ぼすものではないとされる。この「未来志向」の政治的合意は現在にも引き継がれている[27]

それから4年後の1978年8月、福田赳夫政権の下で日中平和友好条約が調印された。

参考文献

  • 倪志敏「田中内閣における日中国交正常化と大平正芳(その1・その2・その3・その4)」『龍谷大学経済学論集』第45巻第5号/第46巻第5号/第47巻第3号/第48巻第3・4号(2006年3月・2007年3月・2007年12月・2009年3月)
近年公開された日中双方の外交記録及びその他の第一次資料(『森田一秘書官訪中日記』等)を援用すると同時に、日中双方の当事者及び関係者への貴重なインタビュー資料も多数利用している[28]。日中国交正常化のプロセスを跡づけ、北京交渉の過程に考察を加えている。
  • 鹿雪瑩 『古井喜実と中国 日中国交正常化への道』(思文閣出版、2011年)ISBN9784784215904
  • 西原哲也『覚醒中国 秘められた日本企業史』(社会評論社、2012年)
  • 中野士朗『田中政権・886日』(行政問題研究所、1982年)
  • 安藤俊裕『政客列伝~保利茂~』(日本経済新聞出版)
  • 鬼頭春樹『国交正常化交渉~北京の5日間~』 (NHK出版 2012年)
  • 石井明・朱建栄・添谷芳秀・林暁光『日中国交正常化・日中平和友好条約締結交渉』 (岩波書店 2003年)

  1. ^ 「国交正常化交渉~北京の5日間~」1972年北京の5日間交渉内容 105P 鬼頭春樹著
  2. ^ これは当時まだニクソン訪問が実現する前に、西欧各国が中国を承認する動きが出てきた頃に、いずれアメリカも承認せざるを得ないのではとの声から、日本が世界から取り残されるジョークとして週刊誌などで述べられていた。しかし由来はもっと古く、1957年から1963年まで駐米大使を務めた朝海浩一郎氏が、「日本にとって最大の外交的悪夢は、日本の知らない間に頭越しに米中両国が手を握る状態が訪れることだ。」と語ったことである。ニクソンショックはまさにこのジョークや悪夢が現実に起こったこととなった。
  3. ^ 前年まで中国の加盟は重要事項で三分の二の賛成が必要という案(1960年頃に中国加盟案を審議する際にアメリカが反対するための方策として考えられたものであった)をずっと提出していたが、この年は台湾の追放が重要事項で三分の二が必要という案に変った。
  4. ^ 当初は中国も台湾も議席を認めたうえで、国連安保理の常任理事国をそれまでの台湾を継続させる案であったが、やがて中国支持派の増加で結局中国が安保理の常任理事国になることを認めたうえで、台湾は総会での議席を認める内容に変更した。
  5. ^ 賛成55、反対59、棄権15、欠席2。「ニクソン訪中と冷戦構造」第5章 米中接近と日本 139P 増田弘 編著 慶応義塾大学出版会 2006年6月発行
  6. ^ 賛成76、反対35、棄権17、欠席3。「ニクソン訪中と冷戦構造」第5章 米中接近と日本 139P
  7. ^ この時の国連総会の質疑で反対の論陣を張ったアメリカ国連大使がジョージ・ブッシュで、彼は皮肉なことに後に北京の米国連絡事務所(実質的には米国大使館)の所長(実質は全権大使)を務め、その後レーガン政権で副大統領、1989年に第41代大統領となった。
  8. ^ この親書は後に「保利書簡」と言われている。1971年10月25日付けで1.中国は1つである、2.中華人民共和国が中国を代表する政府である、3.台湾は中国国民の領土であるとして保利氏自身が訪中して両国政府間の話し合いを進めたい旨の内容であった。「政客列伝」~保利茂~ 283~284P 安藤俊裕著 日本経済新聞出版
  9. ^ これは直後に明らかになり、キッシンジャーならぬミノベンジャーだと言われた。しかしタイミングが国連総会で日本が逆重要事項案に賛成し、中国加盟・台湾追放のアルバニア案に反対していた時であったため、周恩来首相から「まやかしで信用できない」と一蹴されている。
  10. ^ この時に結果は不首尾であったが保利氏がそれまでの台湾支持の立場から中国との国交正常化へ立場が変ったことは、自民党内での親台湾派と親中国派との力関係に変化が生じることとなった。「政客列伝」~保利茂~ 283~284P 安藤俊裕著 日本経済新聞出版
  11. ^ 竹入委員長の訪中は政府の特使でもなければ、田中首相の意を受けたメッセンジャーでもなかった。紹介状も田中首相は書かなかった。竹入氏が後に「特使もどき」と自ら述べているが、実際には中国側が田中首相の「伝言」を持ってきたと勘違いしていたところを竹入氏がうまく橋渡し役としての役割を果たし、田中首相への伝言をうまくまとめたものであったと言える。
  12. ^ 後に竹入は交渉のやり取りを詳細に記したメモと会談記録を作成して、このメモは後に竹入メモと呼ばれている。
  13. ^ 当時の外務省条約局長栗山尚一条約課長は、後にこの対日賠償請求を放棄する意向を示さなかったら、中国との国交正常化は国家財政上不可能であった、と述べている。「外交証言録 沖縄返還・日中国交正常化・日米密約」栗山尚一著 参照 
  14. ^ 竹入委員長は実際に周恩来から賠償請求を放棄すると聞いて体が震えたという。500億ドル程度は支払わなけらばならないと思っていたからだ。中国側には賠償問題を言い出せば自民党内が纏まらなくなることも見抜いていた。「日中国交正常化・日中平和友好条約締結交渉」201~202P 証言 歴史の歯車が回った 流れを決めた周首相の判断  竹入義勝
  15. ^ 「国交正常化交渉~北京の5日間~」第2章 竹入メモ 50~53P 鬼頭春樹著 2012年10月発行 NHK出版
  16. ^ この時に密かに竹入と周恩来は、「この内容で訪中することに決したならば、合図として近く来日を予定している廖承志訪日団の来日を延期することを発表すること。これで田中訪中を了解したと受け取ります。」と打ち合わせしていた。翌日の新聞に中国代表団の訪日延期が掲載されて、これが中国当局には田中訪中のシグナルであると了解していた。「国交正常化交渉~北京の5日間~」第2章 竹入メモ 52P 鬼頭春樹著 
  17. ^ この廖承志訪日団の延期を本来の招待者であった佐々木社会党元委員長に事前連絡することなく竹入委員長が記者会見ですぐに発表して、佐々木氏が怒鳴り込んできて、平謝りする一幕があった。「日中国交正常化・日中平和友好条約締結交渉」206~207P 証言 歴史の歯車が回った 流れを決めた周首相の判断  竹入義勝
  18. ^ 「国交正常化交渉~北京の5日間~」第2章 竹入メモ 74P 鬼頭春樹著
  19. ^ 「田中政権・886日」89~107P 中野士朗 著 1982年12月発行 行政問題研究所
  20. ^ アメリカの外交戦略の先手を取ったというのは皮相的な見方で、アメリカには台湾に米軍がいて、国交回復の足かせがあったが、日本には経済関係の問題があっただけで、この時点ではすでに他の先進国は承認していた。
  21. ^ また一部に先に承認したことをキッシンジャーが怒ったという話があるが、皮肉にも米中関係の正常化が日中関係の正常化を促進したことは明らかであり、彼の日米安保条約の解釈を周恩来が理解したことも大きく貢献している。またこれより3ヶ月前の6月にキッシンジャーが訪中して(この時は東京から北京に飛んでいる)、周恩来が日中正常化に反対かと尋ねた時に、キッシンジャーは反対ではなくむしろ促進をと思っていると語っている。しかし彼はもともと日本嫌いで不信感を持っている。軍事的に独立した日本を全く信用せず、軍事力を持つと簡単に1930年代の政策を繰り返すと考えている。皮肉にもこの警戒心は周恩来も共有していることで、怒ったかどうかは全く問題にする話ではない。
  22. ^ 「求道存異」。日本では小異を捨てて大同につく、という表現になるが、この場合は「小異を残して大同につく」とさらに「大同を求め、小異を克服する」ことにつながることを意味して、周恩来首相が初日の首脳会談で「求道存異」を交渉の基本方針として提起して、この日中首脳会談のキーワードとなった。「国交正常化交渉~北京の5日間~」 114~115p 鬼頭春樹著
  23. ^ この「ご迷惑」を通訳が「添了麻煩」と訳して中国側が猛反発した。「添了麻煩」とは日本語で「ゴメン」、英語で「ソーリー」にあたる軽い表現で小さなことでしか使われない言葉であった。
  24. ^ この当時日本と中華人民共和国との間には平和条約が結ばれず、法的には戦争状態が続いていることとなった。しかし台湾の中華民国とはすでに日華平和条約を結び、戦争状態の終結と国家賠償の請求を放棄することで決着がついていた。この時点で戦争が終結したと謳えばそれまでの日華平和条約の存在自体を過去に遡って否定するという論理的な袋小路に陥るので避けたいとの考えが外務省にあり、このことがこの26日に日中間での緊張したやり取りになった。結果的には「戦争状態」でなく「不正常な状態」が終結したことで決着し、最終日の声明によって日華平和条約はこの日に終了したことになった。
  25. ^ この席で高島条約局長が日華平和条約との関係から戦争終結と賠償放棄についての整合性に言及して中国側から反発を受けた。
  26. ^ 9月25日から29日までの内容については全て以下のページを参照「国交正常化交渉~北京の5日間~」1972年北京の5日間交渉内容 260~265P 鬼頭春樹著
  27. ^ <中国首相訪日>温首相、「未来志向、それは憎しみを後代に伝えないこと」と強調」 『Record China』、2010年5月31日。
  28. ^ 国交正常化当時の中国外交部アジア局長の陸維釗、中日備忘録貿易弁事所東京連絡所首席代表の肖向前、日本特派員の王泰平、会談の通訳、中日友好協会副会長の王効賢、日本側では、田川誠一加藤紘一森田一〔大平正芳の娘婿、秘書官、元運輸大臣〕、真鍋賢二〔大平正芳代議士の秘書官、元環境庁長官〕、中江要介〔元アジア局長、中国大使〕、橋本恕〔元アジア局長、中国大使〕、佐藤嘉恭〔元大平内閣首相補佐官、中国大使〕、谷野作太郎〔元中国課長、中国大使〕等。


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