日中国交正常化 日中国交正常化の概要

日中国交正常化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/01/19 14:52 UTC 版)

経緯

二つの中国

1945年の第二次大戦の終了で日本軍が降伏して、その後国共内戦が始まり、1949年10月1日、中華人民共和国が建国された。大陸では中国共産党が勝利して、それまで少なくとも中国を代表していた中華民国政府・中国国民党は台湾を支配するのみとなった。ここに中国を代表すると主張する政府が北京と台北で対峙することになった結果、世界各国は中国を承認するに際して、どちらの政府を中国を代表する政府と見なすかという中国代表権問題に直面することとなった[1]。この時は日本はまだ戦後4年でGHQの統治下に置かれ、外交権の無い時期であった。西側でもイギリスは1950年1月に中華人民共和国を承認(台湾との領事関係は維持)して、中国代表権問題については最初からアメリカとは違うスタンスを取った。[注釈 1]

その翌年1950年に、朝鮮戦争が始まり、1952年4月に日本が戦後の独立を果たした頃には、すでに朝鮮半島では国連軍の主力である米軍と中国の人民解放軍が砲火を交えて東アジアは緊張と混乱の中であった。この東西対立の激しい時代に入って日本はアメリカの保護の下に西側陣営に属し、国内に対立を残しながら台湾の中華民国政府を支持する立場に立ち、北京の中華人民共和国とは国交断絶の状態が結局1972年まで続くことになった。その間は民間での経済交流を促進する動きのみが続いた。

日中民間貿易協定

中華人民共和国が建国されて以降、日本と中華人民共和国との交流は細々とした民間交流に過ぎなかった。

1950年10月1日には日中友好協会が設立されたものの、同年勃発した朝鮮戦争の影響もあって12月6日には対中輸出を全面禁止するなど中華人民共和国を警戒する政策がとられていった。さらに1952年4月、日中貿易促進会議を設立していた高良とみ帆足計、宮腰喜助の各国会議員が、政府方針に反しソ連から直接北京を訪問。6月に第一次日中民間貿易協定に調印し、国内に大きな議論を巻き起こした。この時期は台湾と日華平和条約を結んだ頃でもあった。1953年7月に朝鮮戦争が休戦に至ると、「日中貿易促進に関する決議」が衆参両院で採択された。そして池田正之輔を団長とする日中貿易促進議員連盟代表団が訪中、10月に第二次日中民間貿易協定を結び、民間貿易が活発化した。

吉田内閣と日華平和条約

吉田茂首相は、1951年9月のサンフランシスコ講和会議の前は国会答弁でも台北の中華民国政府(国府)を承認するとは明言しなかった[2]。西側でもイギリスが北京を承認しつつ台湾とも関係を保っていることに注目して、国府を承認するにしても上海に貿易事務所を開設することに言及していた[3]。むしろ中国代表権問題が解決するまで承認を先延ばしすることも考えていたが、アメリカのダレス国務省顧問に一蹴されて[注釈 2]、結果として国府承認に踏み切らざるを得なかった。[注釈 3]そして講和条約が発効された4月28日に日華平和条約が締結されて、日本と中華民国との戦争状態は終結した。これが、20年後1972年の日本と中国との国交正常化で最も難しい問題となった。

鳩山内閣と政経分離

吉田茂の首相辞任後に鳩山一郎が首相に就任して、対共産圏との関係改善を目指して、特に日ソの国交回復に尽力した。そして対中国に関しても政経分離を原則に、外交関係はなくても経済関係の拡大を望んで、特に石橋湛山通産相は日中貿易拡大を望んでいた。このような鳩山政権の動きに中国は注目していた。1955年4月になると、バンドン会議において高碕達之助と対談した周恩来総理は、平和共存五原則の基礎の上に中華人民共和国が日本との国交正常化推進を希望すると表明した。同年5月には日本国際貿易促進協会、日中貿易促進議員連盟と中華人民共和国日本訪問貿易代表団との間で第三次日中民間貿易協定を結んだ。同年12月に中国政府内に「対日工作委員会」が設けられて郭沫若主任、廖承志副主任で対日政策の策定、執行に関する責任部局が出来た[4]。翌1956年9月には、日本人の戦犯およそ1000人が釈放されて11年ぶりに故国に戻ってきた。

こうした動きには中国側に民間交流を積み上げることによって政府レベルの関係強化をめざす狙いがあった[注釈 4]。第三次貿易協定の交渉で外交官待遇の通商代表部の設置を求めてきたことで、あくまで政経分離の方針の日本側とのズレが生じていた。しかし日本側はあくまでアメリカが黙認する範囲内での民間交流の拡大であり、鳩山及びその後の石橋政権での対中政策は、東アジアの冷戦の枠組みからはみ出るものではなかった。

岸内閣とアジア外交

1957年2月に岸信介が首相に就任した。彼は冷戦の枠組みの中で日米安保条約の改定でより自主的な外交をめざし、特に東アジアに対しては賠償を含む戦後処理を進めて、アジア諸国との関係改善を計ろうとした。これはアメリカに対して対等の日本の自主性を高める意図があった。そして戦後初めて現職首相が東南アジアを歴訪して、その帰途に台湾に立ち寄り、蒋介石総統と会談して台湾との関係を強化した。岸政権は必ずしも中国との経済関係の進展に消極的であったわけではない[5]とされている。そして1958年3月に第四次日中民間貿易協定が結ばれた。その時の覚書に通商代表部の設置や外交特権を与え、国旗掲揚も認めるなどの内容が盛り込まれていて、このことで日本政府に台湾とアメリカから反発が出て、台湾では予定していた日華通商会談を中止して日本製品の買い付け禁止の処置も出され、岸政権は結局民間サイドでの約束であったので外交特権も国旗掲揚も認めない方針を出し、今度は中国側が態度を硬化。険悪なムードが漂う中で1958年5月2日に長崎国旗事件が起きた[注釈 5]。これに中国の陳毅外相が日本政府の対応を強く批判して、5月10日に全ての日中経済文化交流を中止すると宣言したのである[6]。日中間の貿易が全面中断されて、ここまで積み上げてきた民間交流がここで頓挫していった。

そしてこの年の夏に周恩来首相が「政治三原則」(中国人民を敵視しない、2つの中国を作らない、両国の関係正常化を妨害しない)を表明し、日中間はしばらく膠着状態となった。中国は岸首相が台湾の蒋介石の大陸反攻に一定の支持をしたことを重く受け止めていた。それまでの日本側の「政経分離の方針」は中国側の「政経不可分の原則」と相対して国レベルでは断絶であった。1959年に訪中した石橋湛山前首相と周恩来首相との会談で「政経不可分の原則」の確認がなされた。 しかし民間レベルでの接触は続き、友好関係にある団体や個人との交流は続けられた。これらはその後「友好貿易」として経済取引きが継続して、やがて「覚書による貿易」との2つのルートで日中間の経済関係は60年代も続くのである。

池田内閣と二つの中国政策

1960年の日米安保条約改定の混乱の中で岸首相が辞任して、池田勇人が首相に就任した。池田首相は日中関係改善論者であり、日中貿易促進を唱えていた[7]。しかし困難な問題があった。現実は「二つの中国」があり、どちらの国も「一つの中国」を唱えており、片方と結ぶことはもう片方と断絶することになる。そして国連での常任理事国である議席の中国代表権をどう解決するかであった。池田首相は国連中心の外交方針で、中国の国家承認と国連における中国代表権問題を密接に関連づけるようになっていた。そして、まず国連での中国代表権問題の進展を図り、連動して中国政府の承認をめざすというものであった。これは中国代表権の範囲を中国本土(大陸)に限定して、台湾の国府の議席を維持したまま中国の国連加盟を推進して最終的には国交樹立を目指すもので、あくまで「二つの中国」が前提であった。そして北京も台北も「一つの中国」を原則としており、多くの国が「二つの中国」という現実への対応に苦慮していた[8]

池田首相は当面中華民国を支持しつつも、実際に支配する地域(台湾)にその地位を限定することで国府の国際法的地位を確定し、中華人民共和国の国連加盟が実現しても国府の議席は守られると考えていた。そのためには国府を説得しなければならず、それが可能なのはアメリカのみであると考えて、1961年6月の訪米時に当時のケネディ大統領にこの問題の重要性に言及したが、ケネディの反応は中国の国連加盟に対する国内の抵抗が大きいとするものであった。この問題はこの時で終わってしまった[注釈 6]

そして1964年1月に突然フランスのドゴール大統領が中国との国交正常化に踏み切って世界を驚かせたが、フランスは中国との国交正常化をしても国府が自ら断交措置を取らない限り関係を維持する意向を示していた。この時に国府が「二つの中国」政策を認めるのか、日本も注目して、しかも1月30日の衆議院予算委員会で池田首相は、中国の国連加盟が実現すれば日本も中国政府を承認したいと述べた。しかし、翌月に国府は対仏断交に踏み切り、池田内閣で検討していた「二つの中国」政策は挫折した[9]

友好貿易とLT貿易

1960年夏の池田内閣の誕生と合わせるかのように、中国側から対日貿易に対して積極的なアプローチがなされてきた。そして松村謙三古井喜実、高碕達之助、等の貿易再開への努力ののち、日中貿易促進会の役員と会談した際に周恩来首相から「貿易三原則」が提示されて、ここからいわゆる「友好貿易」が始まった。これはあくまで民間ベースのものであったが、「政治三原則」「貿易三原則」「政経不可分の原則」を遵守することが規定された政治色の強い側面があり、これとは別に政府保証も絡めた新しい方式での貿易を進めるために1962年10月28日に高碕達之助通産大臣が岡崎嘉平太(全日空社長)などの企業トップとともに訪中し「日中総合貿易に関する覚書」が交わされて、ここに日中間の経済交流が再開された(LT貿易。中国側代表廖承志、日本側代表高碕達之助の頭文字からそのように呼ばれた)。

さらに1964年4月19日、当時LT貿易を扱っていた高碕達之助事務所と廖承志事務所が日中双方の新聞記者交換と、貿易連絡所の相互設置に関する事項を取り決めた(代表者は、松村謙三と廖承志)。同年9月29日、7人の中国人記者が東京に、9人の日本人記者が北京にそれぞれ派遣され、日中両国の常駐記者の交換が始まった(日中記者交換協定)。

文革と覚書貿易

1964年秋に池田首相が病気のため辞任して佐藤栄作が首相に就任した。佐藤内閣は歴代最長の7年8ヶ月続くが、その在任期間はベトナム戦争、沖縄返還、日米安保延長があり、そして中国では原爆保有、文化大革命があって国内が混乱し、日中間には大きな溝が生まれて、再び交流に齟齬をきたした。

1966年3月には日本共産党宮本顕治が訪中したが、毛沢東と路線対立し帰国(日中共産党の関係を参照)。この直後、中国では文化大革命が始まり、やがて党を巻き込んで国内が混乱し、中国の外交活動も停滞した。文化大革命の当初はその正確な状況が日本に伝えられず、当時の学生運動の若者からは一部支持されて、好意的な論調を展開するメディアも存在したが、1969年の中国共産党九全大会で党の立て直しが図られて以降鎮静化した。しかし政府間の関係は冷え切ったままであった。そのような中でも1968年3月に古井喜実が訪中し、覚書貿易会談コミュニケを調印。覚書貿易[注釈 7]が開始された。彼は以後毎年訪中し、その継続に努めた。

米中接近

中華人民共和国が1949年10月に建国されてから、東西冷戦の時代に入ったが、50年代にはイギリスが、60年代にはフランスが承認して国交を樹立していた。折しも1962年頃から中ソ対立が激しくなり、一方で米ソ協調路線となり、フランスの独自外交とアメリカのベトナム戦争への介入、中国の文化大革命など、それまでの東西対立とは違って60年代後半は国際情勢が複雑で多極化していた。1969年春に中ソ間で国境線を巡る武力衝突事件が起きて、中国がソ連を主な敵とする外交路線を取り、また混乱していた国内の文化大革命が落ち着き始めてそれまでの林彪らの文革派から周恩来が実権を回復していた頃から、積極的な外交を展開するようになった。1970年10月にカナダ、12月にイタリアと国交を結び、この頃からアメリカへの働きかけが水面下で始まっていた。

1971年3月に名古屋市で開催された世界卓球選手権に文革後初めて選手団を送り、当時のアメリカ選手団を大会直後に中国に招待するピンポン外交が展開されて後に、7月にヘンリー・キッシンジャー米国大統領補佐官(当時。後に国務長官)が北京を秘かに訪問し、中華人民共和国成立後初めて米中政府間協議を極秘に行った。そして7月15日に、ニクソン大統領が翌年中華人民共和国を訪問することを突然発表して、世界をあっと驚かせた(第1次ニクソン・ショック)。このニクソン大統領の中国訪問は翌1972年2月に行われた。

この当時アメリカにとっては中国をパートナーとした新しい東アジア秩序の形成を模索するもので、また膠着状態にあった北ベトナムとの和平交渉を促進することも目的であった。1965年から武力介入して泥沼化したベトナム戦争を抱えて複雑な状況の中で米国としても主導権を持って外交を積極的に推し進めるためには中華人民共和国を承認することが必要であることをニクソン自身は大統領になる前から考えていた。また前年に国際連合での中華人民共和国の加盟をめぐって賛成票が多数となり(米国の重要事項案も可決されて三分の二以上の賛成票ではないので加盟は実現しなかった)、この年秋の国連加盟が確実視されていた。また大統領選挙で公約したベトナム戦争からの名誉ある撤退を進めるためにも北ベトナムを支援する中国との交渉が必要なことであると認識していたことで、ニクソンの突然の中国訪問が実現した。

このニクソン訪中の時に周恩来との数回の会談の中で日米安保条約は対中国のものでなく、日本の軍事力を抑えて日本の軍事大国化を防ぐ目的のものであることをキッシンジャーが説明して周恩来も理解を示した。このことは後に日中国交正常化の障害を1つ取り除いていたことになった

佐藤内閣

この米中間の対話開始と急速な接近で、当時先進国で中国との国交が正常化していない国は日本と西独だけで他の英仏伊加がすでに承認していたことは、日本外交が取り残されているとの認識が一般にも広がっていった。一方当時の自民党内ではまだ東西冷戦の思考から抜け出せず、また中華民国(台湾)を支持する勢力が多数であり(石原慎太郎浜田幸一なども親台湾派であった)、様々な権益が絡んでいた。また当然のことながら、中華人民共和国、中華民国の両政府はともに、他国による中国の二重承認を認めないために、佐藤首相の外交は60年代の冷戦思考そのままのものであった。1971年3月に訪中した藤山愛一郎氏は周恩来首相の言葉から米国が先行して米中対話を行うことを危惧する旨を外務省に伝えているし、福田赳夫氏は「中国問題では米国が日本に相談に来ている」と語っていた[10]。それが「ある日の朝、目を覚ませばアメリカと中国とが手を握っていた」[注釈 8]ことで右往左往することになった。

71年秋に国連総会で中華人民共和国の加盟を審議した際には、日米とも加盟そのものには反対せず、しかし台湾を排除することは重要事項であるとして前年までの方向と全く違う考え方の「逆重要事項案[注釈 9]」と中国・台湾両国とも議席を認める「複合二重代表制決議案[注釈 10]」の2つの案を共同提案国として提出したが、まず逆重要事項案が否決[11]されて、複合二重代表制決議案は自然消滅となり、中華人民共和国の加盟と中華民国の追放を求めたアルバニア案の採決[12]で日米とも反対したが結局賛成が大きく上回り、加盟と追放が決定された[注釈 11]。アメリカは反対を唱えながらもこの時すでにキッシンジャーが訪中して翌年のニクソン訪問の実務的な協議をしており、日本はただ反対するだけで何の対応も出来ない状況に置かれて佐藤外交の無策ぶりが目立った。中国の国連加盟が実現して台湾が国連を脱退した頃に、佐藤内閣でこの年7月まで官房長官を務め、当時自民党幹事長であった保利茂は東京都の美濃部都知事が訪中した際に極秘に周恩来首相宛ての親書[注釈 12]を託したが、中国側の対応は冷ややかであった[注釈 13][注釈 14]。中国側は佐藤内閣には何ら期待しておらず、もはや次の内閣が日中間の正常化をめざすことは誰の目にも明らかになった。

田中内閣

1972年7月5日に自民党総裁選挙で総裁となり、7月7日に内閣総理大臣に就任した田中角栄は就任前から日中関係の打開に積極的な姿勢で、就任した7月7日の首相談話で「日中国交正常化を急ぐ」旨を語り、すぐに異例なことに直後の7月9日に周恩来は「歓迎する」旨を明らかにした。7月16日に社会党の佐々木元委員長が訪中した際には「日本の田中首相の訪中を歓迎する」メッセージを示し、そして7月25日に公明党の竹入委員長が訪中[注釈 15]して27日から3日間延べ10時間に渡って周恩来首相と会談して、中国の考え方の内容が示された[注釈 16]。帰国後の8月4日に田中首相と大平外相にその内容を書いたメモを手渡している。この竹入メモには「国交回復三原則を十分理解する」「唯一合法政府として認める」「共同声明で戦争状態を終結する」「戦時賠償を放棄する」[注釈 17][注釈 18]「平和五原則に同意する」「覇権主義に反対する」「唯一合法政府として認めるならば復交3原則の台湾に関する部分は秘してもいい」「日米安保条約を容認する」等の内容で、田中首相はこれを読んで北京に赴くことを決意した[13][注釈 19][注釈 20]

この時から中国側も田中内閣での日中国交正常化に本腰を入れ、当時上海舞劇団団長として来日していた孫平化中日友好協会副秘書長と肖向前中日備忘録貿易弁事処東京連絡処首席代表の2人が8月15日に帝国ホテルで田中首相と会談する場が設けられて、その場で田中首相は自身の訪中の意向を初めて公式に伝え[14]、中国側から正式に田中首相を本国へ招待することが伝えられた[15]。ここから、日本国と中華人民共和国との交渉がスタートした。

日中国交正常化交渉

ここで田中首相は、アメリカよりも早く日中国交回復を果たすことを決断した。

このとき日本はニクソン訪中の後に日中関係の正常化へ動いたにもかかわらず、アメリカよりも先に中国を承認したのは日本の戦後政治史において例外的なことではある[注釈 21]が、ただし田中首相は就任後7月19日にアメリカのインガソル駐日大使にその意思を伝え、8月31日と9月1日にハワイで行ったニクソン大統領との会談でも確認しており、訪中前にアメリカにとってはすでに織り込み済みの話ではあった[注釈 22]

1972年9月25日、田中首相は秋晴れの北京空港に降り立ち、自ら中華人民共和国を訪問した。ニクソン訪中から7ヶ月後であった。同日午後から第1回会談が行われた。出席者は日本側が、田中首相、大平外相、二階堂官房長官、高島条約局長、橋本中国課長、栗山条約課長など8名。中国側は、周恩来首相、姫鵬飛外相、廖承志会長、韓念龍外交部副部長、張香山顧問など8名。この席でまず共同声明の形で国交正常化を行うこと、中国側が日米安保条体制を是認すること、日本側が台湾との日華平和条約を終了させることが確認された。夜の晩餐会では、周恩来首相は「双方が努力し、十分に話し合い、小異を残して大同を求めること[注釈 23]で中日国交正常化は必ず実現できるものと確信します。」と挨拶して、一方田中首相は「過去に中国国民に多大なご迷惑をおかけしたことを深く反省します[注釈 24]」と挨拶した。

26日の午前中の外相会談で「戦争状態の終結[注釈 25]」「国交回復三原則」「賠償請求の放棄」「戦争への反省」の4点に関する基本的な見解を提示した[注釈 26]。午後の首脳会談で周恩来首相から前夜での「御迷惑」発言と午前中の高島条約局長の「日華平和条約との整合性」発言で厳しく指摘を受けた。これを受けて夕方に日本側からの提案で急遽外相会談が開かれ、台湾は中国の一部とする中国側に対して「不可分の一部であることを再確認する」「この立場を日本政府は十分に理解し、ポツダム宣言に基づく立場を堅持する[注釈 27]」旨の案を提示した。

27日の午前中は万里の長城などへ見学に行き、夕方から首脳会談を行った。前日の厳しいやり取りから一転して穏やかな雰囲気で始まった。全般的な外交問題や政策についてが話題となり、中ソ間のことも話題となった。また尖閣列島について田中首相から出されたが周首相から「今、話し合っても相互に利益にはならない」として、それ以前のまだ正常化に向けて残っている案件の処理を急ぐこととなった。夜に田中首相・大平外相・二階堂長官の3氏は毛沢東の私邸を訪ねて、この時に毛主席から「もうケンカは済みましたか」という言葉がかけられた。この日の深夜に外相会談が開かれて、戦争責任について「深く反省の意を表する」という表現で、戦争状態の終結については「不正常な状態の終結」という表現にする案でまとまった。

28日の午前中は故宮博物館を見学して午後の首脳会談で、大平外相から日本と台湾の関係について今回の共同声明が発表される翌日に終了すること、しかし民間貿易などの関係は継続される旨の発言があり、周首相は黙認する姿勢を示した。

そして9月29日に日本国総理大臣田中角栄外務大臣大平正芳が、一方中華人民共和国国務院総理周恩来中華人民共和国外交部部長:姫鵬飛が「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)に署名し、ここに日中国交正常化が成立した。日本が第2次大戦後、戦後処理に関する国際文書の中で歴史認識を示し、戦争責任を認めたのはこれが初めてのことであった。[16]

なお、当時はまだ戦後30年も経過しておらず、交渉には日中戦争の傷が影を落としていたが、周恩来は「日本人民と中国人民はともに日本の軍国主義の被害者である」として、「日本軍国主義」と「日本人民」を分断するロジックによって「未来志向」のポリティクスを提唱し、共同声明を実現させた。この論理によれば、抗日民族統一戦線の戦いをどれほど賛美し、日本の軍国主義の侵略をどれほど非難しても、それは日本との外交関係にいささかもネガティヴな影響を及ぼすものではないとされる。この「未来志向」の政治的合意は現在にも引き継がれている[17]

それから6年後の1978年8月、福田赳夫政権の下で日中平和友好条約が調印された。

参考文献

  • 倪志敏「田中内閣における日中国交正常化と大平正芳(その1・その2・その3・その4)」『龍谷大学経済学論集』第45巻第5号/第46巻第5号/第47巻第3号/第48巻第3・4号(2006年3月・2007年3月・2007年12月・2009年3月)
近年公開された日中双方の外交記録及びその他の第一次資料(『森田一秘書官訪中日記』等)を援用すると同時に、日中双方の当事者及び関係者への貴重なインタビュー資料も多数利用している[注釈 28]。日中国交正常化のプロセスを跡づけ、北京交渉の過程に考察を加えている。
  • 鹿雪瑩 『古井喜実と中国 日中国交正常化への道』(思文閣出版、2011年)ISBN9784784215904
  • 西原哲也『覚醒中国 秘められた日本企業史』(社会評論社、2012年)
  • 中野士朗『田中政権・886日』(行政問題研究所、1982年)
  • 安藤俊裕『政客列伝~保利茂~』(日本経済新聞出版)
  • 鬼頭春樹『国交正常化交渉~北京の5日間~』 (NHK出版 2012年)
  • 石井明・朱建栄・添谷芳秀・林暁光『日中国交正常化・日中平和友好条約締結交渉』 (岩波書店 2003年)



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