新島八重 新島八重の概要

新島八重

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/05/19 09:58 UTC 版)

新島八重
新島八重
生誕 山本八重
1845年12月1日
会津藩
死没 1932年6月14日(満86歳没)
寺町丸太町上ルの自邸
墓地 同志社墓地(京都府京都市
住居 寺町丸太町上ル
国籍 日本の旗 日本
別名 新島八重子
職業 看護婦
茶道家
配偶者 新島襄
山本権八・さく
受賞 勲七等宝冠章[1][2]
勲六等宝冠章[2]
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新島八重(右)とエバンゼリン・ブース英語版(左/当時救世軍中将・米国司令官、ウィリアム・ブースの娘で、のち救世軍第4代大将)。右後方に同志社出身の山室軍平(救世軍中将・日本司令官)がいる(昭和4年(1929年)11月撮影)

2009年4月22日放送のNHKの番組『歴史秘話ヒストリア』は新島八重を「悪妻」「烈婦」「元祖ハンサムウーマン」などと称して紹介した[3]。明治の時代にあってエネルギッシュに生き、皇族以外の女性としてはじめて政府より叙勲を受けた[3]

目次

生涯 [編集]

会津藩の砲術師範であった山本権八・さく夫妻の子として誕生[4]会津戦争時には断髪・男装し家芸であった砲術を以て奉仕し、若松城籠城戦で自らもスペンサー銃と刀を持って奮戦した[2]。会津戦争が始まる前、但馬出石藩出身で藩校日新館の教授をつとめていた川崎尚之助と結婚し、会津若松城籠城戦を一緒に戦ったが、敗戦後に捕虜となった夫と離ればなれとなり、以降二度と再会しなかったと思われる。なお、以前は会津籠城戦前に尚之助と離婚したというのが通説となっていたが、実際に離婚手続きが取られたのは明治4年(1871年)旧暦12月のことである[5]

明治4年(1871年)、京都府顧問となっていた実兄・山本覚馬を頼って上洛する。翌年、兄の推薦により京都女紅場(後の府立第一高女)の権舎長・教道試補となる。この女紅場に茶道教授として勤務していたのが裏千家13代千宗室(円能斎)の母で、これがきっかけで茶道に親しむようになる。

兄の元に出入りしていた新島襄と知り合い、明治8年(1875年)10月に婚約。当時、新島のキリスト教主義の学校建設を阻止しようと町の僧侶・神官たちが連日のように抗議集会を開き、京都府知事・文部省に嘆願書を提出するなどし圧力をかけていた為、京都府は婚約直後、突如八重を女紅場から解雇した[6]

明治9年(1876年1月3日に再婚。京都初の日本人同士のキリスト教式の結婚式であった[3]。女紅場に勤務していたときの経験を生かし、同志社の運営に助言を与えた。欧米流のレディファーストが身に付いていた襄と、男勝りの性格だった八重は似合いの夫婦であったという。夫をかしずかせ、車にも夫より先に乗る姿を見て世間から悪妻と評された[3]

同志社英学校においても、戊辰戦争の際会津藩を攻めた薩摩長州出身の学生を冷遇したり、問題を起こした兄嫁を義兄や襄が許しても家から追い出したりと、西洋の感覚を身に着けながらも、武士の誇りと道徳にこだわったため、周囲と軋轢を生んだ[3]。このため、同志社英学校の学生達の演説会に夫婦で出席した際は、当時学生であった徳富蘇峰に演壇より「頭と足は西洋、胴体は日本というのような女性がいる」と強く非難された[3]。これに対し八重は全く動じなかったと伝わっている[3]。しかし夫婦仲はとても良くこの時期夫の襄はアメリカの友人への手紙で「彼女は見た目は決して美しくはありません。ただ、生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です」と書いている[3]

明治23年(1890年)、襄は病気のため急逝。襄の臨終の床で蘇峰に過去の非礼を詫びられ、和解した。

前々年の明治21年(1888年)5月、襄は彼のよき理解者であり、協力者であった奈良県吉野の山林事業家で自由民権運動の財政的後ろ盾でもあった土倉庄三郎に「小生ノ病症は早ヤ心臓病ニ相違無之、早晩小生ハ此之病之為ニ斃るへきハ覚悟せねばならさる由」(『新島襄 人と思想』・晃洋書房」より原文のまゝ)などと書簡で縷々述べ、自分亡き後の学校のこと、八重の生活のことについて協力を求めている。

二人の間に子供はおらず、更にこの時の新島家には襄以外に男子がいなかったため養子を迎えたがこの養子とは疎遠であったという。さらにその後の同志社を支えた襄の門人たちとも性格的にそりが合わず、同志社とも次第に疎遠になっていったという。この孤独な状況を支えたのが女紅場時代に知りあった円能斎であり、その後、円能斎直門の茶道家として茶道教授の資格を取得。茶名「新島宗竹」を授かり、以後は京都に女性向けの茶道教室を開いて自活し裏千家流を広めることに貢献した。

また、女紅場の講師に華道家元池坊の当時の家元だった42世池坊専正がおり、明治29年に池坊専正から「池坊入門」の免状と席札[7]が交付されていることから、華道の心得も習得していたことが伺われる。

襄が亡くなった明治23年(1890年)、八重は日本赤十字社の正会員となり、明治27年(1894年日清戦争では、広島の陸軍予備病院で4ヵ月間篤志看護婦として従軍[3][8]。40人の看護婦の取締役として、怪我人の看護だけでなく、看護婦の地位の向上にも努めた。明治29年(1896年)、その時の功績が認められ、勲七等宝冠章が授与された[8]。その後、篤志看護婦人会の看護学修業証を得て看護学校の助教を務め、明治37年(1904年日露戦争時には、大阪陸軍予備病院で2ヶ月間篤志看護婦として従軍し[3]、その功績によって勲六等宝冠章が授与された[8]。これらの功績により昭和3年(1928年)、昭和天皇の即位大礼の際に銀杯を下賜される。その4年後、寺町丸太町上ルの自邸(現・新島旧邸)にて死去。86歳没。葬儀は「同志社社葬」として4,000人もの参列者があった。墓所は、京都市左京区鹿ケ谷若王子山町の京都市営若王子墓地内同志社墓地。

叙勲 [編集]




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  1. ^ a b c 歴史秘話ヒストリア「”ハンサムウーマン”がゆく 新島八重 不屈の会津魂」、NHK、2013年1月9日放送
  2. ^ a b c d e 新島八重×同志社女子大学
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 歴史秘話ヒストリア「明治悪妻伝説 初代“ハンサムウーマン”新島八重の生涯」、NHK2009年4月22日放送
  4. ^ 鈴木(1998年
  5. ^ あさくらゆう 『川崎尚之助と八重』 知道出版 (2012年)
  6. ^ ボラー(2007年)、41-42項
  7. ^ 同志社大学新島遺品庫 目録番号1991の「門弟許可状」および1992の「池坊門弟席名木札(新島八重名儀)」
  8. ^ a b c 新島八重×同志社女子大学 · 新島八重の生涯 · 八重を学ぼう、八重に学ぼう; 第III期 日本のナイチンゲール―会津魂再び|同志社女子大学 本学サイト
  9. ^ 「美徳以為飾」をめぐって(改訂版)|表象文化学部|教員による時事コラム|同志社女子大学 本学サイト
  10. ^ 2011年6月22日、NHKは「東日本大震災プロジェクト」の一環として、新島八重を主人公とする、2013年に放送するNHK大河ドラマ『八重の桜』を制作することを正式に発表した(13年の大河は「八重の桜」=NHK 時事通信 2011年6月22日閲覧)
  11. ^ 新島八重マスコットキャラクター「八重たん」(福島県観光交流課)


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