教皇
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継承
選出
古代から中世の初期にかけて教皇はローマ周辺に住む聖職者によって選ばれていた。1059年に選挙権が枢機卿に限定され、1179年に入ってすべての票の権利が同等とされた。教皇は枢機卿団から選出される。教皇に選ばれるための条件は、(聖職者でなくてもよく)男子のカトリック信徒ということしかなかったので、司教でない聖職者が教皇に選ばれると、教皇位に着く前に枢機卿団の前で司教叙階を受けることになっていた。教皇選出時に枢機卿でなかった最後の教皇は、1378年に選ばれた教皇ウルバヌス6世である。現行の教会法では80歳未満の枢機卿から選出されることになっているため、そのような事態は起こらない。
1274年の第2リヨン公会議では、教皇選挙のシステムが規定された。それによれば教皇の死後、10日以内に枢機卿団が会合を開き、次の教皇が選出されるまでその場を離れないことが定められた。これは1268年の教皇クレメンス4世の死後の混乱から、3年にわたる教皇の不在(使徒座空位)が続いたことを受けて定められたものであった。16世紀半ばまでには教皇選挙のシステムは、ほぼ現代のものに近いものになった。
教皇選挙の唯一の方法は、枢機卿団による投票である。伝統的な教皇選出法としては「満場一致により決定する方法」、「司祭団の代表たちによって教皇を決定する方法」、そして「投票によって教皇を決定する方法」の三つがあった。満場一致の方法というのは、選挙者たちが新教皇の名前を叫び、それが完全に一致した場合に、その決定を有効とする方法であるが1621年以降用いられたことはなく、ヨハネ・パウロ2世によって「代表たちによる方法」と共に廃止された。
1978年以前、教皇選挙がおわると新教皇を中心としてシスティーナ礼拝堂からサン・ピエトロ大聖堂へ壮麗な行列を行うことが慣例とされていた。そして大聖堂につくと教皇は三重冠を受け、教皇としての最初の祝福(ウルビ・エト・オルビ)を与える。続いて教皇の前で飾り立てられたトーチに火をともし、すぐにそれを消して「シク・トランジト・グローリア・ムンディ」(この世の栄華はかくもむなしく消え去る)という訓戒を与え、教皇が(かつて「近代主義に対抗する誓い」とよばれた)教皇宣誓を行うというのが伝統的な教皇着座の流れであった。しかし、ヨハネ・パウロ1世以降、この種の古めかしい儀式は、教皇の就任時に行われていない。
ラテン語の「セーデ・ヴァカンテ」(使徒座空位)という言葉は教皇不在(通常は教皇の死去から次の教皇の選出まで)の状態を指す言葉である。この言葉から「使徒座空位主義者」と呼ばれる人々の呼称が生まれた。この人々は現代に至る数代の教皇たちは不当にその地位についていると考え、カトリック教会から離れている。彼らから見れば現在の状態は「使徒座空位」であるということになる。彼らがこのように唱える最大の理由は第2バチカン公会議以降の改革が受け入れられないことにある。特にトリエント・ミサと呼ばれる伝統的なラテン語ミサが現代化の流れに沿って各国語で行われるようになったことが不満なのである。このため、特に第2バチカン公会議以降、複数の自称教皇(対立教皇)が現れている。
死去
現在、教皇の不在時(使徒座空位)における対応を定めているのは1996年のヨハネ・パウロ2世による教皇文書『ウニベルシ・ドミニチ・グレギス』である。それによれば教皇不在時には首席枢機卿を中心に枢機卿団が集団指導制によってバチカン市国とカトリック教会全体を指導する。しかし教会法では教皇不在時になんらかの重大な決定や変更を枢機卿団だけで行うことは禁止されている。教皇の承認を必要とする決定は新教皇の着座まで保留される。
教皇の死の確認に関しては、首席枢機卿が教皇の本名を三度呼び、銀のハンマーで額を三度たたくという方法によるとされていたが、あまりに時代錯誤であると批判の対象になっていた。但しこの半世紀の間、実際にこの方法が用いられたことは無いとされ、医師による科学的知見に基づいた死が確認された後に「伝統的な儀式」として行われ、この時点で首席枢機卿が教皇の右手から指輪印章「漁師の指輪」を外す。
パウロ6世の場合は、晩年になって自ら指輪をはずしていたが、通常は教皇の死去時に指輪がはずされる。指輪には教皇の印章が彫られているため、悪用を防ぐために破壊されることになっている。
教皇の遺体はすぐ埋葬されず、数日間聖堂などに安置される。20世紀の教皇たちはみなサン・ピエトロ大聖堂に安置されてきた。教皇庁は埋葬後、九日間の喪に服すことになる。これをラテン語で「ノヴェム・ディアリス」という。
辞任
教会法332条第二項によれば、教皇が辞任(退位)するために必要な条件はあくまで自発的な辞任であることと、定められた手続きを守ることである。ヨハネ・パウロ2世までは事実上の終身制となっており[7]、教皇の自発的辞任は直近で600年ほど例がなかった[8]。 しかしベネディクト16世は2013年2月11日、高齢を理由として2013年2月28日午後8時をもって辞任すると宣言し、そのまま辞任が成立した。辞任後の教皇は名誉教皇(Pope emeritus)と呼ばれ聖下の尊称も維持される。
辞任後は死去時同様であるが、服喪がないことが大きな違いである。ベネディクト16世は辞任前に規定を追加し、全有権枢機卿がそろっていれば、コンクラーヴェ開始の前倒しを可能とした(もちろん会場であるシスティーナ礼拝堂の準備が整っている必要があるが)。
なお、2002年6月と7月の二度にわたってヨハネ・パウロ2世が教会法にもとづいての辞任を検討していたことがイタリアのメディアによって報道されたことがある。ヨハネ・パウロ2世の遺言でも2000年に80歳の誕生日を迎えたことを節目に真剣に辞任を検討していたと報じられているが、定かではない。ヨハネ・パウロ2世は晩年、さまざまな病で苦しみ、職務を果たせないと考えていたようではあるが、最終的に2005年4月2日の死まで教皇職にとどまることとなった。
注釈
- ^ ラテン語: Sancta Sedes.
- ^ ラテン語: Sedes Apostolica.
- ^ 共和政ローマの時代には独立した官職であったが、帝政ローマ時代にはローマ皇帝が兼務する称号の一つであった。このことを以て、教皇という称号の根拠や、東ローマ皇帝に従属せず、神聖ローマ帝国皇帝をはじめとする西欧諸国の君主に優越する権威の印とする。
- ^ ローマ教皇の公式Twitterアカウント名は、@Pontifexとなっている。
- ^ 例外として、教皇が日本を公式訪問した場合のみは、通常の外交儀礼どおりに日本の元首である天皇の御所を教皇が訪問し、挨拶する[9]。
- ^ "πάπας"は、古代ギリシア語で「父」を意味する幼児語"πάππας"に由来する[11]。
出典
- ^ papa - Wiktionary(en)
- ^ pontifex - Wiktionary(en)
- ^ πάπας - Wiktionary(en)、πάπας - Βικιλεξικό
- ^ pontiff - Wiktionary(en)
- ^ 新村出編『広辞苑 第六版』(岩波書店、2011年)728頁および松村明編『大辞林 第三版』(三省堂、2006年)649頁参照。
- ^ J. P. ラベル「使徒座」『新カトリック大事典』研究社OnlineDictionary。
- ^ “ローマ法王、退位を表明か 地元通信社が報道”. 朝日新聞. (2013年2月11日) 2013年2月11日閲覧。
- ^ “Breaking: Pope Benedict XVI announces he will resign because of 'ill health'” (英語). インデペンデント. (2013年2月11日) 2013年2月11日閲覧。
- ^ a b 「正論大賞対談 笹川陽平氏×屋山太郎氏」『産経新聞』(東京本社)2020年1月3日付朝刊、12版、8-9面、特集。
- ^ a b c オリヴィエ・クレマン著、冷牟田修二・白石治朗訳、『東方正教会』106頁 - 109頁(クセジュ文庫)白水社、1977年。ISBN 978-4-560-05607-3 (4-560-05607-2)
- ^ “American Heritage Dictionary of the English Language”. Education.yahoo.com. 2011年6月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年8月11日閲覧。
- ^ カトリックの組織 - ウェイバックマシン(2012年11月20日アーカイブ分)
- ^ “日本語で話しつづけた教皇ヨハネ・パウロ二世 : パパ様の知られざるエピソードが今ここに”. 国立国会図書館サーチ. カトリック南山教会広報委員会. 2019年11月26日閲覧。
- ^ “教皇来日 教区主催イベントお知らせ”. カトリック中央協議会 (2019年10月9日). 2019年11月27日閲覧。
- ^ カトリック中央協議会 - 「ローマ法王」「ローマ教皇」という二つの呼称について
- ^ “教皇フランシスコ、今夕来日 呼称を「法王」から「教皇」へと政府が変更し、一般メディアも追随”. クリスチャンプレス. (2019年11月23日) 2021年5月28日閲覧。
- ^ a b “「ローマ法王」が「ローマ教皇」に変更 政府発表で割れるメディアの対応”. J-CAST. (2019年11月22日) 2019年11月23日閲覧。
- ^ 『公教会祈祷文』 明治42年
- ^ 『公教会聖歌集祈祷文』 大正9年
- ^ オリエンス宗教研究所 編『ともにささげるミサ――ミサ式次第 会衆用―改訂版』オリエンス宗教研究所、2000年。ISBN 978-4-87232-019-0。
- ^ ローマ典文第一奉献文 - ウェイバックマシン(2018年11月8日アーカイブ分)
- ^ 「羅馬教皇使節館記氏名羅馬教皇使節ポール・マレラ」「22.羅馬教皇使節之部」 アジア歴史資料センター Ref.B15100606600
- ^ 「教皇庁は新政府不承認」 アジア歴史資料センター Ref.A03024608400
- ^ 「池田総理大臣は、十一月二十日にヴァチカン市国を訪問し、教皇ヨハネス二十三世から謁見をたまわった。池田総理大臣から、歴代教皇が、日本の直面する諸問題に対し(後略)」わが外交の近況(第7号) - 外交青書昭和38年8月
- ^ 河野外務大臣とタワドロス2世・コプト教皇との会談
- ^ エジプト投資フォーラム 堀井学外務大臣政務官の挨拶 - 外務省
- ^ 第196回国会 予算委員会 第9号
- ^ 「大鷹外務報道官会見記録」『会見・発表・広報』2019年11月20日 。2019年11月21日閲覧。
- ^ “外務省、「ローマ教皇」に呼称変更 安倍首相と25日に会談”. 毎日新聞. (2019年11月20日) 2019年11月21日閲覧。
- ^ “「法王」と「教皇」 | ことば(放送用語) - 放送現場の疑問・視聴者の疑問 | NHK放送文化研究所”. 2013年2月27日閲覧。
- ^ “【お知らせ】今後は「ローマ教皇」とお伝えします”. NHK (2019年11月22日). 2019年11月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年11月22日閲覧。
- ^ “ローマ教皇、26日まで滞在し長崎や広島訪問…核廃絶へメッセージ”. 読売新聞. (2019年11月22日) 2019年11月22日閲覧。
- ^ “Liddell and Scott”. Oxford University Press. 2013年2月18日閲覧。
- ^ AFP通信、2016年2月13日
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