播磨国 播磨国の概要

播磨国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/04 05:43 UTC 版)

播磨国

-播磨国
-山陽道
別称 播州(ばんしゅう)
所属 山陽道
相当領域 兵庫県南西部
諸元
国力 大国
距離 近国
12郡98郷
国内主要施設
播磨国府 兵庫県姫路市
播磨国分寺 兵庫県姫路市(播磨国分寺跡
播磨国分尼寺 兵庫県姫路市
一宮 伊和神社(兵庫県宍粟市
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「播磨」の名称

木簡では「針間国」・「幡麻国」と表記しているものもある。

播磨国は播州(バンシュウ)とも呼ばれるが、「播」という漢字を「バン」と読むのは「播州」またはその省略形に限られており、本来の音読みは「ハ」である(「播種」・「伝播」など)。

播磨国風土記』冒頭に国名の由来があったと見られるが、冒頭部分が欠失しており明らかではない。

領域

明治維新の直前の領域は現在以下のようになっている。現在の神戸市域においては、須磨区を境に東部(長田区・兵庫区・中央区・灘区・東灘区の全域および須磨区・北区のそれぞれ大部分)が摂津国、西部(垂水区・西区のそれぞれ全域と北区・須磨区のそれぞれ一部)が播磨国であった。

全域

兵庫県神戸市垂水区西区姫路市明石市相生市加古川市三木市高砂市小野市加西市宍粟市たつの市西脇市加東市多可郡加古郡神崎郡揖保郡赤穂郡

一部のみ

兵庫県神戸市須磨区(神の谷・北落合三丁目・北落合四丁目・菅の台・西落合・竜が台二丁目・竜が台三丁目・竜が台四丁目・竜が台五丁目・緑台・弥栄台)・北区(淡河町淡河・淡河町勝雄・淡河町北僧尾・淡河町北畑・淡河町木津・淡河町行原・淡河町神田・淡河町中山・淡河町野瀬・淡河町萩原・淡河町東畑・淡河町神影・淡河町南僧尾)・赤穂市備前国の部分(福浦)を除く)・朝来市(生野町真弓・生野町口銀谷の一部・生野町川尻・生野町栃原)・佐用郡佐用町美作国の部分(奥海・若州・上石井・下石井・水根・桑野・海内・東中山)を除く)

当該地域の2010年国勢調査による人口は230万4449人(男111万3494人/女119万0955人)、世帯数は86万8208世帯、面積は3649.75km2、人口密度は631.4人/km2[1]

沿革

7世紀に成立した。針間国(播磨中・西部)・明石国(東播磨・神明・三木地域(明石郡美嚢郡加古郡印南郡))・針間鴨国(北部(賀茂郡多可郡))が大化の改新以降に播磨国(針間国)へ編入されたと推定されている。

飛鳥池遺跡藤原宮跡などからの出土木簡の中に飾磨郡を「志加麻評」、宍粟郡を「宍粟評」、神崎郡を「神前評」、揖保郡を「粒評」と記しているものがある。郡制の前には評里制の地方行政区画が行われていたことを示すものである。

7世紀の終わり頃、播磨国の長官を「吉備大宰(きびおおみこともち)」とか「播磨国宰(みこともち)」と『播磨国風土記』に記されている。この期の地方長官は、複数国以上を統括する大宰(総領)が任命された[2]

713年和銅6年)に編まれた風土記の内、現在にまで文献が残る五か国の一つでもある(『播磨国風土記』を参照)。

江戸時代には、山崎藩安志藩三日月藩林田藩三草藩龍野藩小野藩姫路藩赤穂藩明石藩福本藩新宮藩姫路新田藩平福藩が置かれた。

近世以降の沿革

国内の施設

全ての座標を示した地図 - OSM
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国府

播磨国府は、『和名抄』によれば飾磨郡にあった。姫路市中心部にある本町遺跡(姫路市本町、北緯34度50分4.85秒 東経134度41分44.96秒 / 北緯34.8346806度 東経134.6958222度 / 34.8346806; 134.6958222 (播磨国府推定地:本町遺跡))を国衙跡とする説が有力視されており、1984年(昭和59年)の姫路郵便局東側(前記箇所)をはじめとして[3]周辺からは2015年平成27年)には市内中心部の平野町で[4][5]2019年(平成31年・令和元年)には同・大黒壱丁町で[6]も奈良時代の大量の瓦や建物の柱跡が発見されている。

国分寺・国分尼寺

播磨国分尼寺跡
(兵庫県姫路市)

神社

延喜式内社

延喜式神名帳』には、大社7座5社・小社43座42社の計50座47社が記載されている(「播磨国の式内社一覧」参照)。大社は以下に示すもので、すべて名神大社である。
伊和神社(兵庫県宍粟市

総社一宮以下

『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧[9]

守護所

守護所は鎌倉時代は加古川市加古川町の加古川城に、室町時代は赤松氏によって、姫路市曽左(書写)の書写坂本城に置かれ、また、播磨・備前・美作を統べるためにたつの市新宮町の越部館に守護館を置いていた。嘉吉の乱で前期赤松氏が滅亡し、応仁の乱で播磨守護に復帰後は姫路市夢前町置塩城居城を移した。


注釈

  1. ^ ただし、弘安5年(1282年)の文書で、第6代小山宗長が守護として在職したことが記述されている[10]
  2. ^ ここまでの出典[11]

出典

  1. ^ 毛鉤の一種、特に鮎釣りの中の「ドブ釣り」には欠かせない擬餌鉤で、釣り師たちは季節・天候・時刻に応じて多種類の毛鉤を使い分けていて、播州毛鉤の種類は魚種・水深・水質などに応じて多種あり、500種以上におよぶと言われている。[1]
  1. ^ 平成22年国勢調査、小地域集計、28兵庫県”. 総務省統計局(e-Stat) (2010年10月1日). 2014年5月28日閲覧。
  2. ^ 福島好和「大和王権の進出と展開 3内なる国と外なる国」、今井修平・小林基伸・鈴木正幸・野田泰三・福島好和・三浦俊明・元木泰雄『兵庫県の歴史』山川出版社 2004年8月 65-66ページ
  3. ^ 本町遺跡”. 姫路市埋蔵文化財センター. 2023年11月1日閲覧。
  4. ^ 黒田, 祐介『姫路城城下町跡』 12巻兵庫県姫路市四郷町坂元414-1〈姫路市埋蔵文化財センター調査報告〉、2014年3月31日(原著2014年3月31日)。doi:10.24484/sitereports.49119NCID BB1549845Xhttps://sitereports.nabunken.go.jp/49119 
  5. ^ "国府関連の建物跡か 奈良時代の溝や瓦出土 姫路"(神戸新聞NEXT、2015年10月13日記事)。
    "「播磨国府」関連施設か 推定地近く、奈良時代の瓦が大量出土 兵庫"(産経ニュース、2015年10月14日記事)。
  6. ^ 中川, 猛『姫路城城下町跡』 106巻兵庫県姫路市四郷町坂元414番地1〈姫路市埋蔵文化財センター調査報告〉、2021年3月31日(原著2021年3月31日)。doi:10.24484/sitereports.131290NCID BC0989461Xhttps://sitereports.nabunken.go.jp/131290 
  7. ^ 播磨国分寺跡(姫路市ホームページ)。
  8. ^ 播磨国分尼寺跡説明板。
  9. ^ 『中世諸国一宮制の基礎的研究』 中世諸国一宮制研究会編、岩田書院、2000年、pp. 448-453。
  10. ^ 小山市史 1984, p. 495.
  11. ^ 小山市史 1984, pp. 494–495.
  12. ^ いにしえの歴史と文化が息づく・・・ 自然に恵まれたまち、越前市
  13. ^ 北大路魯山人 お米の話


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