戦争犯罪 経緯

戦争犯罪

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/04 02:55 UTC 版)

経緯

かつて戦争犯罪と定義されていたのは、捕虜虐待を禁じた「ジュネーブ条約」や、非人道的兵器の使用を禁じた「ハーグ陸戦条約」など、戦時において守られなければならないとされる国際法(戦時国際法)違反行為のみであった。

第一次世界大戦後の戦争犯罪概念

第一次世界大戦終結後、戦勝国が敗戦国の指導者を裁くことが国際的に協議された。戦勝国であるアメリカ合衆国イギリスフランスイタリア日本等の連合国10ヶ国は、パリ講和会議に先だって行われた平和予備会議において「戦争開始者責任および刑罰執行委員会」(The Commission on the Responsibility of the Authors of the War and on the Enforcement of Penalties)を設立した。この委員会は国家元首をも含む戦争開始者の訴追や、対象が複数国にまたがる残虐行為戦犯を裁くための裁判所を設置するなどの報告書を提出した。この報告書は講和会議では採用されなかったが、ヴェルサイユ条約第227条である「国際道義と条約に対する最高の罪を犯した」として前ドイツ皇帝ウィルヘルム2世を特別裁判所に訴追するという条項となって反映されている[2]。この訴追は中立国であるオランダ亡命していたウィルヘルム2世の引き渡しを拒んだため裁判は行われなかった[3]

またパリ講和会議では「戦争に関する責任を調査する十五人委員会」(en:Commission of Responsibilities)が戦争犯罪の概念として「戦争の法規及び慣例違反」というリストを作成し、残虐行為を行ったとする戦犯45人をリストアップした。この戦犯はヴェルサイユ条約によってドイツ政府自身で裁くことが定められ、1921年からライプツィヒで裁判が開始された。しかしこのライプツィヒ裁判(en:Leipzig War Crimes Trial)は、幾人かに短期間の懲役刑が下されたのみであり、大半は無罪となった。また政治・軍事指導者に対する訴追は行われなかった。

1920年には国際連盟の常設国際司法裁判所設立のための法律家諮問委員会は「国際公共秩序を侵害し、あるいは諸国の普遍的法に反する犯罪」を裁く国際高等裁判所設置を提案した。同様の提案は1922年、1924年、1926年にも行われているがいずれも成立しなかった[2]

第二次世界大戦前期の戦争犯罪訴追の動き

第二次世界大戦の最中、連合国側はドイツ軍の残虐行為を幾度も非難し、戦争終結後には責任者の処罰を求める事を強く警告していた。しかし、この時点ではホロコーストなどの自国国民への犯罪行為は戦争犯罪とみなされていなかった。

1940年11月、ポーランドチェコスロバキアの両亡命政府は、故国で行われているドイツの残虐行為を非難する声明を行った。1941年10月25日、アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相はそれぞれドイツ軍が各地で行っている残虐行為を批判する声明を発し、特にチャーチルはこの犯罪行為への懲罰が主な戦争目的のひとつに数えられるべきであるとした[4]。また11月25日にソビエト連邦モロトフ外相もドイツの残虐行為を非難する声明を行っている。

1942年1月13日、ロンドンセント・ジェームズ宮殿においてベルギー、チェコスロヴァキア、フランス、ギリシャルクセンブルク、オランダ、ノルウェー、ポーランド、ユーゴスラビアの連合国9ヶ国の亡命政府が会議を開き、ドイツの民間人への残虐行為を非難し、かつ裁判によってこれらの犯罪の命令者や実行者の処罰を決議するセント・ジェームズ宮殿の宣言が出された[5]。戦争における残虐行為を裁判で処罰することを定めた最初の公式宣言となった。オブザーバーとして参加していた中国もこれに同意し、日本にも適用するよう申し出た。この宣言には後にソ連も同意する。セント・ジェームズ宮殿の宣言に合意した各国は英米に合意と実行を迫ったが、英米はライプツィヒ裁判の失敗による消極姿勢と[5]、委員会にソ連構成共和国を加えようとするソ連の主張のため、委員会設置は遅れた[6]。しかし亡命政府の要求と、東アジアの植民地で日本軍の攻撃を受けたイギリスやアメリカ、オランダなどの要求により、戦犯裁判へと動き始めた[7]

連合国戦争犯罪委員会

6月になってチャーチルは戦争犯罪の証拠を収集する、連合国戦争犯罪捜査委員会 (United Nations War Crimes Commission for the Investigation of War Crimes)の設置に関してアメリカと協議を開始した。7月にはイギリス内閣で委員会設置が承認され、10月7日、ルーズベルト大統領とイギリスのサイモンen:John Simon, 1st Viscount Simon大法官はの設立に合意した。1943年10月7日にはソ連を除く連合国、オーストラリア、ベルギー、カナダ、中国、チェコスロバキア、ギリシャ、インド、ルクセンブルク、オランダ、ニュージーランド、ノルウェー、ポーランド、南アフリカ、イギリス、アメリカ、ユーゴスラビア、フランス(自由フランス)をメンバーとする連合国戦争犯罪委員会(United Nations War Crimes Commission、UNWCC)が正式に発足した[8]。またソ連は即刻戦犯処罰を開始するべきと主張していたが、イギリスは捕虜への報復を恐れ、戦時中の戦犯処罰に慎重であった。このため第二次世界大戦の連合国側による戦犯裁判は大半が戦後に行われることになる[7]

同11月1日、アメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦各国外相会談によるモスクワ宣言が出された。この中で、ドイツの主要戦争犯罪や残虐行為への処罰が言明された。またこの声明の中で、戦犯裁判は被害国が行うという原則が確認された[7]

戦争犯罪概念の協議

UNWCCの非公式会議は10月26日から開始されたが、この会議の中で戦争犯罪そのものの定義についての協議が行われた。チェコスロバキア代表のエチェル(Bohuslav Ecer) は「一つの村を絶滅させるような行為[注 1]は、(今はまだ)戦争犯罪ではないが、ルーズベルト大統領やチャーチル氏、イーデン氏(英外相)が言ったように裁かれねばならない。それゆえ、もっと広い範囲の戦争犯罪が必要である」と、戦争犯罪概念の拡大を主張した[9]。第二回会議では戦争犯罪とは何かを指し示すものとして、1919年の「戦争の法規及び慣例違反」32項目のリストを暫定的に使用することが合意された。このリストが採用された理由は、作成に日本・イタリアが参加しており、ドイツも反対はしていなかったことがあげられている[10]。UNWCCの協議は数十回にわたって行われ、その中で残虐行為はドイツ国家が一体となって行っているため、個々の犯罪容疑者だけでなく、国家やナチ党親衛隊などの組織幹部を戦争犯罪人として裁くことが必要であると考えられるようになった[11]

また、小委員会である法律委員会では侵略戦争が戦争犯罪であるかどうかについて議論が行われたが、戦争犯罪ではないとする意見が多数派であった[12]

人道に対する罪に関する協議

アメリカ代表のハーバート・ペル(en:Herbert Pell)をはじめとするUNWCCは自国民に対する犯罪や、宗教や民族に対する犯罪を「人道に対する罪」という概念で戦争犯罪とするべきであると考え、米英両政府に働きかけた。しかし両国政府は当初この動きに否定的であった[13]

この間アメリカ合衆国国務省から派遣された者がUNWCCにおけるユダヤ人問題提起を妨害し、ペルがこれに抗議したこともあった[14]。またイギリス政府は1944年6月28日にホロコーストは戦争犯罪の概念に含まれないという閣議決定を行い、UNWCCが対象とするユダヤ人迫害はドイツによる占領地に限るべきであるとする意見をアメリカ側に伝達した。これはホロコーストに関してはドイツ後継政府に圧力をかけることで、ドイツ人による裁判に持ち込むべきであるとするものであった[15]

裁判形式に関する協議

委員会は1944年10月3日に戦争犯罪は国際法廷で裁くべきとし、連合国戦争犯罪裁判所と混合軍事法廷の設置を勧告したが、従来の戦争犯罪概念を蹈襲するべきと考えていたイギリス政府の同意は得られなかった[16]。アメリカは反対しなかったが、他の国の同意が必要であるという留保条件を付けた。

連合国軍がヨーロッパに逆上陸を果たすと、UNWCCの戦犯確定作業はようやく開始された。1944年11月22日には最初の戦犯リストが作成された[17]

議論の集約

1944年9月、アメリカ合衆国陸軍長官ヘンリー・スティムソン陸軍省内で戦争犯罪政策の検討を行った。この検討によってまとめられた意見は「人道に対する罪」を戦争犯罪とする、また国際法廷の設置に同意するなど、UNWCCの意見に近いものであった。また、この中でドイツ国家、ナチ党や親衛隊が民衆破壊を犯す共同謀議(conspiracy)を行ったとし、犯罪を行った組織に属する個人に有罪を宣告できるという「共同謀議理論」を示している[18]。 スティムソンと陸軍省はこの路線を主張したが、国務省は従来の路線を崩さなかった。また海軍省も、現時点での共同謀議概念導入は日本の抗戦意欲を高めるとして陸軍省の意見には否定的であった[19]。しかし12月17日にベルギーでマルメディ虐殺事件が発生すると、親衛隊の残虐行為を阻止するべきという意見が政府内で強まり、陸軍省の案が主導権を持つようになった。1945年1月3日、ルーズベルト大統領は共同謀議理論の導入に同意し、1月22日には国際法廷設置が政府内で同意された。ただしこの同意が正式な結果となったのはハリー・S・トルーマン大統領の就任後だった[20]

しかしイギリス政府はなお戦争指導者を裁判に掛けることには反対していた。このため2月、アメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦によるヤルタ会談において国際軍事裁判所設置が具体的に言及されたものの、この時点で3国の外相により検討する事が決められたのみであった。しかし4月30日のヒトラーの自殺によって、ヒトラーが法廷で演説する懸念が無くなったことを一因として、アメリカの提案を受け入れた[20]

その後、度重なる折衝を経て同年6月から戦犯を裁く国際軍事裁判開設のための協議が開催された。同年8月8日ロンドンでアメリカ合衆国、イギリス、フランス、ソビエト連邦の4カ国代表により、戦犯協定が調印され国際軍事裁判所憲章が定められた。


注釈

  1. ^ ナチスによるリディツェレジャーキ村の殲滅。

出典

  1. ^ a b c 「戦争犯罪」『国際法辞典』、219頁。
  2. ^ a b 林博史、連合国戦争犯罪委員会と英米(上)、26p
  3. ^ 児島襄東京裁判(上)』中央公論社、1971年、ISBN 4122009774, 49頁。吉田裕昭和天皇の終戦史』岩波書店、1992年12月、35頁、ISBN 9784004302575野村二郎『ナチス裁判』講談社、1993年1月、78頁、ISBN 9784061491328
  4. ^ 林博史、連合国戦争犯罪委員会と英米(上)、4p
  5. ^ a b 林博史「BC級戦犯裁判」岩波新書,23頁
  6. ^ 林博史、連合国戦争犯罪委員会と英米(上)、6p
  7. ^ a b c 林博史、連合国戦争犯罪委員会と英米(上)、7p
  8. ^ 林博史、連合国戦争犯罪委員会と英米(上)、5-6p
  9. ^ 林博史、連合国戦争犯罪委員会と英米(上)、8p
  10. ^ 林博史、連合国戦争犯罪委員会と英米(上)、9p
  11. ^ 林博史、連合国戦争犯罪委員会と英米(上)、14p
  12. ^ 林博史、連合国戦争犯罪委員会と英米(上)、15p
  13. ^ 林博史、連合国戦争犯罪委員会と英米(上)、32-34p
  14. ^ 林博史、連合国戦争犯罪委員会と英米(上)、34p
  15. ^ 林博史、連合国戦争犯罪委員会と英米(上)、30p
  16. ^ 林博史、連合国戦争犯罪委員会と英米(上)、27-31p
  17. ^ 林博史、連合国戦争犯罪委員会と英米(上)、11p
  18. ^ 林博史、連合国戦争犯罪委員会と英米(下)、53-55p
  19. ^ 林博史、連合国戦争犯罪委員会と英米(下)、58p
  20. ^ a b 林博史、連合国戦争犯罪委員会と英米(下)、61p
  21. ^ 国際刑事裁判所規程を参照
  22. ^ 詳細は、2007年の11月30日のエントリを参照。
  23. ^ ICC、アフガン戦争犯罪めぐる捜査開始を却下 米兵など対象”. www.afpbb.com. 2022年10月15日閲覧。
  24. ^ アフガニスタン:米圧力で国際刑事裁判所 捜査断念”. アムネスティ日本 AMNESTY. 2022年10月15日閲覧。






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