徳川慶喜 徳川慶喜の概要

徳川慶喜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/08/14 04:56 UTC 版)

徳川 慶喜
Tokugawa yoshinobu.jpg
時代 江戸時代末期 - 大正時代
生誕 天保8年9月29日1837年10月28日
死没 大正2年(1913年11月22日
改名 松平七郎麻呂(幼名)→松平昭致→徳川慶喜
別名 字:子邦
号:興山
通称:一橋慶喜
墓所 谷中霊園
官位 参議権中納言正二位大納言
右近衛大将征夷大将軍内大臣
従四位、正二位、従一位(明治政府)
幕府 江戸幕府 15代征夷大将軍
(在任1867年 - 1868年
氏族 徳川氏
水戸家一橋家将軍家慶喜家
父母 父:徳川斉昭
母:吉子女王有栖川宮織仁親王娘)
養父:徳川昌丸徳川家茂
兄弟 徳川慶篤池田慶徳徳川慶喜
松平直侯池田茂政松平武聰
徳川昭武喜連川縄氏松平昭訓
松平忠和土屋挙直松平喜徳
松平頼之
義兄弟:徳川茂承華頂宮博経親王'
正室:一条美賀子
側室:一色須賀新村信中根幸
徳川厚池田仲博徳川慶久徳川誠
勝精、鏡子、筆子 その他
養子:徳川茂栄徳川家達'

御三卿一橋徳川家の第9代当主として将軍後見職禁裏御守衛総督など要職を務めた後に徳川宗家を相続、第15代将軍に就任。大政奉還新政府軍への江戸開城を行なった。明治維新後に従一位勲一等公爵貴族院議員

生涯

幼年期

天保8年(1837年9月29日江戸・小石川の水戸藩邸にて第9代藩主・徳川斉昭の七男として生まれた[1]。 母は正室・吉子女王[2]。幼名は七郎麻呂(しちろうまろ)[3]

尊敬する第2代藩主・光圀を踏襲し、子女は江戸の華美な風俗に馴染まぬように国許(水戸)で教育するという斉昭の教育方針に則り、天保9(1838)年4月末(生後7ヶ月)に江戸から水戸に移り、一橋徳川家を相続するまでの多くを同地で過ごす間、会沢正志斎らから学問・武術を教授された。慶喜の英邁さは当時から注目されていたようで、斉昭も他家に養子には出さず、長男・慶篤の控えとして暫時手許に置いておこうと考えていた。

一橋家相続

弘化4年(1847年8月1日、老中・阿部正弘から水戸藩に七郎麻呂(当時は松平昭致)を御三卿・一橋家の世嗣としたいとの第12代将軍・徳川家慶の思召(意向)が伝えられる。これを受けて七郎麻呂は8月15日に水戸を発ち、9月1日に一橋家を相続。12月1日に家慶から偏諱を賜わり慶喜と名乗る。

家慶は度々一橋邸を訪問するなど、慶喜を将軍継嗣の有力な候補として考えていたが、阿部正弘の諫言を受けて断念している。

将軍継嗣問題

嘉永6年(1853年)、黒船来航の混乱の最中に将軍・家慶が病死し、その跡を継いだ第13代将軍・徳川家定は病弱で男子を儲ける見込みがなかったため、将軍継嗣問題が浮上する。慶喜を推す斉昭や阿部正弘、薩摩藩主・島津斉彬一橋派と、紀州藩主・徳川慶福を推す彦根藩主・井伊直弼や家定の生母・本寿院を初めとする大奥南紀派が対立した。

一橋派は阿部正弘、島津斉彬が相次いで亡くなると勢いを失い、安政5年(1858年)に大老となった井伊直弼が裁定し、将軍継嗣は慶福(家茂)と決した。

同年、直弼は勅許を得ずに日米修好通商条約を調印。慶喜は斉昭、福井藩主・松平慶永らと共に登城し直弼を詰問するが、翌・安政6年(1859年)に隠居謹慎処分となる(安政の大獄)。この日は三卿の将軍面会日であり、斉昭や慶永と違って不時登城ではなく罪状は不明のままの処分であった。

なお、慶喜本人は将軍継嗣となることに乗り気ではなかったのか「骨折りは申し訳ないが、天下を取ってから失敗するよりは取らないほうがいい」という内容の手紙を斉昭に送っている[4]

将軍後見職

禁裏御守衛総督時代の慶喜

安政7年(1860年3月3日桜田門外の変における井伊直弼の死を受け、万延元年(1860年)9月4日に謹慎を解除された。

文久2年(1862年)、島津久光と勅使・大原重徳が薩摩藩兵を伴って江戸に入り、勅命を楯に幕府の首脳人事へ介入、7月6日、慶喜を将軍後見職に、松平春嶽政事総裁職に任命させることに成功した。慶喜と春嶽は文久の改革と呼ばれる幕政改革を行ない、京都守護職の設置、参勤交代の緩和などを行った。

文久3年(1863年)、攘夷の実行について朝廷と協議するため、徳川家茂が将軍としては230年ぶりに上洛することとなったが、慶喜はこれに先駆けて上洛、将軍の名代として朝廷との交渉にあたった。慶喜は朝廷に対し、攘夷実行を含めた国政全般を従来通り幕府へ委任するか、政権を朝廷に返上するかの二者択一を迫った。しかし朝廷からは、幕府への大政委任を認める一方で「国事に関しては諸藩に直接命令を下すことがあり得る」との見解が表明され、逆に幕府は攘夷の実行を命じられるなど、交渉は不成功に終わった。春嶽が朝廷の要求に反発して政事総裁職の辞表を出す一方で、慶喜はこれを受け入れる姿勢をとり、江戸の幕閣の猛反発を招いた。しかし攘夷の実行は慶喜の本心ではなく、孝明天皇が石清水八幡宮へ行幸しての攘夷祈願において将軍が天皇から節刀を拝受してしまえば攘夷を決行せざるを得なくなるので「風邪発熱」(仮病)と称して家茂の拝謁を急遽取りやめさせている。

江戸に戻った慶喜は、攘夷拒否を主張する幕閣を押し切り、攘夷の実行方策として横浜港の鎖港方針を確定させる。八月十八日の政変長州藩を中心とする尊皇攘夷派が排斥されたのち、公武合体派諸候・幕閣による参預会議に参加すべく再び上洛するが、ここでも横浜鎖港に反対する参預諸候の島津久光・松平春嶽らと慶喜は対立した。薩摩藩による朝廷の主導を警戒した慶喜は、参預諸候を朝廷から排除する動きをみせ、中川宮朝彦親王らとの酒席で故意に泥酔し、同席していた伊達宗城、春嶽、久光を罵倒、さらに中川宮に対し「島津からいくらもらっているんだ」などと暴言を発して体制を崩壊に追い込むなど、手段を選ばぬ交渉を行なった。

禁裏御守衛総督

参預会議解体後の元治元年(1864年)3月25日、慶喜は将軍後見職を辞任し、朝臣的な性格を持つ禁裏御守衛総督に就任した。以降、慶喜は京都にあって武田耕雲斎ら水戸藩執行部や池田慶徳池田茂政鳥取藩主・岡山藩主。いずれも水戸家出身で、慶喜とは兄弟)らと提携し、幕府中央から半ば独立した勢力基盤を構築していく。江戸においては、盟友である政事総裁職・松平直克川越藩主)と連携し、朝廷の意向に沿って横浜鎖港を引き続き推進するが、天狗党の乱への対処を巡って幕閣内の対立が激化し、6月に直克は失脚、慶喜が権力の拠り所としていた横浜鎖港路線は事実上頓挫する[5]

同年7月に起こった禁門の変においては、慶喜は自ら御所守備軍を指揮し、鷹司邸を占領した長州藩軍を攻撃した(歴代の徳川将軍家の中で唯一、戦渦の真っ只中で馬にも乗らず敵と切り結んだ)。これを画期として慶喜はそれまでの尊王攘夷派に対する融和的態度を放棄し、会津藩桑名藩らとの提携が本格化することとなる(一会桑体制[6]。また老中本庄宗秀阿部正外が兵を率いて上洛し、慶喜を江戸へ連行しようとしたが、失敗した。一方、長期化していた天狗党の乱の処理を巡っては、慶喜を支持していた武田耕雲斎ら水戸藩勢力を切り捨てる冷徹さを見せた。 それに続く第一次長州征伐が終わると、欧米各国が強硬に要求し、幕府にとり長年の懸案事項であった安政五カ国条約の勅許を得るため奔走した。慶喜は自ら朝廷に対する交渉を行い、最後には自身の切腹とそれに続く家臣の暴発にさえ言及、一昼夜に渡る会議の末に遂に勅許を得ることに成功した(ただし、京都に近い兵庫の開港については勅許を得ることができず、依然懸案事項として残された)。

将軍職

ナポレオン3世から贈られた軍服姿の慶喜

慶応2年(1866年)の第二次長州征伐では、薩摩藩の妨害を抑えて慶喜が長州征伐の勅命を得る。しかし薩長同盟を結んだ薩摩藩の出兵拒否もあり、幕府軍は連敗を喫した。その第二次長州征伐最中の7月20日、将軍・家茂が大坂城で薨去する。慶喜は朝廷に運動して休戦の詔勅を引き出し、会津藩や朝廷上層部の反対を押し切る形で休戦協定の締結に成功する。

家茂の後継として、老中の板倉勝静小笠原長行は江戸の異論[7]を抑えて慶喜を次期将軍に推した。慶喜はこれを固辞し、8月20日徳川宗家は相続したものの将軍職就任は拒み続け、12月5日に将軍宣下を受けようやく将軍に就任した。これは言わば恩を売った形で将軍になることで政治を有利に進めていく狙いがあったと言われるが、就任固辞が「政略」によるとみなせる根拠も「政略」説を否定する根拠もないのが実情である[8]。 この頃の慶喜ははっきりと開国を指向するようになっており、将軍職就任の受諾は開国体制への本格的な移行を視野に入れたものであった[9]

慶喜政権は会津藩・桑名藩の支持のもと、朝廷との密接な連携を特徴としており、慶喜は将軍在職中一度も畿内を離れず、多くの幕臣を上京させるなど、実質的に政権の畿内への移転が推進された。また、慶喜は将軍就任に前後して上級公家から側室を迎えようと画策しており、この間、彼に関白・摂政を兼任させる構想が繰り返し浮上した[10]。一方、これまで政治的には長く対立関係にあった小栗忠順ら改革派幕閣とも連携し、慶応の改革を推進した。

慶喜はフランス公使・レオン・ロッシュを通じてフランスから240万ドルの援助を受け、横須賀製鉄所や造・修船所を設立し、ジュール・ブリュネを始めとする軍事顧問団を招いて軍制改革を行った。老中の月番制を廃止し、陸軍総裁海軍総裁・会計総裁・国内事務総裁・外国事務総裁を設置した。また、実弟・昭武をパリ万国博覧会に派遣するなど幕臣子弟の欧州留学も奨励した。兵庫開港問題では朝廷を執拗に説いて勅許を得て、勅許を得ずに兵庫開港を声明した慶喜を糾弾するはずだった薩摩・越前・土佐・宇和島の四侯会議を解散に追い込んだ。

薩長が武力倒幕路線に進むことを予期した慶喜は慶応3年(1867年10月14日、政権返上を明治天皇に上奏し、翌日勅許された(大政奉還)。従来の通説的見解によれば、慶喜は当時の朝廷に行政能力が無いと判断し、列侯会議を主導する形での徳川政権存続を模索していたとされる。慶喜は緊迫する政治情勢下で内乱の発生を深く懸念しており[11]、大政奉還による政治体制の再編はその打開策であった。

戊辰戦争

大坂を脱出する慶喜を描いた錦絵(月岡芳年画)

大政奉還後の政治体制については諸侯会議によって定められるはずであったが、12月、薩摩藩らは政変により朝廷を制圧し、慶喜を新政府から排除した(王政復古)。慶喜には辞官(内大臣の辞職)と納地(幕府領の返上)が命ぜられた(ただし400万石全納は松平春嶽らの要求により200万石半納に減免された)。慶喜は衝突を避けるべく会津・桑名藩兵とともに大坂城に退去し、諸外国の公使らを集めて自身の正当性を主張した。慶喜は越前藩・土佐藩に運動して辞官納地を温和な形とし、年末には自身の議定就任(新政府への参画)がほぼ確定する。

しかし、翌・慶応4年(1868年)に薩摩藩の挑発に乗った慶喜は、会津・桑名藩兵とともに京都に向け進軍し、薩摩藩兵らとの武力衝突に至る。1月3日に勃発した鳥羽・伏見の戦いにおいて旧幕府軍が敗退し形勢不利になったと見るや、まだ兵力を十分に保持しているにも関わらず、自らが指揮する旧幕府軍の兵に「千兵が最後の一兵になろうとも決して退いてはならぬ」と命を下し、自分は陣中に伴った側近や妾、老中板倉勝静、老中酒井忠惇、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬らと共に開陽丸で江戸へ退却した[12]。 なお、大坂にて将軍職に就任した慶喜は、将軍就任後初めて江戸に入ったことになる。

軍事的勝利の可能性が十分あったにも関わらず、慶喜がこのような行動を執った動機については幾つかの説がある。近年の説では、慶喜政権が天皇の権威を掌中に収め、それに依拠することによってのみ成立していた政権であったとし、それを他勢力に譲り渡した時点で彼の政治生命は潰え、一連の退却行動に繋がったとする[13]。また、慶喜は鳥羽・伏見の戦いでの撤退原因について、薩摩を討つ覚悟はあっても、天皇(を擁した官軍)に対峙する覚悟が無かったとする説もある[14]

間もなく、慶喜を朝敵とする追討令が正式に下り、東征大総督有栖川宮熾仁親王に率いられた新政府軍が東征を開始する。慶喜は、小栗忠順を初めとする抗戦派を抑えて朝廷への恭順を主張。2月には勝海舟に事態収拾を一任して自らは上野の寛永寺大慈院において謹慎する。また、徳川宗家の家督は養子である田安亀之助(後の徳川家達)に譲ることになった。

江戸総攻撃の前に行なわれた海舟と新政府軍参謀西郷隆盛との交渉により江戸城は4月11日に新政府軍に明け渡された(彰義隊や旧幕臣の暴発を恐れた慶喜は4月11日午前3時に寛永寺大慈院を出て水戸へ向かった)。弘道館の至善堂にて引き続き謹慎した後、7月には徳川家は駿府に移され、慶喜も駿河の宝台院に移って謹慎した。これにより、徳川家による政権は幕を閉じた。

以後、幕府制度や征夷大将軍の官職は復活することはなく、慶喜は日本史上最後の征夷大将軍となった。

余生

晩年の慶喜

明治2年(1869年)9月、戊辰戦争の終結を受けて謹慎を解除され、引き続き、駿府改め静岡に居住した。生存中に将軍職を退いたのは11代・家斉以来であるが、過去に大御所として政治権力を握った元将軍達とは違い、政治的野心は全く持たず、潤沢な隠居手当を元手に写真狩猟投網囲碁謡曲など趣味に没頭する生活を送り、「ケイキ様」と呼ばれて静岡の人々から親しまれた。

明治30年(1897年)に東京巣鴨に移り住む。翌年には威仁親王の仲介により、皇居となった旧江戸城に参内して明治天皇に拝謁もしている。明治35年(1902年)には公爵に叙せられ、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を興し、貴族院議員にも就いて、35年振りに政治に携わることになった。

明治43年(1910年12月8日、七男の慶久に家督を譲って貴族院議員を辞しし、隠居。再び趣味に没頭する生活をおくる。

大正2年(1913年11月22日感冒にて死去。享年77(満76歳25日)。徳川歴代将軍としては最長命であった。

年譜

※明治5年までは天保暦長暦の月日表記。

慶応3年(1867年)大阪での慶喜



  1. ^ 男系の血筋として慶喜は初代高松藩主・松平頼重の四男である松平頼侯(よりとし)の子孫である。
  2. ^ 第3代・家光以来となる正室を生母とした将軍である。
  3. ^ 「水戸様系譜」(『徳川諸家系譜』収録)など一部史料では「七郎麿」との表記になっているが、慶喜自身は「七郎麻呂」と署名している。
  4. ^ 原文は「骨折れ候故、(中略)天下を取り候て後、仕損じ候よりは、天下を取らざる方、大いに勝るかと存じ奉り候」(家近p.22)。
  5. ^ 奈良p.238。
  6. ^ 奈良p.240。
  7. ^ 家茂が後継に指名した田安亀之助(後の徳川家達)を推す大奥を中心とする反慶喜勢力や慶喜の将軍就任を強硬に反対する水戸藩の動きなど、慶喜に向けられた強い反感が将軍職固辞に大きく関わっていた(家近p.p.113-117)。
  8. ^ 家近p.116。
  9. ^ 家近pp.140-141。
  10. ^ 奈良p.323。
  11. ^ 家近p.177。
  12. ^ 後に慶喜は回顧録の中で、「討薩表はあの時分勢いで実はうっちゃらかしておいた」と語っている。 『徳川十五代将軍グラフティー』 新人物往来社 P.143。
  13. ^ 奈良p.323。
  14. ^ 『徳川十五代将軍グラフティー』(新人物往来社) P.144
  15. ^ 徳川慶喜 叙正二位位記袖書(平田職修日記)
    從三位源慶喜
      右可正二位
    中務受將家系揚武威名亦抽忠誠能護禁闕
    宜授榮爵式表殊恩可依前件主者施行
    慶應二年十二月五日
    (訓読文)従三位源慶喜(徳川慶喜 同日、権中納言から権大納言に転任)、右正二位にすべし、中務、将家系(将軍家当主)を受け、武威の名を揚げ、亦忠誠に抽んで能(よ)く禁闕(きんけつ 朝廷)を護る、宜しく栄爵を授くべし、式(もっ)て殊恩(しゅおん)を表はす、前件に依り主者施行すべし、慶応2年(1866年)12月5日
  16. ^ 『官報』第5091号、明治33年6月23日。
  17. ^ 渋沢栄一『徳川慶喜公伝 第4巻』平凡社〈東洋文庫 107〉、1968年、p416、田中彰『明治維新の敗者と勝者』1980年、日本放送出版協会〈NHKブックス368〉、『人物日本の歴史19』小学館、1974年、『徳川慶喜―将軍家の明治維新(増補版)』9頁
  18. ^ 部屋のどこから刺客が入ってきても、始め誰かに当たり刺客到来にいち早く気づけるため。
  19. ^ 松浦玲『坂本龍馬』
  20. ^ 国立国会図書館デジタルライブラリーより1915年『至誠と努力』故徳川慶喜公の大偉勲
  21. ^ 国立国会図書館デジタルライブラリーより1915年『読史の趣味』徳川慶喜公の偉大なる功績
  22. ^ 国立国会図書館デジタルライブラリーより1909年『春汀全集』
  23. ^ 国立国会図書館デジタルライブラリーより1907年『海舟言行録』
  24. ^ a b 渋沢栄一『徳川慶喜公伝』1918年版国立国会図書館・近代デジタルライブラリーによる。
  25. ^ 公的機関にある作品として、「蓮華之図」(寛永寺蔵)、「西洋雪景図」(福井市郷土歴史資料館蔵、明治3年慶喜から松平春嶽に送られた作品)、「河畔風景」(茨城県立歴史館蔵)、「西洋風景」「日本風景」(共に久能山東照宮蔵)、「風景」(静岡県立美術館蔵)の他、個人蔵が数点ある。
  26. ^ 静岡市美術館ほか編集 『NHK静岡放送局開局80周年記念 静岡市美術館開館記念展:2 家康と慶喜 徳川家と静岡展』図録、2010年。
  27. ^ ““最後の将軍”の159首復刻 「慶喜公歌集」を新装版に 1世紀経てネットで発掘 松戸・戸定歴史館”. 千葉日報. (2013年12月9日). http://www.chibanippo.co.jp/news/local/169825 2013年12月9日閲覧。 


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