徳川慶喜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/21 08:25 UTC 版)
家庭・親族
- 正室:一条美賀(維新後に美賀子と改名、安政2年12月3日結婚、今出川公久女、一条忠香養女、天保6年7月19日 - 明治27年7月9日)慶喜は最初、一条忠香の娘一条輝子と婚約したが、輝子が天然痘となったため、急遽美賀子を一条家の養女にして嫁がせた[161]。
- 女子:瓊光院殿池水影現大童女(安政5年7月16日 - 20日)この子を含め計4人の女児を儲けたが育たなかった[161]。
- 側室:一色須賀(一色貞之助定住女、天保9年4月26日 - 昭和4年10月7日)正室美賀の元侍女
- 側室:新村信(松平政隆女、新村猛雄養女、嘉永5年頃 - 明治38年2月8日)慶喜の側室は30人いたが、水戸から静岡に移る際に信と幸の二名に絞られた[162]。
- 長男:敬事(明治4年6月29日 - 明治5年5月22日)
- 長女:鏡子(明治20年3月23日結婚、徳川達孝室、明治6年6月2日 - 明治26年9月29日)
- 三女:鉄子(明治23年12月30日結婚、徳川達道(一橋茂栄の子)室、明治8年10月27日 - 大正10年12月10日)
- 五男:博(鳥取藩池田家第14代当主・池田仲博、侯爵・貴族院議員、大正天皇侍従長、明治23年2月25日池田輝知養子、明治10年8月28日 - 昭和23年1月1日)
- 六男:斉(明治11年8月17日 - 11月28日)
- 六女:良子(明治13年8月24日 - 9月29日)
- 九女:経子(明治30年1月9日結婚、伏見宮博恭王妃、明治15年9月23日 - 昭和14年8月18日)
- 七男:慶久(公爵・貴族院議員、華族世襲財産審議会議長、明治17年9月2日 - 大正11年1月22日)
- 十一女:英子(明治44年4月29日結婚、徳川圀順室、明治20年3月22日 - 大正13年7月5日)
- 十男:精(伯爵、浅野セメント重役、明治32年1月20日勝海舟婿養子、明治21年8月23日 - 昭和7年7月11日)
- 側室:中根幸(中根芳三郎長女、嘉永4年頃 - 大正4年12月29日)
- 次男:善事(明治4年9月8日 - 明治5年3月10日)
- 三男:琢磨(明治5年10月5日 - 明治6年7月5日)
- 四男:厚(男爵・貴族院議員、東明火災保険取締役、明治7年2月21日 - 昭和5年6月12日)
- 次女:金子(明治8年4月3日 - 明治8年7月22日)
- 四女:筆子(明治28年12月26日結婚、蜂須賀正韶室、明治9年7月17日 - 明治40年11月30日)
- 五女:脩子(明治11年8月17日 - 明治11年10月8日)
- 七女:浪子(明治28年12月7日結婚、松平斉(松平斉民の九男)室、明治13年9月17日 - 昭和29年1月13日)
- 八女:国子(明治34年5月7日結婚、大河内輝耕(大河内輝声の長男)室、明治15年1月23日 - 昭和17年9月11日)
- 十女:糸子(明治39年5月19日結婚、四条隆愛室、明治16年9月18日 - 昭和28年10月11日)
- 死産:男子(明治17年8月22日死産)
- 八男:寧(明治18年9月22日 - 明治19年7月2日)
- 九男:誠(男爵・貴族院議員、明治20年10月31日 - 昭和43年11月11日)
- 死産:女子(明治24年6月2日死産)
- 外妾:お芳(新門辰五郎女)
血筋
本多忠勝 | 本多忠政 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
本多忠刻 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
織田信長 | 徳姫 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
熊姫 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松平信康 | 勝姫 | 池田綱政 | 池田政純 | 静子 | 一条溢子 | 徳川治紀 | 徳川斉昭 | 徳川慶喜 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
織田信秀 | 徳川家康 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
徳川秀忠 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
お市 | 千姫 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
江 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
浅井長政 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
徳川慶喜の系譜 |
---|
注釈
- ^ 「水戸様系譜」(『徳川諸家系譜』収録)など一部史料には「七郎麿」と表記されているが慶喜自身は「七郎麻呂」と署名している。
- ^ 父の正室が生母である将軍は3代家光以来。
- ^ この処分について慶喜は当時、「抑三卿は幕府の部屋住なれば、当主ならざる部屋住の者に隠居を命ぜらるゝは、其意を得ざることなり」と不満を漏らしたが、後年に慶喜本人曰く「血気盛りの意地よりして」、謹慎中は居室の採光を極限まで抑え、起床後は麻の裃を着用して夏の暑い時も水浴びせず、月代も剃らないといった、厳しい条件を自ら課して過ごした[2]。
- ^ 原文は「骨折るゝ故(中略)天下を取りて仕損ぜんよりは、天下を取らざる方大に勝るべし。」[3][4]。
- ^ 家茂が後継に指名した田安亀之助(後の徳川家達)を推す大奥を中心とする反慶喜勢力や慶喜の将軍就任を強硬に反対する水戸藩の動きなど、慶喜に向けられた強い反感が将軍職固辞に大きく関わっていた[18]。
- ^ これは言わば恩を売った形で将軍になることで政治を有利に進めていく狙いがあったと言われるが、就任固辞が「政略」によるとみなせる根拠も「政略」説を否定する根拠もないのが実情である[19]。
- ^ 後に慶喜は回顧録の中で、「討薩表はあの時分勢いで実はうっちゃらかしておいた」と語っている[33]。
- ^ 「烈公尊王の志厚く、毎年正月元旦には、登城に先立ち庭上に下り立ちて遥かに京都の方を拝し給いしは、今なお知る人多かるべし。予(注・慶喜)が二十歳ばかりの時なりけん。烈公一日予を招きて「おおやけに言い出すべきことにはあらねども、御身ももはや二十歳なれば心得のために内々申し聞かするなり。我等は三家・三卿の一として、幕府を輔翼すべきは今さらいうにも及ばざることながら、もし一朝事起こりて、朝廷と幕府と弓矢に及ばるるがごときことあらんか、我等はたとえ幕府に反くとも、朝廷に向いて弓引くことあるべからず。これ義公(光圀)以来の家訓なり。ゆめゆめ忘るることなかれ」と宣えり。」[38]
- ^ 「明治三十四年の頃にや、著者栄一大磯より帰る時、ふと伊藤公(博文)と汽車に同乗せることあり、公爵余に語りて、「足下は常によく慶喜公を称讃せるが、余は心に、さはいへど、大名中の鏘々たる者くらゐならんとのみ思ひ居たるに、今にして始めて其非几なるを知れり」といひき。伊藤公は容易に人に許さざる者なるに、今此言ありければ、「そは何故ぞ」と推して問へるに、「一昨夜有栖川宮にて、西班牙国の王族を饗応せられ、慶喜公も余も其相客に招かれたるが、客散じて後、余は公に向ひて、維新の初に公が尊王の大義を重んぜられしは、如何なる動機に出で給ひしかと問ひ試みたり、公は迷惑さうに答へけらく、そは改まりての御尋ながら、余は何の見聞きたる事も候はず、唯庭訓を守りしに過ぎず、御承知の如く、水戸は義公以来尊王の大義に心を留めたれば、父なる人も同様の志にて、常々論さるるやう、我等は三家・三卿の一として、公儀を輔翼すべきはいふにも及ばざる事ながら、此後朝廷と本家との間に何事の起りて、弓矢に及ぶやうの儀あらんも計り難し、斯かる際に、我等にありては、如何なる仕儀に至らんとも、朝廷に対し奉りて弓引くことあるべくもあらず、こは義公以来の遺訓なれば、ゆめゆめ忘るること勿れ、萬一の為に諭し置くなりと教へられき、されど幼少の中には深き分別もなかりしが、齢二十に及びし時、小石川の邸に罷出でしに、父は容を改めて、今や時勢は変化常なし、此末如何に成り行くらん心ともなし、御身は丁年にも達したれば、よくよく父祖の遺訓を忘るべからずといはれき、此言常に心に銘したれば、唯それに従ひたるのみなりと申されき、如何に奥ゆかしき答ならずや、公は果して常人にあらざりけり」といへり。余は後に公に謁したり序に、此伊藤公の言を挙げて問ひ申しゝに、「成程さる事もありしよ」とて頷かせ給ひぬ。」[39]
- ^ 慶喜がいつ恭順の意思を持ったかについて石井孝は、慶喜が1月19日、26日、27日のフランス公使ロッシュとの会見で恭順の意思を示しておらず、2月5日の松平春嶽宛ての嘆願書の中で初めて恭順の意思が出てくることを根拠に江戸へ戻った直後の慶喜は戦争する意向だったという説を唱えている[36]。
- ^ 「第942 徳川慶喜ノ謹慎ヲ免ス」[60]
- ^ 現在、敷地の大半は国際仏教学大学院大学になっている。
- ^ また、謎解き!江戸のススメ(BS-TBS、2015年3月9日放送)でも紹介された。
- ^ 徳川慶喜 叙正二位位記袖書從三位源慶喜
右可正二位
(訓読文)従三位源慶喜(徳川慶喜 同日、権中納言から権大納言に転任)、右正二位にすべし、中務、将家系(将軍家当主)を受け、武威の名を揚げ、亦忠誠に抽んで能(よ)く禁闕(きんけつ 朝廷)を護る、宜しく栄爵を授くべし、式(もっ)て殊恩(しゅおん)を表はす、前件に依り主者施行すべし、慶応2年(1866年)12月5日 — 平田職修日記
中務受將家系揚武威名亦抽忠誠能護禁闕
宜授榮爵式表殊恩可依前件主者施行
慶應二年十二月五日
- ^ 「◯宮廷錄事 ◯拜謁 昨二日午前十一時天機竝ニ御機嫌伺ノタメ從一位德川慶喜參內セシ處臨御 天皇 皇后兩陛下仰付ラレタリ」
- ^ 例えば、太田才次郎編集、明治三八年博文館発行の『新式いろは引節用辞典』(内題による)835ページに「よしひさ」という訓読みがみられる。明治8年(1875年)11月の『仮名傍訓 公布の写』(鈴邨憲章輯)はすべて「とくがは よしひさ」の振り仮名で通す。『日新真事誌』を創刊したジョン・レディ・ブラックによる『YOUNG JAPAN. YOKOHAMA AND YED. (1880)』の巻頭に添えられた写真には“HIS HIGHNESS THE LAST SHOGUN.”というキャプションとともに、“…Hitotsubashi, Yoshi-nobu, Yoshi-hisa; and subsequently known as Keikisama.…”という紹介がつけられている[125]。
- ^ 本文のものは明治16年(1883年)刊。「十五代 慶喜(ノリヨシという訓 ※筆写註) 水戸斉昭六男中納言 ●二年 ○四十才」という記述がある。十二代将軍は「家慶(イヘノリ)」[131]。
- ^ 部屋のどこから刺客が入ってきても誰かに当たり、刺客到来にいち早く気づけるため。
- ^ 公的機関にある作品として、「蓮華之図」(寛永寺蔵)、「西洋雪景図」(福井市郷土歴史資料館蔵、明治3年慶喜から松平春嶽に送られた作品)、「河畔風景」(茨城県立歴史館蔵)、「西洋風景」「日本風景」(共に久能山東照宮蔵)、「風景」(静岡県立美術館蔵)の他、個人蔵が数点ある。
出典
- ^ a b 藤田英昭 著「田安徳川家・一橋徳川家・清水徳川家」、竹内誠 編『徳川幕府事典』東京堂出版、2003年7月20日、30頁。ISBN 9784490106213。
- ^ 『徳川慶喜公伝 五』、2023年2月11日閲覧。
- ^ 家近p.22[要追加記述]
- ^ 『徳川慶喜公伝』一巻 p.210
- ^ 渋沢栄一『徳川慶喜公伝2』平凡社、1967年、107頁。
- ^ 渋沢栄一『徳川慶喜公伝2』平凡社、1967年、110頁。
- ^ 渋沢栄一『徳川慶喜公伝2』平凡社、1967年、110-111頁。
- ^ 渋沢栄一『徳川慶喜公伝2』平凡社、1967年、165-166頁。
- ^ 渋沢栄一『徳川慶喜公伝2』平凡社、1967年、175-176頁。
- ^ 渋沢栄一『徳川慶喜公伝2』平凡社、1967年。
- ^ 渋沢栄一『徳川慶喜公伝2』平凡社、1967年、300,303-304頁。
- ^ 渋沢栄一『徳川慶喜公伝3』平凡社、1967年、14-16頁。
- ^ 渋沢栄一『徳川慶喜公伝3』平凡社、1967年、16-17頁。
- ^ 『徳川慶喜公伝3』平凡社、1967年、22-25頁。
- ^ 渋沢栄一『徳川慶喜公伝3』平凡社、1967年、27頁。
- ^ 奈良, p. 238.
- ^ 奈良, p. 240.
- ^ 家近p.p.113-117[要追加記述]
- ^ 家近p.116。[要追加記述]
- ^ 家近pp.140-141。[要追加記述]
- ^ a b 奈良, p. 323.
- ^ 朝尾直弘他 1994, p. 108.
- ^ a b c 松浦玲 1997, p. 172.
- ^ 朝尾直弘他 1994, p. 111.
- ^ a b 朝尾直弘他 1994, p. 113.
- ^ 松浦玲 1997, p. 172-173.
- ^ a b 松浦玲 1997, p. 173.
- ^ a b 朝尾直弘他 1994, p. 115.
- ^ a b c d 朝尾直弘他 1994, p. 116.
- ^ 家近良樹 2005, p. 17.
- ^ 松浦玲 1997, p. 178-179.
- ^ a b 松浦玲 1997, p. 180.
- ^ 新人物往来社『徳川十五代将軍グラフティー』 P.143
- ^ 松浦玲 1997, p. 181-182.
- ^ 角川まんが学習シリーズ『日本の歴史 12 』p.47
- ^ a b 松浦玲 1997, p. 182-183.
- ^ 新人物往来社『徳川十五代将軍グラフティー』 P.144
- ^ 『昔夢会筆記』
- ^ 渋沢栄一『徳川慶喜公伝』第4巻、逸事、父祖の遺訓遵守。
- ^ 松浦玲 1997, p. 182.
- ^ a b 朝尾直弘他 1994, p. 117.
- ^ a b 松浦玲 1997, p. 252.
- ^ a b 家近良樹 2005, p. 18.
- ^ 松浦玲 1997, p. 184.
- ^ 家近良樹 2005, p. 21-22.
- ^ a b c d e f 家近良樹 2005, p. 22.
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『江戸開城』 - コトバンク
- ^ a b c d 松浦玲 1997, p. 187.
- ^ 松浦玲 1997, p. 188.
- ^ 松浦玲 1997, p. 189.
- ^ 家近良樹 2005, p. 27-29.
- ^ 松浦玲 1997, p. 189-190.
- ^ 松浦玲 1997, p. 190.
- ^ 家近良樹 2005, p. 34.
- ^ 家近良樹 2005, p. 35.
- ^ 家近良樹 2005, p. 36.
- ^ a b c d 松浦玲 1997, p. 196.
- ^ a b 家近良樹 2005, p. 36-37.
- ^ 松浦玲 1997, p. 192-193.
- ^ 『法令全書 明治2年』内閣官報局、p.384
- ^ 家近良樹 2005, p. 37-38.
- ^ 家近良樹 2005, p. 37.
- ^ 樋口雄彦 2012, p. 38.
- ^ a b c 家近良樹 2005, p. 38.
- ^ 家近良樹 2005, p. 122.
- ^ 家近良樹 2005, p. 115.
- ^ 家近良樹 2005, p. 71.
- ^ 家近良樹 2005, p. 129.
- ^ 家近良樹 2005, p. 50.
- ^ a b 大久保利謙 1989, p. 35.
- ^ 家近良樹 2005, p. 73.
- ^ 家近良樹 2005, p. 103.
- ^ 家近良樹 2005, p. 81.
- ^ 松浦玲 1997, p. 201.
- ^ 家近良樹 2005, p. 67-69.
- ^ 家近良樹 2005, p. 44-45.
- ^ 松浦玲 1997, p. 202.
- ^ a b 樋口雄彦 2012, p. 68.
- ^ 家近良樹 2005, p. 87.
- ^ 家近良樹 2005, p. 86-87.
- ^ 家近良樹 2005, p. 72.
- ^ 松浦玲 1997, p. 204.
- ^ a b 家近良樹 2005, p. 100.
- ^ 家近良樹 2005, p. 104-105.
- ^ 家近良樹 2005, p. 105.
- ^ 松浦玲 1997, p. 207.
- ^ 家近良樹 2005, p. 106.
- ^ a b 松浦玲 1997, p. 208-209.
- ^ 松浦玲 1997, p. 211.
- ^ 家近良樹 2005, p. 134-139.
- ^ 家近良樹 2005, p. 142-146.
- ^ 家近良樹 2005, p. 151/158.
- ^ 家近良樹 2005, p. 161-162.
- ^ a b 家近良樹 2005, p. 163.
- ^ a b 家近良樹 2005, p. 164.
- ^ 家近良樹 2005, p. 164-165.
- ^ 家近良樹 2005, p. 182.
- ^ 家近良樹 2005, p. 166.
- ^ a b 家近良樹 2005, p. 170.
- ^ 家近良樹 2005, p. 171.
- ^ 家近良樹 2005, p. 174.
- ^ 家近良樹 2005, p. 172.
- ^ 樋口雄彦 2012, p. 64.
- ^ 家近良樹 2005, p. 182-183.
- ^ 『官報』第8246号、明治43年12月15日。
- ^ 家近良樹 2005, p. 191-192.
- ^ 樋口雄彦 2012, p. 198-199.
- ^ 樋口雄彦 2012, p. 199.
- ^ 樋口雄彦 2012, p. 200.
- ^ 篠田達明『徳川将軍家十五代のカルテ』(新潮新書、2005年5月、ISBN 978-4106101199)より[注釈 13]。
- ^ 大正2年12月1日『官報』第403号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ7
- ^ 前林考一郎 (1997年12月20日). 徳川慶喜静岡の30年. 静岡新聞社. p. 175
- ^ a b c d e f 前林考一郎 (1997年12月20日). 徳川慶喜静岡の30年. 静岡新聞社. p. 176
- ^ 家近良樹 (2005年1月10日). その後の慶喜 大正まで生きた将軍. 講談社選書メチエ. p. 100. ISBN 4-06-258320-8
- ^ 明治31年3月3日『官報』第4397号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3 [注釈 15]
- ^ 『官報』第5091号、明治33年6月23日。
- ^ 前林考一郎 (1997年12月20日). 徳川慶喜静岡の30年. 静岡新聞社. p. 177
- ^ 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
- ^ 『官報』第7451号「叙任及辞令」1908年5月1日
- ^ 『官報』第398号「叙任及辞令」1913年11月25日
- ^ a b c 渋沢栄一. “『徳川慶喜公伝』1918年版”. 国立国会図書館近代デジタルライブラリー. 2015年3月8日閲覧。
- ^ 渋沢栄一『徳川慶喜公伝』 巻1、竜門社、1918年、89-90頁。doi:10.11501/953146。NDLJP:953146。
- ^ 『維新史料綱要』 巻7、維新史料編纂事務局、1940年、54頁。doi:10.11501/1046681。NDLJP:1046681/33。
- ^ a b c 三浦直人「由利公正の名に〈唯一の〉〈正しい〉読みはあるか : きみまさ・きんまさ・コウセイ」『文学研究論集』第48巻、明治大学大学院、2017年、171頁、ISSN 13409174、NAID 120006471643。
- ^ 山田俊雄『ことば散策』岩波書店、1999年、p182
- ^ “大河ドラマ『徳川慶喜』”. NHKアーカイブス. 2022年6月10日閲覧。
- ^ 三浦直人「伊藤博文をハクブンと呼ぶは「有職読み」にあらず : 人名史研究における術語の吟味」『漢字文化研究』第7巻、2017年、21-41頁。
- ^ “徳川慶喜、趣味に生きる覚悟|ちくま文庫|門井 慶喜”. webちくま (2022年6月7日). 2022年6月10日閲覧。
- ^ 福澤諭吉『福翁自伝』時事新報社、1899年6月15日、313頁。NDLJP:2387720/163。
- ^ “【ローカルプレミアム】最後の将軍・慶喜が晩年こよなく愛した乗り物は? 籠、馬、船、それとも… 静岡市が復活プロジェクトを始動”. 産経ニュース. 産経ニュース (2015年10月16日). 2022年6月10日閲覧。
- ^ 山田[1999],pp182-183)
- ^ 渋沢栄一『徳川慶喜公伝 第4巻』平凡社〈東洋文庫 107〉、1968年、p416。田中彰『明治維新の敗者と勝者』1980年、日本放送出版協会〈NHKブックス368〉。『人物日本の歴史19』小学館、1974年、『徳川慶喜―将軍家の明治維新(増補版)』9頁
- ^ a b 【トリビアの泉】徳川慶喜は寝相を直すため 枕の両脇にカミソリを立てて寝ていた
- ^ 樋口雄彦 2012, p. 47-48.
- ^ 松浦玲『坂本龍馬』
- ^ 大久保利謙 1989, p. 34.
- ^ 千田稔 2009, p. 151.
- ^ 家近良樹 2005, p. 183-184.
- ^ 渋沢栄一. “『至誠と努力』「故徳川慶喜公の大偉勲」”. 国立国会図書館近代デジタルライブラリー. 2015年3月8日閲覧。
- ^ 萩野由之. “『読史の趣味』「徳川慶喜公の偉大なる功績」”. 国立国会図書館近代デジタルライブラリー. 2015年3月8日閲覧。
- ^ “『春汀全集』・3巻収録「徳川慶喜公」”. 国立国会図書館近代デジタルライブラリー. 2015年3月8日閲覧。
- ^ 楫東正彦. “『海舟言行録』「徳川慶喜公」”. 国立国会図書館近代デジタルライブラリー. 2015年3月8日閲覧。
- ^ “水戸学論藪”. 国立国会図書館近代デジタルライブラリー. 2015年3月8日閲覧。
- ^ 樋口雄彦 2012, p. 187.
- ^ a b 前田匡一郎 (2003年10月10日). 慶喜邸を訪れた人々. 羽衣出版. p. 120
- ^ 「家康と慶喜ー徳川家と静岡」展 - 静岡市美術館、2021年7月5日閲覧。
- ^ 前田匡一郎 (2003年10月10日). 慶喜邸を訪れた人々. 羽衣出版. p. 240
- ^ 山梨絵美子 「徳川慶喜」(辻惟雄編集 『幕末・明治の画家たち 文明開化のはざまに』 ぺりかん社、1992年12月、pp.131-161。 静岡市美術館ほか編集 『NHK静岡放送局開局80周年記念 静岡市美術館開館記念展:2 家康と慶喜 徳川家と静岡展』図録、2010年。
- ^ 前田匡一郎 (2003年10月10日). 慶喜邸を訪れた人々. 羽衣出版. p. 25
- ^ 福井正明『囲碁史探偵が行く』日本棋院、2008年。ISBN 978-4-8182-0600-7。
- ^ ““最後の将軍”の159首復刻 「慶喜公歌集」を新装版に 1世紀経てネットで発掘 松戸・戸定歴史館”. 千葉日報. (2013年12月9日). オリジナルの2015年3月7日時点におけるアーカイブ。 2013年12月9日閲覧。
- ^ “『歴史を物語るものたち(1階)』”. 東京大学総合図書館. 2016年7月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月13日閲覧。
- ^ 前田匡一郎 (2003年10月10日). 慶喜邸を訪れた人々. 羽衣出版. p. 117
- ^ 『逸事史補』
- ^ 『青淵回顧録』
- ^ 『回天実記』第二集p184-185
- ^ 『伊藤博文公』
- ^ 『開国五十年史 上巻』
- ^ 『雨夜譚会談話筆記』
- ^ アーネスト・サトウ著、坂田精一訳『一外国人の見た明治維新 上』岩波書店、1961年
- ^ a b 『大名華族』蜂須賀壽子、三笠書房、1957年、p19
- ^ 『大名華族』p24
徳川慶喜と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 徳川慶喜のページへのリンク