平家の落人 平家の落人ゆかりの姓

平家の落人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/09/03 16:03 UTC 版)

平家の落人ゆかりの姓

平家の落人にゆかりあるとされる姓

  • 赤間、池田、岩尾、色川、青田、阿佐、安徳、大庭、西村、織田、落、葛西、梶原、上総、讃岐、門脇、上時国、神長、川端、桐原、葛原、久保、小松、坂梨、渋谷、下時国、平(たいら、ひら)、橘、古坊(ふるぼう)、種子島、遠藤、平山、秩父、釣田、寺田、土肥、伴、長尾、永野、長濱、西山、野崎、八尾、八巻、服部、花本、平野、平家、宇部、大沢、星、星野、宗、谷内、椎葉、高倉、旗手、廣實、一ノ宮、千葉、千種、下総、糸賀、門田、木下、羽柴[要出典]

近親婚

平家の落人部落は隔離集団であり、住民が数人程度の共通の祖先に辿り着く例もある。[2]

日本全国の平家の落人伝説

日本各地の代表的な平家の落人伝承のある地域は以下の通りである。

東北地方

関東地方

  • 古分屋敷(茨城県久慈郡大子町
    平家方についた大庭景親の残党が落ち延びた伝承がある。尤も、武者ではなく平家方に随身した武将のであったといい、古分屋敷に子孫は10軒の家を構えたとされる。二人の姫と土着した子孫の姓は桐原氏神長氏という。桐原氏は坂東八平氏のひとつ鎌倉氏の流れを汲む大庭氏の血筋であり、神長氏は藤原氏であるという。また、この二氏は佐竹氏家臣としても存在している。
  • 栃木県那須塩原市上塩原
    平貞能平重盛の遺族ともども宇都宮頼綱を頼ってきた地とされる。平貞能が宇都宮頼綱に庇護され、鎌倉幕府もそれを認めたことは吾妻鏡にも残っている史実であるが、平貞能と重盛一族の行方は同時代の史書に残っていない。江戸時代の史料では平貞能はこの近辺の寺を巡礼して92歳で病没、湯西川の平忠実(重盛六男)は、塩原から更に奥地の湯西川に到達した一族を統率して湯西川を開拓したという。
  • 栃木県日光市川俣
    平藤房(藤原藤房とも)らが落ち延びたとされ、大将塚・平家杉などの史跡が散在するが、平藤房なる人物の史料は残っていない。
  • 栃木県日光市湯西川(湯西川温泉
    平忠実もしくは平清定の子、平景定が落ち延びたとされる。湯西川の平家の落人伝説は現地の平家落人民俗館や平家の里などでも紹介されているほか、平家大祭などの行事も行われている。湯西川温泉では積極的に落人伝説を観光業に活用している。
    平家の者であることを悟られぬよう苗字を「伴」とした。「伴」の人偏は人を表し、右の半は上部の点を半の横線の間に移し、半の一番上の横線から飛び出た部分を消すと「伻」という字になる。つまりは「平の人」ということを意味し、平家血縁者であることを示す。現在も「伴」という苗字の平家の子孫がこの土地に存在している。
    独自の風習として、端午の節句にもこいのぼりを揚げない・たき火をしない(煙を立てない)・犬を飼わない・鶏を飼わないなどがある。これらは人が山中に暮らしていることを外部にかぎ取られないためである。
  • 群馬県利根郡片品村
    関東では最北に位置する落人伝承の村である。あちこちで敗れた平家一門は尾瀬も近く、片品村に至るまでも険しい山々が連なる場所まで逃げた結果、片品村に平家の落人が住み着いて繁栄することになった。
  • 千葉県館山市畑集落[要出典]
  • 千葉県南房総市増間集落[要出典]

中部地方

  • 新潟県佐渡市相川地区
    長兵衛尉 長谷部信連が落ち延びたとする伝承がある。
  • 新潟県中魚沼郡津南町長野県下水内郡栄村にまたがる秋山郷
    源頼朝に敗れた平勝秀が落ち延びたとされる。
  • 五箇山富山県南砺市
    倶利伽羅峠の戦いで敗れた者の子孫という説、あるいは源義仲に敗れた平維盛の子孫が住みついたという説がある。この話をもとにしたのが「むぎや」である。
  • 石川県輪島市
    平時忠が配流となり、子孫が上時国氏、下時国氏を興した。
  • 石川県加賀市山中温泉真砂町(まなごまち)
    惟喬親王を奉ずる木地師集落。山中漆器の源とされる。[3]
  • 福井県福井市赤谷町(あかだにちょう)
    平維盛は父の所領であった越前国に落ち延び、山伏の修行場所であった赤谷に隠れ住んだという言い伝えが残っている。維盛は赤谷で約30年間生き、次第に血筋が増えて一つの村になったという。宮中の流れをくむという風習が現在も受け継がれている。[4]
  • 福井県越前市五分市町(ごぶいちちょう)にある城福寺
    城福寺は平保盛鎌倉時代に建立し、現代に至るまで平家の子孫が住職を務めている。後の平家追討の中で保護されたのは池禅尼の尽力によるものと伝えられている。[4]
  • 福井県大野市西谷地区・和泉地区
    この地域ではあちこちの集落に平家の落人伝説が残されている。集落の高齢化過疎化ダム建設に伴い、消滅集落となったところも多い。特に大野郡西谷村(現・大野市西谷地区)では全住民が離村し、1970年6月30日限りで廃村となった。西谷村には平家の落人にまつわる「平家踊」や「扇踊」(ともに県指定無形民俗文化財)が伝わり、村が廃村となった今でも旧村人が大野市内で踊を続けている。
  • 長野県伊那市長谷浦
    檀ノ浦の戦いに敗れた平維盛の子孫が住み着いたと言われている。維盛の父である平重盛が小松殿と呼ばれていたことから、小松姓を称した。檀ノ浦の「浦」が地名となった。
  • 静岡県富士宮市上稲子(かみいなこ)
    紀州にて入水したという伝承が伝わり、同地には平維盛のものとされる墓が伝わる。現在のものは墓は天保11年(1840年)の再建。「上稲子の棚田」に墓が建っている。

近畿地方

中国地方

  • 鳥取県八頭郡若桜町
    平経盛が郎党らと落ち延びて、自刃したと伝わる。
  • 鳥取県八頭郡八頭町姫路
    安徳天皇らが落ち延びたという伝説が残る。天皇に付き従った女官などのものとされる五輪塔が存在する。
  • 鳥取県東伯郡三朝町中津
    安徳天皇が落ち延びたという伝説が残る。
  • 岡山県久米郡久米南町全間
    平維盛が落ち延びて、其の後裔が持安氏と称して幕藩体制で全間を治めた。全間(またま)から連続する大垪和にかけて山上の隠れ里のようになっており、平氏、貴族、関ヶ原で敗れた石田氏などさまざまな落人伝説が伝わる。
  • 広島県庄原市
    「敦盛さん」という民謡(市の無形民俗文化財)が伝わっている。その内容によると、熊谷直実に討たれたとされる平敦盛が実は生きて庄原に落ち延びたという話になっている。
  • 広島県福山市沼隈町横倉地区
    この地に落ち延びた平通盛一行は、山南川を奥へと分け入り横倉に隠れ住んだという伝承があり横倉には平家をしのぶ痕跡が多数あり平家谷とよばれている。なお平通盛は清盛の弟教盛の長男。また当地にある赤旗神社には平家の軍旗である「赤旗」を祀っている。
  • 広島県尾道市百島
    壇ノ浦の戦い後敗走した平家一族が、落ち延びた島と言われている。
    ここに落ち延びた平家は旗を埋めて”旗”、平家の平と言う文字に似ている”手”を加え”旗手”と言う姓を名乗るようになったと言われている。戦国時代は、毛利水軍(村上水軍)に属したとも
  • 山口県岩国市錦地域
    平家の武将を葬った平家七墓があるという。
  • 山口県下関市彦島
    山口県彦島にも平家の残党と伝わる落ち武者達が後年来訪したことが伝わる。この武者は、平家の守本尊の阿弥陀如来像を持参し、再興の夢を持ったが、法師にさとされ、彦島の発展に尽力したとされる。
  • 山口県下関市大字高畑
    壇ノ浦の戦いがあった早鞆の瀬戸から直線距離で約2kmしか離れていない谷間の集落。あまりに近すぎたため追手に気づかれなかったと言い伝えられている。平家塚と呼ばれる場所に五輪塔などがある。
  • 山口県萩市(旧川上村
    平清宗一党が築いた隠れ里を由緒とする村落がかつて存在したが、昭和50年に建設された阿武川ダムの底に水没している。清宗の墓とされる五輪塔が現存する[5]

四国地方

  • 徳島県三好市東祖谷阿佐
    屋島の戦いに敗れた平国盛率いる30名の残党が、讃岐山脈を経て、阿波へと入り、現在の徳島県東みよし町から三好市井川地区にかけての一帯に住んだが、追手に脅かされ、祖谷に住んだと伝わる。阿佐集落に、平家の末裔と言われる阿佐氏が居住し、平家屋敷や、平家のものと伝えられる赤旗(軍旗)が数百年前から現存する。この東祖谷阿佐の平家落人伝説は、遺物が残っていることから学界の注目を集めており、松永伍一や角田文衛が論考を発表している。角田によれば、平家の赤旗は古過ぎて年代比定が出来ず、少なくとも平国盛が屋島の戦い以降消息不明であり、九条兼実『玉葉』では逃亡したと記されていることから、他の平家落人伝承より注目度が高いとしている。[6]
  • 徳島県三好市東祖谷栗枝渡
    安徳天皇が逃れて隠れ住み、同地で崩御したという。栗枝渡八幡神社には、安徳天皇を火葬した「安徳天皇御火葬場」があり、遺骨を御神体として祀っている(『美馬郡誌』)。
  • 切山(愛媛県四国中央市金生町山田井)
    元暦元年(1184年)6月、田邊太郎・平清国(清盛の外孫)、真鍋次郎・平清房(清盛の八男)、参鍋三郎・平清行、間部藤九郎・平清重、伊藤清左衛門国安(紀州熊野神社修験者)ら五士とその一族が、幼い安徳帝(平清盛を外戚に持つ幼帝)を守護し、祖谷から山道を歩き続けて切山に辿り着いた。切山は昔、「切明山」「霧山」「桐山」等とも呼ばれていた。安徳帝は半年間切山で過ごした後、平知盛、平教経らの迎えをうけ下谷越えから田野々へ下り、讃岐詫間の須田ノ浦から船で長門国赤間へ向った。
※切山にある主な遺跡
院の墓の碑…壇ノ浦での平家敗北を知り、再挙の夢が消え去った人々は、安徳帝の御衣と御念持仏を此処に埋め、仮の御陵としたとされる。
土釜神社…真鍋次郎平清房、田邊太郎平清国の子孫が祀られている。
土釜薬師…帝の安泰を祈って祀られた。五士が最初に辿り着いた所とされ、警備の要となっていた。
下谷八幡宮上の宮…安徳帝の安泰と、平家の武運長久を祈って祀られた。推古6年(598年)宇佐八幡宮から分霊された、十四代仲哀天皇、十五代神功皇后が祀られている。
八幡宮の側に、安徳帝を祀る祠・安徳宮が鎮座する。安徳の窪500m、安徳の渕100m、安徳の滝1km、安徳帝下向道、詫間町須田浦へ30kmと書かれた石碑が建つ。
安徳の窪…安徳天皇行在所の碑が建つ。
下谷八幡宮下の宮…鳥居を潜り参道を上がって行くと、石段脇に宮石灯籠と刀石が並んでいる。この刀石は、安徳帝が神器の一つである宝剣を置いたとされる自然石。
鳥居側に熊野権現社が祀られている。
  • 平家谷(愛媛県八幡浜市保内地区)
    壇ノ浦の戦い後、落ち延びた残党が佐田岬半島の伊方越にたどり着き、宮内川上流の谷に隠れ住んだとの言い伝えがある。8名で畑を開き暮らしていたが、源氏の追っ手の知るところとなり、6名は自害、残った2名が両家集落の祖となったという。平家谷には平家神社がまつられている。
  • 高知県〜愛媛県〜徳島県の山地一帯
    高知県の越知町(おち = 落ち?)にある横倉山に安徳天皇陵墓参考地がある。またその周辺に県境とは無関係に屋島からたどり着いた平家の人たちが分散して隠棲したとの言い伝えがある。横倉山の前を流れる川を仁淀川と名付けたほか、京都ゆかりの地名が多く存在する。当時京の北の守りであった藤社神社から北の集落を藤社と呼んだりした。歴代皇族とそっくり同じつくりの立派な陵が、非常に険しい山中にひっそりと建立される姿は尋常では説明が付かないものの、安徳天皇の墓であるという確証はない。ただし周辺に点在する平家一門の隠れ里では明治に入るまで墓石がなく石に名前を書いて並べ置く風習があったがこれは戦時の伊勢平氏一門の風習と合致するうえ香川県の屋島→徳島県の東祖谷→と逃れた平家一門が最後に住み着いた場所である可能性は高い。愛媛県にある平家追討軍が引き返したという地にはひっそりと「平家終焉の地」の碑があるがそのすぐ南には仁淀川が流れ平家の隠れ里がある。村おこしや明治以降の尊王思想でできた派手な周辺施設の多くは後の創作物と思われ本物の末裔は余りの不便さでほとんどは都会でひっそり暮らしている。

九州地方

  • 福岡県北九州市八幡西区上上津役
    乳飲み子を連れた平家方の女性が源氏方の武者に赤子の声を聞かれ、見つかりそうになり親子ともども命を絶ったという伝説がある。
  • 福岡県北九州市小倉南区合馬
    安徳天皇に随行した官女が遊女となり、後に病死したという伝説がある。
  • 福岡県糸島市二丈満吉唐原地区
    平清盛の嫡男、平重盛の内室と二人の姫(「千姫」「福姫」)が侍女や郎党と一緒に筑前の武将である原田種直を頼って落ちのびてくる。種直は人目につきにくい唐原(とうばる)の里に一行をかくまった。隠れ住んで1年ほどがたったころ、源氏からの刺客が唐原に差し向けられ、2人の姫を殺害。この事件を目の当たりにした内室は自害したという伝説がある。唐原には、この伝説を物語る遺跡として、落人一行が京都を懐かしんで上った「都見石」(みやこみいし)や重盛の遺髪を納めた「黒髪塚」などが残る。
  • 福岡県筑紫郡那珂川町安徳
    同地安徳台は源平合戦の最中、現地の武将・原田種直が帝を迎えたという。『平家物語』では平家は大宰府に拠点を築こうとしたものの庁舎などは戦火で消失していたため、帝の仮の行在所を「主上(帝)はそのころ岩戸少卿大蔵種直が宿処にぞましましける」と記述している。
  • 長崎県対馬市
    安徳天皇が落ち延びて住んだという伝説がある。
    対馬の宗家は新中納言平知盛の末裔と自称している。[7]
  • 長崎県佐世保市
    平家盛が上陸して当地の領主となり、宇久氏(後の福江藩主五島氏の前身)を名乗ったという[8]
  • 佐賀県唐津市
    平清経が逃げ落ちて、釣田氏を名乗ったという。[9]
  • 熊本県八代市泉地区
    平清経が当地にある五家荘に落ち延びたとされる。平家の落人の伝承という「久連子古代踊り」があり、国選択無形民俗文化財となっている。
  • 熊本県球磨郡五木村
    五家荘に落ち延びた落人と同族という説がある。
  • 熊本県八代市坂本地区
    市ノ俣(げずのまた)にて伝承される。
  • 大分県宇佐市院内区域
    平家七人塚、経塚の由来記。宇佐にいた平家一門が駅館川の支流の院内川を遡って大門に辿り着いた。大門の地は、平安時代に宇佐神宮に参籠した僧の行基菩薩が開山したと伝えられる龍岩寺周辺に仏典を書き写して、経筒に納め埋納した経塚がある。信仰厚い平家落人が住むには安全な地だった。門脇中納言平教盛公の子孫らは矜持を保ち塚を築いた。現在も「門脇」を姓とする子孫一族がいる。
  • 宮崎県東臼杵郡椎葉村
    江戸期に著された「椎葉山由来記」によると、下野国の住人・那須宗久(通称は大八郎、那須与一の弟とされる)は、平氏残党追討のため日向に下り、向山に拠った残党を追討。次いで椎葉に赴いたが、残党に戦意はなく追討をとりやめた。宗久は現地で平清盛の末孫とされる鶴冨姫と恋仲になり娘が生まれた。やがて、宗久は本領へ引き上げたが、娘婿が那須姓を名乗り椎葉を治めたという。椎葉の国人・那須氏は宗久の子孫とされる。この一連の逸話を謡ったものが宮崎県の代表的民謡ひえつき節である。椎葉には、国指定重要文化財に指定されている那須家住宅の「鶴富屋敷」が観光施設として残されている[10]
  • 鹿児島県指宿市
    鹿児島民具学会発行『鹿児島民具』14号に、旧山川町尾下について、「落人の里の民俗」として言及あり。
  • 鹿児島県鹿児島郡三島村
  • 平清盛の孫行盛の遺児が、北条時政の養子となり時信と名乗って種子島に入ったとされる。
  • 鹿児島県 種子島 西之表市中種子町南種子町
    種子島氏と一緒に移ってきた家来衆(遠藤、平山、鎌田姓)も平氏と言われる。特に中種子町には平家由来の平(たいら)姓の者も多い。
    平経正平業盛らのほか、30あまりの史跡があるとされる。
  • 鹿児島県大島郡奄美群島
    平家一門の平資盛が、壇ノ浦の戦いから落ち延びて約3年間喜界島に潜伏、弟の平有盛、いとこの平行盛と合流して、ともに奄美大島に来訪したという。2005年に平家来島800年記念祭が行われた。柳田國男は「モリ」というのは郷土の神の名であり、後世になってこの伝説は作られたのではないかと考えているが異論も多い。
    • 喜界町志戸桶(喜界島)、奄美群島に到着した平家が最初に築いたと言われる七城跡がある。
    • 喜界町早町、源氏警戒のため築いた城跡がある、平家森と呼ばれている。
    • 奄美市名瀬浦上(奄美大島)、有盛を祀った平有盛神社がある、有盛が築いた浦上城跡と言われている。
    • 瀬戸内町諸鈍(加計呂麻島)、資盛を祀った大屯(おおちょん)神社がある。
    • 龍郷町戸口(奄美大島)、行盛が築いた戸口城跡がある。現地には行盛を祀った平行盛神社もあるが、城跡とは離れている。
    • 龍郷町今井崎(奄美大島)、行盛により今井権田大夫が源氏警戒のため配された、今井権現が建っている。
    • 奄美市笠利町蒲生崎(奄美大島)、有盛により蒲生佐衛門が源氏警戒のため配された。
  • 鹿児島県垂水市牛根麓
    硫黄島から移って来た安徳天皇が13歳で崩御し、居世神社に祀られているという。
  • 運天港沖縄県国頭郡今帰仁村
    おもろさうし』の「雨降るなかに大和の兵団が運天港に上陸した」とある記述は「平維盛が30艘ばかり率いて南海に向かった」という記録を基に平維盛一行のことだとされることがあり、いわゆる「南走平家」の祖として沖縄史では盛んに議論が行われている。
  • 沖縄県宮古島狩俣
    落武者の物という古刀など遺品が伝わる。また平良という地名は平家の姓に由来するものという。
  • 沖縄県竹富島
    赤山王は平家の落人で、竹富島に流れ着いたとの言い伝えがある。なごみの塔は居城跡とされる。
  • 沖縄県西表島
    16世紀初頭の豪族慶来慶田城用緒は、平家の末裔であると称していたことが知られる。

資料館


  1. ^ 柳田「伝説」岩波新書、筑摩書房版柳田國男全集等所収
  2. ^ 『遺伝Q&A』 (中込弥男/著 裳華房 2000.9 ISBN 4-7853-8723-8
  3. ^ 『大聖寺川上流域の歴史』 大聖寺川上流域の歴史編纂委員会、ホクトインサツ、小松市日の出町(原著2009年4月5日)、初版、120頁。
  4. ^ a b 2011年7月30日 福井新聞 21面
  5. ^ 吉岡一生『山口伝説散歩 : 防長写伝』、NCID BA78408512、2001年、p.95
  6. ^ 角田「平家後抄」講談社学術文庫
  7. ^ 角田「平家後抄」講談社学術文庫ほか
  8. ^ 離島活性化の取組み― 佐世保市の離れ島“宇久島”― (PDF)”. 国立国会図書館デジタルコレクション (2008年8月). 2015年4月18日閲覧。
  9. ^ 「北波多村史通史編Ⅰ・通史編Ⅱ」唐津市2011年12月完成発行
  10. ^ 椎葉村観光協会 - 鶴富屋敷


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