左翼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/10 15:43 UTC 版)
歴史
フランス革命以降
フランス革命直後の国民議会では、王党派に対して共和派が「左翼」と呼ばれた。フランス革命第二期では右翼のフイヤン派が没落し、今まで左翼だった共和派が支配的となる。しかし、政策を巡って再び左右で割れ、新しい軸が生まれる。そして右側には穏健派のジロンド派が座り、左側には過激派のジャコバン派が座ることとなった。
1793年には左翼のジャコバン派が国民公会からジロンド派を追放し、ジャコバンが目指した共和政ローマに似た独裁政治が敷かれた。しかし、ジャコバン派は新興資本家寄りのダントン派と労働者層寄りのエベール派に分裂する。ロベスピエールは両者を粛清して、恐怖政治を強めた。1794年にはテルミドールのクーデターが起き、ジャコバン派が次々と投獄・処刑される(当時はジャコバン派の熱烈な支持者だったナポレオン・ボナパルトもこれに含まれた)。このクーデターによって王党派が復活し、左翼は一時衰退する。
1871年には史上初の社会主義政権であるパリ・コミューンが成立した。
20世紀はもっぱら大学教員などの知識人が大衆の左翼運動を指揮し、欧州やロシア、東アジアではマルクス主義が台頭した。また、欧州では同時に穏健派の社会民主主義も勢力を増大させた。絶対王政が続くロシアでの革命は成功し、1922年にソビエト連邦が建国した。初代最高指導者のレーニン死後は世界革命を主張するトロツキーが失脚させられ、後継には一国社会主義を主張するスターリンが権力を掌握した。スターリンの独裁体制は、政敵や無辜の民に対する大粛清を行うなど恐怖政治が横行した。
帝政からの解放者としてのソ連共産党が全体主義的な傾向を強めていき民主主義色が薄れていったため、マルクス・レーニン主義から欧州の知識人も離反していった。それゆえ、西欧の共産党や急進左派は反ソ連・反スターリンの傾向を強め、リベラリズムとの親和性が高いユーロコミュニズムを提唱していくことになった。
1980年代半ば、ソ連最後の指導者ミハイル・ゴルバチョフは、ペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)政策を導入し、共産党を維持しつつ経済の自由化を目指した。彼の在任中には冷戦が終結し、中・東欧のマルクス・レーニン主義体制が崩壊した。ソ連内で民族主義・分離主義運動が盛んになり、一部の共和国は独立を宣言した。それに反発したソ連共産党の強硬派が、ゴルバチョフに対しクーデターを起こしたが、エリツィンを中心に阻止され失敗した。これによりソ連共産党は失墜し解体された。ゴルバチョフは1991年12月25日に辞任し、ソビエト連邦最高会議も解散、ソビエト連邦は崩壊した。ロシア連邦はソ連の権利と義務を継承し、国際的に認められた継続的な法的人格となった。
資本主義を認める穏健左派などと呼ばれるリベラリズム・社会民主主義は欧州(特にフランス・ドイツ・イギリス・北欧など)において福祉国家を建設した。ヨーロッパ大陸の福祉国家は、資本側と労働者側が政府を仲介として協調する(ネオ・コーポラティズム)ことに特色がある。
これに対し、イギリスの社会民主主義は階級制度の残存への対抗から、階級闘争勢力としての社会主義が根強く、ヨーロッパ大陸の左派勢力の福祉国家路線とはやや形態が異なっていた。イギリスの社民主義は、1990年代に新自由主義を大きく取り入れ、第三の道と言われる方向に変化していく。
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