山梨県 歴史

山梨県

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/12/02 15:38 UTC 版)

歴史

先史時代

甲斐銚子塚古墳

甲府盆地では釜無川笛吹川が流れ両河川の氾濫原が広がっており、郡内地方では富士山の火山活動による影響も受け、定住が困難な時代が続いていた。

旧石器時代の遺跡は長野県との八ヶ岳山麓や静岡県の愛鷹山箱根山など隣接する文化圏に属する地域や桂川流域を中心に分布する。最古の一杯窪遺跡(都留市)や立石遺跡(甲府市)をはじめ、八ヶ岳山麓の丘の公園内遺跡群(北杜市)や神津島産の黒曜石が出土した横針前久保遺跡(北杜市)長野県産の黒曜石が発見された天神堂遺跡などが代表的で、周辺地域に比べ密度は低いものの、周辺地域との人的移動を示す資料が発掘されている。

縄文時代草創期から前期には引き続き涌水の沸く山麓部や富士北麓などに遺跡が分布し、後期旧石器から草創期への移行期にあたる神取遺跡(北杜市)や関東文化圏の影響が見られる池之元遺跡(富士吉田市)が出現する。中期には盆地にも進出し、大規模な集落遺跡である釈迦堂遺跡群(笛吹市、甲州市)や重要文化財に指定されている精巧な土器の出土した一の沢遺跡、豊富な生活遺物が出土している花鳥山遺跡などが出現し、縄文農耕論にも一石を投じた有孔鍔付土器など学史上注目されている遺物も出土している。また、盆地西部の西郡地域は釜無川の氾濫原であり考古遺跡は乏しいが、近年では精巧な土器や土偶が出土した鋳物師屋遺跡が発掘され注目されている。

後晩期には地球的な寒冷化の影響を受けて遺跡数が減少するものの、石組や配石遺構など祭祀施設であると考えられている八ヶ岳南麓の金生遺跡(北杜市)や牛石遺跡(都留市)などが出現する。また、郡内地方の桂川流域では関東地方との交流が見られる遺物が出土している。

弥生時代には身洗沢遺跡金の尾遺跡などの集落遺跡があり、宮の前遺跡(韮崎市)では水田が確認されている。盆地南西部の曽根丘陵では東海地方経由で弥生文化が流入し、方形周溝墓が見られる上の平遺跡など古墳時代に至る遺跡がある。

古墳時代の4世紀後半には畿内で確立したヤマト王権と政治的接触を持っていたと考えられており、曽根丘陵では4世紀前半の前方後方墳である小平沢古墳をはじめ、4世紀後半には最大規模の甲斐銚子塚古墳岡銚子塚古墳などの有力首長クラスの前方後円墳が出現し、三角縁神獣鏡などの副葬品も出土している。5世紀には中道勢力が衰退し、古墳の造営は盆地各地へ拡散する。

古代

酒折宮
酒折宮
大善寺
大善寺

古代には律令制下において甲斐国が成立するが、『日本後紀』延暦16年条によれば甲斐東部の都留郡の帰属をめぐっては隣接する相模国との間で争論があったという。甲斐国は五畿七道では東海道に属し、山梨・八代・巨摩・都留の甲斐四郡が成立し、郡郷は『和名類聚抄』に31郷が記載されている。山梨・八代両郡は古代甲斐国の政治的中心地で、国府は山梨郡笛吹市春日居町に前期国府が存在し、八代郡の笛吹市御坂町に移転されたと考えられている。官道は東海道横走宿から分岐して都留郡を経て甲府盆地に入り甲斐国府に至る甲斐路が存在していた。四郡のうち甲斐西部の巨摩郡は渡来人の入植により成立した郡であると考えられている。

一方、『古事記』『日本書紀』(記紀)に記される日本神話においてはヤマトタケル(倭建命、日本武尊)の東征において足柄山から甲斐へ入り、酒折宮(甲府市酒折)において老人と歌を交わす説話を記している。記紀に記される日本神話には両書が成立した奈良時代の歴史認識が反映されているものと考えられているが、考古学的にも甲斐においては古墳後期の4世紀後半代から畿内の影響下にあったと考えられており、酒折宮伝承にもヤマト王権と甲斐の在地豪族との関係が反映されているものと考えられているほか、足柄山から甲斐国へ至ったヤマトタケルの遠征ルートは古代の交通体系を明らかにする上でも注目されている。

また、『続日本紀』においては甲斐国司田辺史広足が黒毛の駿馬を朝廷に献上した甲斐の黒駒に関する説話が記されているが、『延喜式』によれば東国では甲斐をはじめ信濃・上野・武蔵の四国に御牧が設置され馬産が行われていたことが記されており、駿河国正税帳や長屋王家木簡などの出土文字資料からも朝廷への貢馬が確認されている。『延喜式』によれば甲斐には穂坂牧、真衣野牧柏前牧の三御牧が設置されていたという。

平安時代には市河荘や八代荘などの荘園が成立し、国府所在地である甲府盆地東部では在庁官人である三枝氏が八代荘を勢力基盤とした。『長寛勘文』によれば王保2年(1162年)には三枝氏に打撃を与えた八代荘停廃事件が発生している。

平安時代後期には常陸国から源義清・義光が市河荘に配流され、義清・清光の子孫は甲府盆地の各地へ土着し甲斐源氏となる。

中世

平安時代後期に甲斐源氏の一族は平氏政権に対する源頼朝の挙兵に従い、甲斐源氏の棟梁となった武田氏甲斐国の守護となる。武田氏は中世には必ずしも甲斐守護を歴任していないが、鎌倉幕府滅亡後に北条時行ら北条氏の残党が起こした中先代の乱までは北条方に属し、南北朝時代には建武政権から離反した足利尊氏に従った。

室町時代には幕府と鎌倉府の対立、鎌倉府における鎌倉公方関東管領の対立など関東地方の騒乱の影響を受け、上杉禅秀の乱では守護武田氏が乱に荷担し追討を受け甲斐は守護不在状況となり、反守護勢力の逸見氏が活動し国内は混乱した。室町後期には幕府の意向で武田氏の守護復帰のため入甲した跡部氏が台頭するが、守護武田信昌は跡部氏を排斥し、国内統一を勧めた。

戦国時代にも国内の争乱や隣国との抗争は続いたが、武田信虎は国中地方の有力国人勢力や郡内領主の小山田氏など従属させ、抗争を続けていた駿河の今川氏や相模の後北条氏とも和睦する。また、新たに甲府を拠点とした城下町整備を進め、国内統一を完成した。戦国期には武田氏による一円支配が行われているが、郡内の小山田氏や河内地方を領する穴山氏などの国衆はそれぞれ独自の支配を行っている。

武田晴信(信玄)は信虎後期の拡大志向を継承し、甲相駿三国同盟を背景に信濃侵攻を行い越後の上杉謙信川中島の戦いを繰り広げ、後期には西上野侵攻や今川領国への侵攻(駿河侵攻)を行い最大領国を達成し、三河・遠江への侵攻も行い織田・徳川勢力と対抗した。また、信玄期に確立した大名権力により独自の領国支配が展開され、検地の実施や棟別諸役の整備、躑躅ヶ崎館を中心とする甲府の城下町整備、黒川金山湯之奥金山など近世まで稼働した甲州金山の開発、信玄堤の築造など治水事業が行われている。

勝頼期には長篠の戦いによる武田領国の動揺を招き、天正10年(1582年)3月、織田信長の甲州征伐で武田氏は滅亡した。武田遺領は織田家家臣に分配され、甲斐は河尻秀隆の領土となった。同年6月に信長が横死し、空白地帯となった武田遺領を巡って徳川氏と後北条氏による天正壬午の乱が起こり、甲斐国は徳川家康の領土となった。

家康は豊臣秀吉に帰服し、天正18年(1590年)には駿府から江戸に移封され、甲斐国には浅野長政ら豊臣系大名が入った。豊臣政権下で甲斐は東国の家康に対する拠点として重視され、甲府城の築城や甲斐国内の検地などが行われた。

近世

甲府城跡
甲府城跡
身延山久遠寺
身延山久遠寺

天正10年(1582年)、武田氏の滅亡・本能寺の変後の情勢で甲斐・信濃の武田遺領を巡る徳川家康と越後上杉氏、相模後北条氏との天正壬午の乱を経て、甲斐は徳川氏により確保される。徳川氏は甲斐を含む五カ国を領有し豊臣政権に対峙するが、やがて豊臣政権に服従する。家康は関東移封となり、徳川領国に接する甲斐には豊臣系大名が配置された。徳川氏・豊臣政権期に甲斐では天正18年(1590年)に甲府城が新たに支配拠点として築城され、新府中としての城下町整備もはじまった。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後には徳川家康が主導した大名の再配置が行われ、甲斐では浅野氏が和歌山へ移封され再び徳川氏による直轄支配が行われた。甲斐国は関東に近い位置から関東防衛の要所として重視され、国中には将軍直系、郡内には譜代大名が配置され(谷村藩)、代官支配江戸幕府が行われた。江戸時代には甲府徳川家が入封し、藩政機構が整えられた(甲府藩)。宝永元年(1704年)に綱豊(徳川家宣)が将軍後継になると、川越藩柳沢吉保が受封し、吉保の子吉里は甲府藩主ではじめて国元へ入っている。ほか、甲斐には旗本領も存在していた。

享保の改革においては幕府直轄領の整備が行われ、享保9年(1724年)に吉里が大和郡山に転封されると甲斐は幕府直轄領化され、谷村藩も秋元氏の転封後は直轄領化された。甲府町方は甲府勤番、在方は甲府代官所をはじめとする三分代官による支配となり、郡内は石和代官所の出張陣屋である谷村代官所が設置された。延享3年(1746年)には御三卿の賄領がおかれ、うち田安領のみは幕末まで存続した。

近世甲斐は甲府城下町、谷村城下町の城下町のほか在郷町身延山久遠寺門前町や富士北麓の吉田・川口の御師町など都市や町場が発達し、甲州街道駿州往還、佐久往還、青梅往還をはじめとする諸街道が整備された。江戸初期には角倉了以による富士川の開削工事が行われ富士川舟運や中馬による陸上輸送が発展し、江戸後期には甲斐・信濃の年貢米の廻米輸送が行われた。

近世には領主権力の確立により治水や用水路の開削が行われ、釜無川・御勅使川の治水や徳島堰の開削、郡内での谷村大堰や新倉掘抜の開削などが行われ、甲府城下でも甲府上水が整備される。治水の進捗に伴い在方では新田開発が進み、養蚕織物など産業が発達した。甲府盆地では一般に米麦栽培に商品作物の栽培、農閑期の行商や大工などの農間余業を組み合わせた生業形態が一般的であったが、甲斐では国土の多くを山地が占めるため山村では林業や狩猟、製炭や漆採取、鉱山経営などの山の生業が発達し、特に郡内では平坦地が少ないため織物の生産や街道沿いでの駄賃稼ぎの占める割合が高い。こうした生業的特徴から甲斐では水利を巡る水論や山の用益を巡る山論が多発している。

また、甲斐では金納税制である大小切税法や甲州金甲州枡の甲州三方が独自の国制として存在し、領主側の廃止や改正に対して領民は存置を求め抵抗している。また、領主側との衝突や災害・凶作などに伴う百姓一揆も発生し、米倉騒動や太枡騒動、江戸後期には郡内に発する百姓一揆から無宿・悪党を巻き込み一国規模の騒動となった天保騒動など大規模な百姓一揆も発生した。

文化面では甲府城下町の発達により遊芸文化が興隆し、甲府藩時代には大名文化、江戸後期には町人文化が発達する。甲府勤番・勤番士は学問的関心を持ち、甲斐国の総合地誌である『甲斐国志』の編纂や勤番士による『裏見寒話』など地誌の編纂が行われ、勤番士の学問所である徽典館も開かれた。甲府では町人亀屋与兵衛が芝居小屋である亀屋座を開業し、歌舞伎や相撲、人形浄瑠璃などの諸芸興行を行い、1841年(天保12年)には甲府町人が江戸の人気浮世絵師である歌川広重を招き、城下の大通りを広重ら人気浮世絵師の幕絵で飾る甲府道祖神祭礼を創始した。ほか、俳諧や和算なども発達する。

また、武田信玄は近世から甲斐領民の尊崇を集め、武田氏館跡や墓所、武田氏に関係する寺社などが古跡として成立したほか、近世には軍学書である『甲陽軍鑑』が成立し、関係書を含めて武家・庶民の間でも広く読まれ影響力を及ぼし、武田家に関する文学や浮世絵なども製作された。

江戸後期は東国に特徴的な農村の荒廃から無宿・博徒が増加し、竹居安五郎黒駒勝蔵など甲州博徒が台頭した。幕末には横浜の開港に伴い甲州屋忠右衛門若尾逸平ら在方商人が甲州産物を移出して富を築き、若尾逸平は甲府において製糸業に着手し新興商人として台頭し、明治期には甲州財閥を形成する。

明治維新から終戦まで

睦沢学校(現・藤村記念館)

慶応4年(明治元年、1868年)3月、甲府城へ入った新政府の板垣退助率いる甲州街道軍と、近藤勇率いる旧幕府軍の甲陽鎮撫隊新選組)が勝沼甲州市の一部)大善寺で激突。旧幕府軍は駆逐され、甲州鎮撫府が設置された。

同年10月19日旧暦9月4日)、甲斐国内に府中県県庁所在地は山梨郡甲府)、市川県石和県が設置され、12月11日旧暦10月28日)にこれら3県を統合して甲斐府が設置された。明治2年(1869年8月27日旧暦7月20日)、「」の呼称が京都府東京府大阪府に限定されたことから、甲斐府は甲府県と改称した。

明治3年(1870年)5月に田安領を併合し、明治4年(1871年8月29日旧暦7月14日)の廃藩置県後も甲府県は存続したが、同年10月末(旧暦)に始まる第1次府県統合により、旧韮山代官所を引き継いだ韮山県の甲斐国内管轄区域などを統合して12月31日旧暦11月20日)に甲斐国全域を管轄区域とする山梨県が発足した。県庁所在地は引き続き山梨郡甲府、初代県令には土肥実匡が任ぜられた。1873年(明治6年)に着任した藤村紫朗殖産興業政策により、製糸業の勧業や道路整備、金融機関の整備が行われた。特に青梅街道の改築など道路整備を推し進めたことから、藤村は「道路県令」とも呼ばれている。

1909年(明治42年)には甲府連隊(歩兵第49連隊)が設置された。第二次大戦中には疎開地でもあったが、1945年(昭和20年)7月には、甲府空襲によって甲府は灰燼と帰した。

戦後から現在まで

※日本の占領時代については「連合国軍占領下の日本」を参照。 終戦後、1945年(昭和20年)9月にはアメリカ軍第8軍の部隊が甲府へ進駐。年末には戦闘部隊は引き上げ、少数の山梨県軍政部が県庁周辺の洋風建築を接収して県内の監視を行う。県内人口は復員兵や疎開者の帰還で増加し、戦時期の山林荒廃から災害被害もあり食糧事情は悪化。当局により新潟県からの移入米の配給や米軍の食糧放出など対策を講じるが食糧難はしばらく続き、ヤミ米が流通した。

連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による改革を受け県内でも政党活動や新聞の発行などが再開される。1946年(昭和21年)には内務省官僚による地方支配に代わり公選知事が導入され、1947年(昭和22年)の第一回県知事選では保守派合同の推薦で吉江勝保が当選し、初代公選知事となる。吉江は1948年(昭和23年)2月に食料増産や山林復旧など10大政策を掲げるが、財政難などの制約もあり産業基盤の復興もままならず、社会福祉制度も構想のみに留まった。

1951年(昭和26年)の知事選では民主党代議士天野久が擁立され、吉江知事を破り当選。天野「富める山梨」を掲げ、利水に乏しい甲府盆地西部の御勅使川扇状地を開発する野呂川総合開発に着手し、計画は国の援助を受け上水道や県営発電所の建設が行われた。また、新笹子トンネル建設による幹線道路の整備は高度経済成長期とも重なり、果樹農業や観光の振興にも繋がった。一方で、天野県政期には開発による災害があり、北富士演習場問題が発生する。

1967年(昭和42年)に天野知事を破り3代知事となった田辺国男は「健康山梨」を掲げ、一村一工場誘致を方針に工業団地造成や幹線道路整備を行う一方で、開発により環境破壊が顕著となっていたため環境保護にも配慮したグリーン・プランを提唱する。一方で連峰スカイライン構想を具体化させると批判が相次ぎ、北富士演習場問題の膠着やオイルショックの影響による不況も重なった。文化事業では、1978年(昭和53年)にはフランスの画家ミレーの「種をまく人」を二億円で落札購入した山梨県立美術館を創設。

田辺県政は日本経済の好景気化も受け4期目をめざすが、中央政界で前天野知事を支持した自民党政治家金丸信が影響力を強めると県議会においても金丸派が最大派閥となり、これに社会党県連が4選阻止のため提携し副知事の望月幸明を擁立し、1979年(昭和54年)の県知事選では田辺知事を破り当選。望月県政は金丸信の後見を受けて県議会でのオール与党体制を確立し、北富士演習場問題の小康やバブル景気の後押しを受け、1986年(昭和61年)のかいじ国体の実施や県有林の高度活用、リゾート施設の造成、リニア実験線の建設などを実施。

地方病流行終息の碑

1965年(昭和40年)までに県内の中央本線が複線・電化され、1982年(昭和57年)には中央自動車道が全線開通。また石和温泉や富士五湖、清里などの観光地が整備され、東京都区部からの日帰り観光地としても発展した。

バブル景気が崩壊すると県内の景気も一気に低下。甲府中心地の地価が15年連続下落し、また清里などのリゾート地も衰退する。一方で郊外のベッドタウンではイトーヨーカドーアピタといったショッピングセンターが次々と開業し、甲府西武ダイエー湯村SCが撤退し停滞する甲府中心街を尻目に発展を遂げている。

望月知事が4選を断念し、1992年(平成4年)に望月県政を批判し金丸派候補を破り当選した天野建知事(父は上記の天野久)は財政難の中公共工事の見直しを行いつつ「幸住県やまなし」事業を実施。山梨県立博物館の建設推進や排水路整備の推進をおこない、1996年(平成8年)には長年県民を苦しめてきた日本住血吸虫地方病)の終息宣言を行う。

天野知事の後、2003年(平成15年)からは前甲府市長山本栄彦が知事に就任。バブル崩壊後手付かずだった甲府駅北口の整備や中部横断自動車道増穂IC以南の着工を推進。しかし県政の混乱が発生し、2007年(平成19年)の選挙で横内正明に敗れ、山本県政は1期で終焉した。

2003年(平成15年)より平成の大合併が行われ、64あった市町村が27(2010年(平成22年)3月現在)まで集約された。




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  1. ^ 山梨郡の名前の由来は「旧春日居町にある山梨岡神社の裏山に梨の有名な古木があり、そのためこの地域はいつしか山梨と呼ばれるようになった」という付会伝説が存在しているため、果物のヤマナシに由来していると思われがちである。しかし残簡風土記には「山無瀬」、737年天平9年)の駿河国正税帳には「夜萬奈之」と記されており、語源としては「山平らす(やまならす)」、つまり甲府盆地の高低の少ない平坦な様子を表す言葉が次第に「やまなし」へ転化したとみるのが妥当である。そして713年和銅6年)に「諸国の郡郷名は好字(よきじ)で著せ」とする和銅官命が出されたことにより、「梨園」などの言葉に見られる一種の優雅さを感じさせる「梨」という好字を当てて、「山梨」と呼ぶようになったといわれている(山梨県道路公社『雁坂トンネルと秩父往還』1998年(平成10年))。
  2. ^ 宮武外骨『府藩県制史』、県名改称については有泉貞夫「県名改称と区政実施ほか」『山梨県市』通史編5近現代1第一章第三節
  3. ^ 有泉「「山梨」と「峡中」」『山梨の近代』山梨ふるさと文庫、2001
  4. ^ 全国都道府県市区町村別面積調 国土地理院 2013年11月28日閲覧
  5. ^ 議員の3割 1年間質問ゼロ 県内の昨年度 チェック自ら“放棄”(山梨日日新聞)
  6. ^ 新都道府県別統計とランキングで見る県民性
  7. ^ 追跡・発掘:山梨県民はすしがお好き? 「海へのあこがれ」根底に /山梨(2012年06月16日、毎日新聞
  8. ^ 地上波の構成はNHK甲府+地元民放2局+テレビ朝日・テレビ東京・フジテレビ+独立局が基本。かつてはBSアナログ放送も視聴できた。







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