小松政夫 小松政夫の概要

小松政夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/15 09:49 UTC 版)

小松 政夫
本名 松崎 雅臣[1]
ニックネーム 親分さん
小松の親分
生年月日 (1942-01-10) 1942年1月10日(75歳)
出身地 日本の旗 日本福岡県福岡市博多区
方言 博多弁
標準語
最終学歴 福岡県立福岡高等学校定時制課程普通科
師匠 植木等
出身 RKB放送劇団
芸風 コント
ものまね
事務所 ファインステージ
活動時期 1962年 -
過去の代表番組 シャボン玉ホリデー
笑って!笑って!!60分
みごろ!たべごろ!笑いごろ!』 など
他の活動 俳優
社団法人日本喜劇人協会会長(第10代)

福岡県福岡市瓦町(現:博多区上川端町)出身[2]。愛称は親分さん小松の親分(自らのコントから)。

来歴・人物

生い立ち

7人兄妹の5番目として[3]櫛田神社の前及び鐘紡福岡工場(現:キャナルシティ博多)の近くで育つ(博多の総鎮守である櫛田神社の前が自宅であることを博多の仲間たちにも自慢していたことがあった[4])。実父は地元の実業家で名士だったが、早くして病死。以後、小松の家族は貧窮を極めた。この頃、小松は自宅前の焼け跡で行われていた露天商の口上をよく見聞しており、サクラがいるのを知っていたという。それらが自然と身に付き、学生時代から現在に至るまでの小松の明るさや笑いのセンスは作られた[5]

福岡県立福岡高等学校定時制課程普通科卒業。高校時代の小松は陽気で努力家だったという。この頃は、亡父が懇意にしていた菓子店・石村萬盛堂で働くなどして生計を支える[6][注 1]RKB毎日放送の劇団に所属後、1961年俳優を目指し、一番年上の兄を頼って横浜へ出て来る[7]。2つか3つの劇団を受験し、俳優座も受けたが、俳優座は入学金4,000円など月謝が高かったことで諦める[4][7]。その後花屋印章店、のセールスマン、横浜中央市場のマグロ店など様々なアルバイトを経験した後[4][7]コピー機会社勤務を経て[7]横浜トヨペットのセールスマンになる[8]。セールスマン時代、雑誌の小さな枠に載っていた植木等の付き人募集の公募の広告を見てこれに応募して、約600人の応募者の中から選ばれ[4][9]1964年1月より正式に植木等の付き人兼運転手となり[10]、その後芸能界入りした。

芸能界入りする前には様々な営業職を転々としたが、自動車セールスマンの職は他業種から引き抜かれて就職したものだった。自動車セールスマン時代の小松はセールストークに長けていたようで、教習所と交渉し、受講者に免許を5日で取得させる手筈まで整えて、免許を持たない人にまで車を買わせるなどし[11]、自動車がまだ高値の花だった当時に、月22台も売ったこともあった[9]。そういった顧客とのセールストークや会社内での上司との丁々発止のやりとりにより、小松は周囲から人気を獲得。周囲から押し上げられる形で、小松はコメディアンを志す。セールスマン時代の体験は、後に数々のギャグの礎となった。なお、セールスマン時代は初任給1万円の時代に月給12万円を稼いでいたが、植木の付き人兼運転手時代の月給はわずか7,000円だった上、1週間の睡眠時間の合計が10時間しかないほど多忙なこともあったものの「全然つらくなかった」「尊敬する一流の師のそばにいて、お世話ができる。それだけで幸せでした」という[9]

なお、植木からは付き人として入門する際に「お父さんを早くに亡くされたそうだが、これからは僕を父と思えばいい」と声を掛けられたという[12]
また「おい、オレのことを何と呼ぶ?」「いいか、“先生”なんて呼んだら張っ倒すからな」とも言われ、小松が前の一言も考慮して『親父さん』という呼び方を提案したところ「それはいいな」と目を細めたとも語っている。

運転手として東京オリンピックの開会式に招かれた植木を国立競技場に送った際には、植木の配慮で急遽小松の席も用意され、「錚々たる名士が居並ぶ中」開会式を見ることが出来た[9]

芸能界デビュー

コメディアンとしてのデビューは『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ)。この番組に出演したきっかけは、同番組に出演していた植木に付いていった際、休憩中にメンバー及びスタッフと談笑していた際にふとしたことからセールスマン時代のエピソードを披露したことによる。その時に当時の課長(50歳ぐらいで、威張りくさって小松に活を入れるが逆にその様子を見ていた34歳の部長に一喝され、途端にシュンとしてしまう)の真似をして「見ろ!お前のせいで怒られちゃったじゃないか。もう、知らない、知らない、知らなぁーい、もー!」とオカマっぽく体をクネクネさせながら言った芝居がプロデューサーの目に留まり、翌日の収録時には台本に小松の出番が設けられていたという[13]

また、付き人だった当時は『シャボン玉ホリデー』に松崎真がレギュラーで出演しており、植木が「松崎ー!」と呼ぶと(本名が松崎だった)小松も一緒に返事を返してしまうケースが多々あったことから「さいほうの崎」という意味で『小松』と呼ばれるようになりやがてメンバーやスタッフの間で定着した[14]
そのうちに前座やチョイ役などで出演が増えて視聴者にも顔を覚えられるようになり植木より正式に『小松政夫』(当初は「雅夫」)という芸名を授かることになった。なお、この芸名を考えたのは姓名判断に凝っていたという植木の祖母であり、小松という苗字に合うということで下の名前を決めたという[15]
ただ、小松は当初「コメディアンなのに、こんな二枚目みたいな名前でいいのか」と一瞬当惑したという。

なお、芸名の候補としては犬塚弘が考えた「どん・たくお」(博多どんたくがヒント)や自身がコントで演じた外国帰りの怪しげな美容師の役名だった「ジェームス本堂」もあり小松もそれなりに気に入っていたが、植木に相談した際「将来大河ドラマの主役を張るようになるかもしれないのに、そんな名前じゃ苦労するだろう!」と一喝され却下となったという。

師匠の植木からのみならずクレージーキャッツのリーダー・ハナ肇からもたいへん可愛がられ、昭和42年にクレージーが梅田コマ劇場での公演に出演した際、途中15分の休憩を嫌ったハナから「5分つないでくれ」と命じられたことがあった。しかし2日目までの出し物がまったく客に受けず、背水の陣で挑んだ3日目に生まれたのが今日まで小松の十八番となっている淀川長治物真似である。この時はハナや植木のみならず苦労を知っていた舞台裏のスタッフも一緒になって喜び、翌日以降にメガネ(紐を引くとピクピク動く眉毛が付いている)やテレビフレームなど芸を盛り上げる小道具・大道具をわざわざ作って用意してくれたといい、それらを活用することでさらに客からのウケが良くなったと述懐している[16]

付き人兼運転手を約4年間[17]務め、タレントに転身する際、植木からかけられた言葉は「お前、明日からもう俺のところには来なくていいからな」というあまりに突然なものだった。この言葉に小松は驚くとともにクビなのかと一瞬当惑したが、続けて植木は「実はな、社長と話してお前を正式にタレントとして一本立ちさせてやりたいってお願いしたんだ」「そうしたら社長も大賛成でな、お前のマネージャーも給料も、全部決めてきたから」とその真意を語った。「そろそろデビューする頃か」などの前フリも無く、何年ぐらいで独り立ちできるかも知らず、覚悟すら出来ていなかった時期での発言であった。植木から言葉をかけられた後は運転中に涙がボロボロとこぼれて運転ができなくなってしまい、一度路肩に車を停めて大泣きしながらそれを植木に謝る有様だったが、植木は「うん、べつに急いでないけど、そろそろ行こうか」と優しく宥めたという。この時のことを、小松は「目にワイパーが欲しいぐらいだった」と後に述懐している[9]

その後、学校の担任やキャバレーでのホステスの会話など身近な人からヒントを得たギャグや、レギュラー番組のコーナーからヒットした「電線音頭」(1976年発売)、「しらけ鳥音頭」(1978年発売、30万枚超え[18]、または60万枚を売り上げた)、「タコフン音頭」(1980年発売)、前述の淀川長治の物真似などで一躍人気コメディアンとなる。 師匠・植木も認める観察眼の持ち主だったといい、それが数多くのギャグや物真似芸を生み出した原動力であったと評される。

正式なコンビというわけではなかったが、伊東四朗との息の合ったコンビ芸は、1970年代を代表するギャグの一つとして今なお語り継がれている。『みごろ!食べごろ!笑いごろ!』や『笑って!笑って!!60分』では「小松の親分さん」「悪ガキ一家の鬼かあちゃん」など数々の名コントを演じた(先の「電線音頭」や「ずんずんずんずん〜小松の親分さん♪」、「ニンドスハッカッカ マー ヒジリキホッキョッキョ」など)。
また前述の身近な人にヒントを得たギャグの誕生には伊東も大きく貢献しており、楽屋で小松が「今日、こんなやつを見かけてさ…」と切り出すと伊東が「どんなやつ?なに言ってたの?」と興味津々に前のめりになり、スタッフとのやり取りなどでそのフレーズを小松に使わせるとその様子を見ていた伊東が「これ使えるね」と評価して本採用、というケースが多々あったという。

また東八郎とも、植木のもとから独立して以降共演の機会がある毎に交遊を深め、後年東が東八郎劇団を立ち上げた際には「お前を副座長として迎えたい」と直々に口説き落とされ、東が逝去する当年まで下北沢・本多劇場新宿コマ劇場での公演にて息の合った共演をみせ人気を博した。
小松は東のことを「植木等が小松政夫の生みの親なら、育ての親は東八郎」と述懐している[19]

「お呼びでない」誕生秘話と、植木との師弟関係

植木等の代表的なギャグ「お呼びでない」が生まれるきっかけを作ったのも、小松が植木の付き人時代、植木が出演していた生放送番組『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ)でのショートコントの最中、小松は勘違いして、出番前ではないのに「出番です」と植木に言ってしまい、植木はつい舞台に出てしまった。当然、周囲は植木の場違いな登場に唖然としたが、その瞬間に植木は機転を利かせて「お呼びでない……? ……こりゃまた失礼致しました!」とアドリブを放った[20]。傍で見ていたプロデューサーはこのアドリブに大笑いし、以後、「お呼びでない」は毎回のように使われるギャグとなった。と植木等は多くのインタビューで語っていた。

なお、このエピソードについて、小松自身は「あの聡明な植木等が、いくら私に言われたからといって、自分の出番を間違えるはずがありません」と語るなどして完全否定している。植木の「お別れの会」での弔辞でも、「『お呼びでない』は小松がきっかけだとオヤジさん(植木)はおっしゃっていたようですが、私はオヤジさんの出番を間違えるようなことはしていないと思うのです」と述べている。そして、「事実でなくても、自分のため(小松を売り出すため)に作ってくれたエピソードであり、本当に感謝している」とも語っている[21]

また植木の逝去直後、TBSテレビで放送された追悼特番では、付き人時代から小松単独での番組出演オファーがあった時期のことを「自分は当時まだ勉強中の身でありながら、番組に出るなんてとんでもないと思っていたんです。しかしそれを植木さん[注 2]に相談したら、すごく喜んで頂いて『結構なことじゃないか。行って来い。行って勉強してきなさい』と、笑顔で背中を押してもらいました。一人で番組に出ることを咎められたことはありませんでした。あの優しさは今も忘れられませんね」と懐古している。

ほかにも小松は、一例を挙げて

  • 植木と一緒に蕎麦屋に食事に入った際に小松が謙遜してもりそばを注文する傍らで植木は天丼カツ丼を注文したが、いざ運ばれてくると植木は天丼を半分ほど食べたところで「お腹一杯になっちゃったから、これお前が食べてくれ」とカツ丼をスッと小松の前に差し出した[22]
  • 実際の芝居の際にも本番後に植木が「どうだった?」と小松に訊ね、植木の演技は良かったが周囲のリアクションが弱かったという旨を素直に伝えると監督のもとに出向いて撮り直しを申し出た[23]
  • 持ちネタが受けずに焦った小松が慌てた末に大失敗をしでかし収録に遅れを生じさせてしまった際に、「うちの松崎が大変なご迷惑をお掛けしてすみませんでした」と自ら進んでスタッフに謝ってくれた[24]
  • 独立後、植木と同席した仕事でお得意の『淀川長治の物真似』を披露した際に「私、いっつもこればっかりですねえ」と自虐的に言ったところ、出番が終わった途端に植木から舞台袖に呼ばれ「これは君が苦労して作り上げた芸だろう!それを“こればっかり”なんて言うことはない。自信を持ってやりなさい」と説教された。
  • 小松が渡辺プロから独立する際、渡辺プロ関係者には「もし(小松を)邪魔したり嫌がらせしたりするようなことがあれば、俺が黙っちゃいないぞ」と釘を刺し、小松には「何かあったら、いつでも俺のところに相談に来いよ」とその背中を押して快く送り出した。
  • 小松の人気が爆発していた当時、一方で人気に陰りがみえて仕事が激減した植木を心配して自宅を訪ねたところ、逆に「最近はヒマでテレビばかり見てるんだ。お前の活躍を見てパワーをもらっているんだ。オレももう一花咲かせないといけないな[25]」と優しい一言を掛けられ、小松はトイレに駆け込んでひとり泣いた。

など、芸には厳しいがその一方では立場に関係なく真摯に向き合い、なおかつ面倒見が良くて優しく温かい植木の人柄ぶりをインタビューや著書で語っている。

なお植木の逝去当時、小松は地方公演のため東京を留守にしており臨終には間に合わず、出発直前に植木の自宅に挨拶に出向いて本人と会ったのが最後となった。
それでも入院後の容態については植木の夫人から逐一電話連絡を貰っており、公演終了直後に急いで帰京して植木のもとに駆け付け、納棺に際して遺体の衣服を着替えさせるという、弟子としての最後の仕事を務め上げた。

近況

コロッケが設立した事務所・ファインステージに所属(それ以前には藤村俊二が設立・主宰していたオフィス・オヒョイに所属していたこともある)。

現在もバラエティ番組テレビドラマ舞台など多方面で活躍中である。また、1970年代後半から1990年代にかけては『パナソニック ドラマシアター』(旧『ナショナル劇場』)や『月曜ドラマランド』の常連キャストでもあった。時代劇では悪党の子分役などが多かったが、近年では善人役を多く演じている。伊東は小松を「こんなに引き出しのある人はいないんだから」と評し[26]、数多くのギャグの引き出しも健在である。

1982年にスタートしたバラエティ番組『森田一義アワー 笑っていいとも!』においては、同郷・福岡出身同士ということで親交のあったタモリと二人で司会をというオファーがプロデューサーの横澤彪からあったが、当時ゴルフに熱中していた小松は「(平日毎日の生放送に出演していたら)ゴルフに行けなくなっちゃう」として断ったということがあった[27]

地元の博多祇園山笠には、現在でもしばしば参加している。かつては出身の岡流に属していたが、岡流が途絶えた後は、知り合いの多い中洲流に参加している[28]

2011年6月20日社団法人日本喜劇人協会の第10代会長に選出された[29][30]

2006年から2007年にかけて自伝的小説『のぼせもんやけん』を上梓、2017年には同作を原案として『植木等とのぼせもん』と題しテレビドラマ化される[31]

主なギャグ

小松自身はこれらの言葉を「ギャグ」とは言わず「はやり言葉」と呼んでいる。
小松によれば、ギャグというのは「自分で考えて歳月を重ね練り上げてきたもの」とのことであり、小松の場合は周囲にその「はやり言葉」のモデルとなった人物がおり、あくまで拝借したに過ぎないからといい「世に出しては次々打ち捨ててきた」「長い芸能生活の中でたった数年しか使っていないのに、それを今でも皆さんに覚えて頂いていることが有難い」と語っている。
またここに挙げたのはあくまで著名な一例で、実際世に送り出したギャグは80本以上ともいわれている。

  • 「知らない! 知らない! 知らない! もー」(セールスマン時代の厳つい上司の会話より。小松のギャグ第1号)
  • 「ハイ、またまたまたお会いしました」「まあ、怖いですね、怖いですね」(淀川長治のものまね)
  • 「どうして! どうしてなの! おせーて!」(焼き鳥屋のカウンターで別れ話をするカップルの会話より)
  • 「もーイヤ、もーイヤこんな生活!」(ホステスの会話より)
  • 「どーかひとつ」(女性専門に自動車を売り上げていた同僚のセールストークより。対面する相手の両肩に手を置き、膝を曲げて軽く押さえる)[7]
  • 「ながーい目で見てください」(オカマの独り言より。両目尻を手で横に引っ張り長く延ばしながら)
  • 「ニンドスハッカッカ、マー! ヒジリキホッキョッキョ! トーベトベトベガッチャマン〜、[注 3]ガ〜ッチャマンニマケルナ、マケルナガッチャマン、ワ〜!」(最初の2フレーズは小学校時代の担任の女の先生が小松を励ました時に使った。一種のおまじないより)
  • 「表彰状、あんたはエライ! 以下同文…」(「あんたはエライ!」は、旧日本兵の小野田寛郎が戦後29年ぶりにフィリピンルバング島から帰国した際に、空港で小野田の母親がかけた言葉がヒントになったといわれる)
  • 「悪りーね、悪りーね、ワリーネ・デイートリヒ
  • 「よーやる、よーやる、よーやるゼリー
  • 「まー随分ね! 随分随分随分ね!」
  • 「上手だね、上手だね、西方じょうずだね。東方xxxxだね。福岡県出身、鼻くそ部屋」(xxxxはシーンによって異なる)
  • 「暗いね、暗いね、アイネ・クライネ・ナハトムジーク!」(モーツァルトの曲より)
  • 「そーでしょ? そーでしょ? そりゃそうだモン」



[ヘルプ]

 注釈 

  1. ^ a b 同社の商品「塩豆大福」のCMに起用された際、小松がかつて同店に住み込みで働いていた旨が字幕で紹介された。以来、「塩豆大福」のCMに出演する。2009年1月の時点では字幕表示は消えたが、ロケの休憩中にほおばり続けるというものである。
  2. ^ 小松は、普段は植木のことを「オヤジさん」と呼んでいたが、この番組では「植木さん」と呼称した。
  3. ^ 「ガ〜ッチャマン〜」の台詞を言う際には、両手の親指と人指し指で輪を作り、手を逆さに顔にマスクのように被せて言う。

 出典 

  1. ^ a b NHKアーカイブス”. 2012年3月3日閲覧。
  2. ^ 著書「のぼせもんやけん」p.14
  3. ^ 著書「のぼせもんやけん2」p.17
  4. ^ a b c d 週刊朝日マリコのゲストコレクション」 p.102 - 106
  5. ^ 朝日新聞『人生の贈りもの』より
  6. ^ 著書「のぼせもんやけん」p.19
  7. ^ a b c d e 週刊文春阿川佐和子のこの人に会いたい」 p.128 - 132
  8. ^ 放送エピソード #145 小松政夫”. おぎやはぎの愛車遍歴 NO CAR, NO LIFE! 番組公式サイト. BS日テレ. 2017年7月19日閲覧。
  9. ^ a b c d e 「師を敬えば報われる」 小松政夫さんに聞く”. 日経BP社 (2016年5月23日). 2017年8月23日閲覧。
  10. ^ 著書「のぼせもんやけん2」p.14
  11. ^ 著書「のぼせもんやけん」p.95 - 98
  12. ^ 著書「のぼせもんやけん2」p.7
  13. ^ 著書「のぼせもんやけん2」p.109 - 110
  14. ^ 著書「のぼせもんやけん2」p.80 - 81
  15. ^ 著書「のぼせもんやけん2」p.164 - 165
  16. ^ 著書「のぼせもんやけん2」p.196 - 201
  17. ^ 本人の記憶によれば、正確には3年10ヶ月であるという。
  18. ^ 【発掘!流行り歌 徒然草】「タコをゆでた音」って!? 爆笑レコーディング 小松政夫「しらけ鳥音頭」(1977年) (2/2ページ)、ZAKZAK、2016年7月5日。
  19. ^ 小松政夫が“育ての親”東八郎から継ぐ笑い”. BS日テレ. JCCテレビ (2017年8月1日). 2017年8月26日閲覧。
  20. ^ 青島幸男 『わかっちゃいるけど… シャボン玉の頃』(1988年9月、文藝春秋ISBN 4163426205
  21. ^ 日刊ゲンダイ 2012年12月28日付
  22. ^ 著書「のぼせもんやけん2」p.40 - 43
  23. ^ 著書「のぼせもんやけん2」p.71 -
  24. ^ 著書「のぼせもんやけん2」p.122
  25. ^ その後植木は映画「新・喜びも悲しみも幾歳月」への出演を機に個性派脇役として活路を見出し、平成期に入ってから「スーダラ伝説」のヒットなどにより再ブレイクすることになる。
  26. ^ 小松政夫の芸能生活 50周年に伝説の“しらけ鳥”が復活!”. 週刊文春 (2016年6月9日). 2017年8月26日閲覧。
  27. ^ 「時代とフザケた男」p.151
  28. ^ まちから【博多 山笠のまちから】(上)継承に誇り、伝統も柔軟に”. 朝日新聞 (2015年6月21日). 2017年8月23日閲覧。
  29. ^ 日本喜劇人協会の新会長に小松政夫さん” (2011年6月20日). 2011年6月23日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2011年6月20日閲覧。
  30. ^ コメディアンの小松政夫の現在 50年間の芸能生活を振り返る - TOPICNEWS、ライブドアニュース、2017年3月25日 17時15分配信、同年5月12日閲覧
  31. ^ “山本耕史、植木等役で主演 小松政夫との師弟関係を連続ドラマ化”. ORICON NEWS (oricon ME). (2017年7月7日). http://www.oricon.co.jp/news/2093764/full/ 2017年8月15日閲覧。 
  32. ^ こちら葛飾区亀有公園前派出所 THE MOVIE”. メディア芸術データベース. 2016年8月6日閲覧。
  33. ^ 小松政夫さんと師匠・植木等さんとのイイ話 - 番組公式ページ、2016年11月28日配信
  34. ^ “小松政夫、36年ぶりシングルに植木等への思い「知らないうちに植木さんの声に」”. お笑いナタリー. (2016年9月2日). http://natalie.mu/owarai/news/200462 2016年9月2日閲覧。 


「小松政夫」の続きの解説一覧





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

カテゴリ一覧

全て

ビジネス

業界用語

コンピュータ

電車

自動車・バイク

工学

建築・不動産

学問

文化

生活

ヘルスケア

趣味

スポーツ

生物

食品

人名

方言

辞書・百科事典

すべての辞書の索引

「小松政夫」の関連用語

小松政夫のお隣キーワード

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   
検索ランキング

画像から探す

ナオミ

左藤吏奈

愛須エリナ

CHISATO

西平風香

拓平

三浦真代

山本誠大





小松政夫のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの小松政夫 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2017 Weblio RSS