宮崎恭子 宮崎恭子の概要

宮崎恭子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/08 04:16 UTC 版)

宮崎みやざき 恭子やすこ
『映画情報』1960年3月号より
本名 仲代 恭子(旧姓:宮崎
別名義 りゅうともえ
生年月日 (1931-05-15) 1931年5月15日
没年月日 (1996-06-27) 1996年6月27日(65歳没)
出生地 日本長崎県長崎市
民族 日本人
ジャンル 演出家女優脚本家
活動期間 1950年 - 1996年
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来歴・人物

両親とも広島県呉市の出身[2][3][4]。母方の祖父は第九代呉市長・勝田登一[5]裁判官だった父親の赴任先・長崎県長崎市で生まれ、父親の転任により、4歳まで長崎で、その後小学校2年生まで福岡市で、3年生のとき大分市で、4年生から小学校卒業まで再び福岡市で育った[4][6]。1944年、父親が裁判所を辞めて弁護士に転身したため、一家で東京都へ移る[2][4][7]。1945年の東京大空襲で父を東京に残し、母・妹とともに呉の伯父宅に疎開[2][4][8][9]。同年8月、広島原爆を見る[10]。同年9月17日の枕崎台風による呉の大洪水で、実家が土石流に流されて怪我を負うが生き延びる[4]。この年の暮れ、母・妹とともに東京へ戻り、旧制の女子学院に復学。女子学院時代の親友に秦早穂子がいる[4][11]

1949年初夏、新制女子学院高等学校3年生だった時に小牧バレエ団の公演を見て「女優になろう」と決心する[11]。女子学院を卒業後、1950年に俳優座養成所に入る。卒業後は、同期の小沢昭一らと劇団新人会を結成。女優として活躍する。

1957年に、俳優座養成所の後輩だった仲代達矢と舞台の共演をきっかけに結婚。以後は脚本家に転じ、舞台演出も手がけた。1975年からは夫とともに、俳優を育成する無名塾を主宰した。ヘンリック・イプセン作の『ソルネス』の演出で1980年度芸術祭優秀賞を受賞。

1995年夏の無名塾の全国公演中に体調不良を訴え、膵臓がんと判明。1996年6月27日に死去した[12]。65歳没。

脚本

テレビドラマ

  • 東芝 日曜劇場TBS
    • 第718回「釣忍」(1970年)
    • 第757回「鶴は帰りぬ」(1971年)
    • 第780回「三十ふり袖」(1971年)
    • 第785回「すぎし去年」(1971年)
    • 第806回「あだこ」(1972年)
    • 第835回「あによめ」(1972年)
    • 第857回「つゆのひぬま」(1973年)
    • 第929回「ちゃん」(1974年)
    • 第939回「愛すれどいのち哀しく」(1974年)
    • 第1072回「白い闇」(1977年)
    • 第1089回「愛のゆくえ…」(1977年)
  • 砂の器(1977年、フジテレビ、仲代達矢主演) - 脚本を担当するとともに、劇団の事務員役で出演した。
  • 樅ノ木は残った(1983年、フジテレビ、仲代達矢主演)

映画


  1. ^ 仲代達矢89歳が見せる役者魂 「いのちぼうにふろう物語」に主演”. 産経ニュース (2022年9月14日). 2022年9月14日閲覧。
  2. ^ a b c 特集 生産者と消費者の架け橋を築く女性たちの役割 - インタビュー宮崎総子さん”. 農業協同組合新聞 (2006年1月26日). 2013年7月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年11月4日閲覧。
  3. ^ 大切な人 1996, p. 52, 53, 67, 87, 134-171.
  4. ^ a b c d e f 高橋豊『幻を追って 仲代達矢の役者半世紀』1998年、毎日新聞社、34-38頁
  5. ^ 『大切な人』、68頁
  6. ^ 『大切な人』、100-111頁
  7. ^ 宮崎総子『宮崎総子のわが家の食卓』、2007年、角川学芸出版、53、141、142、155頁、中国新聞、2007年2月1日、11面
  8. ^ 『大切な人』、134-171頁
  9. ^ "届けたいこと…". 仲代奈緒オフィシャルブログ. 2011年6月25日. 2023年2月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月1日閲覧
  10. ^ 『幻を追って 仲代達矢の役者半世紀』16、38頁
  11. ^ a b 高橋豊「わたしの生き方 仲代達也の俳優修行/19」 『毎日新聞』1997年8月29日付朝刊、地方版、東京。
  12. ^ 仲代達矢「膵臓がんで亡くなった妻・宮崎恭子が残した数々の手紙。遺言を守り『無名塾』を続けてきたから、89歳の今でも舞台に立っていられる」”. 婦人公論. 2023年2月23日閲覧。
  13. ^ 福島民報』1973年11月14日付朝刊8面、1974年2月8日付朝刊7面。


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