宝永地震 経済への影響

宝永地震

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経済への影響

この地震による『両替年代記』の記録は「十月十四日〔ママ〕 東海道大地震。大地破れ、海洪波。同十一月四日〔ママ〕、富士素走口より山焼け出、白日如夜、砂降こと雨の如し。」とある[183]

『三貨図彙』では「十月四日五畿内ヲ始メ、東海道・南海道ノ国々大地震アリ、別シテ五畿内ハ強シ、十一月廿三日富士須走口ヨリ焼イデ震動ノ如ク、土砂大雨ノ如ク降リ、近国大ニ痛ム、コレニ依テ米価高直ナリ」とある。この年の8月19日(1707年9月14日)には西日本を暴風雨が襲い、米も例年の6-7分の不作であり、宝永4年の相場は肥後米は一石に付き宝永銀120- 150慶長銀73- 93匁と前年の2倍程度に騰貴した[184]。また、「此節山吹花満開シ、竹ノコ盛ンニ出、日々地震、十一月〔ママ〕四日大阪津浪シ、近国・京都大イニ地震ス」とあり、この時期の異常気象を示唆する記述もある[184]

10月13日(1707年11月6日)には幕府が藩札停止令を出し、発行元に50日以内に正貨と交換するよう命じたため、震災も重なり阿波藩安芸藩を始め各藩では資金調達に困難を生じたため財政が極度の窮乏に陥り、借の累増となった[185]

江戸幕府は諸国大地震に付き諸色の高騰を防止するため、10月27日(1707年11月20日)に買い溜め禁止の触書を出した[186][187][188]

寳永四亥年十月

一 今度国々地震ニ付、諸色高直ニ仕間敷候、末々直段上り可申哉と考、買置いたすへからす、品ニより蔵々を改、相背者有之は、可為曲事事

また、富士山の噴火による灰金(火山灰の除去費用)として翌年閏正月7日(1708年2月28日)に「諸国高役金令」を公布、江戸幕府は各大名旗本らに石高100石に付き2を差し出させることとした[189]。その結果、幕府には40万両が集まった(『折たく柴の記』)。『蠧余一得』では宝永5年中に48万8770両余、1870目余が集まり、被災地救済には6万2500両余が支出されたとしている[190]

宝永6年2月3日(1709年3月13日)、勘定奉行荻原重秀は新たに将軍に就任する運びとなった徳川家宣に対し、幕府の財政の窮乏を訴え、御領(直轄領)より得られる収入は76- 77万両であるが、諸士の給料として30万両が消え、前年の歳出は140万両に達し、加えて皇居営造費として70- 80万両が要るから約170- 180万両の歳入不足となるとした。この急場を凌ぐためには金銀を改鋳し、出目を稼ぐ外にないと訴えた。

これに対して新井白石は、「去年の御物成を以て今年の用に充てることを重秀が知る処かはさておき、御聴を驚かして、その思うところを遂ぐべきため也」と改鋳に反対し、「悪質なものを出せば天譴[注 7] をうけて天災地変を生ずるおそれがある」として改鋳の議は中止となった。しかし、翌宝永7年3月6日(1710年4月4日)以降、質を落とした永字銀などが将軍の決裁を得ることなく内密に発行された[191]。大地震など相次ぐ天災の対策費として幕府が改鋳による出目を必要としていたのは事実であったが[192]、立続けの改鋳による低品位の銀貨が多量に発行され、物価数倍にも騰貴した[184]。これにより元禄文化は終止符を打つことになった。また、徳川綱吉の頃までの将軍による親政から荻原重秀らの幕閣政治へと変貌する時代の転機でもあった[193]

地震・津波によって甚大な被害を受け、その復旧費用の出費を強いられた紀州藩では藩主の徳川吉宗が質素倹約を徹底した藩政改革を行い、その後将軍に就任した吉宗による幕府財政を立て直すための享保の改革へとつながった[194]

南海トラフ巨大地震はおおよそ100年から200年周期で繰り返されており、次回起こると予想される地震とそれによる津波への対策が求められる[195][196]


注釈

  1. ^ 北緯33度12分 東経135度54分 / 北緯33.2度 東経135.9度 / 33.2; 135.9 - 歴史地震の震央は震度分布により一応は推定されている(河角, 1951など)。しかし、断層破壊開始点である本来の震源、その地表投影である震央ではない。地震学的な震源は地震計が無ければ決まらず、震源域が広大な巨大地震では無意味な上誤解を与える恐れがある。-石橋(2014), pp.7-8.
  2. ^ a b の上刻(ひつじのじょうこく)は、午後1 - 2時。cf. 時刻#日本。昼八ツ時の鐘をつく前に地震が発生したため13:45前後と推定される - (『板垣氏筆記』)間城(1995), p10.。古記録の平均では13:47±1.02 hrとなる。- 今井健太郎ほか「史料に基づく1707年宝永地震の発震時刻に関する統計的解釈」(PDF)『歴史地震』第26巻、2011年、99頁。 
  3. ^ 甲(こう)は、「本町」などと同様、合併後の中心的地域に当てられる地名の一つ。
  4. ^ 869年貞観地震や1498年明応地震Mk = 7.5、1096年永長地震や1891年濃尾地震Mk = 7.0となっているが、これらも根拠は示されていない。
  5. ^ 古文書記録にある建物の被害状況から、震度6以上の地域を590kmと推定した。また地震後1ヶ月の余震域が東北地方太平洋沖地震の1.4倍の、長さ830km、幅240kmと算出された。logS = 1.02M - 4.01(宇津徳治・関彰「余震区域の面積と本震のエネルギーとの関係」『地震 第2輯』第7巻第4号、1955年、233-240頁、doi:10.4294/zisin1948.7.4_233 
  6. ^ 現在の高知市種崎。cf. 種崎浦、種崎海岸。
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