天皇の一覧 天皇の一覧の概要

天皇の一覧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/19 23:33 UTC 版)

概要

皇統譜』に基づくかぎり、歴代天皇は、初代神武天皇から今上徳仁まで、126代が挙げられる。この126代のうち、第37代斉明天皇は第35代皇極天皇の、第48代称徳天皇は第46代孝謙天皇の、それぞれ重祚(一度譲位した天皇が再び位に就くこと、再祚)であるため、総数は124人となっている。

ただし、南北朝時代に、北朝京都)で即位した天皇のうち、後小松天皇を除く光厳天皇光明天皇崇光天皇後光厳天皇、及び後円融天皇の5代、5人は、明治時代に歴代天皇から除外されたため、この126代の天皇には数えられないものの、宮中祭祀等においては天皇として扱われる。このため、現在に至る天皇の総数は129人と数えられることもある。

また、皇統譜以外にも様々な皇室の系譜が過去に作成されており、様々な歴代天皇の数え方があった。例えば、後小松上皇の命令で編纂され、明治以前の一般的な皇室の系譜となった『本朝皇胤紹運録』では、後醍醐天皇を除く南朝天皇を天皇と認めずに北朝天皇を歴代天皇に数え、弘文天皇および仲恭天皇を歴代に数えず、神功皇后を歴代に数えている。

なお、「天皇」(てんのう(てんわう)、すめらみこと、すめろき)という名称は、7世紀後半に在位した第40代天武天皇の頃に、それまでの「大王」(おおきみ)に代わって用いられ始めたと考えられている。また冷泉天皇(在位967年–969年)以後、光格天皇(在位1779年-1817年)の時に諡号が復活するまで、安徳天皇後醍醐天皇を例外として、天皇号は生前も崩御後も正式には用いられなかった。例えば後水尾天皇明正天皇は崩御後「後水尾院」「明正院」と呼ばれ、これらを一律に「後水尾天皇」「明正天皇」とすべて置き換えたのは明治維新後のことである[1]

初期天皇の実在性

初代神武天皇から第25代武烈天皇までの実在性については、諸説ある。第二次世界大戦後の考古学及び歴史学においては、初期天皇は典拠が神話等であるとみなされ、その実在性は疑問視されている。しかしながら現代でも神武天皇、第10代崇神天皇、第15代応神天皇が特に研究対象として重視されている[注釈 1]

初代神武天皇以降を実在とする説

古代から第二次世界大戦中までは日本では神武天皇のみならず「欠史八代」も含めて実在したと考えられてきた(第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までは、『日本書紀』に事績等に関する記述がないため、欠史八代(闕史八代)と呼ばれる)。その後も実在性を唱える者は坂本太郎田中卓鳥越憲三郎林房雄古田武彦[注釈 2]、森清人[2]安本美典竹田恒泰などが存在する。

第10代崇神天皇以降を実在とする説

戦後になると神武天皇及び「欠史八代」の実在は疑問視されるようになった。また神武天皇と崇神天皇の尊号が同一(ただし漢字表記は別)であることから、崇神天皇を初代天皇、あるいは神武天皇と同一人物であるとして、崇神天皇を実在可能性がある最初の天皇とする説が一般化した。70年代までは崇神~応神までの実在を否定的にみる説が優勢であったが、1978年稲荷山鉄剣の銘文が新聞紙上でスクープになると銘文の「意富比垝」が、崇神朝に活躍した大毘古に同定されるとする説が出て、崇神天皇以降の実在性が高まった。

第15代応神天皇以降を実在とする説

津田左右吉によって、4世紀後半から5世紀初めにかけて在位したと考えられる応神天皇が初代天皇とみなされ、それ以前の天皇の実在を否定する学説が提示され、第二次世界大戦後、歴史学の主流となった。これには倭の五王を記紀に伝えられる天皇と同一視する説が有力であり、この場合、中国の史書が該当する天皇の実在を傍証することになる(ただし倭の五王を具体的にどの天皇だと見るかは諸説ある)。なお、倭王武に比定される第21代雄略天皇に関しては稲荷山鉄剣銘文の「獲加多支鹵大王」を雄略天皇の名である「大泊瀬幼武」と解し、実在の証とする説がある。これ以前から雄略天皇の実在は有力視されていたが、この発見により考古学的に実在が証明される最古の天皇となった。

第26代継体天皇以降を実在とする説

戦後の歴史学界では、『古事記』や『日本書紀』における6世紀以前の記述は、不正確な伝説であると解されていた。このため、6世紀前半に在位したと考えられる第26代継体天皇の実在は確実と考えられるものの、それ以前の天皇については、雄略天皇を別として、武烈天皇までは実在の可能性が薄いという見解がある。また継体天皇以前の天皇を実在とみなす学説であっても『日本書紀』の編年を事実とは認めないことがほとんどだが、継体天皇以降は書紀その他の史料に伝えられた在位年数などの数値はかなりの程度史実とみなされている(継体天皇の即位年について書紀を信頼するかは説が分かれる。また継体崩御から第29代欽明天皇の即位までの間の編年は伝承自体に諸説がある他、欽明天皇から第33代推古天皇までは記紀の間に最低1年~数年程度のズレもあるが、継体天皇以降はほぼ史料的価値が認められている)。

歴代天皇の確定

歴代天皇を確定するための基準が定まったのは、大正時代末期のことである。このとき示された基準によって、「歴代天皇は126代124人」という2023年(令和5年)現在の歴代天皇の形が確定している。

歴代天皇の厳密な確定が要請されたのは、明治時代になってからである。明治時代には、天皇を中心とする中央集権国家体制の整備が進められ、1889年(明治22年)には、その根本規範として大日本帝国憲法が公布された。同憲法では、歴代の天皇を指す「皇祖・皇宗」が、天皇の地位の正当性(正統性)と、天皇が総攬する統治権の淵源として重視された(告文、憲法發布勅語、および上諭など)。このため、歴代天皇の在りようが論じられ、その確定が行われた。

歴代天皇の確定にあたっては、江戸時代水戸藩で編纂された『大日本史』、およびその編纂過程で発展した水戸学尊王論の考え方が大きな影響を与えた。これらの思想に基づいてあるべき歴代天皇の姿が論じられ、歴代天皇は確定した。なお、いくつかの観点から、それまでの歴代天皇(帝)から変更された部分もある。主な基準、観点、および変更点は次の通り。

  • 明治時代以前は、神功皇后を第15代の帝と数えた史書が多数あったが、歴代天皇から外された。『大日本史』が採った立場に基づくものである。この結果、第33代推古天皇が最初の女性天皇となった。
  • 初代神武天皇から第62代村上天皇までは、崩御後の漢風諡号・追号として「○○天皇」と呼ばれていたが、第63代冷泉天皇から第118代後桃園天皇までは、「○○院」(例:冷泉院)とのみ称された。(ただし、安徳天皇後醍醐天皇を除く)。この「天皇」号が復活するのは第119代光格天皇の代からである。明治時代になり、すべての天皇を「○○天皇」と称するように改められ、以後、「○○院」という呼称は廃された[注釈 3]
  • 壬申の乱で敗れた大友皇子は、天皇として数えられていなかったが、『大日本史』が「大友天皇」として歴代に列した。明治に入って、即位が確認されたということになり、1870年(明治3年)に「弘文天皇」の諡号を追諡した。現在では非即位説が有力である。即位の是非をめぐる議論については、大友皇子即位説を参照されたい。
  • 第47代「淡路廃帝」に対しては、1870年(明治3年)に「淳仁天皇」の諡号を追諡した。
  • 承久の乱に敗れた「九条廃帝」は天皇に数えられてはいなかったが、1870年(明治3年)に「仲恭天皇」の諡号を追諡した。
  • 1911年(明治44年)には明治天皇の裁定により、南朝の義良親王と熙成親王を正統な天皇と認め、これを後村上天皇後亀山天皇とした[注釈 4]。それまでは正統な歴代天皇として扱われていた光厳天皇光明天皇崇光天皇後光厳天皇後円融天皇の5代を北朝の天皇として歴代天皇から外すとともに、後小松天皇の在位期間を1392年(明徳3年)の南北朝合一以後のみとした。これも『大日本史』が採った立場に基づくものである。
  • 1926年(大正15年)には大正天皇(実質は摂政皇太子裕仁親王(後の昭和天皇))の裁定で、南朝の寛成親王を「長慶天皇」とした。この寛成親王については、南朝を正統とした後も即位の是非について意見が分かれていたが、高野山に納められた願文に「太上天皇寛成」の宸筆署名があることなどの史料によってその即位が確認されたということになり、天皇としたものである。

注釈

  1. ^ 歴代天皇の漢風諡号・追号に「神」の字を用いるのは、この3代3人のみである点も注目される。天皇ではないが、応神天皇の母である神功皇后も重要である。また「霊(靈)」の字を用いるのは初期では第7代孝霊天皇のみであり、和風諡号に「神」の字を用いるのは神日本磐余彦天皇(神武天皇)、第2代神渟名川耳天皇(綏靖天皇)の2人である。
  2. ^ ただし神武天皇の大和朝廷九州邪馬台国の分家であると主張している。
  3. ^ なお、第111代「後西院」を「後西天皇」と改めた点に関しては異論がある。第53代淳和天皇は譲位後淳和院に居住したが、その別名を西院といい、この天皇の異称が西院帝(さいのみかど)となった。後西院はその加後号であり、本来なら「後西院院」となるところ院の字が重複するのを避けたものと考えられている。したがって「後西院」の「院」は固有名詞の一部でありそれを機械的にのぞいて「後西」とするのは誤りではないかとするものである。ちなみにこの淳和院(西院)があった京都市中京区には現在でも西院(さい)という地名が残っている。
  4. ^ なお後亀山天皇の場合は室町幕府の強い意向もあり1394年に「太上天皇」の尊号が贈られていたが、当時はあくまでも正式な天皇ではなく後高倉院の先例に倣った不登極帝として扱われていた。
  5. ^ 北朝天皇としての在位期間10年を含む。

出典

  1. ^ 渡辺浩『東アジアの王権と思想』東京大学出版会、1997年、7-8頁。
  2. ^ 森清人『神武天皇実在論』1968年、日本教文社
  3. ^ a b c 構成 - 宮内庁
  4. ^ 神武天皇から昭和天皇までの124ページ。
  5. ^ a b c 「讃」『日本古代氏族人名辞典 普及版』 吉川弘文館、2010年。
  6. ^ 「珍」『日本古代氏族人名辞典 普及版』 吉川弘文館、2010年。
  7. ^ 「允恭天皇」『日本古代氏族人名辞典 普及版』 吉川弘文館、2010年。
  8. ^ 「興」『日本古代氏族人名辞典 普及版』 吉川弘文館、2010年。
  9. ^ 「武」『日本古代氏族人名辞典 普及版』 吉川弘文館、2010年。
  10. ^ 「継体天皇」『日本古代氏族人名辞典 普及版』 吉川弘文館、2010年。
  11. ^ 藤田覚『光格天皇』p.52。
  12. ^ 書陵部所蔵目録・画像公開システム,ギャラリーバックナンバー,『光格天皇宸翰南無阿弥陀仏』
  13. ^ 宸翰栄華』「宸筆御懐紙」
  14. ^ 水戸部正男、ほか『図説 歴代天皇紀』秋田書店、1989年、p.308。
  15. ^ 村田正志『南北朝史論』1971、pp.67-69。
  16. ^ 岩佐美代子『光厳院御集全釈』2000、p.22。
  17. ^ a b c d e 片山杜秀『尊皇攘夷―水戸学の四百年』2021、p.197。
  18. ^ ニューヨーク・タイムズ 1868年10月18日号に「JAPAN: Northern Choice of a New Mikado(日本:北部が擁立した新帝)」とある。





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