大隅国 関連項目

大隅国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/09 08:16 UTC 版)

大隅国(おおすみのくに、 旧字体大隅國)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属し、現在の鹿児島県の東部に属する。


注釈

  1. ^ 大蔵氏は加治木郷を開発して勢力を扶植しており、重忠の殺害も満高の父種材の指示によるものであった。重忠殺害事件は藤原道長の裁定で犯人不明とされ、満高は大宰大弐藤原高遠の庇護により事件後特に処分されることもなかったが、二十四年後に皇族僭称と重忠殺害の科でようやく罰された。(日隈正守 2017)

出典

  1. ^ a b c 日隈正守「大隅国における建久図田帳体制の成立過程」『鹿児島大学教育学部研究紀要. 人文・社会科学編』第60巻、鹿児島大学、2008年、75-97頁、CRID 1050845763811292928hdl:10232/8781ISSN 0389-6684 
    日隈正守「大隅国における建久図田帳体制の成立過程 -禰寝院の事例を中心に-」『鹿児島大学稲盛アカデミー研究紀要』第1巻、鹿児島大学、2009年12月、51-64頁、CRID 1050001202537561856hdl:10232/8679ISSN 1884-6009 
  2. ^ 鹿児島県「第二編 國造時代 第四章 國造縣主の設置と諸豪族」『鹿児島縣史 第1巻』鹿児島縣、1967年、65頁。doi:10.11501/3039676NDLJP:3039676。"国立国会図書館デジタルコレクション"。 
  3. ^ 竹森友子「南島と隼人 : 文武4年覓国使剽劫事件の歴史的背景」『人間文化研究科年報』第22巻、奈良女子大学大学院人間文化研究科、2007年3月、69-84頁、CRID 1050001338390950272hdl:10935/863ISSN 0913-2201 
  4. ^ 日隈正守「島津荘に関する一考察 : 成立期を中心に」『鹿児島大学教育学部研究紀要. 人文・社会科学編』第66巻、鹿児島大学、2015年3月11日、1-13頁、hdl:10232/23160ISSN 0389-6684NAID 120005600960 
  5. ^ 鹿児島県歴史資料センター 黎明館 『黎明だより』 『黎明 vol.34 No.2』 2016年8月1日
  6. ^ 『古事記』神代記。
  7. ^ a b c 『日本歴史地名大系』46 宮崎県, p. 27
  8. ^ 『日本歴史地名大系』46 宮崎県, p. 28.
  9. ^ 『続日本紀』巻第2、大宝2年8月丙申(1日)条、10月丁酉(3日)条。新日本古典文学大系『続日本紀』一の58-61頁。
  10. ^ 『続日本紀』巻二 大寶二年八月丙申条。「薩摩多褹。隔化逆命。於是發兵征討。遂校戸置吏焉」。
  11. ^ 明治12年4月8日太政大臣三条実美通達
  12. ^ 鹿兒島縣下國界竝郡界變更及郡廢置法律


「大隅国」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「大隅国」の関連用語

大隅国のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



大隅国のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの大隅国 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS