多賀大社 多賀大社の概要

多賀大社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/11/21 13:38 UTC 版)

多賀大社
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拝殿
所在地 滋賀県犬上郡多賀町多賀604
位置 北緯35度13分32秒
東経136度17分28秒
座標: 北緯35度13分32秒 東経136度17分28秒
主祭神 伊邪那岐命
伊邪那美命
社格 式内社(小)・官幣大社・別表神社
創建 古事記』以前の神代と考えられる
本殿の様式 大社造
札所等 神仏霊場巡拝の道第133番(滋賀第1番)
例祭 4月22日
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多賀大社の入り口

多賀大社(たがたいしゃ)は、滋賀県犬上郡多賀町多賀にある神社である。 伊邪那岐命(イザナギ)伊邪那美命(イザナミ)の2を祀り、古くから「お多賀さん」として親しまれた。 また、神仏習合中世期には「多賀大明神」として信仰を集めた。

式内社で、旧社格官幣大社。現在は神社本庁別表神社である。

当社にはお守りとしてしゃもじを授ける「お多賀杓子(おたがじゃくし)」という慣わしがあるが、これは「お玉杓子」や「オタマジャクシ」の名の由来とされている。

歴史

由緒

和銅5年(西暦712年)編纂の『古事記』の一部には「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」と当社の記載がある。

日本書紀』には「構幽宮於淡路之洲」、すなわち「幽宮(かくれみや)を淡路の洲(くに)に構(つく)りて」とあり、淡路島に「幽宮」を構えたとされる。

『古事記』以前の時代には、一帯を支配した豪族・犬上君の祖神を祀ったとの説がある。 犬上君(犬上氏)は、多賀社がある「犬上郡」の名祖であり、第5次遣隋使・第1次遣唐使で知られる犬上御田鍬を輩出している。

藤原忠平らによって延長5年(927年)に編まれた『延喜式神名帳』では、当社は「近江国犬上郡 多何神社二座」と記載され、小社に列した。 「二座」とあるため、この時代にはすでに伊邪那岐命・伊邪那美命2柱が祀られていたと分かる。

なお、摂社(境内社)で延喜式内社の日向神社は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を、同じ摂社の山田神社は猿田彦大神を祀る。多賀胡宮とも呼ばれる別宮の胡宮(このみや)神社は、伊邪那岐命・伊邪那美命・事勝国勝長狭(コトカツ クニカツ ナガサノミコト)の3柱を祀り、多賀社の南方2kmの小高い丘(神体山)に鎮座する。授子・授産、鎮火の神として崇敬される。

「お伊勢参らばお多賀へ参れ」

多賀大明神

室町時代中期の明応3年(1494年)には、神仏習合が進み、当社には神宮寺として不動院(天台宗)が建立された。 神宮寺配下の坊人[1]は全国にお札を配って信仰を広め、当社は中世から近世にかけて伊勢熊野とともに庶民の参詣で賑わった。 「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」「お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」との俗謡もあり、ここに見る「お多賀の子」とは、伊勢神宮祭神である天照大神が伊邪那岐命・伊邪那美命両神の御子であることによる。 なお、社に残る垂迹曼荼羅(すいじゃくまんだら)は坊人が国を巡行して神徳を説く際に掲げたものである。 また、多賀社が隆盛したのは、近江国が交通の結節点だったことにもよる。

長寿祈願

多賀社は、特に長寿祈願の神として信仰された。

重源

鎌倉時代の僧である重源に以下の伝承がある。東大寺再建を発念して20年にならんとする61の重源が、着工時に成就祈願のため伊勢神宮に17日間参籠(さんろう)したところ、夢に天照大神が現れ、「事業成功のため寿命を延ばしたいなら、多賀神に祈願せよ」と告げた。重源が多賀社に参拝すると、ひとひらのの葉が舞い落ちてきた。見ればその葉は「」の字の形に虫食い跡の残るものであった。「莚」は「廿」と「延」に分けられ、「廿」は「二十」の意であるから、これは「(寿命が)二十年延びる」と読み解ける。神の意を得て大いに歓喜し奮い立った重源は以後さらに20年にわたる努力を続けて見事東大寺の再建を成し遂げ、報恩謝徳のため当社に赴き、境内の石に座り込むと眠るように亡くなったと伝わる。今日も境内にあるその石は「寿命石」と呼ばれる。また、当社の神紋の一つ「虫くい折れ柏紋([1])」はこの伝承が由来である(今一つに三つ巴がある)。

豊臣秀吉

天正16年(1588年)には、多賀社への信仰篤かった豊臣秀吉が「3年、それがだめなら2年、せめて30日でも」と母の延命を祈願し、成就したため社殿改修を行い大名に与えるに等しい1万石を寄進した。境内正面の石造りの太鼓橋(大僧正慈性により寛永15年〈1638年〉造営)は「太閤橋」の雅名でも呼ばれる。

喪失と再建の江戸期

元和元年(1615年)には社殿が焼失したが、寛永10年(1633年)に徳川家光が再建を命じ、5年後に完成した。明和3年(1766年)には屋根の葺き替え等の大改修が成る。ところが、安永2年(1773年)にまたも焼失。天明2年(1782年)にも火災に遭った。寛政3年(1791年)には暴風で社殿が倒壊した。このように江戸期の多賀社は災難続きであったが、その都度彦根藩および幕府からの手厚い寄進・寄付が行われた。

明治以降

明治初年の神仏分離令を機に廃仏毀釈の動きが広まり、多賀社の神宮寺も廃絶した。 別当職不動院は1868年(明治元年)に復飾せられ、境内にあった全ての神宮寺は払拭せられた。

多賀社は、1871年(明治4年)に県社兼郷社、1885年(明治18年)に官幣中社となり、1914年(大正3年)に官幣大社に昇格した。1947年(昭和22年)「多賀大社」に改称した。

近年の改修と造営

1930年(昭和5年)、本殿を改修。大社造の本殿等の屋根の檜皮葺の葺き替え、ならびに参集殿新築造営は、1966年(昭和41年)から行われ、1972年(昭和47年)に完成した。また、当社は2002年(平成14年)から「平成の大造営」を行っており、2005年(平成17年)の時点で一部は竣工している。

社殿




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  1. ^ 不動院、および、配下三院(観音院般若院成就院)に属する使僧をいう。「同宿輩」とも呼ばれ、全国規模で布教した。多賀社の坊人は隆盛期には100人余に達した。
  2. ^ 彦根市役所 彦根市内の指定文化財一覧表
  3. ^ クマシデイヌシデアカシデなどのクマシデ属


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