夏目純一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 20:06 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動夏目 純一 (なつめ じゅんいち) | |
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生誕 |
1907年6月5日 日本・東京府東京市 |
死没 | 1999年2月21日(91歳没) |
学歴 | ブダペスト音楽院 |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | ヴァイオリニスト |
担当楽器 | ヴァイオリン |
共同作業者 | 東京フィルハーモニー交響楽団 |
概要
夏目漱石の長男として東京市牛込区(現在の東京都新宿区)に生まれる。暁星小学校在学中、父・漱石からフランス語の手ほどきを受けた。しかし物覚えが悪いとの理由で、父から苛烈なしごきを受けた。1916年に父を亡くす。この翌年、「漱石先生追慕号」として、第3次『新思潮』の最終巻が出版されるが、この号の題字を書き、落款(漱石所用の印を使用)を押したのは純一である。
脚気により学業を中途で廃し[1]、ヴァイオリンを宮内省管絃楽部の山井基清に、ドイツ語を内田百閒に師事する。亡父の潤沢な印税を背景として、1926年、5か年の予定でベルリンに留学する。ジプシー音楽に魅了されてウィーンからブダペストへと移り、ブダペスト音楽院に遊学する。ヴァイオリンを学びつつ、テニスや乗馬、猟に興じ、誂えのスポーツカーを乗り回し、貴族と交遊した。
1939年、第二次世界大戦勃発により帰国する。帰国後、東京交響楽団(後の東京フィルハーモニー交響楽団)に第一ヴァイオリン奏者として参加する。そこで知り合った三田平凡寺の四女・嘉米子(ハープ奏者)と1945年9月15日に結婚する。なお、奇遇にも平凡寺は「漱石を大尊敬する人物」であり、この結婚を非常に喜んだ。
滞欧生活が長く語学に通じていた純一は、ドイツ人指揮者マンフレート・グルリットやイタリア人指揮者ニコラ・ルッチとの練習でドイツ語やイタリア語の通訳を務め、東京交響楽団の楽員たちから重宝がられた[2]。
1946年12月の漱石の著作権消滅に伴って、1947年、「漱石全集」その他、漱石作品の題名などを商標登録して権利を保持しようと図ったが、出願は失敗に終わる。この騒動により、米国占領の初期から始まっていた著作権法改定の動きが加速されたという(夏目房之介『孫が読む漱石』p.40)。しかし、著作権が切れた後も漱石の遺物提供の謝礼や、新発見の書簡の全集収録料などの入金はあり、これを妻に内緒でヴァイオリン購入などの自らの趣味に使い、家に入れなかった(同書p.43-44)。60代でヴァイオリニストとして引退した後は、テニス三昧の日々を送ったが、家庭を支えることが出来たのは妻の収入のためである。
嘉米子との間に一女一男をなし、長子が夏目房之介。弟は随筆家の夏目伸六である。
嘉米子と共に、東京都港区の潮坂で喫茶店「コモ」[3]や駐車場を経営していた。
なお、1984年に千円札の絵柄が漱石になった際、純一のところに事前に役所から連絡があったのは、「そちらには漱石の肖像写真があるか?」という問い合わせのみであった。そのため、突然の「漱石の千円札」の発表には、「お札になることは、親父も喜ばないし、俺も好きじゃない」と怒りをあらわにしていたという。
エピソード
夏目氏の跡取りとして、父・漱石の死後は特に甘やかされて育ったといわれ、浮世離れした性格で、妻の嘉米子は息子の房之介にたびたび「夏目のお義母さんは立派な方だけど、子供の育て方だけはまちがってらしたようだ。」と、愚痴をこぼしていたといわれる。房之介は母からたびたび「とにかく嫌な性格」と言い聞かされている。
性格温厚で貴族的な振舞いが多く「クリーニング屋が「背広のポケットにこんなものが入っていましたよ」と持ってきたものを見ると、オーケストラの給料袋が封も切らずに3か月分、まるまる入っていた」との逸話も伝えられる[2]。
文才は無いと語っており、過去には文章を書こうと思ったこともあるが、周囲から猛反対されたという。
固有名詞の分類
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