増鏡 増鏡の概要

増鏡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/27 17:01 UTC 版)

概要

治承4年(1180年)の後鳥羽天皇誕生から、元弘3年/正慶2年(1333年)の元弘の乱後醍醐天皇鎌倉幕府に勝利するまでを描く。17巻本と19巻本(20巻本)があり、前者を「古本」、後者を「増補本」とするのが通説だが、異論もある。作者は未詳だが、北朝の廷臣であるものの南朝を開いた後醍醐天皇を敬愛し、日本文学と学問に精通し、和歌では二条派寄りの、羽林家または大臣家以上の家格の貴族と考えられている。具体的な比定では、二条良基説が比較的有力であるものの確証はなく、その他には二条為明説や洞院公賢説などがある。成立年代については、確実な上限は元弘3年(1333年)6月で、確実な下限は永和2年(1376年)4月である。さらに範囲を狭める有力説としては、上限を興仁親王(崇光天皇)立坊の暦応元年(1338年8月13日とし下限を足利尊氏薨去の延文3年4月30日1358年6月7日)とする説と、応安年間前後(1368–1375年前後)とする説があり、21世紀現在は前者の方が優勢である。

内容

弥世継』(現在亡失)を継承して、治承4年(1180年)の後鳥羽天皇の誕生から、元弘の乱後醍醐天皇隠岐に流され、その後、元弘3年(1333年)6月に京都に戻るまでの、15代150年の事跡を編年体で述べている。

嵯峨清凉寺へ詣でた100歳の老尼が語る昔話を筆記した体裁をとっている。ただし、現存の本においては尼は最初の場面だけの登場になっていることから、当初は他の「四鏡」と同様に尼が登場する最後の場面が書かれた部分が存在していたとする説もある。歴史物語の形式はとっているが、特定個人の宮廷生活の記録が混淆しており、典雅な文体で書かれている。

構成は全体が三部に分かれており、

  • 第一部は後鳥羽院を中心に記しており、(おどろのした)から(藤衣)まで。
  • 第二部は(三神山)から(千島)までで後嵯峨院を中心に記述する。
  • 第三部は(秋のみやま)から(月草の花)までで後醍醐天皇の即位から隠岐配流・親政回復までをのべている。

この時代の和漢混淆文ではなく擬古文体で書かれているのも特徴である。

書名

序の部分に「愚かなる心や見えんます鏡」と老尼が詠んでおり、さらに筆者の「いまもまた昔をかけばます鏡 振りぬる代々の跡にかさねん」という歌から書名が由来する[1]

「ます鏡」とは、第一義には、「真澄(ますみ)の鏡」の略であり[2]、古語で「よく澄んだ鏡」という意味である[2][1]井上宗雄は、古を「今の鑑」(現代への手本)とする『今鏡』の訓戒の精神とは違い、『ます鏡』という題には、過去を偽りなく写す鏡であるという歴史的事実をありのままに記すことを重んじる精神が現れているのではないかとしている[1]

さらに、岡一男山岸徳平鈴木一雄らによる、「大鏡」・「今鏡」・「水鏡」のいわゆる「三鏡」にさらに一つを「増す」(付け加える)というダブルミーニングなのではないかという説もある[1]

なお、現在は普通「増鏡」と表記されるが、写本では「真寸鏡」「益鏡」「ますかゞみ」といった表記もある[1]。『源起記』という題を用いる写本もある[1]

著者

著者について、近代までは一条経嗣一条兼良一条冬良一条家の人間の誰かが推定されていた[3]。その後、「応永本」などの奥書から永和2年(1376年)には既に存在していたことが明らかになり、その根拠は失われた[4]

基本的には、北朝の公家貴族で、和歌から『源氏物語』などの小説まで日本文学に幅広く精通し、かつ学問への素養が深い人間が想定される[5][6]石田吉貞は、内容からして元弘の乱の混沌を直に見た人物ではないかとする[7]井上宗雄は、敬語表現からして、名家(公家の家格の一つ)の人間を軽んじる傾向から、羽林家もしくは大臣家以上の家格の人間であろうとしている[8]。また、小川剛生によれば、南朝を開いた後醍醐天皇を畏敬し、和歌では二条派に親しく京極派にはそれほどでもなく冷泉派には全く無関心である人物である[6]

以上の人物像に最も合致する人物として、昭和時代、特に有力視されたのは北朝准三宮にして連歌の大成者である二条良基である[5][注釈 1]。また良基は北朝の実力者でありながら、南朝を開いた後醍醐天皇とは朝儀復興という理想を共有することから、後醍醐への敬愛が著しく、この点も『増鏡』の内容と一致する[5]。とはいえ、これらはあくまで状況証拠であり、慎重さを求める声も多く、有力説ではあるものの「通説」とまでは至っていない[10]

その他には、和田英松二条為明[11]、宮内三二郎の兼好法師説(これはほとんど支持されない)[11]、田中隆裕の洞院公賢[12]などがある。また、関東四郎の二条為定[13]荒木良雄丹波忠守[14]などもある[11]。また、二条良基著者説に否定的な小口倫司は中院家関係者を著者として想定した[15]

作者を南朝の人間とする説も一部にあり、中村直勝は、南朝公卿四条隆資の還俗で『増鏡』が終わることから、作者は隆資ではないかとした[3]。しかし、石田らは公家大将として戦場でも活躍した隆資に執筆の時間があったかどうかを疑問視し、四条説を否定した[3]。一方、小沢良衛は、『増鏡』が資料として多く用いた『とはずがたり』の作者後深草院二条は母方が四条家であることを指摘し、隆資説を積極的には否定しない[3]

井上は現存する資料のみから特定の人物に比定する試みそのものに無理があるとし、判断を控える[16]。小川は当初は井上と同様の態度を示していたが[12]、後に二条良基説を否定して(良基の協力を得た)丹波忠守説を唱えた[17]。ところが、後の著作では良基もしくはその支援を受けた人物(具体名は触れず)と自説の修正を行っている[18]


注釈

  1. ^ 一条経嗣の実父である二条良基を作者とする説は江戸時代には存在しており、水戸藩の「彰考館目録別本」には塙検校所蔵応永本からの引用として「園摂政良基作」と記載され、幕末には大沢清臣、明治時代には松本愛重・関根正直、大正時代には佐藤仁之助・坂井衡平、昭和に入ると岡一男・石田吉貞・松村博司・手嶋靖生・木藤才蔵らが唱えたことで有力となった[9]

出典

  1. ^ a b c d e f 井上 1983b, p. 385.
  2. ^ a b 日本国語大辞典』第二版「ます‐かがみ 【真澄鏡】」
  3. ^ a b c d 井上 1983b, p. 395.
  4. ^ 西沢 1982, p. 50.
  5. ^ a b c 井上 1983b, p. 396.
  6. ^ a b 小川 2000, p. 8.
  7. ^ 井上 1983b, p. 398.
  8. ^ 井上 1983b, pp. 397–398.
  9. ^ 西沢 1982, p. 50・56-67.
  10. ^ 井上 1983b, pp. 396–397.
  11. ^ a b c 井上 1983b, pp. 395–396.
  12. ^ a b 小川 2000, p. 10.
  13. ^ 西沢 1982, p. 53-54.
  14. ^ 西沢 1982, p. 51-52.
  15. ^ 西沢 1982, p. 59.
  16. ^ 井上 1983b, pp. 398–399.
  17. ^ 小川『二条良基研究』(笠間書房、2005年)P568-570・586-588
  18. ^ 小川『二条良基』(吉川弘文館【人物叢書】、2019年)P202-205.
  19. ^ 井上 1983b, pp. 389–391.
  20. ^ 井上 1983b, pp. 391–392.
  21. ^ 小川 2000, pp. 2–4.
  22. ^ a b c 井上 1983b, pp. 392–393.
  23. ^ 小川 2000, p. 4.
  24. ^ 西沢 1982, p. 64-67.
  25. ^ 井上 1983b, p. 392.
  26. ^ 小川 2000, p. 3.
  27. ^ 宮内三二郎「『増鏡』の原形態」『とばすがたり・徒然草・増鏡新見』(明治書院、1977年)の説(初出:1971年)。


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