坂本龍馬 人物

坂本龍馬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/21 13:38 UTC 版)

人物

坂本家の家系・家族

女性関係

龍馬の女性関係は華やかである。恋人とされる女性には史実で明らかになっているだけでも平井加尾千葉さな子、そして妻の楢崎龍などがいる。

その他に、高知の漢方医の娘・お徳[134] や公家の腰元・お蝶[135]、長崎の芸妓お元[136]、京都の旅宿の娘・お国[137] などの名が伝わるが詳細真偽は不明である。多くの女性は、坂本龍馬と出会って、命がけで助けようとしたとされる。フィクションの世界では、断片情報から龍馬が女性に好かれたとの記録が残っていることから、さらに多くの女性を登場させている。これは、藩の要職にあったほかの歴史的志士と違い、一介の素浪人にすぎない龍馬の記録が極めて限定的なことから、記録があまり残っていないため推測の余地が大きく「おそらくこうであったろう」との作家らの推測で記述されている。その多くは、美男子との記述が特に残されていない龍馬が女性に好かれたのは、人間的魅力に溢れていたことを示唆し、その女性関係も龍馬人気の一助となっている。

手紙と変名

龍馬の署名
龍馬の手紙(京都国立博物館蔵)
慶応2年(1866年)12月4日付乙女宛 重要文化財
  • 現存または筆写された龍馬の手紙は、一部で疑問視されるものも含めて、約130通が確認されている。もっとも多いのは姉・乙女宛のもので13通、次に伊藤助太夫佐々木高行宛の各12通、これに三吉慎蔵宛が10通、桂小五郎宛が9通と続いている。ほかに乙女宛と推定されるものが2通、乙女・おやべ[注 43] 連名のものも2通、兄の坂本権平・乙女・おやべ連名のものが1通、乙女と姪の坂本春猪連名のものも1通あり、乙女を対象としたものが圧倒的に多い。妻・お龍宛の手紙は1通のみ残されている。
  • 姉・乙女に宛てた手紙には文久3年5月の手紙のように「勝海舟の門弟になったこと」を「エヘンエヘン(咳ではなく「偉いだろう」の意)」とユーモラスに自慢しているものがあり、龍馬の暖かい人間性をほうふつとさせている。その後も乙女には詳しく自分の行動を報告する習慣があったようだ[138]
  • 龍馬の変名としては、慶応2年(1866年)11月16日付で溝淵広之丞に宛てた手紙に、初めて記された「才谷梅太郎(さいたに うめたろう)」とあるが、慶応元年9月9日付で乙女とおやべに宛てた手紙には「西郷伊三郎」と名乗っていることが記されている。ほかに「高坂龍次郎」「大浜涛次郎(とうじろう)」「取巻の抜六(とりまきのぬけろく)」などがある。なお、これは変名ではないが、慶応3年(1867年)11月13日付と推定される陸奥宗光に宛てた手紙では、「自然堂(じねんどう)」のを署名している[139]

関義臣「坂本龍馬を、りうまと訓む物があるが、これはれうまで無くてはならぬ。りうは関東の訛りで、関西では総てれうと云う。りうの彫物、富士越のりうと云っては、関西では何のことやら解らぬ。やはりれうの彫物、富士越のれうである。坂本自身もれうまと云っていた。薩州の文書の中には、坂本良馬と書いたのがあるのを見ても、れうと訓むべきが当然ぢゃ」(『実録維新十傑』第9卷)

有馬藤太「先生(西郷)は龍馬(りょうま)を龍馬(りうめ)と呼んでいた」

愛用の品

S&W モデル1
  • 当時、土佐藩士の間では長刀をさすことが流行していた。あるとき龍馬の旧友の檜垣清治が龍馬と再会したとき、龍馬は短めの刀を差していた。そのことを指摘したところ「実戦では短い刀のほうが取り回しがよい」と言われ、納得した檜垣は短い刀を差すようにした。次に再会したとき、檜垣が勇んで刀を見せたところ龍馬は懐から拳銃を出し「銃の前には刀なんて役にたたない」と言われた。納得した檜垣は拳銃を早速買い求めた。三度再会したとき、檜垣が購入した拳銃を見せたところ龍馬は万国公法(国際法)の洋書を取り出し「これからは世界を知らなければならない」といわれた。もはや檜垣はついていけなかったという。龍馬の性格を鮮やかに描写している逸話として有名だが、当事者の檜垣清治は文久2年(1862年)に人を殺めて投獄され、維新後に赦免されるまで獄中にあり、龍馬と再会することはなく、大正3年(1914年)に著された千頭清臣『坂本龍馬』における創作である[140]
  • 龍馬が愛用した拳銃は2丁あると言われている。ひとつは高杉晋作から贈呈された S&W モデル 2 アーミー英語版32口径6連発で、寺田屋事件の際に火を噴いたのはこの銃であると言われている。後日、兄・坂本権平宛ての手紙の中で「右銃ハ元より六丸込ミな礼(れ)ども、其時ハ五丸のミ込てあれば」と6連発銃であることを示唆している。しかし同事件の際に紛失し、のちに買い求めたのが S&W モデル 1 1/2英語版32口径5連発で、これは妻・お龍とともに1丁ずつ所持し、姉・乙女宛てに「長サ六寸計(ばかり)五発込懐剣より八ちいさけれども、人おうつに五十間位へだたりて八打殺すことでき申候」と書き送っている。薩摩滞在時はこれで狩猟などを楽しんだという。当然この銃は暗殺されたときも携帯していたが、発砲することなく殺害されている。
吉行
  • 龍馬はその生涯において多数の刀剣を所持している。龍馬が所持していたとされる刀4振りのうち「吉行」など2振りは京都国立博物館が、1振りは高知県立坂本龍馬記念館が所蔵し、1振りは行方不明になっているが、これら4振りを研ぎなおす前に墨でとった「押し型」が北海道で発見されている[141]近江屋事件の際には刃渡り二尺二寸で反り浅めの新刀、銘「吉行」を帯びていた。福永酔剣によれば、これは刺客(見廻組渡辺吉太郎が自供)の太刀(無銘、大和保昌一派、刃渡り二尺四寸程度。明治三十年代に佐伯理一郎氏に譲渡される)を鞘ごと受けた際に匁の部分を三寸ほど、刀身に至るまで削られている。[142]。なお龍馬の手紙には、随所にこの吉行の話が出てくる。彼が兄・権平に求めた先祖伝来の一品で、慶応3年(1867年)2月、山内容堂に会見するため土佐を訪れた西郷隆盛に「吉行」の刀をことづけ、3月中旬ごろ長崎の龍馬のもとに届いた。京都に行くときは、いつもこれを差して、兄からの贈り物だと自慢していた[143][注 44]。龍馬の死後、この吉行は明治4年(1871年)に坂本家を継いだ甥の小野淳輔の手元に残された[144]
  • 他に龍馬が所有していた刀剣として、三吉慎蔵に形見として与えられた伝相州正宗の無銘刀、姉の岡上乙女に形見として与えられた刃渡り二尺四分直刀の銘備前修理亮盛光と刃渡り八寸二分半 直刃無銘(1867年に毛利敬親に謁見した際に拝領した粟田口吉光の短刀と福永酔剣は推察している)、お竜が形見としていたものの明治時代に手放したあと、宮内省へ献上され射撃コンクール優勝者の松永正敏に下賜されたのち軍刀として拵え直された磨り上げ無銘 伝備前元重、晩年のお竜が世話になった旧広島藩(安芸藩広島新田藩かは不明)士族西原只乃進へ贈与し大正元年に山内豊中が購入した刃渡り二尺 大磨り上げ無銘 鞘書き相州秋広、同じくお竜が手放したと思われる田内宇吉氏所蔵の左行秀の短刀、第二次世界大戦前に高知城懐徳館が龍馬の佩刀として陳列していた刃渡り二尺六寸六分 銘相州鎌倉住国秀 嘉永七歳八月日、生前の龍馬が薩摩志士吉井幸輔に贈った大磨り上げ無銘 茎に「神崎則休指料」の銀象眼入り(明治四十年に本阿弥成善が肥後の延寿物と鑑定、鞘書き)が確認されている[146]。これらのうち、松永正敏の旧蔵した元重は昭和に入り山形県の個人の所有となり、その縁から山形市最上義光歴史館に寄託されている(通常非公開)[147]
  • 龍馬が姉・乙女などに宛てる手紙などの紙入れとして使った三徳。江戸時代に紙入れとして流行したもの。遊里に出入りし、都々逸を謡ったという粋なセンスを感じる品。牡丹と菊の模様が綴織され、金具には二羽の蝶がデザインされている。縦十四・五センチ、横二一・五センチ。

身体的特徴

  • 一説では身長5.247尺(約159cm)[注 45]とされ、江戸時代の当時としてはかなりの大男であったといえる。なお、ほかの研究では165cmや169cm・62kg[148]という説もある。
  • 親戚である武市半平太も大男で、武市とは「アギ(あご)」「アザ(痣)」とあだ名で呼び合う仲だった。

その他のエピソード

龍馬のエピソードには、素朴な人間愛を感じるものが多い[149]

  • 龍馬の従弟山本琢磨が切腹を申しつけられたとき、「こんなことで死ぬな。ばかばかしい」と逃がしたという。琢磨はのちにニコライの弟子となり、大司教として一生を終えた[149]
  • 母親代わりに育ててくれた三女で姉の乙女をとにかく好きで信頼していたのか、手紙も乙女や乙女との連名の手紙が妻のお龍よりはるかに多い。恋した女性の相談も乙女に話していた。







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