坂本則美
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/18 02:35 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動坂本 則美 さかもと のりみ または のりよし | |
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生年月日 | 1848年~1850年頃 |
出生地 | 高知県土佐郡一宮村 |
没年月日 | 1913年9月15日 |
死没地 | 東京都麹町 |
高知県会議員 | |
在任期間 | 1879年 - 1889年 |
当選回数 | 二回(三回?) |
生涯
1848年あるいは1850年頃[注釈 1]、高知県土佐郡一宮村に生まれる[3][1]。高知藩士坂本覚次郎の三男[3]。明治7、8年ごろから貧児救育事業を始め[1]、貧児救育事業団体の詵々社の社長となり[1]、高知慈善協会の設立にも関わった[2]。1879年に高知県会議員に当選し[1]、議会副議長などに選ばれ[3]、1882年まで議員を務めた[1]。
1885年に京都府知事北垣国道の招聘で京都疎水(現在の琵琶湖疏水)事務所理事となった[1]。1889年に京都市参事会員[3]。1892年に衆議院議員となり[3][1][2]、二回[2][1](三回?[3])当選した。外務大臣大隈重信の条約改正に反対し、上京して直接面談して反対意見を述べて世論喚起を図った[1]。
その後は実業界で活躍した。総武鉄道の人員整理に活躍し、取締役社長に推挙された[3]。1898年、北海道鉄道株式会社専務取締役理事となった[3]。さらに夕張炭鉱社長、京都合資会社社長などを歴任した[3]。1913年9月15日、肝臓炎により東京麹町の自宅で死亡[3]。20日に青松寺で葬儀が行われ、遺骨は後に京都の紫野徳大寺に葬られた[3]。戒名は「聖諦院不識則美居士」[3]。
脚注
注釈
- ^ 「弘化四年十一月二十六日」(矢部)、「嘉永3年」「生年が弘化4年とする説もある」(国立国会図書館)、「1848年」「弘化(こうか)4年11月26日生まれ」(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)、「1850年」(『日外アソシエーツ 人名事典』)。西暦では、弘化4年11月26日は1848年、嘉永3年は1849~1850年にあたる。
出典
- 1 坂本則美とは
- 2 坂本則美の概要
- 坂本則美のページへのリンク