因幡国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/30 01:47 UTC 版)
因幡国 | |
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■-因幡国 ■-山陰道 | |
別称 | 因州(いんしゅう) |
所属 | 山陰道 |
相当領域 | 鳥取県東部 |
諸元 | |
国力 | 上国 |
距離 | 近国 |
郡・郷数 | 7郡50郷 |
国内主要施設 | |
因幡国府 | 鳥取県鳥取市(因幡国庁跡) |
因幡国分寺 | 鳥取県鳥取市 |
因幡国分尼寺 | (推定)鳥取県鳥取市 |
一宮 | 宇倍神社(鳥取県鳥取市) |
名称と由来
「いなば」の表記について、古くは『古事記』で「稲羽」、『先代旧事本紀』で「稲葉」と記される[1]。その由来は定かでないが、稲葉神社(鳥取市立川)では、社名を因幡国の名称の由来と伝える。
なお「イナバ」(稲葉、因幡、印旛、印葉、稲羽)の固有名詞は、山陰道の稲葉国造、同国法美郡の稲羽郷・稲葉山のほか、大和国天理市の稲葉、美濃国厚見郡の稲葉山(三野後国造の中心領域で、式内社物部神社も鎮座)、や「天孫本紀」の印葉という者(武諸隅命の孫とされる)、「国造本紀」の久努国造の祖・印播足尼(伊香色男命の孫とされる)などに見える[2]。
領域
明治維新の直前の領域は、現在の鳥取県鳥取市、岩美郡、八頭郡にあたる。
沿革
古くは稲葉国造の領域であったとされる[1]。令制国としての因幡国は7世紀に成立した。
室町時代は因幡山名氏の一族が因幡国の守護を務めたが、周辺の但馬や伯耆の山名家と比べて、守護家の支配基盤は脆弱であった。そのため、但馬惣領家が家督争いに介入するなど政情が不安定な部分もあった。また、八上・八東といった因幡南部には独立性の高い奉公衆系の国人が多数存在しており、これらの国人の一部は文明年間~長享年間にかけて2回に亘る反乱を起こしている。(毛利次郎の乱)
戦国時代も因幡山名氏の支配が続くが、因幡山名氏の勢力が内紛などで衰えたため、因幡は織田・毛利の争乱の地となる。また、毛利氏と手を結んだ武田高信が勢力を拡大したが、一国を支配する大名までには成長しきれなかった。羽柴秀吉により鳥取城が陥落してからは因幡一国は織田氏の支配下に置かれた。
江戸時代初期は複数の大名に分割されたが、その後は明治維新まで池田氏が鳥取藩32万石の大名として因幡を支配した。
近世以降の沿革
- 「旧高旧領取調帳」の記載によると、明治初年時点では国内の全域が鳥取藩領であった(565村・193,336石余・一部は寺社領)。
- 明治4年7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県により鳥取県の管轄となる。
- 明治9年(1876年)8月21日 - 第2次府県統合により島根県の管轄となる。
- 明治14年(1881年)9月12日 - 鳥取県の管轄となる。
国内の施設
国府
国府は法美郡(法味郡)にあった。現在の鳥取市国府町中郷と考えられている。平安時代末期から鎌倉時代にかけての国衙跡中心部の遺跡が発掘され、現在は史跡公園に整備されている。
国分寺・国分尼寺
- 因幡国分寺跡
- 鳥取市国府町。千代川の沖積平野に位置するが、塔跡と南門などが確認されたにとどまり、全容は不明である。
尼寺跡は国分寺跡の西方にある法花寺集落の周辺と推定されるが、確認されていない。
神社
- 法美郡 宇倍神社 - 鳥取市(旧 岩美郡国府町)。
- 総社 不詳 - 『時範記』によれば国府の近くにあったようだが、現存しないものとみられている。宇倍神社境内社に「国府神社」があるが、これは大正時代の改称である。
- 一宮 宇倍神社 - 9世紀半ばまでは天穂日命神社の方が上位の神階に属していた。
- 二宮 不詳 - 大江神社が二宮であるとする説がある。
- ^ a b 『日本歴史地名体系 鳥取県の地名』(平凡社)因幡国節。
- ^ 宝賀寿男「「天孫本紀」物部氏系譜の検討」『古樹紀之房間』、2008年
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