四道将軍
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四道将軍(しどうしょうぐん、古訓:よつのみちのいくさのきみ)は、『日本書紀』に登場する皇族(王族)の将軍で、大彦命(おおびこのみこと)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、吉備津彦命(きびつひこのみこと)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の4人を指す。[1]
- ^ a b 「以大彦命遣北陸。武渟川別遣東海。吉備津彦遣西道。丹波道主命遣丹波。因以詔之曰。若有不受教者。乃挙兵伐之。既而共授印綬為将軍。」日本書紀(朝日新聞社本)
- ^ 「四道将軍以平戎夷之状奏焉。」日本書紀(朝日新聞社本)
- ^ 『日本の歴史 第1巻 神話から歴史へ』中央公論社,1964 文庫新版,2005,ISBN 978-4122045477
- ^ 『古事記』は崇神天皇の没年を戊寅年と記し、258年または318年とする説が有力である。
- ^ 川口勝康(首都大学東京教授)は次のように解説する。「稲荷山古墳出土の鉄剣銘文中の乎視居臣 (おわけのおみ) なる人物の系譜にみえる上祖の意富比魁は、オホヒコとよまれ、記紀の大彦命にあたる可能性が高い(平凡社『世界大百科事典』)」。また、岸俊男(京都大学名誉教授)は次のように解説する。「ヲワケを東国国造の系譜に属する者と考える説と、上祖オホヒコを記紀に阿倍臣や膳臣 (かしわでのおみ) の始祖としてみえる孝元天皇の皇子大彦命とし、あるいは杖刀人は阿倍臣に従属する丈部(はせつかべ) であるとみて、ヲワケを中央豪族の一員と考える説に大きく見解が分かれている(平凡社『世界大百科事典』)」。安本美典は、『本朝皇胤紹運録』によると「大彦命」の孫は「豐韓別命」であり、鉄剣銘文の「意富比垝(オホヒコ)」の孫「弖已加利獲居(テヨカリワケ)」と読み方が似ているとする(倭王武と雄略天皇 稲荷山古墳出土鉄剣銘文)。また、豐韓別命は武渟川別の子とされるが、鉄剣銘文では弖已加利獲居は多加利足尼の子である。
- ^ 安本美典 『巨大古墳の主がわかった!』 JICC出版局 1991年。行燈山古墳は文久の修陵の際に修復が行われており、被葬者については異説もあること、また中山茶臼山古墳は吉備の中山の自然の地形を利用して築造されていることに注意。
- ^ 『ここまでわかった! 「古代」謎の四世紀』 新人物文庫 2014年 ISBN 978-4-04-600400-0 p.171.
- ^ 同『ここまでわかった! 「古代」謎の四世紀』 p.171.
- ^ 同『ここまでわかった! 「古代」謎の四世紀』 p.161.
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