呉道玄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/17 07:28 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2015年6月) |
来歴・人物
陽翟(河南省禹州市)の出身。酒を好み、筆を振るう時には、必ず酒を飲んだ。書を張旭や賀知章に学んだが、大成しなかった。その筆跡は、薛稷に似ていたと伝わる。
そのため、絵画を学び達し、韋嗣立に仕え、小吏(胥吏)となり、その関係により、蜀道の山水を写しとった。そこで、山水画の新たな画法を創出し、一家をなした。兗州瑕丘県の県尉となった後、玄宗により、宮中に召され、名を「道玄」と改めた。内教博士を授けられ、詔が無ければ、画くことができない立場となった。官位は、寧王・李憲の友(従五品下)まで進んだ。
開元13年(725年)、玄宗の泰山封禅に同道し、そこで、張旭と剣舞の達人である裴旻と会った。また、裴旻により、洛陽の寺社における鬼神壁画の製作を依頼され、「私の画筆は長く行っていない。もし、頼みたいとあれば、剣舞を見せてくれ」と答え、この時に見た剣舞により、筆がさらに進んだと伝わっている。この時、韋無忝・陳閎とともに「金橋図」を描き、「三絶」と称された。
天宝年間に、玄宗によって、蜀道の嘉陵江水の写実を命じられた。呉道玄は、画稿を用いずに、眺めて心にとどめ置き、後に、大同殿にそれを描く詔があった際には、蜀道嘉陵江三百余里の山水を、一日にして描き終わった。玄宗は、また、山水画の名手とうたわれた李思訓に命じて、大同殿に描かせたところ、数か月かかった。玄宗は、「李思訓の数月の功、呉道子の一日の迹、みなその妙を極めり」と評したと伝えられる。[1]
その活動は、開元10年(722年)から、天宝8載(749年)の洛陽・玄元皇帝の五聖廟の描画まではっきりしている。また、洛陽・長安の諸寺に壁画300間余を描いており、段成式の「酉陽雑俎」で何度もその壁画に関する描写がなされている。呉道玄は、筆と墨だけで描き上げ、彩色は弟子が行った。特に地獄図が得意であった。
また、玄宗に命じられ、鍾馗の画像を描き、この画をもとに、全国で魔払いが行うように命じる告知が出されている。また、仏教にも熱心で、常に金剛経を所持していたと伝えられる。
老年期のエピソードと思われるものに、天宝年間に、呉道玄と同等の名声のあった画家の楊庭光が、呉道玄の肖像画を本人に黙って、衆人の前で描き、呉道玄を呼んで見せつけた。呉道玄は驚いて、『老夫衰醜、何を用ってか之を図す』と楊庭光に言った」といったものが残っている。
評価
呉道玄の画は、物・仏像・鬼神・禽獣・山水・台殿・草木、全てのジャンルにおいて、絶大な評価を受け、唐代第一と称せられた。
同時代の張懐瓘からも、「筆を下せば神有り。これ張僧繇の後身なり」と評されており、晩唐の張彦遠は、「歴代名画記」において、これを是とした上で、顧愷之、陸探微と比べ、ただ一人、同等の評価を示し、張僧繇の上位においている。また、張彦遠は、「唯だ呉道玄の迹のみ、六法倶に全く、万象必ず尽し、神人手を仮し、造化を窮極すと謂いつべし」とまで絶賛している。「山水の変(山水画の画法の変革)は呉道玄に始まり、李思訓、李昭道父子に成る」とし、画の六法の変革者と位置づけ、「画聖」と評している。
また、同じく晩唐の朱景玄も「唐朝名画録」において、第一位の「神品上」にただ一人評価している。段成式も呉道玄の壁画を称える「呉画連句」を作成し、絶賛している。
その画法は、線に抑揚や強弱をつけることで、躍動感や立体感を出すもので、六朝時代の画法を脱するものであり、後世の画法に大きな影響を与えた。しかし、現在ではその真蹟は残っていないとされる。
同時代の画家
- 楊庭光
呉道玄と同等の名声を得ていた。仏像画、仙人画、包丁画や山水画に長け、画筆が呉道玄に似ていた。やや、筆跡が細やかだったが、その仏像画は呉道玄に劣らなかったと評される。「唐朝名画録」では、第六位「妙品下」に評価されている。
- 韋無忝
京兆の出身。唐朝において、左武衛将軍に任じられた。馬や獣を描くのに長けていた。彼の獅子の画は、百獣をおののかせたと伝わる。晩唐にもその画は称えられた。呉道玄と合作した「金橋図」でも、獣の画を担当した。「唐朝名画録」では、第四位「妙品上」に評価されている。
- 陳閎
会稽の出身。永王府の長吏に任じられた。人物画にすぐれており、開元年間に宮廷に入り、玄宗の肖像画を描いていた。勅命により、多くの作品を手がけ、粛宗の肖像画も描き、晩唐にもその画は称えられた。呉道玄と合作した「金橋図」では、玄宗肖像画と乗馬・照夜白の画を担当した。「唐朝名画録」では、第五位「妙品中」に評価されているが、人物画は「神品」であるとされる。
- ^ ただし、李思訓は、『旧唐書』によると、開元6年(718年)に死去している。
呉道玄と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 呉道玄のページへのリンク