古武道 古武道の概要

古武道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/04 09:44 UTC 版)

流鏑馬武田流
弓術日置流
居合術無雙神傳英信流
杖術神道夢想流

現代武道が体育的見地からの心身の鍛錬を目的とし、スポーツ系統の競技試合を重視して技術の体系を構築しているのに対し(例:柔道剣道)、古武道は基本的に試合での勝敗を目的とせず(流派によっては他流試合を禁じていた)、合戦決闘護身や、戦闘で使命を果たすための心身鍛錬が本来の目的とされていた。そのため、危険であるとして現代武道から除かれた技法や各種の隠し武器薬方呪術が流派によっては含まれている場合がある。

相撲は、現代武道の一つには数えられているものの、江戸時代以前の相撲は古武道に含まれるかというと、決して明瞭ではない。ただし武家相撲は、相撲の中でも最も古武道の定義に重なった形態と言える。

琉球古武術空手は、古武道として分類されたり古武道団体に所属していることもあるが、これらは中国武術からの影響が大きい琉球王国独自の武術であり、本土のそれとは異質な技術体系を有しているため、本項で定義する古武道とは別個として考える。

概要

古武道は、戦闘技術という大義名分のもと、一種の教養学問芸能として、古来からその価値が認められており、武家文化の担い手として重要な役割を果たしてきた。神道仏教禅宗密教)、儒教道教などの宗教観が武技の根幹である生体力学と融合し、武士の生活規範である「武士道」の中核を支えた。

理想を古典的な)に求めそれを重視し保守する姿勢を「」とし、古典的な形に囚われず新たな形を創造する姿勢を「」とするならば、古武道は、古典的文芸能楽の影響を受けて、戦闘という極端な「俗」を脱して「雅」の性格が付与されており、「」としての文化的価値を見出している[2]

入門時の血判起請文などに示されるように、古武道は厳格で格式高い閉鎖的・排他的な様相を呈することが多い。しかしその一方では、単に武士が藩校などで学ぶ義務教育の一環として、あるいは農民町人が余暇に嗜むレクリエーションとして(ただし禁令が出されたこともある)といった、現代でいう学校体育趣味に近いような敷居の低い一面も認められた。

武士の表芸は、遠戦術の弓術から、白兵戦術の薙刀術槍術剣術へと時代ごとに変化した。古武道の定義である室町時代以降の武芸では、兵法三大源流をはじめとする剣術が表芸となっていった。

歴史

古代

埴輪 挂甲武人』(古墳時代

弥生時代埴輪などの出土品や、『古事記』、『日本書紀』などの日本神話に剣、矛、、弓など武器の記述があることから、なんらかの武技は存在していたものと思われるが詳細は不明である。古墳時代の埴輪 挂甲武人は甲冑を身につけ、弓と太刀を装備している。また太刀は左腰に下げている。和人側の記述から蝦夷は狩猟で培った騎射を主体に、蕨手刀のような刀剣も使用しており、取り扱うための武技もあったと推察されるが詳細は不明である。騎射については俘囚を通して和人に伝わると、武士により戦闘技術として洗練されていったとされる。

『日本書紀』では当麻蹴速捔力(すまひ)で勝負した野見宿禰蹴り技の応酬で戦い、最後は倒れた蹴速が宿禰に腰を踏み折られて死んだという記述があり、この時代の捔力が相撲の起源とする説もある。これは現代の相撲(大相撲アマチュア相撲)とはルールが異なるものである。『日本書紀』の天智天皇紀には、7年秋7月「于時近江國講武」すなわち近江国で武を講じたとある。

また『古事記』などの思想的、文化的な視点から、弓矢が威儀を示す行装として重い位置を占めていたと考えられ、その日本古代からの弓矢への威徳の思想と、中国の弓矢における「射をもって、君子の争いとなす。」という射礼思想礼から、朝廷行事としての「射礼」の儀が誕生した。その後の武家時代には弓矢を通じたの思想がうまれ、やがて日本固有の武家思想と結びついていくことになる[3]

中世

天下五剣」のうちの一振り『童子切』(平安時代

これまで日本を支配していた貴族に代わるように、武士が新たに台頭するようになる。合戦の主役は弓であると同時に中世全期を通した武士の象徴であったが、一方で時代が下るごとに白兵戦の比率が増えていき、その表武器も太刀(野太刀)・薙刀、さらにと変化していった[4]

また、合戦や抗争に依らずとも日常的に殺し合いが発生したといわれ、武士や貴族を始めとするあらゆる人々は些細なきっかけで激高し、武器を手に取って友人や部下を含めた人々を殺傷した[5]

平安時代

和名類聚抄』には『古布志宇知(こぶしうち)』という武術名が見える。

平安時代では一騎討ちが基本であり、騎射により矢を打ち合う「矢戦(やいくさ)」から始まり、矢が尽きると接近して太刀薙刀などの打物で戦う接近しての馬上戦に移行、最後は相手の首を取るためは馬を下りて戦う「歩戦(かちいくさ)」で勝敗を決した。このためあらゆる間合いで戦う技能が必要となった。

鎌倉時代

武士の道(武芸)は弓術馬術を基本とする「弓馬の道」とされ、騎射三物のような鍛錬法も編み出された。この時代でも合戦は騎射で始まるが、元寇を描いた絵では騎兵を密集させ集団で突撃する様子もあり、集団戦も考慮されるようになったと考えられている。

曾我兄弟の仇討ちで有名な『曽我物語』などでは、現代の相撲と異なる武芸としての相撲が武士により行われたことが記述されている。この武家相撲は後に廃れ、相撲伝書や江戸時代初期の関口流柔術の伝書などにうかがえるのみである[6]

室町・戦国時代

いわゆる兵法三大源流陰流神道流念流)が興った。なかでも神道流の祖・飯篠家直は、それまで決まった形の無かった日本武芸の世界に百般に亘る形の原型を創ったことから、「日本兵法中興の祖」とされている。またそれらの影響を受け新陰流新当流一刀流中条流等が派生して一挙に剣の道が広まった。柔術系の武術としては竹内流が成立した。他の武芸についても、や歌のように芸とみなされ理論の確立や深化が進められた。武芸を専一に行う兵法家の道を歩む者たちが現れ、武者修行が隆盛した。また彼らのなかには自流を上覧に供したものもいた。

近世

柳生新陰流

武術の様々な流派は、戦国時代において形成されたものは少なく、多くがむしろ戦乱の収まった江戸時代に発展した。幕藩体制のなかで各藩は指南役を設けたり、特定の流儀を御流儀(御留流)として指定するなどした。

江戸時代

江戸幕府成立により断続的に起きていた内戦が収まり、初期においては未だ戦乱期の気風が残っていたものの、その後約250年にも亘る平和な時代へと突入していくことになる。

戦闘技術は武士道の理念や禅宗密教の思想と密接に繋がり(例:剣禅一致)、武術が人を殺めるための「術」ではなく、人格形成のための「道」として本格的に捉えられていくようになった。文武の両面が融合したことで「武道」の基本的概念が確立し、古武道は理想的武士像形成の手段として研究・習得されるようになる[7]。また流派の細分化や芸道化がより顕著に見られるようになり、それまでにあった戦国の香り残る殺伐とした武骨な流派にも礼法が積極的に摂取され、所作も洗練されるなどして、様式化がなされていった。

しかしながら各流とも相互の交流を試みることなく、むしろ他流試合を厳禁して封鎖的、排他的であった。その弊害として、行き過ぎた形式主義に流れて一部で華法化(華美化)も見られるようになった。そこで18世紀半ば、華法化の流れを断ち切るかの如く現れたのが、剣術における打ち込み稽古であった。この方向性は他の武芸にも波及し(柔術や槍術における乱取り地稽古の導入など)、理論・技術研鑽の気運が高まった。そして松平定信による寛政の改革もまた、その気運を大きく伸長発展させた。江戸市中の文武師家に書上(調査・報告)を命じ、内容のいかがわしいもの、技術の未熟なものに指南の禁止を命じたり、諸士の武芸上覧を復活させるなどした。また一方で武術は武士以外にも積極的に開放され、町人農民にとって余暇の楽しみともなり、都市部や農村地帯で広く行われるようになった。ただしこれに対して、幕府は関東取締出役を設置した1805年(文化2年)に、農民間の武芸稽古を禁圧する令を出している。

幕末期の剣術。稽古道具や試合方法が共通化していき、後の現代武道へと繋がっていく。(F・ベアト撮影)

19世紀になると、本土への外国船の接近が相次ぎ、武芸教育への関心が高まる。藩営の武芸稽古場・演武場を設置する所が増加したほか、全国で武者修行や他流試合、武術留学が流行し始め、各地の師範名をまとめた書物が発刊されるなどした。様々な流儀で交流が行われ、剣術や槍術、柔術などで打ち込み稽古が主・形稽古が従となっていき、稽古道具や試合方法が共通化していった。また、幕末志士たちの多くが江戸の有名道場江戸三大道場等)で学び、全国に人脈を広げていった例からわかるように、武術の道場は、学問所と同じように、ある意味サロン的な役目を果たすようになっていった。

このように様々な経緯を辿りながらも、「実力・地位・名声のある流派のみが生き残る」と言った「弱肉強食」的な競争原理は、他芸と同様に武芸分野においても働かず、樹形図状に流派は増加していき、その数は幕末までに数百(あるいは千)を越えたと言われる。

明治・大正時代

明治維新後

1888年(明治21年)頃の警視庁武術世話掛の集合写真

明治維新後、文明開化中で武術は時代遅れと断ぜられ衰退した。武術家たちは撃剣興行等の見世物興行を行い武術を振興しようとした。また反乱の起こす者もいたという。明治10年(1877年)の西南戦争警視庁抜刀隊が剣術を用いて白兵戦を優位に戦った影響により、その後警察に武術世話掛が創設され、絶滅の危機は脱せられたとされる。また、当初フランス式剣術を採用していた陸軍も後に日本式の軍刀術銃剣術を制定した。しかし、兵器戦術の進歩によって活躍の場は失われていった。

現代武道の誕生

大日本武徳会・柔道形制定委員の集合写真

明治15年(1882年)、嘉納治五郎は新しく柔道を創設した。教育者であった嘉納の思想は後の武道家に強い影響を与えた。明治28年(1895年)には各種武道の総本山となる大日本武徳会が設立され、日本の武道界を統括するようになっていった。多くの地方流派が大日本武徳会に加盟して剣道や柔道を取り入れ、伝来の口伝等の伝承が徐々に失われていった。

大正3年警視総監西久保弘道は、警察訓練所での講話『武道講話』(警察協会北海道支部 1915年)において武術の名称を「術」でなく「」でなければならないとした。理由は、「術」という名は技術の上達のみに終始し、「礼儀」は無用と考えることになるのでよくなく、「武」は技術でないという観念を明確にするため、であった[8]大正8年1月29日、西久保は大日本武徳会の副会長と武術専門学校長になり、名称変更を主張。同年5月15日、常議員会で武術専門学校を武道専門学校に変更承認。同年8月1日、文部省認可。これ以後、武徳会各支部で「武道」を用いることとされた。その背景について、福島大学教授の中村民雄や筑波大学名誉教授の渡辺一郎らの研究によると、武術興行などを行い堕落した(とみなされた)武術と区別するために、教育的に有用な真剣な修行という意味で「武道」という名称を用いたのであるという[9]

昭和時代

第二次世界大戦太平洋戦争)により、沢山の流派において継承者が戦死するなどの原因から失伝(伝承が途絶え、失われること)したという。また、昭和20年(1945年日本の降伏後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)指令により大日本武徳会は解散し、武道の組織的活動は禁止された(講和成立後の1953年再興)。これにより、剣道が撓競技と名を変えたように、武道は戦闘技術色を払拭したスポーツとして復興を図ることとなった。

現代

現代に伝承されている古武道は、古式の形態を守りつつも時代に合わせて変化している例も多い。中には現代武道化したところもあるが、現代においても様々な形で受け継がれている。日本古武道協会や日本古武道振興会をはじめとして、多くの団体が古武道の保存・振興に力を注いでおり、都道府県市町村無形文化財に指定されている流派も少なくない。近年では、インバウンドの増加により自国の文化を再び見つめ直す動きが各界で表れはじめている中、情報技術の発達も相まって、古武道の認知度は徐々に回復しつつある。それに付随するようにして国内外からの関心は高くなり、数千人規模の門人を抱える流派や、海外に複数の稽古場を持つ流派も少なくない。また武術研究家・甲野善紀らによって、古武道の古式な身体運用を介護現場や現代スポーツに応用させる取り組みも行われており、注目を集めている。

しかし現在でも一子相伝とされるような小さな流派では、大々的に道場を構えたりせず一族だけで伝承されてきているため、時代状況の移り変わりの中で、次の世代に継ぐべき人間がいなければ容易に途絶えてしまう。流儀を宣伝することがないので、極端な例では親族の葬儀に参列してはじめて「なにやら一族の武術があって、亡くなった人はその継承者だった」ことを知るなどの事例も聞かれる。また伝承方法に関する問題もあり、形骸化も危惧されている(詳細は#宗家・家元を参照)。

加えて近年では、剣舞との混同や、漫画アニメゲームなど一部サブカルチャーに見られる歪曲された日本文化像・殺陣の影響などから、魅せることに特化した全く異なる技術・創作武術(場合によっては捏造流派)が、"本来の古武道"として若者外国人に誤解される事例があり、その錯綜も懸念される。なお1990年代以降、オカルトブームやサブカルチャー隆盛(オタク文化)の影響から、古武道も中国武術と同様に空想的・超自然的な方向に傾き、そういった嗜好を持った者に対して門戸を広げた節がある。


注釈

  1. ^ 初心や奥義などと区別することに限らず、技法が段階的・階層的に存在しているという、その非現実性そのものが重要である。兵法家の宮本武蔵は、『五輪書 風の巻』の中で、「実戦において奥や表、極意秘伝などというものは存在しないのであるから、我が流儀では技法にそのような区別をせず、各人の技量に合わせて教授していく(意訳)」と持論を展開しているが、その教授方法が段階的・階層的であることに変わりはなかった。
  2. ^ ここでいう「伝系」とは、誰によって創始されたか(あるいは分派したか)、歴代伝承者の名前が判明しているか、どこで伝承されていたか、などである。

出典

  1. ^ 大阪教育大学「大阪教育大学紀要, 第46巻, 第2号」(1998)p.304
  2. ^ a b c d e f g 湯浅晃, 大保木輝雄, 酒井利信『剣道専門分科会企画 講演会「武道の伝統性について考える」』(武道学研究, 2017年49巻3号, p.261-280)p.270-272
  3. ^ 弓道の歴史」全日本弓道連盟
  4. ^ 近藤好和『武具の日本史』平凡社新書。
  5. ^ 細川重男『頼朝の武士団』歴史新書y
  6. ^ 中世の相撲 ―武芸としての相撲と相撲興行の起こり[リンク切れ]
  7. ^ 木村吉次『体育・スポーツ史概論』(2001年、市村出版)p.67
  8. ^ 西久保氏武道訓
  9. ^ 中村民雄『史料近代剣道史』、島津書房
  10. ^ 日本古武道協会『日本古武道総覧』(1989年, 島津書房)p.15
  11. ^ 小佐野淳『日本伝統武術真諦』(1989年, 愛隆堂)p.253
  12. ^ a b c 人間教育としての剣の道を辿る 第3回 形稽古と竹刀打稽古 その2全日本剣道連盟
  13. ^ a b c 平木茂「古伝武藝形の生成と徳性について -神道夢想流杖術を視点として-」(國士舘大學武徳紀要 (30), 95-106, 2014-03, 國士舘大學武道徳育研究所)p.100
  14. ^ a b 平木茂「日本古傳藝術表現における余白について -日本画と神道夢想流杖術-」(國士舘大學武徳紀要 (33), 25-45, 2017-03, 國士舘大學武道徳育研究所)p.37-38
  15. ^ a b 杉江正敏, 大矢稔, 佐藤成明「平成16年度 日本武道学会 剣道専門分科会 第一回指導法研究会報告」(武道学研究37-(3):43-53, 2005〈剣道専門分科会〉, p.44
  16. ^ a b 黒田鉄山「古流武術における動き([武道・スポーツ科学]研究所共催 人体科学会第17回大会 動きから身体・人間の可能性を探る)」(武道・スポーツ科学研究所年報 (13), 178-180, 2007, 国際武道大学)p.179
  17. ^ 黒田鉄山『居合術精義』(1991, 壮神社)p.29
  18. ^ 平木茂「日本古傳藝術表現における余白について -日本画と神道夢想流杖術-」(國士舘大學武徳紀要 (33), 25-45, 2017-03, 國士舘大學武道徳育研究所)p.44
  19. ^ 日本武道館・編『日本の古武道』(2007年、ベースボール・マガジン社)p.97
  20. ^ a b 湯浅晃「武道における技術観について」(武道学研究, 1978年11巻2号, p.35-36)p.36
  21. ^ a b 平木茂「日本古傳藝術表現における余白について -日本画と神道夢想流杖術-」(國士舘大學武徳紀要 (33), 25-45, 2017-03, 國士舘大學武道徳育研究所)p.34
  22. ^ 長尾進「近世後期における剣術修行論に関する一考察 -弘前藩士山鹿高厚著『たより草』の分析を中心に-」(明治大学教養論集, 305:121-141, 1998)
  23. ^ 伝授体系天真正伝香取神道流
  24. ^ 梅若基徳・河野智聖『能に見る日本人力 <武術・整体研究家が読み解く、能楽師の身体に秘められた古の知恵と能力>』(2008年、BABジャパン)p.110 - 111
  25. ^ 長野峻也「武術の奥義と身体操作」(バイオメカニズム学会誌, Vol.29, No.3, 2005)p.132
  26. ^ 長野峻也「武術の奥義と身体操作」(バイオメカニズム学会誌, Vol.29, No.3, 2005)p.129
  27. ^ 福島浩彦、片渕美穂子『「教科体育」における古武術の身体操法の有効性と限定性』(和歌山大学教育学部紀要 教育科学 61, 29-36, 2011-02)p.30
  28. ^ 手島直美・脇田裕久「古武術における位置エネルギーを利用した前進動作の効果」(三重大学教育学部研究紀要 57, 21-31, 2006)p.21
  29. ^ 庄子宗光『剣道百年』646頁、時事通信社
  30. ^ 中原介山『日本武術神妙記(復刻版)』(平成28年、角川文庫)p.424, 427
  31. ^ [1]





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