初期フランドル派
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歴史
初期フランドル派の起源は、後期ゴシック期の装飾写本の挿絵であるミニアチュールに求めることができる[23]。伝統的な装飾写本に、より精緻な写実性、遠近描写、色彩表現が見られるようになったのは1380年以降のことで[24]、リンブルク兄弟と『トリノ=ミラノ時祷書』の挿絵を手掛けた複数の画家のうちでもっとも高く評価されているネーデルラントの「画家 G」によってそれらの技法が頂点に達した[25]。この「画家 G」が誰なのかは確定していないが、ヤン・ファン・エイクかあるいはその兄であるフーベルト・ファン・エイクだという説が有力となっている。ベルギーの美術史家ヘルヘ・フラン・デ・ルーは『トリノ=ミラノ時祷書』に描かれた「画家 G」による挿絵のことを「現在にいたるまでのあらゆる本の装飾として、最上級の作品群のひとつである。制作されて以来、美術史の観点からしてももっとも優れた作品と言える」と評価している[26]。
油彩技法の確立という極めて重要な変革を成し遂げ、後世の画家たちの絵画制作に多大なる影響を与えたのがヤン・ファン・エイクである。16世紀の画家で、『画家・彫刻家・建築家列伝』を著した美術史家としても知られるジョルジョ・ヴァザーリは、ヤン・ファン・エイクが油彩の発明者であるとしているが、これは誇張された記述である[9]。油彩そのものは以前から存在しており、ヤン・ファン・エイクは油を固着剤として絵具に使用する技法を確立して広く知らしめた画家だった。ヤン・ファン・エイクは油絵具を用いた高度な絵画技法を築き上げた。これは油絵具の乾燥が極めて遅いことを利用したもので、絵具が乾く前に様々な加筆や混色、重ね塗りなどを使用することによって精緻な表現描写を可能とする技法である[27]。さらにロベルト・カンピンやロヒール・ファン・デル・ウェイデンが、ヤン・ファン・エイクの油彩技法を即座に自身の作品に取り入れ、更なる改良を加えていった。この三人が初期フランドル派のなかで最も優れた画家と言われており、第一世代の初期フランドル派の画家たちに非常に大きな影響を与えた。そして、東はボヘミアやポーランド、南はオーストリアやスワビアに至る北ヨーロッパ中に、この三人の画家たちの影響が及んでいくことになる[28]。
伝統的に初期フランドル派に分類される画家の中にも、現代の地理でいうところのオランダ、フランドル出身ではない人物は多い。ロヒール・ファン・デル・ウェイデンはトゥルネー出身で、その誕生名はフランス語風のロジェ・ド・ラ・パステュールである[29][30]。ドイツ出身のハンス・メムリンク、エストニア出身のミケル・シトウもフランドルで活動し、フランドル様式の作品を描いた、初期フランドル派に分類される画家である。シモン・マルミオンは現在のフランス北部の都市アミアン出身だが、1435年から1471年当時のアミアンがブルゴーニュ公国の一部だったために、初期フランドル派の画家のひとりとみなされることが多い[6]。当時のブルゴーニュ公国は大きな影響力を持った強国であり、初期フランドル派の画家たちが成し遂げた絵画技法の革新はほどなくヨーロッパ中に広まっていった[31]。ヤン・ファン・エイクの絵画作品は、その存命中からヨーロッパ中の富裕層が争って買い求めるほどの評価を得た。複製画も大量に制作され、初期フランドル派絵画の作風を中央ヨーロッパや南ヨーロッパへ広めることに大いに貢献した[32]。当時の中央ヨーロッパ芸術には、イタリアからのルネサンスと北方絵画両方の革新の影響が見られる。この二派の様式は混交し、ハンガリー王マーチャーシュ1世など両派の画家を後援する王侯貴族も現れることとなった[33]。
最初期の初期フランドル派の主要な画家たちは、読み書きができる十分な教育を受けた中流階級以上の出身である。ヤン・ファン・エイクもファン・デル・ウェイデンもブルゴーニュ宮廷で高い地位を与えられており、とくにヤン・ファン・エイクはヨーロッパ中の上流階級の公用語だったラテン語の読解力が要求される役割を果たしていたと言われる。その作品にみられる銘文から、ヤン・ファン・エイクがラテン語とギリシア語両方に精通していたことが伺える[34][† 3]。初期フランドル派の多くの芸術家がヨーロッパ各地に後援者を持つようになり、経済的な成功を獲得していった[35]。ヘラルト・ダフィトやディルク・ボウツなど多くの画家が大規模な絵画を個人的に制作し、その作品を自身の好みに応じた教会や修道院に寄進するだけの金銭的余裕があった。また、ヤン・ファン・エイクはブルゴーニュ公宮で宮廷画家ならびに近侍 (en:valet de chambre) の地位を与えられており、ブルゴーニュ公フィリップ3世に親しく謁見できる立場の人物だった[35]。ファン・デル・ウェイデンは堅実な投資家で、計算高かったボウツは裕福な女相続人カタリナを妻とし[36][37][34]、フランク・ファン・デル・ストクト (en:Vrancke van der Stockt) は不動産に投資して財を成している[34]。
初期フランドル派の画家たちの影響は、15世紀にケルンで活動していたシュテファン・ロッホナーや通称「聖母の生涯を描いた画家」(en:Master of the Life of the Virgin) と呼ばれている画家たちにも及んでいた。両者の作品にはファン・デル・ウェイデンやボウツが描いた作品からの影響が見て取れる[39]。その後、ヨーロッパ諸都市で独自の絵画様式が発展し、16世紀初頭の神聖ローマ帝国ではウルム、ニュルンベルク、ウィーン、ミュンヘンなどが芸術の中心都市となっていった。フランス、南北イタリアの芸術革新を受けて、木版あるいは銅板によるエングレービングを用いた版画などの芸術も発展を見せている[28]。16世紀になっても前世紀の絵画技法、様式から大きな影響を受け続けた画家たちも存在していた。当時の先進的な画家だったヤン・ホッサールトはヤン・ファン・エイクが15世紀半ばに描いた『教会の聖母子』の複製画を制作している[40]。ヘラルト・ダフィトは自身が良く訪れていたブルッヘやアントウェルペンの様式が見られる絵画を制作した。ダフィトは1505年にアントウェルペンに移住しており、当地のアントウェルペン画家ギルドの会長だったクエンティン・マセイスと親交を結ぶようになった[41]。
ヤン・ファン・エイクが発展させた革新的な寓意技法や絵画制作技法は、16世紀になるころには北ヨーロッパで各地でごく標準的なものとなっていた。ニュルンベルクではアルブレヒト・デューラーが、ヤン・ファン・エイクの細部にわたる精緻な表現を模写することによって精密な表現技法を身につけ、さらにデューラー独自の宗教色の感じられない人体描写へと昇華させている[42]。画家という職業が高く評価され、画家たちはさらなる尊敬と社会的地位を謳歌するようになっていった。芸術家のパトロンはたんなる絵画制作依頼者ではなく、芸術家を自身の宮廷に迎え入れ、新たな見聞を広めるための旅行資金をも出資可能な王侯貴族が中心となっていった。15世紀終わりから16世紀初頭にかけて活動したヒエロニムス・ボスは、初期フランドル派の芸術家の中でももっとも重要で有名な画家のひとりである[43]。ボスは非常に特異な画家であり、初期フランドル派の特徴とも言える自然描写、人物描写における写実主義、遠近法の採用はほとんど見られず、イタリアルネサンスからの影響も皆無と言える。それらの代わりに、現在もっとも広く知られているボスの作品には、ヤン・ファン・エイクが『キリスト磔刑と最後の審判』で地獄の図として描いた空想的で幻覚を起こさせるような生物や風景が描かれている。ボスはモラリズムやペシミズムに偏向した独自の作風を追求した画家だった。ボスの作品の中でもとくに三連祭壇画の作品群が、後期の初期フランドル派の絵画作品としてもっとも重要視され高く評価されている[43][44]。
宗教改革の影響により、絵画の主題も聖書の場面を描いた宗教画から世俗的な風俗画や風景がより多く描かれるようになっていった。宗教的なモチーフは教訓や道徳心を意味するものとして扱われ、聖書の登場人物はわずかに背景にのみ描かれた[45]。ピーテル・ブリューゲルはボスの特異な作風を受け継いだ数少ない画家のひとりで、初期フランドル派とその後の画派の橋渡しとなった芸術家である。ブリューゲルの作品には15世紀から続く伝統的な様式が多く残っているが、採用している遠近表現や作品の主題には明確に現代風の作風が見られる。キャリア初期のブリューゲルは宗教画や神話画を描いていたが、のちに広大な風景を主題とした作品を多く描くようになった。ブリューゲルが描いた複雑な構成の風俗画には、キリスト教に対する不信と国粋主義の片鱗が伺える[45][46]。
注釈
- ^ 本稿における「北ヨーロッパ」という用語は「北欧」ではなく、アルプス以北の地域ないし文化圏を意味する。
- ^ 単に「フランドル絵画」、「ネーデルラント絵画」ないし「オランダ絵画」といった場合には、17世紀初頭の作品群(オランダ黄金時代の絵画)を指すことのほうが多い[3]。
- ^ ヤン・ファン・エイクは自身の署名にギリシア語のアルファベットを使用しており、そのほかのヘントで活動していた画家は工房で弟子たちに読み書きを教えていた。
- ^ 現在の研究では、当時キャンバスに描かれていたのは作品全体のおよそ三分の一程度とも考えられているが、それらの作品のうち現在まで残っているものは極めて少なく、現存している初期フランドル派の絵画はほとんどが板絵となっている。 Ridderbos (2005), 297
- ^ 『ラファエロのカルトン』から制作されたタペストリーはヴァチカンが所蔵しており、現在でも特別な儀典のときのみシスティーナ礼拝堂に飾られる[124]。
- ^ フィリップ3世はイアソンの物語に由来する金羊毛騎士団を1430年に設立している。
- ^ 当時「三連祭壇画」という言葉は存在しておらず、この形式の作品は「扉付の絵画」と呼ばれていた。Jacobs (2011), 8
- ^ 16点のうち完全な状態で現存しているのが8点、裁断された状態で残っているのが5点で、3点は失われてしまっている。Jacobs (2000), 1010
- ^ ロヒール・ファン・デル・ウェイデンが描いた祭壇画で、裁断された状態で現存している『読書するマグダラのマリア』の項を参照。
- ^ デューラーの父は金細工師で、息子のデューラーの話では、ネーデルラントで働いていたときに「偉大な芸術家」に出会ったとしている。デューラー自身も1520年から1521年にネーデルラントに滞在しており、ブルッヘ、ヘント、ブリュッセルなどの都市を訪れている。Borchert (2011), 83
- ^ ドイツ人画家コンラート・ヴィッツが1444年に描いた『奇跡の漁り ( en:The Miraculous Draft of Fishes (Witz))』は、西洋美術史上で初めて地理学的に正確な風景が描かれた作品だといわれている。Borchert (2011), 58
- ^ パノフスキーは「三箇所のアーチから見ることが出来る屋内風景」と表現している。 Panofsky (1969), 142
- ^ このボワスレーのコレクションは1827年にドイツ人画家ヨハン・ゲオルグ・フォン・ディリスの勧めで1827年に売却され、ミュンヘンのアルテ・ピナコテークの中核コレクションの一つとなっている。Ridderbos (2005), 86
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