赤穂事件とは? わかりやすく解説

赤穂事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/10 14:47 UTC 版)

赤穂事件(あこうじけん)は江戸時代中期の元禄期に発生した事件で、吉良上野介を討ち損じて切腹に処せられた浅野内匠頭の代わりに、その家臣である大石内蔵助以下47人が、吉良を討ったものである。





赤穂事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 08:24 UTC 版)

上杉綱憲」の記事における「赤穂事件」の解説

元禄14年1701年3月14日には、江戸城内で吉良義央赤穂藩主・浅野長矩に傷つけられる事件起こり事件後に綱憲は生母・富子を屋敷引き取っている。翌年1702年12月14日赤穂浪士による吉良邸討ち入り(赤穂事件)が起こった。 『忠臣蔵』を題材にしたドラマなどでは、父のために援軍送ろうとする綱憲に対して家老色部安長または千坂高房がこれを諌める場面描かれる。しかし、色部安長実父忌日上杉家出仕しておらず、千坂高房至って2年前にすでに他界していた。この日に綱憲を止めたのは家臣ではなく幕府老中からの出兵差止め命令を綱憲に伝えるべく上杉邸に赴いた遠縁筋の高家畠山義寧であったこうした事情知らない庶民は、討ち入り行った赤穂浪士義士として持て囃す一方討ち入り後に行動を起こさなかった米沢藩態度不甲斐無い見なした。そのため上杉謙信以来武門名家名声地に落ちて、江戸市中には「上杉のえた()をおろして酒はやし 武士なるまい町人になれ」「景虎謙信)も今やにや成りにけん 長尾謙信実家)を引いて出(いで)もやらねば」などという落書大量に貼られた。 他方討ち入り事件は、綱憲一人にとっては大事な故家危機ではあっても、藩士にとっては他家不始末と受けとめられたに過ぎなかった。結局、自藩を断絶危機へと追い込む行動には誰も賛成していなかったため、出兵しないのは“自発的な行動”と外部からは見られるほど、幕令は藩士たちには当然なものとして受け入れられと言われている。

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赤穂事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 08:15 UTC 版)

浅野綱長」の記事における「赤穂事件」の解説

元禄14年1701年3月14日には分家赤穂藩浅野長矩吉良義央刃傷及んで改易切腹となったこの後、綱長は本家対す連座恐れ用人井上正信らを赤穂藩派遣して赤穂浅野家筆頭家老である大石内蔵助に「穏便に開城を」と迫った開城後も赤穂浪士らによる吉良家への討ち入り止めさせるべく、足軽頭進藤俊重などを派遣して進藤俊式小山良師らを説得して同志盟約から抜けさせるなど、一党切り崩し図ったが、結局翌年12月15日に赤穂事件が発生するその後良雄三男・良恭(連座避けるため、当時は石束良武)をはじめ赤穂藩旧臣召抱えるようになった。藩では、浅野家との婚姻により大石家一門化しようとしたがことごとく失敗し次第大石家への不信高めていく。

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赤穂事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/05 07:23 UTC 版)

仙石久尚」の記事における「赤穂事件」の解説

元禄15年1702年12月15日早朝吉良義央討ちとり主君浅野長矩葬られ高輪泉岳寺へ向かう赤穂浪士46名のうち(47人目寺坂信行討ち入り後に隊から外れたと見られる)、吉田兼亮富森正因一行別れて大目付仙石久尚屋敷へと向かい自首手続き行なった。なぜ彼らが久尚に対して自首犯行届け)をしたのかについては諸説あるが、仙石家浅野家遠縁であったためである、とする説がある(久尚の兄、仙石久信の妻は安部信盛の娘であり、この信盛の曾孫安部信峯浅野長矩従兄弟)。 久尚はこの両名から事情聞いた後、家老井上右衛門聴取書を作らせ、吉田・富そのまま仙石邸へ置いて自身はまず月番老中稲葉正通邸へ立ち寄った後、江戸城登城し幕閣報告したまた、故・吉良義央の子吉良義周からも赤穂浪士吉良義央邸に討ち入ってきた旨が稲葉邸に届け出られ、泉岳寺からも寺社奉行阿部正喬通して、また町奉行松前嘉広からもそれぞれ報告があったために大方の書類出揃った老中評議結果ひとまず赤穂浪士細川綱利松平定直毛利綱元水野忠之の4藩に分割してお預け、とすることが決まった午後6時頃、仙石は、部下徒目付石川弥一右衛門、市野新八郎松永八郎の3人を泉岳寺派遣し赤穂浪士に対して一旦全員仙石邸へ移送するよう指示した仙石邸での取り調べの後、赤穂浪士それぞれの預かり先を言い渡した後、仙石邸から4藩に引き渡した幕府では、幕府評定所大目付4人=十里四方鉄炮改兼帯仙石久尚道中奉行兼帯安藤重玄、宗門改加役人別改兼帯近藤用章、服忌令分限帳兼帯折井正辰寺社奉行3人=永井直敬阿部正喬本多忠晴何れも奏者番兼帯町奉行3人=南町丹羽長年北町保田宗郷中町松前嘉広勘定奉行4人=佐渡奉行兼帯荻原重秀公事方道中奉行兼帯久貝正方戸川安広中山時春で構成)が設置され赤穂浪士の処分について議論された。 赤穂浪士2月3日切腹決定され4日切腹が4藩で実施された。ただし、同時に評定所吉良義周呼び出し討ち入りの際の義周の行動が「不埒不届きであったとして吉良家改易にしている。

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