交響曲第9番 (ベートーヴェン) 演奏史

交響曲第9番 (ベートーヴェン)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/12 05:04 UTC 版)

演奏史

初演

1824年のベートーヴェン
初演の会場となったケルントナートーア劇場


当時のウィーンではロッシーニオペラが流行していたため、ベートーヴェンは当初、ウィーンの聴衆には自分の音楽がそぐわないと判断し、ベルリンでの初演を希望していた[28]。だが、ベートーヴェンを支援していたリヒノフスキー伯爵らの計らいでウィーンでの初演を求める嘆願書が作られ、ベートーヴェンはベルリン初演を思い止まった[29]

初演は1824年5月7日、ウィーンのケルントナートーア劇場においてミサ・ソレムニスの「キリエ」「クレド」「アニュス・ディ」や「献堂式」序曲とともに初演された。ベートーヴェンは「総指揮者」として作品に立ち会ったが、指揮者としてのブランクや、聴力の衰えもあったことから、実際の指揮はミヒャエル・ウムラウフが行った[30]

初演に携わった管弦楽・合唱のメンバーはいずれもアマチュア混成で、管楽器は倍の編成(木管のみか金管を含むか諸説ある)、弦楽器奏者も50人ほどで、管弦楽だけで80 - 90名の大編成だった。合唱はパート譜が40部作成されたことが判っており、原典版を編集したジョナサン・デル・マーは「合唱団は40人」としているが、劇場付きの合唱団が少年・男声合唱団総勢66名という記述が会話帳にあり、楽譜1冊を2人で見たとすれば「80人」となる[注釈 6]

参加者の証言によると、第九の初演はリハーサル不足(2回の完全なリハーサルしかなかった)であり、かなり不完全だったという示唆がある。ソプラノソロのゾンタークは18歳、アルトソロのウンガーは21歳という若さに加え、男声ソロ2名は初演直前に変更になってしまい(バリトンソロのザイペルトが譜面を受け取ったのは、初演3日前とされる)、ソロパートはかなりの不安を抱えたまま、初演を迎えている。さらに、総練習の回数が2回と少なく、管楽器のエキストラまで揃ったのが初演前日とスケジュール上ギリギリであったこと、演奏者にはアマチュアが多く加わっていたこと(長年の戦争でプロの演奏家は人手不足だった。例えば初演の企画段階でも「ウィーンにはコンサート・ピアニストが居ない」と語られている)、加えて合奏の脱落や崩壊を防ぐためピアノが参加して合奏をリードしていた[注釈 7]

一方で、初演は大成功を収めた。『テアター・ツァイトゥング』紙に「大衆は音楽の英雄を最高の敬意と同情をもって受け取り、彼の素晴らしく巨大な作品に最も熱心に耳を傾け、歓喜に満ちた拍手を送り、しばしばセクションの間、そしてセクションの最後には何度も繰り返した」という評論家の記載がある。ベートーヴェンは当時既に聴力を失っていたため、ウムラウフが正指揮者として、ベートーヴェンは各楽章のテンポを指示する役目で指揮台に上がった。ベートーヴェン自身は初演は失敗だったと思い、演奏後も聴衆の方を向くことができず、また拍手も聞こえなかったため、聴衆の喝采に気がつかなかった[32]。見かねたアルト歌手のカロリーネ・ウンガーがベートーヴェンを聴衆の方に向かせ、初めて拍手を見ることができた。という逸話がある[32]。観衆が熱狂し、アンコールでは2度も第2楽章が演奏され、3度目のアンコールを行おうとして兵に止められたという話が残っている[33]

このように「好評」の逸話が残る初演だが、その根拠は繰り返された喝采やアンコール、会話帳に残るベートーヴェン周辺の対話に置かれており、「ベートーヴェンの愛好家ばかりが騒いでいた」という否定的な証言もある[34]5月23日に会場をより大きなレドゥーテンザールに移して催された再演は、会場の半分も集客出来ず大失敗であった。ウィーンの聴衆の受けを狙ってロッシーニのオペラ「タンクレーディ」のアリアを入れたこと、昼間の演奏会だったので人々がピクニックに出かけてしまったことなどの理由を述べた書き込みが会話帳に残っている[35]

なお初演の収入は会場使用料や写譜代金などを差し引いて420グルデンという数字が伝えられている[36]。シンドラーの「2000グルデンは儲かる」という話をはじめとして「成功間違い無し」と周囲に吹き込まれて開いた演奏会でもあり、この金額はベートーヴェンには明らかに少なかった[36]。再演では予め1200グルデンがベートーヴェンに支払われている。

パリでの再演

世界初の音楽学校として設立されたパリ音楽院の卒業生フランソワ・アントワーヌ・アブネックは、パリ・オペラ座管弦楽団のヴァイオリン奏者として活躍した後、指揮者に転向し、1828年、母校にパリ音楽院管弦楽団を創立した。体系化された音楽教育を受けたメンバーによるこのパリ音楽院管弦楽団は「比類なき管弦楽団」「ヨーロッパ最高水準のオーケストラ」という評判を勝ち取る。そのアブネックは、ベートーヴェンの信奉者であった。ベートーヴェンの交響曲の楽譜を徹底的に分析し、自身が指揮者を務めるパリ音楽院管弦楽団演奏会のメイン・プログラムに据えたのである。

1831年3月27日、3年の準備期間を経てアブネックは初めて『第九』を指揮・演奏した。当時の記録では、独唱者名も記載されている[37]。なお、アブネックによる『第九』の演奏は、1842年まで複数回演奏されている[38]。これらの演奏を聴いて感銘を受けた2人の作曲家兼指揮者がいた。

一人は、当時パリ音楽院の学生だったエクトル・ベルリオーズであり、彼はベートーヴェンを模範として作曲に励むことになる。もう一人は、オペラ作曲家としての成功を夢見てパリに来ていたドイツのリヒャルト・ワーグナーである。結局、ワーグナーはパリで成功を収めることができず、失意のうちにドイツへ戻ることになるが、アブネックによるベートーヴェンの交響曲演奏会の記憶は感激として残った。そして、いつか『第九』を全楽章、復活演奏することを夢見るのである。この頃から『第九』は複数人の作曲家によるピアノ編曲がなされて地味に浸透し始める。

ワーグナーによる復活演奏

リヒャルト・ワーグナーは少年時代からベートーヴェンの作品に熱中し、図書館から借りてきた彼の楽譜を筆写していた。『第九』も例外ではなく、ピアノ編曲までしたほどである。パリで成功を収めることができなかった彼は故郷のドイツへ帰り、1842年ドレスデン歌劇リエンツィ』を上演、大好評を博した。この功績により、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団(当時はザクセン王国の宮廷楽団)の指揮者に任命された彼は、念願の『第九』復活演奏に着手する。

ドレスデンでは毎年、復活祭の直前の日曜日にオーケストラの養老年金の基金積み立てのための特別演奏会が催されていた。この演奏会ではオラトリオと交響曲が演奏されるのが定番となっていた。1846年、ワーグナーはこの演奏会でベートーヴェンの『第九』を取り上げることを宣言した。猛反対の声があがったが、彼は反対派説得のためにパンフレットや解説書を書いて説得に努めるとともに、『第九』の楽譜に改訂を加えた。

彼は「ベートーヴェンの時代は楽器が未発達」であり、「作曲者は不本意ながら頭に描いたメロディ全てをオーケストラに演奏させることができなかった」と考えたのである。そして「もしベートーヴェンが、現代の発達した楽器を目の当たりにしたら、このように楽譜を加筆・改訂するだろう」という前提に立って、管楽器の補強などを楽譜に書き込んだ。

徹底的なリハーサルの効果もあり、この演奏会は公開練習のときから満員となり、本番も大成功に終わった。もちろん、年金基金も記録的な収入だった。これ以降、『第九』は「傑作」という評価を得るようになったのである[注釈 8]

日本初演

『第九』日本初演が行われた板東俘虜収容所。【左】1919年当時の収容所平面図。【右】テーマパーク阿波大正浪漫 バルトの庭」(現在は閉園)に於いて再現された収容所正門。

第一次世界大戦において日本は対独参戦してアジア太平洋地域のドイツ帝国拠点を攻撃し、多数の捕虜を得た。1918年大正7年)6月1日に、徳島県板東町(現・鳴門市)にあった板東俘虜収容所で、ドイツ兵捕虜により全曲演奏がなされたのが、日本における初演とされている。この事実は1941年昭和16年)に、この初演の2ヶ月後に板東収容所で『第九』(第1楽章のみ)を聴いた徳川頼貞が書いた『薈庭楽話』で明らかにされていたが、長く無視され、1990年代平成2年)になって脚光を浴びた。映画『バルトの楽園』(出演:ブルーノ・ガンツ松平健ほか)は、このエピソードに基づくものであるものの一部相違点があった(相違点は後述)。ただし、収容所に女性はいないので、独唱と合唱は全て男声用に編曲された。また、ファゴットコントラファゴットが無かったので、オルガンで代用するなどした。そのため、これを初演とは言えないとする意見がある。練習場としては、声が響く風呂場が使用された[40]。鳴門市では日本における『第九』初演を記念して毎年6月の第一日曜日を「第九の日」に制定して定期演奏会を開催している[41]。初演から100周年を迎えた2018年6月1日には、鳴門市ドイツ館前の広場で、当時とほぼ同時刻から、初演時と同じ男性のみの合唱編成による演奏会が開催された[42]

『バルトの楽園』では、近隣住民を招待してこの第九演奏会を見せたことになっているが、実際には捕虜のうち45人でつくる「徳島オーケストラ」による収容所内の定期演奏会の曲目の一つで、日本人は招かれていない[43]。これを記念して、収容所の記念施設である鳴門市ドイツ館隣の道の駅は「第九の里」と命名されている[43]

1919年(大正8年)12月3日、福岡県久留米市の久留米高等女学校(現・福岡県立明善高等学校)に久留米俘虜収容所に収容されていたドイツ兵捕虜オーケストラのメンバーが出張演奏し、様々な曲に交じって『第九』の第2・第3楽章を女学校の教師や女学生達に聞かせた。これが一般の日本人が『第九』に触れた最初だと言われている[44]。2日後の12月5日、久留米俘虜収容所内で男声のみと不完全な楽器編成での全曲演奏がなされた[45]

1924年(大正13年)1月26日、九州帝国大学の学生オーケストラ、「フィルハーモニー会」(現在の九大フィルハーモニーオーケストラ)が当時の摂政宮(後の昭和天皇)の御成婚を祝って開いた「奉祝音楽会」で『第九』の第4楽章を演奏した。しかし、このときに歌われた歌詞は、ドイツ語でも日本語の訳詞でもなく、当時の文部省が制定した『皇太子殿下御成婚奉祝歌』の歌詞を『第九』のメロディにアレンジしたものだった。また、第4楽章が通して演奏されたのではなく、合唱を伴う部分を抜粋したものだった[44]。このため、これを「日本人初の『第九』演奏」と見なすかどうかは、議論の余地がある。

日本での公式初演は、1924年(大正13年)11月29・30日、東京音楽学校東京芸術大学の前身の一校)のメンバーがドイツ人教授グスタフ・クローンの指揮によって演奏したものだとされている。同年12月にも追加公演された[43]。プロ・オーケストラによる日本初演は新交響楽団(現在のNHK交響楽団の前身)により1927年(昭和2年)5月3日に行われた。

東京音楽学校での初演については、この演奏を聴いた最後の生き残りであった作家の埴谷雄高が、「演奏中にコンサートミストレス安藤幸幸田露伴の妹。姉の幸田延ともども「上野西太后」と呼ばれた)が早く弾きだした部分があり、演奏はガタガタとなってしまった」と証言している。

全員が外来演奏家による日本初演はカール・ベーム指揮のベルリン・ドイツ・オペラにより1963年(昭和38年)11月7日日生劇場にて行われた。

この演奏の終了後、熱狂的なファンがベームの足に抱きつき、ベームの身動きを取れなくするという騒ぎもあった。

日本での年末の演奏の歴史

1940年(昭和15年)12月31日午後10時30分、紀元二千六百年記念行事の一環として、ヨーゼフ・ローゼンシュトックが新交響楽団(現在のNHK交響楽団)を指揮して『第九』のラジオ生放送を行った。これを企画したのは当時、日本放送協会(NHK)の洋楽課員だった三宅善三である。彼は、その理由について「ドイツでは習慣として大晦日に第九を演奏し、演奏終了と共に新年を迎える」としている。実際に、当時から現在まで年末に『第九』を演奏しているドイツのオーケストラとして、著名なところではライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団が挙げられ、それを模倣するオーケストラもいくつかある。ただし厳密には、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団による大晦日の『第九』演奏は深夜に行われるものではない。よって何らかの意思疎通や通訳の誤りにより "深夜に演奏してそのまま新年を迎える" といった勘違いをしたのではないかと思われる。

日本で年末に『第九』が頻繁に演奏されるようになった背景には、第二次世界大戦後間もない1940年代後半、オーケストラ演奏の収入が少なく、楽団員が年末年始の生活に困る状況を改善するため、合唱団も含めて演奏に参加する楽団員が多く、しかも当時(クラシック音楽の演奏の中では)「必ず(客が)入る曲目」であった『第九』を日本交響楽団(現在のNHK交響楽団)が年末に演奏するようになり、それが定例となったことが発端とされる[7]。既に大晦日に生放送をする慣習が定着していたから、年末の定期演奏会で取り上げても何ら違和感が無かったことも一因として挙げられよう[注釈 9]。1956年(昭和31年)に群馬交響楽団が行った群馬での第九演奏会の成功が全国に広まったのをきっかけに、国内の年末の『第九』の演奏は急激に増え、現在に至っている[47]

このほか、1943年12月東京音楽学校学徒出陣壮行会で演奏され、その4年後の1947年12月30日に戦地から生還した学生たちが日比谷公会堂で演奏して戦争で命を落とした仲間たちの追悼式としたことが大きな反響を呼んだことで定着した、とする説もある。[要出典]

バイロイト音楽祭と第九

1872年バイロイトに祝祭劇場を建設する際、その定礎の記念として選帝侯劇場にてリヒャルト・ワーグナーの指揮で『第九』が演奏された。その所縁もあり、『第九』はバイロイト音楽祭においてワーグナーの歌劇・楽劇以外で演奏される唯一の曲となっている。以後、何度か演奏されている。1933年リヒャルト・シュトラウス1951年1954年ヴィルヘルム・フルトヴェングラー1953年パウル・ヒンデミット1963年カール・ベーム2001年クリスティアン・ティーレマン

ライプツィヒ・ゲヴァントハウスと12月31日の第九

1981年の新ゲヴァントハウスこけら落とし公演

1918年、第一次世界大戦が終結となった年の暮れ、ヨーロッパの人々の新年への願いは平和であった。当時はライプツィヒの郊外の村であり、現在はライプツィヒの一部であるゴーリスという土地に住んでいたときにシラーが『歓喜に寄す』を書いたという縁もあり、「人類すべてがきょうだいになる」という平和への願いこそが人々の思うところであった。12月31日の午後、日が暮れる時間に労働者教養協会のイニシアチブにより100人の演奏家と300人の歌手によってベートーヴェンの『第九』は演奏された。その伝統はゲヴァントハウス管弦楽団によって受け継がれ、毎年暮れになるとライプツィヒでは翌年の平和を祈って演奏され続けている(現在の大晦日コンサート開演時間は午後5時)。

第二次世界大戦でドイツ本土は激しい空襲に晒され、1944年、ライプツィヒのコンサートホール「ゲヴァントハウス」は戦火に焼けた。1968年の完全破壊を経て1981年、新しいゲヴァントハウスが建築されるとクルト・マズアは生まれ変わったゲヴァントハウスのオープニング・コンサートの主要プログラムとしてベートーヴェンの『第九』を選んだ。東ドイツ崩壊後の統一ドイツではMDR(中部ドイツ放送協会)が1992年に旧東ドイツ圏内に再設立された。それ以来、毎年の大晦日の午後、「暗くなり始める時間」にシラーやベートーヴェンが世界に、人類に望んだ平和を歌い上げる第九交響曲が演奏され、多くの国々にMDRテレビやMDRラジオFigaroによって同時放映、同時放送される。19回目の2010年には香港オランダアメリカ合衆国などにも演奏がライブ放映・放送された。

フルトヴェングラーと第九

指揮者フルトヴェングラーは第二次世界大戦前、1911年から1940年まで既に61回『第九』を指揮したとされる。その解釈は荘厳、深遠でありながら感情に流され過ぎず、友人でもあった音楽学者ハインリヒ・シェンカーの分析からも影響を受けている。第4楽章330小節のフェルマータを非常に長く伸ばし同時間の休止を設けるというワーグナー由来の特徴も見られ、自身の著作でも第1楽章の開始を宇宙の創世と捉えるなど後の世代にも影響を与えたが、後の世代の演奏はトスカニーニ流の明晰な演奏が主流となり、ブルックナー開始を思わせるフルトヴェングラーの解釈は、現在ではベートーヴェンにしてはあまりに後期ロマン主義的、神秘主義的に過ぎる、とされることが多い[注釈 10]

第二次世界大戦中ドイツに留まり活動していたフルトヴェングラーは1942年4月19日、ナチス・ドイツ総統ヒトラーの誕生日前日に『第九』を指揮し、ゲッベルスと握手する姿が映画に撮影されるなど政治宣伝に利用され、戦後は連合国からナチスとの関わりを責められ一時活動の機会を失うことになった[注釈 11]

1951年7月末、終戦後初のバイロイト音楽祭でフルトヴェングラーは『第九』を指揮し、再開を祝した[48]。フルトヴェングラーは54年にもバイロイトで「第九」を指揮しているが、51年の演奏は『バイロイトの第九』と呼ばれ、第九の演奏の歴史の中でも著名なものである。他の演目を録音しに訪れていたレコード会社デッカのスタッフも出演者たちも、この第九に常軌を逸した緊張感があったと語っている。しかし録音そのものは1951年当時の技術水準を考慮しても鮮明さを欠いたものであった。元々この演奏のレコード化は正規のものではなく、発売元となったEMIのプロデューサーウォルター・レッグはフルトヴェングラーから録音を拒否されていた(表向きは「バイロイトの音響が録音向きではないから」としているが、当時EMIはフルトヴェングラーが忌み嫌っていたカラヤンと友好関係にあり、フルトヴェングラーの信頼を失いつつあった)。そのためフルトヴェングラーの生前には発売されなかった上、録音テープが廃棄されかかったという逸話もある[注釈 12]

しかしフルトヴェングラーの死後にEMIからレコードとして発売されると、日本の評論家達は大絶賛し、今でも「第九のベスト演奏」に挙げられることが多い[49]。録音に問題ありという認識の裏返しでEMIから音質の改善を謳ったCDが何種類も発売されており、初期LPから復刻したCDも複数の企画がある。

2007年、バイエルン放送の「放送禁止」と書かれた録音テープを音源としたCDがフルトヴェングラー・センター会員限定で頒布され、のちに一般向けにORFEOから発売された。EMI盤よりも明瞭な音質だっただけでなく、大部分が異なる演奏だったため、公演本編なのかリハーサルなのか、EMI盤との比較から編集と加工についても憶測を呼んだ。2021年10月、同日生中継を行ったスウェーデン放送協会の所蔵音源が85分ノーカット収録でSACD化され、より無加工に近い本番の模様を確認出来る。これによりバイエルン放送の音源が公演本番であり、多くの人々から絶賛されたEMI盤はリハーサル時の録音を主体としたものだったと考えられている。

フルトヴェングラーの第九は他に1954年のルツェルン音楽祭フィルハーモニア管弦楽団を指揮した演奏の録音も名高い。

戦後復興と第九

1955年に、戦争で破壊されたウィーン国立歌劇場が再建された際にも、ブルーノ・ワルター指揮によりウィーン・フィルハーモニー管弦楽団で『第九』が演奏された。なお、再建のこけら落しカール・ベーム指揮の歌劇『フィデリオ』だった。当初音楽監督のベームはワルターに『ドン・ジョヴァンニ』の指揮を依頼したが、ワルターが高齢を理由に辞退し、代わりに『第九』を指揮することになったものである。なお、これはオーストリア放送協会による放送録音が残っており、オルフェオからCD化もされている。

ドイツ分断と第九

1964年東京オリンピックに東西ドイツが統一選手団を送ったときに、国歌の代わりに歌われた[48]

1989年ベルリンの壁崩壊直後の年末にレナード・バーンスタインが、東西ドイツとベルリンを分割した連合国(アメリカ、イギリスフランスソ連)のオーケストラメンバーによる混成オーケストラを指揮してベルリンで演奏した[49]。この際には、第4楽章の詩の"Freude"をあえて"Freiheit(自由)"に替えて歌われた[49]。また、翌年のドイツ再統一のときの統一前夜の祝典曲としてクルト・マズア指揮のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団ライプツィヒで演奏した。なおゲヴァントハウスでは毎年大晦日の16時半から、ベルリン・フィルのジルベスターコンサートに対抗して演奏されTV中継されている。

欧州連合(EU)の歌として使用されている[48]2007年にはルーマニアブルガリアがEUに加盟し、2007年の1月元旦の0時を回ったとき演奏されたのがこの『第九』であった。

サントリー1万人の第九

サントリー1万人の第九1983年大阪城築城から400年を迎えることを記念すべく、その前年1982年に設立したばかりの大阪21世紀協会(現「関西・大阪21世紀協会」)が中核事業として「大阪築城400年まつり」を企画し、当該企画への参加催事の一つとして、また目玉的存在とされた、大阪砲兵工廠本館跡地に建設された大阪城国際文化スポーツホール(大阪城ホール)こけら落としの一環として企画されたことが発端となった。1983年の第1回から1998年の第16回までは山本直純が指揮、構成を務め、翌年1999年の第17回から現在までは佐渡裕が指揮、総監督を務めている。

長野オリンピックと第九

1998年2月7日長野オリンピックの開会式において世界の5大陸・6ヶ国・7か所で連携しての演奏が試みられ、その映像が世界中に中継された。歌われた場所は小澤征爾がタクトを振った長野県県民文化会館中国北京紫禁城オーストラリアシドニー翌々年の五輪開催地)のオペラハウス前、ドイツベルリンブランデンブルク門、黒人と白人の混成合唱団で歌われた南アフリカ共和国ケープタウン喜望峰、アメリカ・ニューヨーク国連本部、開会式が行われた長野オリンピックスタジアムである。午前11時に始まった開会式では、オリンピック聖火が聖火台に点火されたあと、セレモニーのフィナーレとして歓喜の歌が歌われた。曇り空の長野、気温が氷点下の北京、真夏で晴天のシドニー、真夜中のベルリン、日の出と重なり徐々に明るくなってゆくケープタウンと、時刻や季節、さらには服装まで、全く異なる演奏風景が交互に映し出された(厳密には通信による遅れを調整しており、伴奏となる文化会館の演奏をスタジアム以外の各地に届けて合唱し、その映像が最終的にスタジアムで同期するよう再送された。従って最も演奏が早い文化会館と最も遅いスタジアムで幾秒かのタイムラグがあり、このために指揮者の小澤も別会場で演奏する必要があった)。

その他の国での受容と変化

2020年10月中国共産党は歓喜の歌を「宗教音楽」の1つと定義し、学校教育の教材から外すように指示したことで音楽関係者に波紋を広げた。これについてドイツ在住の中国人作曲家の王西麟英語版は「1942年以来、共産党は芸術を党に仕えるものと見なし、それ以外のイデオロギーに重要な意味を持つすべての良い作品を封鎖してきました」と述べた[50]


注釈

  1. ^ 第10番は断片的なスケッチが残されたのみで完成されていない。
  2. ^ ドイツ語の原題ではこの曲は Sinfonie mit Schlusschor über Friedrich Schillers Ode "An die Freude" (フリードリヒ・シラーの頌歌『歓喜に寄す』に基づく終結合唱を伴う交響曲)とされており、ドイツ語では "Chor"(合唱)であり "Choral" ではない。日本でCDの表記などに一般的に用いられている "Choral" は英語であり、「合唱の」「合唱」という一般的な形容詞名詞だと考えられる。英語の "Choral (Chorale)" には「コラール」にあるように「賛歌」「賛美歌」という意味もあるのだが、ドイツ語においては "Chor" と "Choral" は明瞭に区別されているので、この交響曲のニックネームである "Choral" をコラールに結びつけるのは適当ではない。
  3. ^ 初演を報じるイギリスの新聞では「ちょうど1時間と5分」という数字も伝えられている。会話帳にはこの次に「45分」という記述もある(第2楽章から第4楽章まで何分ですかという問いが消失した可能性がある。)が、あまりに短すぎるということで『第九』全曲の演奏時間とは見なされていない。また第1楽章のテンポも「4分音符=88」が採用されているが、自筆スコアでは「メルツェル=108から120」という数字が書かれており、実行すれば3分以上の短縮になる。これも不自然に速過ぎ、ベートーヴェンの勘違いではないかと考えられている。
  4. ^ カール・ベームが最晩年の1980年に録音した演奏は18:34/13:22/18:15/28:35で78分を超える。
  5. ^ 1979年(昭和54年)からCD の開発に当たったフィリップスソニーはディスクの直径を11.5cmとするか12cmとするかで何度も議論を重ねており、大きさを基準に考えるフィリップスに対し、記録時間を優先したいソニーで話し合いは難航していた。11.5cmであることの様々な利便性は明らかであったが、当時のソニー副社長でバリトン歌手の大賀典雄は、親交のあったカラヤンに、11.5cm(60分)と12cm(74分)との二つの規格で二者択一の段階に来ていることを話すと、カラヤンは「ベートーベンの交響曲第九番が1枚に収まったほうがいい」と提言した。カラヤンの『第九』は約63分~69分であり、ほとんどの指揮者による演奏時間は60分を超えているからだ。この「カラヤン裁定」を要因として、最終的に12cmに決定したというもの。
  6. ^ 楽譜を複数人で視唱するやり方は楽譜複製を筆写に拠っていた18世紀中は珍しくなかったようで、その様子を描いた画も残っている。これはバッハマタイ受難曲における「合唱は1パート1人ずつ」という学説の反証の一つともなっている。
  7. ^ これはベートーヴェンに限った問題ではなく、クレメンティも自作の交響曲の際にピアノを用い、ピアノの音とオーケストラの音が度々ずれると記録が残されている[31]
  8. ^ ワーグナー改変版は販売されなかったが、ピアノ編曲版が販売された[39]
  9. ^ 黒柳徹子は父の黒柳守綱(新交響楽団(現在のNHK交響楽団)の元コンサートマスター)から聞いた話として、学生合唱団を加えた演奏を行うことにより、合唱団員の家族などがチケットを購入することで年末の演奏会の入場者数を増やして、楽団員のもち代を稼ぐというアイディアだったと説明している[46]
  10. ^ トスカニーニとフルトヴェングラーの芸術性の違いを示す例として、音楽著述家のハンス・ケラーはドキュメンタリー『アート・オブ・コンダクティング』で、トスカニーニ指揮の『第九』演奏会で客席に居たフルトヴェングラーが第1楽章冒頭の弦楽器による6連符刻みを聴くなり「単なる時間刻み人だ! ("nur einen Zeitschläger!" ) 」と言って退席したエピソードを示し、不明瞭に演奏されたフルトヴェングラー指揮の冒頭部分と比較している。
  11. ^ 経緯は中川右介・著「至高の十大指揮者(2020年角川文庫)」などに詳しい。フルトヴェングラー自身は最後まで入党せず、1939年以来ヒトラーの誕生日が近づくとウィーンとベルリンから離れ、指揮を執る演奏会に誕生日祝賀の意味が伴わないよう暗に抵抗していたのだが、42年にはゲッベルスが当初入っていた演奏会の予定を無理矢理変えさせ、忌避しようの無い状況にフルトヴェングラーを追い込んだのである。
  12. ^ 音質の弱みに関しては「視界に入ると気が散る」と言ってマイクロフォンを撤去させる事もあったフルトヴェングラーにも一因はあろう(デッカのジョン・カルショウによる)。レッグが妻も出演したこの演奏を名演と認めていなかったのは明らかで、指揮者の妻エリザベート夫人の証言によれば、この日の終演後に楽屋を訪れ感想を求められたレッグは「今日の出来は今一つ。昔はもっと良かった」と言ってフルトヴェングラーを落ち込ませたという。モノラルLP盤からCD化を行ったグランドスラム盤解説に詳訳あり。
  13. ^ ベートーヴェンが複雑な順序を曖昧に指示したため、初版スコアが記述に失敗した上、ダ・カーポ後の反復指示はスコアによって解釈が割れている。さらに388小節第一括弧は演奏の現場ではたびたびスキップされ、最短と最長では演奏時間に4分以上開きが生じる。
  14. ^ 旋律線強化の目的で行われた各種編曲の実態は『ある指揮者の提言』で、マーラー版については『マーラーの交響曲』で詳しく紹介されている。長年マーラー自身の書き込みがある楽譜が使われて来たが、近年は校訂版もマーラーが編曲したベートーヴェンの交響曲3,5,7,9番や序曲『レオノーレ』2番、3番のJosef Weinberger版(David Pickett校訂、貸し譜のみ)が利用可能で、2006年クリスチャン・ヤルヴィ指揮ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団の演奏がSACD化された。
  15. ^ 第1楽章81小節に行われた全集版独自の改変などはどの資料にも存在しない音形であるにもかかわらず、本格的な原典版が演奏されたときには衝撃をもって迎えられた。同じ改変が最新のハウシルト版でも分析検証の上ではあるが、採用されている。
  16. ^ 有名なのが第1楽章300小節のティンパニとトランペット。自筆スコアでは16分音符だが筆写時の誤りで以降の版が全て8分音符になっている。第3楽章の旋律、第4楽章330小節のティンパニに付けられたデクレッシェンドの処理なども聴いて判りやすい。
  17. ^ その研究を参考に音楽学者・指揮者の金子建志も演奏史を含めて自らの著作で言及している。この研究は実際に原典資料を演奏に用いるなどの実践に裏付けられたものである。
  18. ^ この版の出版直後「ベーレンライター版使用」と明記した演奏・録音が流行したが、デル・マー版は演奏者が違和感を拭えない箇所が随所にあると見なされ、実際には「新版の改訂を一部だけ採用し、大部分は旧来の楽譜のまま」という扱いだった。昨今では「ベーレンライター版使用」と銘打つ演奏会は鳴りを潜めている。デル・マー版の知名度を大いに上げたのはクラウディオ・アバド指揮のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団盤(1996年)やデヴィッド・ジンマン指揮のチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団盤(1998年。いずれも旧全集版と新版の差異をまとめた訂正表を参照して新版刊行以前に演奏に用いた「試運転」の例)だったが、これらはほとんど原典資料による改訂箇所ではなく指揮者独自の改変が「ベートーヴェンの楽譜に記されている」という誤った期待とともに広まっている。
  19. ^ 例えば先述の第4楽章330小節について、デル・マーは自筆スコアにはデクレッシェンド無し、残存する初演用弦楽器パート譜には全て、初演用のスコアではティンパニだけ、とまちまちであること、また諸説ある初演の合唱団人数を少なく見積もった上「ティンパニに合唱がかき消されないよう、その場で指示された処置ではないか」と考えてこの指示を削除したが、ハウシルトは最後発の筆写スコア(ベートーヴェン自身が校閲したプロイセン王への献呈譜。クルト・マズアらが参照している)に従い、合唱以外の全楽器にデクレッシェンドをつけている。この箇所を研究動機の一つとした金子建志は、生前の朝比奈隆にインタビューした際「噪音の多い」ティンパニはあまり大きく叩かせたくないという発言を得ており、またリストワーグナーによるピアノ編曲版も考慮した上で、ティンパニが低音域で「ラ」=和音の第3音を叩くことが聴感上アンバランスである、と旧全集版のティンパニのみのデクレッシェンドを評価し直している[55]
  20. ^ ヘンレ社は室内楽・管弦楽曲のパート譜は基本的に供給せず、新ベートーヴェン全集の管弦楽曲はヘンレ社が新全集版を刊行した数年後、校訂報告が付属しない新全集版スコアをパート譜セットと共にブライトコプフ社が販売するのが通例であったが、告知から1年遅れ、ブライトコプフ社の演奏譜はヘンレ社の校訂報告付きスコアとほとんど同時期に刊行された。ブライトコプフ社は「第九」の新版を2種類販売することになる。

出典

  1. ^ 師走の風物詩「1万人の第九」もコロナ禍で様変わり日刊スポーツ』2020年12月6日(2020年12月8日閲覧)
  2. ^ 諸井, p. 5.
  3. ^ Cook 1993, Product description (blurb). "Beethoven's Ninth Symphony is acknowledged as one of the supreme masterpieces of the Western tradition. More than any other musical work it has become an international symbol of unity and affirmation."
  4. ^ Service, Tom (2014年9月9日). “Symphony guide: Beethoven's Ninth ('Choral')”. The Guardian. https://www.theguardian.com/music/tomserviceblog/2014/sep/09/symphony-guide-beethoven-ninth-choral-tom-service. "the central artwork of Western music, the symphony to end all symphonies" 
  5. ^ ローデシアの概要
  6. ^ “「第九」手書き楽譜を公開 NY、楽聖のコメントも”. 共同通信47NEWS. (2003年5月10日). オリジナルの2014年12月28日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20141228094438/http://www.47news.jp/CN/200305/CN2003051001000055.html 2017年4月22日閲覧。  ※ 現在はインターネットアーカイブ内に残存
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  9. ^ 【ニュースの門】淵上えり子:第九 初めは「失敗作」!?『読売新聞』朝刊2020年11月19日(解説面)
  10. ^ 大町陽一郎「指揮者としてのリヒャルト・シュトラウス」日本リヒャルト・シュトラウス協会編『リヒャルト・シュトラウスの「実像」』(音楽之友社、2000年)115頁
  11. ^ PRESTO CLASSICAL - クリスティアン・ティーレマン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
  12. ^ Symphony No.9”. images-na.ssl-images-amazon.com. 2019年11月15日閲覧。
  13. ^ BEETHOVEN Symphony No 9 (Zander)”. www.gramophone.co.uk. 2019年11月15日閲覧。
  14. ^ Beethoven: Symphony No. 9 "Choral"”. www.allmusic.com. 2019年11月15日閲覧。
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  16. ^ a b 金・玉木 2007, p. 206.
  17. ^ 諸井, p. 10.
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  20. ^ 大崎 2019, pp. 492–493.
  21. ^ 大崎 2019, pp. 497.
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  31. ^ レオン・プランティンガ『クレメンティ 生涯と音楽』(音楽之友社)ISBN 978-4276222175
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  34. ^ エステルハージ家の秘書官だったJ.C.Rosenbaum(1770-1829年)の日記より。"The diaries of Joseph Carl Rosenbaum"はHaydon Yearbook V所収。日本語ではC.ダールハウス著/杉橋陽一・訳『ベートーヴェンとその時代』(西村書店、1997年)p.384で紹介。
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  37. ^ パリ音楽院管弦楽団の演奏会記録、1831年3月27日の項目を参照”. web.archive.org. 2021年9月20日閲覧。
  38. ^ インターネット・アーカイブ Wayback Machine”. web.archive.org (2009年10月6日). 2021年9月20日閲覧。
  39. ^ 外部リンク
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  41. ^ 『鳴門の第九』というブランド」(PDF)『『広報なると』』第723号、鳴門市秘書広報課、2011年7月1日、1-7頁、2017年4月22日閲覧“全7頁構成。4頁目左上『第1回鳴門「第九」演奏会』欄中に「第九の日」制定に至る経緯に関する記述有” →アーカイブ (PDF)
  42. ^ “第九 鳴門で初演100周年 再現に喝采 歓喜の歌声響く”. 毎日新聞. (2018年6月3日). https://mainichi.jp/articles/20180603/ddl/k36/040/335000c 2018年6月5日閲覧。 [リンク切れ]
  43. ^ a b c 【はじまりを歩く】ベートーベンの第九(徳島県、東京都、大阪府)捕虜の声響く 日本初演の地/「生」への賛歌 時代を超えて『朝日新聞』土曜朝刊別刷り「be」2020年12月19日(6-7面)2020年12月31日閲覧
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  45. ^ 久留米市:「ドイツさんと久留米」(久留米俘虜収容所のエピソード)第6回「ドイツさんと第九演奏」”. 久留米市役所市民文化部文化財保護課・ 総合政策部広報戦略課. 2020年12月6日閲覧。
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  53. ^ VIII. Die "Ode an die Freude"”. Unser Namenspatron. Freimaurerloge 'Schiller' (unter der Großloge der Alten Freien und Angenommenen Maurer von Deutschland). 2013年8月19日閲覧。[リンク切れ]
  54. ^ Symphonie zum Frieden 平和の交響曲” (PDF). 大阪教育大学 亀井研究室. 2013年8月19日閲覧。
  55. ^ レコード芸術』2007年10月号、p164-
  56. ^ 外部リンク





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