中野逍遙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/21 06:00 UTC 版)
略歴
1867年(慶応3年)2月21日、伊予国宇和島賀古町(現・愛媛県宇和島市)に生まれ、1899年(明治2年)第一高等中学校本科一部(文科)第二年(三之組)に進級した[1][2]。同級生に夏目漱石や正岡子規がいた[1][2]。1894年(明治17年)11月16日午前9時、東京の山龍堂病院で死去した[1]。享年28歳[2]。没後の1895年(明治28年)11月16日、『逍遙遺稿』(正外二編)と題して500部発行された[1]。巻末雑録には大和田建樹・正岡子規・佐々木信綱らの追悼文を載せた[2]。
逍遙の漢詩は自身の恋を題材にした点が特徴であり[1]、制約の多い漢詩に恋愛感情を自由奔放に歌いこむ詩風は、島崎藤村、吉井勇らにも影響を与えている。また、漢詩や未完小説『慈涙余滴』には李白・杜甫の影響が見られる[3]。
宇和島市の和霊公園に、下記の詩の碑がある[2]。なお忌日は川崎宏によって「山茶花忌」と命名された[要出典]。
道情 | |
擲我百年命 | 我が百年の命を擲ち |
換君一片情 | 君が一片の情に換へん |
仙階人不見 | 仙階人見えず |
唯聴玉琴声 | 唯だ玉琴の声を聴く |
関連書籍
- 『訳文 逍遥遺稿 附原文』 笹川臨風・金築松桂訳・校訂、岩波文庫、1929年、新版復刊1994年
- 『中野逍遙の詩とその生涯-夭折の浪漫詩人』愛媛県文化振興財団(執筆担当は川崎宏)
- 『新日本古典文学大系明治編2 漢詩文集』杉下元明校注、岩波書店、2004年
- 二宮俊博「明治の漢詩人 中野逍遥とその周辺」知泉書館、2009年
- 『逍遙遺稿 明治の青春と狂熱 漢詩人・中野逍遙』 川九洸・竹屋敷康誠編著、明星印刷工業、2012年
- 1 中野逍遙とは
- 2 中野逍遙の概要
中野逍遙と同じ種類の言葉
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