中曽根康弘 交友関係

中曽根康弘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/05/14 22:14 UTC 版)

交友関係

ロナルド・レーガン
レーガンとは互いに「ロン」「ヤス」と呼び合うほどの親密な仲を築き、自著の中でも「たぐい稀な人間的魅力」と評している。
1983年1月16日、ブッシュ副大統領の晩餐会に招待された席上で、中曽根はこう述べた。
「今回の渡米に同行している次女の美恵子は、小学生だった11歳の時、インディアナ州ミシガンシティのモルト・ウィンスキー氏のお宅にホームスティしたのです。高校時代には互いに1年間、交換留学させました。ウィンスキー家とは20年近い交流が続いてます。今回の渡米に際しても、一家をあげてわざわざワシントンまで駆けつけてくれて、一同抱き合って再会を喜び合ったばかりです。かつて11歳の娘の美恵子をアメリカに送り出すとき、家内と『いつか総理大臣なって渡米する時が来たら、その時は美恵子が通訳をやってくれるといいなあ』と夢見たものですが、その後二十数年、政治家として家族とともに幾山河を越え風雪に耐えて、ここワシントンを訪れ、それが今、現実になって感無量です。国と国との関係も、ウィンスキー家と私の家とのように友情と信頼で築き上げたい」
この話の途中で中曽根は感情がこみあげ、言葉を詰まらせてしまう。これを聞いていたブッシュ副大統領、シュルツ国務長官、ワインバーガー国防長官、ブロック通商部代表、ボールドリッジ商務長官など、並んでいた閣僚がハンカチを取り出して目頭を押さえる一幕があった。翌朝シュルツから前夜の話を聞いたレーガン夫妻も目に涙を浮かべたという。
1983年1月17日、『ワシントン・ポスト』紙の社主だったキャサリン・グラハムの朝食会に招かれ、その席上で「日本は不沈空母である」「日米は運命共同体である」と発言したと『ワシントン・ポスト』は大きく取り上げた。この会食の翌日にレーガンがホワイトハウスの私的な住居で朝食に招き、その時レーガンから「今後はお互いファーストネームで呼び合おう」と言われたという。
ヘンリー・キッシンジャーは「もし政治が可能性の芸術であるならば、レーガンは掛け値なしに一流の芸術家」と発言し、中曽根もこれに同意している。
マーガレット・サッチャー
大英帝国伝統の血を引いた現代宰相で卓抜な能力を備え、強気ながらも一方で女性らしい非常にきめ細やかな繊細さを持っていると中曽根は評した[注釈 15]
竹村健一
中曽根は竹村を畏友と評し、竹村とは中曽根がまだ、総理・総裁候補だった頃からの付き合いであった。その当時から「体の中に国家を持っている」政治家として、竹村は中曽根を敬愛し続けているという。「竹村会」という勉強会の1月の全国大会では、毎年中曽根が基調講演を行っている。
渡邉恒雄
読売新聞会長の渡邉恒雄とは盟友関係にあり、小泉純一郎の推し進めた郵政民営化靖国神社参拝などには異議を唱えた。
田中角栄
永遠の競争相手として認めており、代議士会では論戦に明け暮れた仲である。同じ1918年5月生まれでもある。
胡耀邦
三国志演義』の登場人物のようで、英雄的要素を持ち、度量も視野も広かったと評し、兄弟のような付き合いをした仲だという。
1984年9月、「日中友好二十一世紀委員会」が発足した。これは胡耀邦と中曽根が「これからの日中関係は、外交辞令ではなく、本音で話し合えるチャンネルを作っておく必要がある」という意図の元に作られたという。
全斗煥
中曽根首相の就任から間髪を入れない訪韓は、教科書問題が沸騰した直後にという微妙な時期であったが、晩餐会での韓国語でのスピーチ[注釈 16]や全大統領のカラオケで韓国語の歌を披露するといったパフォーマンスも奏功してか、学生など少数の左翼過激派を除く韓国人一般に好意的に受け止められた。日韓関係はその後、紆余曲折を経ることとなり、全大統領も部下だった盧泰愚が大統領となるや政治力を奪われ、金泳三政権のもとで冷遇された。そうした中で中曽根が、全の来日の際には必ず付き添うなど、過去の盟友に対しての一貫した友情は、日韓併合時代も経験した保守的な韓国人高齢者の間でも好意的に受け止められている。
不破哲三
『サンデー毎日』2009年7月19日号において対談を行い、互いに一定の評価をし合った[16][17]



注釈

  1. ^ 実際は178cmを公称していたものの、過去に中曽根自身が身長の事に話が及んだ際に、「外交上、大きく見せなければならない」と発言したため、明言こそしなかったものの、ある程度サバを読んでいるものと思われる。
  2. ^ なお、後に中曽根政権で官房長官に迎えた後藤田正晴は内務官僚としての先輩に当たる。
  3. ^ 実際幹事長に就任したのは斎藤邦吉で、蔵相に就任したのは金子一平
  4. ^ 河野一郎の没後に河野派を中曽根が引き継ぐことを進言したのは、当時1年生議員の渡辺である。
  5. ^ これはのち安倍晋三に、「戦後レジームからの脱却」「美しい国」志向として引き継がれる。
  6. ^ 二階堂はロッキード事件との関与が濃いとされながらも訴追されなかった「灰色高官」の一人とされ、金権政治批判を受けやすい立場にあった。
  7. ^ 衆議院総選挙での公認候補300議席は自民党史上最多。これに追加公認4人、さらに開票直後に解党した新自由クラブからの合流5人などが加わった。参議院通常選挙での72人当選(追加公認2人)、非改選議員と合わせた所属議員数145人も同党史上最多である。
  8. ^ 所得税法人税などの直接税と比較すると酒税たばこ税揮発油税などの間接税の税収額が低いため、大型消費税の導入と所得税・法人税の減税などを組み合わせて直接税と間接税の税収額を同じにしようという政策。
  9. ^ 佐藤誠三郎の妻の佐藤欣子1989年の参院選で中曽根派の支援を受けて自民党から立候補したが、落選した。
  10. ^ ただし、これは地価高騰抑制などの理由により、当初の債務返済計画通りには進まなかった。詳しくは該当項目参照の事。
  11. ^ 一方で、「総理就任時、日米関係は最悪と呼べる状態だった」「自分(中曽根)が外交関係を改善した」という認識を強く持ち、公式発言でもたびたび重ねたことが、鈴木善幸を始めとする宏池会の逆鱗に触れ、(鈴木内閣と鈴木善幸本人への非難・皮肉とも受け取れた)二階堂擁立構想を生む原因となる。
  12. ^ これ以後、日本国内閣総理大臣から、同様の関係を築く事が流行した。後任・竹下登の「ロン・ノブ」、ブッシュと小泉純一郎の「ジョージ・ジュン」など
  13. ^ こうした背景やレーガンの歴史認識・過去の記憶をもとに、「ロン・ヤス」は実態の無い関係であったと指摘されることも多く、これは同じくアメリカのプードル時代と言われた後年の「ジョージ・ジュン」の関係と比較しても歴然とした差が存在した
  14. ^ ドン・オーバードーファー「ナカソネは『不沈空母』とは言わなかった---ワシントン・ポスト外交記者を辞めるに当たって」『THIS IS 読売』1993年8月号
  15. ^ サッチャーの愛国心はかなりのもので、トルコのダーダネルス海峡に架ける橋の工事を日本企業が請け負った際には、サミットの開会前に中曾根の元に来て、英国の勢力圏の仕事を日本が持っていくのはひどいと抗議している。
  16. ^ 中曽根首相は1983年1月、韓国を訪れた。日程を順調に消化し、最大のヤマ場となる大統領官邸の大広間での晩餐会が始まった。大勢の来賓が招かれた中、全斗煥大統領の歓迎スピーチが終わり、次は中曽根首相の挨拶になった。来賓は、中曽根首相が日本の韓国統治についてどういう言葉で謝罪するのかに注目し、会場は水を打ったように静まり返った。首相はポケットから挨拶文を取り出し、ゆっくりと広げた。「ヨロブン、アンニョン ハシムニカ(ご来賓の皆さん、今晩は、여러분, 안녕하십니까)…」会場は大きくどよめいたという。スピーチの中ほどで日本語になり、韓国語の通訳が入った。そして最後。「オヌルン、テダニ カムサハムニダ(本日は誠にありがとうございました、오늘은 대단히 감사합니다)」会場は割れんばかりの拍手に包まれたという。帰国後、中曽根首相は「隣に座っていた全斗煥大統領は涙を浮かべていた」と語ったという。客席の中にもハンカチで涙を拭いていた人もいたようだ。中曽根首相の謝罪の言葉は脇に押しのけられた格好になった。(町田貢 『日韓インテリジェンス戦争』 文藝春秋 2011年)
  17. ^ 報道2001」において中曾根が語る先見性を予言者ノストラダムスに見立てて名づけられた。
  18. ^ 神一行著『閨閥 改訂新版』176頁によれば、「母の名前はゆく。その実家は安中市の名家で素封家であった。中曽根は女一人、男四人の二男。そのうち三男・良介は戦死、四男・昌吉は病死している。」という。
  19. ^ 神一行著『閨閥 改訂新版』178頁によれば、「その妻・真理子は、前川商事や前川産業、あるいは朝霧高原の開発などで有名な前川昭一の長女である。」という。
  20. ^ めちゃ×2イケてるッ!」のコーナー「フジTV警察24時」でもフジテレビの二世社員として紹介され、目の前で本庁からの助っ人だったはなわに“中曽根の孫もフジ、オンエアできるのか?”と歌われた。また、インディーズお笑い芸人としても活躍している

出典

  1. ^ a b 日外アソシエーツ編『新訂 政治家人名事典 明治〜昭和』(日外アソシエーツ、2003年) 436頁、437頁、日外アソシエーツ編『新訂現代政治家事典―中央・地方の政治家4000人』(日外アソシエーツ、2005年) 377頁、378頁参照。
  2. ^ 2億3500万円。ウランの質量235にちなむ。
  3. ^ 新総理 中曾根康弘の研究』139頁
  4. ^ a b 中曾根康弘『自省録-歴史法廷の被告として-』(新潮社 2004年6月) ISBN:4-10-468701-4
  5. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書26 蘭印・ベンガル湾方面 海軍進攻作戦』 朝雲新聞社、1969年5月。198-203頁
  6. ^ 「中曽根康弘」語録: 哲人政治家の素顔 71〜75
  7. ^ 第百三回国会衆議院予算委員会議録第二号(昭和60年10月29日)pp.26-28
  8. ^ 長崎県知事選の違法献金事件 自民党に衝撃 特定寄付の禁止 「政治資金」で届けても違法 選挙の集金構造にメス 2002年12月31日 しんぶん赤旗
  9. ^ http://singo.jiyu.co.jp/nendo/1996.html
  10. ^ 旧海軍時代に慰安所つくった記憶ないBloomberg.co.jp
  11. ^ 慰安婦:中曽根元首相、強制動員を否認(Chosun Online 『朝鮮日報』)[リンク切れ]
  12. ^ 自著『二十三歳で三千人の総指揮官』、関連書『終わりなき海軍』松浦敬紀著、『いま明かす戦後秘史に詳しい』鹿内信隆
  13. ^ 「土人女を集め慰安所開設」 中曽根元首相関与示す資料 高知の団体発表2011年10月28日 しんぶん赤旗
  14. ^ 「旧中曽根派同窓会」出席でささやかれる二階俊博・衆院予算委員長の〝野心〟 現代ビジネス 2013年12月7日
  15. ^ R25ロングインタビューVol.202
  16. ^ 「サンデー毎日誌上の不破と中曽根対談」考
  17. ^ 中曽根 康弘著『青山常運歩 中曽根康弘対談集』(毎日新聞社)
  18. ^ a b “天皇陛下の靖国参拝実現を 86歳の誕生会で中曽根氏”. 共同通信社. 47NEWS. (2004年5月27日). http://www.47news.jp/CN/200405/CN2004052701003959.html 2015年3月4日閲覧。 
  19. ^ “中曽根氏依頼で分祀求める 島村農相が靖国神社に”. 共同通信社. 47NEWS. (2005年6月7日). http://www.47news.jp/CN/200506/CN2005060701000874.html 2015年3月4日閲覧。 
  20. ^ 第123回国会 参議院 予算委員会 第3号 平成4年(1992年)4月8日
  21. ^ 有田芳生 『「神の国」の崩壊 統一教会報道全記録』 教育史料出版会 1997年
  22. ^ 光文社FLASH2006年7月4日号
  23. ^ 朝日新聞1963年11月3日
  24. ^ 神一行著『閨閥 改訂新版』169頁
  25. ^ 猪野三郎監修『第十版 大衆人事録』(昭和9年)ア九二頁より







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