中国語
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/24 14:41 UTC 版)
言語名
中華人民共和国では、主に中文と呼ぶ。
中国は多民族国家かつ多言語国家であり、少数民族の言語も「中国の言語」と言えなくもないことから、それらと区別するために漢語(漢族の言語)と呼ぶことがあり、学術的な用語としてもよく使われる。他に現地では華語、中国話などとも呼ばれる。
中国語の内、標準語である標準中国語には中国の普通話、台湾の国語と台湾国語、シンガポールやマレーシアなどの華語がある(詳細は#歴史および各項目を参照)。
日本語でただ「中国語」と言った場合、普通話を指すことが多い[3]。また、普通話を俗に「北京語」と呼ぶことがあるが、日本の標準語と東京方言の関係と同様に、普通話と北京官話は必ずしも同一のものではない[4]。
なお、一般的に、中国語では、文字のある言語を文といい(例:ドイツ語→德文)、明確に定めた文字のない言語、方言あるいは口語・会話のことを指すときには話という(例:上海話)。語は前述の両方に使われる(例:德語(ドイツ語)、閩南語)。
特徴
中国語の特徴といえば「漢文からの簡潔さ」ということである。
簡潔さの例として、まず中国語では時制が省略される。ゆえに現在か未来か過去かは読者の判断にゆだねられる。また句と句、語と語の間の関係が、条件と結果であるとき、順接であるとき、逆接であるとき、いずれも概ね語順によってのみ示され、これも読者の判断にまかされる。ゆえに中国語の文法は簡単であるが、常識によって理解されるという特徴がある。さらに助字(而・之・於・者・焉の類)も省略される。中国語には助字を添加してもしなくても文章が成立するという性質がある。よってこれを日本語に訓読する場合は、「てにをは」を添加する必要がある。
一方、中国語はリズムに敏感な詩のような性質を常に保持し、そのリズムの基礎は四字句が中心になっていることが多い。こうしたリズムの組成のために助字がしばしば作用する。助字は、あってもなくてもよい語であるという性質を利用して、簡潔とは逆行するが、助字を添加することによってリズムを完成させ、文章を完成させる。よってこのようなリズムの充足のために添えられた助字は、はっきりした意味を追求しにくいことがよくある。またこの四字句などは、しばしば対句的な修辞となる。つまり同じ文法的条件の語を同じ場所におく、繰り返しのリズムである。この対句は中国語の性質から成立しやすいものであり、その萌芽が『老子』をはじめとする古代の文章にしばしば見える。これがやがて律詩を生み、唐から宋までの中世の美文・四六駢儷文を生んだ[5]。
歴史
古代漢語
- 漢字の原形とされる甲骨文字(1899年に発見)が使われており、簡単な文章が記録されている。
- 声母(頭子音)に複子音 sl-, pl-, kl-(例: 「監」*klam) などが存在した。
- 韻母の尾子音は豊富だった(例:「二」 *gnis)。
- 語順はタイ語的なSVO型だった。(例: 吳 敗 越 於夫椒 「呉は夫椒で越を破った。」 S-V-O-Adv ⇔ 現代語: 吳軍 在夫椒 把越軍 打敗了。 Or 吳軍 在夫椒 打敗了 越軍 S-Adv-O-V)[7]
- この頃の文献としては、諸子百家にまつわる書が残っている。
- 文法的に重要な役割を果たしていた接辞や不変化詞による修飾語の形成があったが、後期になると衰え始めた。
- 代名詞に格があった。今でも一部が客家語や湘語に残っている。
- 戦国時代の楚や秦の言語は楚文字と呼ばれる字体の漢字で竹簡などに記録され、包山楚簡、里耶秦簡などが発見されている。
- 秦の全国統一で言語が各地に伝播した。
中期漢語
- 2音節の熟語が発達した[8]。
- 動詞の活用が消滅し始め、孤立語的な特徴を帯びるようになる。
- 漢字の字体が統一され、規範的な字書が作られた[9]。また、科挙試験によって、発音、字体、文法など、規範的な言語の使用が促進された。
- 李白・杜甫・韓愈などの詩人・文人を輩出した。(→唐詩を参照)
近代漢語
- 元代には唐宋以来の漢音を使っていたと考えられている[10][11]。
- 語彙面、文法面で、文語と口語の差が広がった。明代から清代には、口語による白話小説が広く書かれるようになった。
- 元代と清代には北方語を中心に、アルタイ諸語から幾つか語彙を吸収したことがあった。ちなみに介詞"把"は唐代に既にあった。例:白居易の『戯醉客』には「莫把杭州刺史欺」。
- 元代口語では文末助詞の「有」が多用された。
- 都のあった北京の言葉を中心にした言語が全国に広まり始めた。この言語は「正音」と呼ばれていたが、官吏が主に使用したことから明代以降「官話」の呼び名が定着するようになった[12]。
- 多くの北方方言で入声が消滅する[13]。
- 明代、北方方言を中心に「児化音」が現れた。これはアルタイ諸語からの影響でなく、北方方言自らの音韻変化である。
- 軟口蓋音の口蓋化が進行する。(清代乾隆期)[14]
現代漢語
1895年の日清戦争後に、西欧の事物・概念を表す語を中心に和製漢語の中国語への流入がはじまり、1898年に梁啓超が横浜市で『清議報』を発刊したことによってそれが本格化した[15]。1905年の中国同盟会結成頃から、優秀な学生が日本の早稲田大学などへ留学し、既に日本語化され定着した「和製漢語」などの西洋概念に触れ、日本の国語の影響を強く受けた。この新漢語の大量流入は1919年ごろまでに最盛期を迎え、その後も第二次世界大戦終了までは徐々に数量を減じながらも継続していた[16]。
一方、清朝末期になると中国でも標準語制定の動きが高まり、1904年には初等・中等教育において官話学習が義務化された[17]。このころまでは「官話」という言葉は将来制定されるべき「標準語」との意味も含んでいたが、1910年には標準語という意味で「國語」という呼称が用いられるようになり[18]、以後官話は北京を中心とした方言を、國語は標準語を指すようになった。台湾ではその名が今でも受け継がれている。1911年には清国政府によって標準語としての國語統一を目指す法案が決定された[19]。
同年起こった辛亥革命によってこの動きは一時中断したものの、新たに成立した中華民国政府は中国語の統一を重視し、國語統一の動きは引き続き進められた[20]。中華民国における「國語」制定においてはまず発音の統一が重視されたが、この発音については北京方言を用いるか、各地の方言を折衷した新しい発音を用いるかの論争が起こり、最終的に1924年に北京方言を主に用いることと定められた[21]。
1917年には、陳独秀の発行する雑誌『新青年』誌上において、胡適を中心として書き言葉を「文語体」(文言文) から「口語体」へ変えようとする動き(白話運動)が広がり、文学革命が起こった[22]。魯迅の『阿Q正伝』などがこの運動の中で生み出された。1919年(民国8年)、北京大学教授の銭玄同は、雑誌に寄稿して文字改革を訴えて漢字の廃止を主張し、新文化運動の中心人物となった。
第二次世界大戦後、1949年に中国大陸に成立した中国共産党による中華人民共和国においても、標準語の制定と言語統一は引き続き追求された。ただし発音的には「國語」がすでに確立され、中華民国統治期にすでに全国に普及していたため、基本的にこれを踏襲する姿勢を取った。ただし「國語」は日本語からの借用語であったため、「普通話」と名を改めることとした[23]。これに対し、台湾へと逃れた中華民国政府は引き続き「國語」という用語を使用し続けた[24]。
清朝末期から中華民国期にかけて、語法面で英語の影響を受けて出現した新たな中国語の言い回しも数多くあり、これは「欧化語法現象」と呼ばれている。
中華人民共和国政府は発音の面では中華民国政府の政策を踏襲したが、文字の面では大規模な改革に踏み切り、正書法として従来の漢字を簡略化した簡体字が1956年に採用された。また、言語の統制機関として1954年に中国文字改革委員会が設置され、1985年には国家語言文字工作委員会と改称された[25]。
注釈
出典
- ^ 「The world’s languages, in 7 maps and charts」ワシントン・ポスト 2015年4月23日 2020年6月28日閲覧
- ^ 「加盟国と公用語」国際連合広報センター 2020年6月28日閲覧
- ^ “東外大言語モジュール|中国語”. www.coelang.tufs.ac.jp. 2020年9月7日閲覧。
- ^ “北京語は標準語ではありません|中国留学ゼミナール 大学選びの秘訣”. liuxue998.com. 2020年9月7日閲覧。
- ^ 吉川幸次郎『漢文の話』(筑摩書房、新版1971年(初版1962年))pp. 32–74, 177
- ^ 「中国語学概論 改訂版」p13-14 王占華・一木達彦・苞山武義編著 駿河台出版社 2004年4月10日初版発行
- ^ (橋本、1978)
- ^ a b c 「中国語学概論 改訂版」p14 王占華・一木達彦・苞山武義編著 駿河台出版社 2004年4月10日初版発行
- ^ 「中国語の歴史 ことばの変遷・探求の歩み」(あじあブックス)p31-34 大島正二 大修館書店 2011年7月20日
- ^ CaoGuangshun.and Dandan Chen. 2009. Yuan baihua teshu yuyan xianxiang zai yanjiu [Reexamination of the special features in Yuan baihua]. Lishi Yuyanxue Yanjiu[Historical Linguistics Study] 2:108-123. Beijing: The Commercial Press
- ^ Ota, Tatsuo (太田辰夫).中国語史通考 白帝社, 1988
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- ^ 「中国語の歴史 ことばの変遷・探究の歩み」(あじあブックス) p133 大島正二 大修館書店 2011年7月20日初版第1刷
- ^ 「中国語の歴史 ことばの変遷・探究の歩み」(あじあブックス) p122-123 大島正二 大修館書店 2011年7月20日初版第1刷
- ^ 「近代日中語彙交流史 新漢語の生成と受容 改訂新版」p77 沈国威 笠間書院 2008年8月20日
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- ^ 「近現代中国における言語政策 文字改革を中心に」p41 藤井(宮西)久美子 三元社 2003年2月28日初版第1刷発行
- ^ 「近現代中国における言語政策 文字改革を中心に」p22 藤井(宮西)久美子 三元社 2003年2月28日初版第1刷発行
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- ^ 「近現代中国における言語政策 文字改革を中心に」p120 藤井(宮西)久美子 三元社 2003年2月28日初版第1刷発行
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- ^ “標準中国語、普及率約8割に 極度貧困地域では約6割”. AFP. 2021年5月10日閲覧。
- ^ 「中国、29種類の文字 普通話の普及率が73%に」 2017年09月15日 人民網日本語版 2018年7月17日閲覧
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- ^ Chinese Academy of Social Sciences (2012), p. 3.
- ^ “中国の字幕事情 | 中国語初心者のための中国留学ガイド”. chinaryugaku.com (2020年7月11日). 2020年9月7日閲覧。
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- ^ 「近くて遠い中国語」p166-168 阿辻哲次 中央公論新社 2007年1月25日発行
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