中区 (岡山市)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/12 14:48 UTC 版)
歴史
中区の区域には縄文時代後期から室町時代にかけての複合遺跡である百間川遺跡や操山古墳群が存在し、古代より人々が居住していたことが窺える。奈良時代には賞田地区に備前国の国府が置かれていたとされ、賞田廃寺跡や幡多廃寺跡がある。その後、戦国時代には明善寺合戦が起こり、当時備中国を掌握していた三村元親と播磨・備前国を掌握していた浦上氏の臣下・宇喜多直家が沢田地区を中心に戦火を交えた。
江戸時代には門田地区・東山地区は岡山城下町の一角となり、操山山麓には藩主・池田氏によって曹源寺などの神社仏閣が造営された。また、4代藩主池田綱政の治世の1669年(寛文9年)には旭川の洪水から城下を守るために郡代・津田永忠の指揮のもと、百間川が開削された。津田永忠は他にも倉安川の開削、沖新田など干拓による新田開発を行い、現在でもこれらの土木遺産が残されている。
明治時代に入ると、東西の幹線である山陽鉄道や軽便鉄道である西大寺鉄道、三蟠鉄道等の鉄道網が整備された。大正時代には東山地区まで路面電車が延伸され、旧制第六高等学校、岡山県岡山高等女学校等が設置されるなど文教地区としても発展をみせた。1945年(昭和20年)6月29日の岡山空襲では門田・東山地区を中心に攻撃を受け、市民が犠牲となった。戦後はモータリゼーションの進行で国道が建設され、沿線に商店が発達し、住宅街へと姿を変えた。
行政区画の変遷
- 1899年(明治32年)8月1日 上道郡三櫂村全域 が岡山市に合併
- 1931年(昭和6年)4月1日 上道郡宇野村、平井村 が岡山市に合併
- 1952年(昭和27年)4月1日 上道郡三蟠村、沖田村、操陽村、富山村が岡山市に合併
- 1954年(昭和29年)4月1日 上道郡高島村、幡多村、財田町が岡山市に合併
- 2009年(平成21年)4月1日 政令指定都市移行に伴い岡山市中区となる
区名
区名は、公募により選ばれ、1位:中区、2位:さくら区、3位:操山区、4位:旭区、5位:城東区であったが、旧地域名は採用しないという方針と、最も支持を集めたことにより、「中区」が選ばれた。なお、当初は東区と1つの区を構成する方針であったが、百間川以西の住民から大きな反発があり、また市議からも多数の異論が出たため分割された。
- ^ 中区の市民に、いち早く区役所の場所を知ってもらうため、住民票交付などの一部業務が2009年(平成21年)3月2日から先行実施されていた。
- ^ “岡山市中区役所新庁舎で業務開始 避難所となるホールや備蓄倉庫新設”. 山陽新聞. (2016年12月26日) 2016年12月26日閲覧。
- ^ 2010年(平成22年)11月29日の開設に伴い、操南連絡所(岡山市中区倉富)は廃止。
- ^ 2010年(平成22年)9月27日の移転に伴い、新岡南連絡所(岡山市中区江崎)は廃止。
- ^ 2010年(平成22年)10月4日に、連絡所から市民サービスコーナーに改称。
- ^ 2011年(平成23年)12月26日に、東山プール駐車場跡に新築移転。
- ^ 祇園地区は、北区と中区の両方の区域にまたがっている。
- ^ 2015年1月31日、住居表示により清水・中井の各一部より成立。
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