上杉謙信
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評価
人物・総合的な評価
関東管領職にこだわり続けた面から、形式に拘る形式主義者、実質よりも権威を重んじる権威主義者、室町幕府体制の復興を願う復古主義者と評する声があるが、謙信の時代の関東や越後では畿内の幕府や管領などの権威と違い関東管領職の権威はある程度通用した、それ処か、室町時代より越後に勢力を持つ上杉一族の上に立ち、越後の各地で権力を拡大し自立を強める国人領主達を統合するためには、関東管領就任は何としても必要だった、との評もある[57][58]。また、権威や管領職への敬意は、謙信の義理堅さを表しているとも言える。謙信の関東出陣回数は17回であり、いったん広げた支配地域は北条・武田氏の攻勢やそれを受けた諸将の離反で次々縮小したが、謙信の義理堅さの表れと見る向きもある。
一方で、越相同盟で北条家の強い要請にも関わらず武田信玄との正面衝突を避けたこと、信濃・関東での南下政策が難航すると北陸侵攻に力を入れたことなどから、領土拡張や利害を慎重に判断していたと分析する現代の研究もある。謙信の美化は、江戸時代に紀州徳川家が後援した上杉流軍学の影響が指摘される[注釈 4]ほか、上杉景勝以降の米沢藩も謙信を神格化して家中統一と権威付けを図った[59]。
大義名分を盾に自己正当化をすることに拘り(合戦をする際に自身を正当化するのは秀吉や家康もしており当然ではあるが)、権威への羨望があったからこそ、山内上杉家を継いだとの説もある。ただし、元々は越後上杉家が守護を務め、越後上杉家の被官家臣が多くいた越後を統一するためには、上杉家宗家である山内上杉家の家督は必要不可欠であったとする指摘もある。
また、軍事面で評されることが多いが、謙信は内政面に関しても数多くの業績を残している。日本海側の海上交易の要衝としての利益も大きかった。豊富な資金力を生かして民政面でも成果を上げている。
特に、当時衣料の原料だった青苧の流通及び課税を統制し、利益を上げている。
なお、藤木久志は「上杉謙信は越後の民衆にとっては他国に戦争と言うベンチャービジネスを企画実行した救い主であるが、襲われた関東など戦場の村々は略奪を受け地獄を見た」と、通常言われる義人・上杉謙信像とは別の上杉軍の姿こそが実態であったとしている[60] が、市村高男は「合戦の主体となる正規の軍隊はどのようにして軍資金等を確保することができたのか」「敵地には略奪するほどの諸物資が存在したのであろうか」「社会状況の具体的な提示があるものの、戦闘に至る直接の契機についてはもとより、それらの社会状況と合戦を開始する権力側のいきさつがどのように関連していたのか」など数々の疑問を呈している[61]。一方でこの「出稼ぎ」説を支持する研究者、識者も現れており、福原圭一は藤木の説を引用し、略奪が行われていた可能性を示唆した[62]。ほか、黒田基樹も、出稼ぎ説の一部を複数の著作の中で踏襲している[63]。ただし、謙信のみならずこの当時の戦いでは、戦場での略奪・放火は一般的な行為だった。
武田信玄からの評価
信玄は死の直前、勝頼に対して「勝頼弓箭の取りよう、輝虎と無事を仕り候え。輝虎はたけき武士なれば、四郎若き者に、小目(苦しい目)みをすることあるまじく候。その上申し、相手より頼むとさえ言えば、首尾違うまじく候。信玄大人気なく輝虎を頼むと言うこと申さず候故、終に無事になること無し。必ず勝頼は、謙信を執して頼むと申すべく候。左様に申して苦しからざる謙信なり」と述べたとされる[64]。
また信玄没後の天正4年(1576年)10月15日、甲斐の教雅という僧侶が越後上条談義所(長福寺)の空陀法印に書状を送っているが、その中で「その国の太守謙信、おおかた太刀においては日本無双の名大将にて御入り候故、信玄入道時々刻々愚拙へ物語にて候き」とある(『歴代古案』)。
このように信玄や武田側の人間が謙信を高く評価していた事が窺われ、信玄は長らく敵対していた謙信を合戦を通じて深く信頼し、似た者同士と感じていた可能性がある[65]。
戦国時代の評価
当時から謙信の死は相当な衝撃を与えたようである。謙信の葬儀は3月15日に執り行なわれたが、このときのことを『北越軍談』はこう記している。
なお、戦闘では強さを発揮した謙信が天下を取れなかった理由として、越中の一向一揆に手間取ったことも挙げられる[注釈 20]。同じく北陸の大名であった朝倉氏も加賀の一向宗に悩まされ地盤を越えた戦略を取ることが出来なかった。
注釈
- ^ 『歴名土代』に見えず。
- ^ 文書上でのやりとりのみ。
- ^ 江戸時代後期の白河藩士・広瀬蒙斎による『白河風土記』は「
依怙 ()によって弓矢は取らぬ。ただ筋目をもって何方 ()へも合力す」(私利私欲で合戦はしない。ただ、道理をもって誰にでも力を貸す)と評している。今川家や北条家から塩を禁輸された武田信玄に塩を送ったとされる「敵に塩を送る」の故事も有名であるが、同時代の史料では確認できず、後世創作された可能性が高い。 - ^ a b 山田邦明、萩原大輔など[3]
- ^ 謙信の父・長尾為景が憲政の義理の祖父である関東管領上杉顕定を滅ぼした長森原の戦い以来、山内上杉家と長尾氏の関係は断絶していたが、天文17年(1548年)頃から、上杉憲政と長尾晴景の間で関係修復が行われ始めていた[16]。
- ^ 叙任の月日は、上杉家御年譜一・謙信公では4月23日[17]、上杉家文書・上越七三では5月26日(大覚寺義俊の斡旋による)としている。なお、歴名土代には記載なし。
- ^ なお、『歴代古案』所載の景虎遺言では比叡山に隠棲したとしている。
- ^ かつて北条三郎は北条氏秀と同一とされていたが、『関八州古戦録』以外に出典がなく、現在では否定的意見が有力である[25][26]。
- ^ 『その時歴史が動いた』(NHK、2007年4月4日放送。『NHKその時歴史が動いた傑作DVDマガジン戦国時代編 Vol.9 上杉謙信』〈講談社MOOK〉2012年1月。)では、「関東侵攻後、信長を打倒し京へ上洛」が有力説とされた。
- ^ 『上杉輝虎書状案』によると、1564年10月1日に謙信自ら普請の完了を確認している。
- ^ 栗岩英冶、桑田忠親、井上鋭夫、花ヶ前盛明など多くの研究者が著書で指摘している。
- ^ 風湿(痛風やリウマチに相当する漢方医学の語)。風毒ともいう。
- ^ 将軍・義輝は病気見舞いとして大舘左衛門佐輝氏を坂本の陣所へ遣わし、同日、鉄砲火薬の調合書(『鉄放薬之方并調合次第』)一巻を謙信に贈った。
- ^ 近衛前久からの慰問の書状がある(「ふくちういかゝ候や、これのみあんじ申候。うけたまはりたく候。猶ゆたんなく、御屋うじやうかんよふにて候」6月10日付[46])。
- ^ 雪の中、厠で倒れたと史料にあることも、死因が脳卒中だと考えられる一因である。
- ^ 松隣夜話』の記述を基に、王丸勇が著書『英雄医談―病跡学こぼれ話』で推測した[48]。
- ^ 池田嘉一は著書『史伝上杉謙信』において、北越軍記の史料価値の否定とともに謀殺説を批判した[44]が、没地について論拠を求めた布施秀治の『上杉謙信傳』では、『謙信公御年譜』に記された永禄4年7月5日の死亡は明らかな誤りと著されている[41]。これは、永禄7年3月までの政景の文書が存在しているからであり、この点に関してだけは『北越軍記』の同年7月5日死亡が正しいものとしている。何れにせよ記録が錯綜しているため、どの説についても確証は得られない。
- ^ 長尾謙忠は詰腹。一族郎党は後任城代の北条高広に託した[51]。
- ^ 『関八州古戦録』では主従45騎、『常山紀談』では13騎、『名将言行録』だと23騎率いると記されていた。
- ^ 謙信は仏教を信仰していたが、信仰していたのは一向宗(浄土真宗)ではなく真言宗である。
- ^ 一文字派は長船の刀工である。
出典
- ^ 系図纂要、大日本史料、上杉三代日記、北越軍談より。
- ^ 上杉謙信書翰
- ^ 「義の武将」謙信 実像に迫る/新史料や分析 過度な美化見直しも『読売新聞』朝刊2020年11月4日(文化面)
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- ^ ““Gackt謙信”写真集発売、NHK大河ドラマでは史上初”. ORICON STYLE:eltha. 2016年4月6日閲覧。
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- ^ “謙信公祭”. 上越タウンジャーナル. 2015年6月16日閲覧。[リンク切れ]
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