三島由紀夫 参考文献

三島由紀夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/08/30 05:27 UTC 版)

参考文献

その他の研究書誌

外国人著者による三島論

  • ヘンリー・スコット・ストークス 『三島由紀夫 生と死』、徳岡孝夫訳 ダイヤモンド社、1985年11月ISBN 978-4478940563  - 英書の原題は、"The Life nad Death of Yukio Mishima"(1975年)。著者は、ファイナンシャル・タイムズ元日本支局長。
    • ヘンリー・スコット・ストークス 『三島由紀夫 生と死』、徳岡孝夫訳 (改訂版) 清流出版1998年11月ISBN 978-4916028525 
  • ジョン・ネイスン 『新版 三島由紀夫──ある評伝』、野口武彦訳 (改訂版) 新潮社、2000年8月ISBN 978-4864100281  - 1976年6月の初版は遺族の意向で絶版になった。英書の原題は、"Mishima: A Biography"(1974年)。
  • マルグリット・ユルスナール 『三島あるいは空虚のヴィジョン』、澁澤龍彦訳 河出書房新社、1982年5月ISBN 978-4309200606  - フランス書の原題は、"Mishima ou la vision du vide"(1981年)
    • マルグリット・ユルスナール 『三島あるいは空虚のヴィジョン』 河出文庫、1995年12月ISBN 978-4309461434 
  • ジェニフェール・ルシュール 『三島由紀夫』、鈴木雅生訳 祥伝社〈ガリマール新評伝シリーズ・祥伝社新書299〉、2012年11月ISBN 978-4396112998  - フランス書の原題は、"Mishima"(2011年)。ヘンリー・スコット=ストークスとジョン・ネイスンの2冊を下敷きにしてまとめたもの。



[ヘルプ]

注釈

  1. ^ 読者圏が全国に広がっていた『文藝文化』に公威の「花ざかりの森」を掲載するに際し、公威の文学活動を反対していた父親(平岡梓)の思惑や、まだ学習院の中学生であったことなどを憂慮し、清水文雄と同人たちが筆名での作品発表を提案した[8]。清水文雄は、「今しばらく平岡公威の実名を伏せて、その成長を静かに見守っていたい ― というのが、期せずして一致した同人の意向であった」と、同人誌の修善寺での合宿会議を回想している[8]
  2. ^ ちなみに三島自身はペンネームの由来について次のように語っている。

    学生として本名ではまづいといふ先生の意見で、ペンネームを作ることになつた。私は伊藤左千夫といふやうな、万葉風の蒼古な名前がほしかつたが、結局、由紀雄と落ち着き、先生は夫のはうがいいと言はれて、さう改めた。それから何か座りのいい姓をと考へて、先生の机上にあつた何かの名簿を繰つて、三島といふのを探し出したのである。

    三島由紀夫「私のペンネーム」[11]

    なお、父親の梓は、ペンネームの由来について、倅が電話帳で適当に開いた頁が「三島」だったとしている[12]

  3. ^ なお、祖父・定太郎と『国際私法』を共著した福原鐐二郎(第14代学習院院長)の紹介があったのではないかという推察もある[30]
  4. ^ しかし、三島が使用していた原稿用紙は36種類あり、その中には、翌年1942年(昭和17年)に梓が天下りした日本瓦斯木炭株式会社の社報用の原稿用紙や、梓が農林省蚕糸局にいた時に入手したと思われる日本蚕糸統制株式会社の原稿用紙もあり、暴君を気取っていた梓も戦況が激しくなるに従い、次第に息子の形見のためにせっせと原稿用紙を調達していたことが推察されている[55][2][56]
  5. ^ 蓮田善明が激賞した文章は、生涯にわたって三島に影響を与えたものとして、よく引用される[2]

    「花ざかりの森」の作者は全くの年少者である。どういふ人であるかといふことは暫く秘しておきたい。それが最もいいと信ずるからである。若し強ひて知りたい人があつたら、われわれ自身の年少者といふやうなものであるとだけ答へておく。日本にもこんな年少者が生まれて来つつあることは何とも言葉に言ひやうのないよろこびであるし、日本の文学に自信のない人たちには、この事実は信じられない位の驚きともなるであらう。
    この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である。此作者を知つてこの一篇を載せることになつたのはほんの偶然であつた。併し全く我々の中から生れたものであることを直ぐに覚つた。さういふ縁はあつたのである。

    蓮田善明「編集後記」(文藝文化 昭和16年9月号)[61]

  6. ^ 三島は『東文彦作品集』の序文で東との交友を振り返りつつ、当時を〈文学に集中できたむしろアリストテレス的静的な時代〉であったと語っている[69]
  7. ^ もう一つ、三島が就職のとき日本勧業銀行の採用試験に失敗しているとされているが、これについては筆記試験(一次試験)には合格しており[78]面接で不採用となっている[79][80]。その少し前に住友銀行の就職試験も受けたが不採用となっている[81]
  8. ^ 村松剛は倭文重から聞いた話として以下のように語っている。

    倭文重さんはいくつかの愚痴をぼくにいった。(中略)「学習院の中等科を終るときに、一高を受験させたのですよ。でも学習院程度の学校では、一高は無理だったのね。一高のバンカラ生活を経験していたら、公威もあんなことしなかったと思うの」 「あんなこと」が自衛隊入りいらいの彼の生活をさすことは、いうまでもない。
    学習院から一高にはいった例は、近衛文麿がそうであるように少数ながら過去になかったわけではなく、それに一高の生活も外見ほどにはバンカラではない。そう思ったのだが、このときはだまってきいていた。「学習院に入れると決めてしまったのは、義母ですからね」(中略)つまり息子を死に向かって突走らせた責任の大本は姑にあると、倭文重さんはいいたかったのである。

    村松剛「三島由紀夫の世界」[82]

    なお、これと同種の内容は村松の筑波論文([1])にもある。

  9. ^ 村松剛も、「文学上の師や仲間が、三島のまわりには形成されていた。(中略)中等科五年の九月からは、師の清水文雄氏の推挽によって『花ざかりの森』を、彼は“文藝文化”に連載しはじめる。(中略)三島にとっては一高よりも学校外の雑誌に発表の舞台をあたえられたことの方が魅力的で」あったとし[82]、小説の書き直しなどに夢中になっていた三島が、もし受験していたとしても、合格している方が不思議だという見解を示している[82]
  10. ^ ちなみに、三島と開成学園については、母方の祖父・(橋健三)が開成中学の校長を務めた他に、三島の父・梓と、祖母・夏子の実弟・(大屋敦)が旧制開成中学出身だった縁がある。また、三島の長男・威一郎お茶の水女子大学附属小学校卒業後、中学から開成に学んでいる[85]
  11. ^ 公威は続けて、以下のように時局的な儀礼の強要を批判している。

    国民儀礼の強要は、結局、儀式いや祭事といふものへの伝統的な日本固有の感覚をズタズタにふみにじり、本末を顛倒し、挙句の果ては国家精神を型式化する謀略としか思へません。主旨がよい、となればテもなく是認されるこの頃のゆき方、これは芸術にとつてもつとも危険なことではありますまいか。今度の学制改革で来年か、さ来年、私も兵隊になるでせうが、それまで、日本の文学のために戦ひぬかねばならぬことが沢山あります。(中略)
    文学を護るとは、護国の大業です。文学者大会だなんだ、時局文学生産文学だ、と文学者がウロウロ・ソワソワのやうにうろついている時ではありません。

    平岡公威「徳川義恭宛ての書簡」(昭和18年9月25日付)[103]

  12. ^ 三島は伊東静雄からもらった激励の葉書の返礼に、〈私の幸運のしるしのやうに思へ、心あたゝかな毎日を送ることができます〉と喜びの返事を書き送っている[112]
  13. ^ 三島没後の定年後に最高裁判所判事となった団藤重光は、三島の『仮面の告白』の表層と深層の錯綜する二重構造的な構成に関心を抱いていたが、三島の「美」の世界が比類のない論理と言語の魔術により現成されたとして、その文学を賞讃している[116]
  14. ^ なお、三谷隆信の三女・正子は、鮎川義介の息子・鮎川弥一に嫁いだため、三谷邦子はのちに、鮎川純太の義理の伯母の立場となった。
  15. ^ 三島は『潮騒』の名を、万葉集の歌、「潮騒(しほさゐ)に 伊良虞(いらご)の島辺(しまへ) 漕ぐ舟に 妹(いも)乗るらむか 荒き島廻(しまみ)を」からとった(万葉仮名では『潮左為』)。この歌は、持統天皇伊勢に旅された時に、都に残った柿本人麻呂伊良湖岬を歌ったもので、意味は、「さわさわと波がさわいでいる伊良虞の島のあたりを漕いでゆく舟に、今ごろあの娘は乗っているのだろうか、潮の荒いあの島の廻りを」である[149]
  16. ^ 昔の三島は腺病質で、あるパーティでダンスを共にした美輪明宏から、「あら、三島さんのスーツってパットだらけなのね」とからかわれたこともあったという(この時三島は顔色を変え、部屋から出て行ったとされる)。後年、映画『人斬り』(1969年)で共演し、撮影現場の京都に向かう飛行機で乗り合わせた仲代達矢が、「作家なのにどうしてボディービルを?」と尋ねた時、「僕は切腹をして死ぬからだよ」、「本当に切腹する時脂身が出ないよう、腹筋だけにしようと思っているんだ」と答えたという。料亭で呑んだ時は、仲居に向かって、「腹筋をつまんでごらんなさい」と要求して贅肉のない腹部を誇り、仲間内では「俺はミスター腹筋というのだ」と自慢していたと伝えられる。
  17. ^ のち1968年の文庫版には「道成寺」、「熊野」、「弱法師」が加わる。
  18. ^ 三島は後年、大島渚との対談『ファシストと革命家か』の中で以下のように語っている[160]

    「鏡子の家」でね、僕そんなこというと恥だけど、あれで皆に非常に解ってほしかったんですよ。それで、自分はいま川の中に赤ん坊を捨てようとしていると、皆とめないのかというんで橋の上に立ってるんですよ。誰もとめに来てくれなかった。(中略)その時の文壇の冷たさってなかったんですよ。僕が赤ん坊捨てようとしてるのに誰もふり向きもしなかった。

    三島由紀夫(大島渚との対談)「ファシストと革命家か」[160]

  19. ^ 三島と二・二六事件との関わりを語ったものとして、以下の文章がしばしば引用される。

    ……たしかに二・二六事件の挫折によつて、何か偉大な神が死んだのだつた。当時十一歳の少年であつた私には、それはおぼろげに感じられただけだつたが、二十歳の多感な年齢に敗戦に際会したとき、私はその折の神の死の怖ろしい残酷な実感が、十一歳の少年時代に直感したものと、密接につながつてゐるらしいのを感じた。(中略)かくも永く私を支配してきた真のヒーローたちの霊を慰め、その汚辱を雪ぎ、その復権を試みようといふ思ひは、たしかに私の裡に底流してゐた。しかし、その糸を手繰つてゆくと、私はどうしても天皇の「人間宣言」に引つかからざるをえなかつた。
    昭和の歴史は敗戦によつて完全に前期後期に分けられたが、そこを連続して生きてきた私には、自分の連続性の根拠と、論理的一貫性の根拠を、どうしても探り出さなければならない欲求が生まれてきてゐた。(中略)どうしても引つかかるのは、「象徴」として天皇を規定した新憲法よりも、天皇御自身の、この「人間宣言」であり、この疑問はおのづから、二・二六事件まで、一すぢの影を投げ、影を辿つて『英霊の聲』を書かずにはゐられない地点へ、私自身を追ひ込んだ。自ら「美学」と称するのも滑稽だが、私は私のエステティックを掘り下げるにつれ、その底に天皇制の岩盤がわだかまつてゐることを知らねばならなかつた。それをいつまでも回避してゐるわけには行かぬのである。

    三島由紀夫「二・二六事件と私」[37]

  20. ^ なお、ドナルド・キーンは、ベストベリー委員長が三島由紀夫について、安部公房ほどは受賞に近づいていなかったと指摘した点については、「スウェーデン人で国連事務総長を務めたダグ・ハマーショルドが『金閣寺』を高く評価することをスウェーデン・アカデミーに伝えており、その推薦は軽視されないということだった。受賞に大変近かったはずだ」と2012年(平成24年)3月23日に述べている[172]。現時点ではまだ1968年度のノーベル賞については開示されていないので、双方の意見の真偽はまだ不明である。
  21. ^ 大神神社境内には、「清明」と揮毫された三島由紀夫の記念碑が存在する[181]
  22. ^ 林房雄は、このことについて以下のように語っている。

    彼ら(NとM)は小沢開策氏や私を感動させたのと同じ物語で、青年ぎらいの三島君を感動させた。少なくとも当初は彼らは見かけどおりに純粋で誠実であったかもしれぬ。だが、彼らは結局『天人五衰』の主人公のような悪質の贋物だった。(中略)ある“大先輩”の一人は、「ひどい目にあったな。結局彼らは戦後派青年の最悪のタイプ、いわば光クラブの連中みたいな奴らばかりだった」とまで極言した。(中略)
    楯の会」はいち早く彼らを除名した。三島君は村松剛君を立会人としてNとMに破門と絶縁を申しわたした。その激怒ぶりは尋常ではなかった、と村松君は証言している。(中略)「楯の会」の会員は何度もフルイにかけられて精選された。(中略)前記NやMの光クラブ派は厳しく排除された。

    林房雄「悲しみの琴」[188]

  23. ^ この理論は既に1968年(昭和43年)11月16日茨城大学講堂で行った学生とのティーチインで明らかにされているが、その際には海上自衛隊を6:4に分割することを主張していた[218]
  24. ^ 斎藤茂吉は『回顧』のなかで、「橋君は、中学でも秀才であつたが、第一高等学校でもやはり秀才であつた。大学に入つてからは、解剖学西成甫君、生理学橋田邦彦君、精神学の橋健行君といふ按配に、人も許し、本人諸氏も大望をいだいて進まれた」と記している[252]
  25. ^ なお、『花ざかりの森』のその段落全体は、以下の文脈である。

    わたしはわたしの憧れの在処を知つてゐる。憧れはちやうど川のやうなものだ。川のどの部分が川なのではない。なぜなら川はながれるから。きのふ川であつたものはけふ川ではない。だが川は永遠にある。ひとはそれを指呼することができる。それについて語ることはできない。わたしの憧れもちやうどこのやうなものだ、そして祖先たちのそれも。 珍しいことにわたしは武家と公家の祖先をもつてゐる。そのどちらのふるさとへ赴くときも、わたしたちの列車にそうて、美くしい河がみえかくれする。

    三島由紀夫「花ざかりの森」[60]

出典

  1. ^ 斉藤教授(慶応大学病院法医学部)「解剖所見」(1970年11月26日午前11時20分-午後1時25分に執刀)。安藤・日録 1996-04, p. 423
  2. ^ a b c d e 松本徹 2010-07
  3. ^ a b 佐伯彰一「三島由紀夫 人と作品」(新潮文庫版『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』の付録解説)(1973年12月執筆)
  4. ^ a b 柴田勝二 2012-11
  5. ^ 松本健一・亡命 2007-03
  6. ^ a b 太陽 2010-10
  7. ^ 板坂・鈴木 2010-11
  8. ^ a b c d e f g h i j 清水文雄「『花ざかりの森』をめぐって」(『三島由紀夫全集1』付録月報)(新潮社、1975年1月)
  9. ^ a b c 佐伯彰一「第二部 追想のなかの三島由紀夫――(三)三島由紀夫以前」(佐伯 1978-03佐伯 1988-11, pp. 234-307)
  10. ^ 井上隆史「ペンネームの由来」(太陽 2010-10, p. 19)
  11. ^ a b c 三島由紀夫「私のペンネーム」(東京新聞夕刊 1953年11月8日号に掲載)。28巻評論3 2003-03に所収。
  12. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 平岡梓「倅・三島由紀夫」(諸君! 1971年12月号-1972年4月号に連載)。「第三章」(梓 1972-05, pp. 59-126、梓 1996-11, pp. 48-102)
  13. ^ 三島由紀夫、没後40年で関連本ラッシュ “仮面”の素顔気さくな一面も (2/2ページ)ウェブ魚拓
  14. ^ a b c d e f g h i j 三島由紀夫『仮面の告白』(河出書房、1949年7月)。第1巻長編1-14 2000-11-2002-01に所収。
  15. ^ 三島由紀夫「東文彦宛ての書簡」(昭和16年4月11日付)。十代書簡集 2002-10, p. 39、38巻書簡 2004-03, p. 66に所収。
  16. ^ a b c d e f g h i j k l m 平岡梓「倅・三島由紀夫」(諸君! 1971年12月号-1972年4月号に連載)。「第二章」(梓 1972-05, pp. 38-58、梓 1996-11, pp. 31-47)
  17. ^ a b c d e f g h i j 安藤・日録 1996-04
  18. ^ 我妻栄「文章のスタイル」(ジュリスト226号 1961年5月15日号に掲載)
  19. ^ a b c d e f g 越次倶子「II 三島由紀夫の祖先を彩る武家・華族・学者の血脈」(越次 1983-11, pp. 71-140)
  20. ^ 猪瀬直樹「第一章 原敬暗殺の謎」(猪瀬 1995-11猪瀬 1999-11, pp. 25-111、猪瀬 2001-11
  21. ^ 柳田国男『故郷七十年』(のじぎく文庫(神戸新聞総合出版センター)、1959年11月。1989年4月)。橋川 1998-12, pp. 37-38
  22. ^ 安藤・文献 2001-12, p. 442
  23. ^ 野坂昭如「赫奕たる逆光 III」(オール讀物 1987年6月号に掲載)。野坂 1987-11野坂 1991-04, pp. 155-238
  24. ^ a b c d e 平岡倭文重「暴流のごとく――三島由紀夫七回忌に」(新潮 1976年12月号に掲載)。群像18 1990-09, pp. 193-204に所収。
  25. ^ a b c d e f g 平岡公威「平岡公威伝」(原稿用紙 昭和19年2月28日付)。26巻評論1 2003-01に所収。
  26. ^ 三島由紀夫「解説」(『日本の文学4 尾崎紅葉泉鏡花』)(1969年1月)。作家論 1974-0635巻評論10 2003-10に所収。
  27. ^ a b c d e f 十代書簡集 2002-10
  28. ^ a b 平岡梓・平岡倭文重「〈両親対談〉三島由紀夫は誰のものか」(文藝春秋 1973年11月号に掲載)。梓・続 1974-06, pp. 205-246に所収。
  29. ^ 「解題――神官」(補巻補遺・索引 2005-12, p. 646)
  30. ^ a b 佐藤秀明「第一部 評伝 三島由紀夫――第一章 作家の誕生まで」(佐藤 2006-02, pp. 23-38)
  31. ^ 佐藤秀明「三島由紀夫の時代――生涯と作品 先行する言葉」(太陽 2010-10, pp. 6-10)
  32. ^ a b c d e 三島由紀夫「わが思春期」(明星 1957年1月号-9月号に連載)。遍歴エッセイ 1995-0429巻評論4 2003-04に所収。
  33. ^ a b c d e 三谷信「第一部 土曜通信―三島由紀夫からの便り―」(三谷 1985-07三谷 1999-12, pp. 11-133)
  34. ^ a b 三島由紀夫「ラディゲに憑かれて――私の読書遍歴」(日本読書新聞、1956年2月20日号に掲載)。『三島由紀夫のフランス文学講座』(ちくま文庫、1997年2月)、29巻評論4 2003-04に所収。
  35. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 42巻年譜・書誌 2005-08
  36. ^ a b c d e f g h 三谷信「第二部 平岡公威君の思い出」(三谷 1985-07三谷 1999-12, pp. 135-188)
  37. ^ a b c 三島由紀夫「二・二六事件と私」(『英霊の聲』)(河出書房新社、1966年6月)。34巻評論9 2003-09に所収。
  38. ^ 平岡公威「我が国旗」(作文 昭和11年6月16日執筆)。36巻評論11 2003-11に所収。
  39. ^ a b c 坊城俊民「『詩を書く少年』のころ」(坊城 1971-11
  40. ^ a b 三島由紀夫「詩を書く少年」(文學界 1954年8月号に掲載)。第19巻短編15-20 2002-02-2002-07に所収。
  41. ^ 平岡公威「酸模(すかんぽ)――秋彦の幼き思ひ出」(輔仁会雑誌 1938年3月25日・161号に掲載)。第15巻短編15-20 2002-02-2002-07に所収。
  42. ^ 「年譜」(昭和13年1月)(42巻年譜・書誌 2005-08, p. 48)
  43. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 三島由紀夫「私の遍歴時代」(東京新聞夕刊 1963年1月10日 - 5月23日号に連載)。『私の遍歴時代』(講談社、1964年4月)で刊行。遍歴エッセイ 1995-04文学論集II 2006-0529巻評論4 2003-04に所収。
  44. ^ 三島由紀夫「悪の華――歌舞伎」(国立劇場歌舞伎俳優養成所での特別講演 1970年7月3日。新潮 1988年1月号に掲載)。36巻評論11 2003-11に所収。
  45. ^ 平岡公威「芝居日記」(1942年1月1日1944年12月23日。1945年2月18日-1947年11月23日執筆)。(マリ・クレール 1989年10月号-1990年2月号に掲載)。『芝居日記』(中央公論社、1991年7月)で刊行。26巻評論1 2003-01に所収。
  46. ^ 三島由紀夫「師弟」(青年 1948年4月号に掲載)。27巻評論2 2003-02に所収。
  47. ^ 平岡公威「凶ごと」(1940年1月15日執筆)。『近代浪漫派文庫42 三島由紀夫』(新学社、2007年7月)、橋川 1998-12, pp. 41-42に掲載。37巻詩歌 2004-01に所収。
  48. ^ 三島由紀夫「母を語る――私の最上の読者」(婦人生活 1958年10月号に掲載)。遍歴エッセイ 1995-0430巻評論5 2003-05に所収。
  49. ^ 三島由紀夫「川路柳虹先生の思ひ出」(西条八十の詩誌のため、1966年執筆)。(京都語文 1998年10月号に掲載)。34巻評論9 2003-09に所収。
  50. ^ 川路明(川路柳虹の息子)「微笑」。安藤・日録 1996-04, pp. 42-43に抜粋掲載。
  51. ^ a b c d e f g h i j k 猪瀬直樹「第二章 幽閉された少年」(猪瀬 1995-11猪瀬 1999-11, pp. 113-216、猪瀬 2001-11
  52. ^ 三島由紀夫「あとがき――戯曲」(『三島由紀夫作品集6』)(新潮社、1954年3月)。28巻評論3 2003-03に所収。
  53. ^ 三島由紀夫「戯曲の誘惑」(東京新聞夕刊 1955年9月6日、7日号に掲載)。『現代小説は古典たり得るか』(新潮社、1957年9月)、28巻評論3 2003-03に所収。
  54. ^ 平岡公威「清水文雄宛ての書簡」(昭和16年9月17日付)。『師・清水文雄への手紙』(新潮社、2003年8月)、38巻書簡 2004-03, pp. 542-547に所収。
  55. ^ 工藤正義(三島由紀夫文学館)「三島由紀夫の原稿用紙」(第15巻月報短編15-20 2002-02-2002-07
  56. ^ a b c d 佐藤秀明「第一部 評伝 三島由紀夫――第二章 戦中・戦後の苦悶」(佐藤 2006-02, pp. 39-72)
  57. ^ 平岡公威「清水文雄宛ての書簡」(昭和16年7月28日付)。『師・清水文雄への手紙』(新潮社、2003年8月)、38巻書簡 2004-03, pp. 540-541に所収。
  58. ^ a b c d 三島由紀夫「あとがき――『花ざかりの森』」(『三島由紀夫作品集4』)(新潮社、1953年11月)。28巻評論3 2003-03に所収。
  59. ^ a b 平岡公威「東文彦宛ての書簡」(昭和16年11月10日付)。十代書簡集 2002-10, pp. 83-86、38巻書簡 2004-03, pp. 98-101に所収。
  60. ^ a b c 三島由紀夫「花ざかりの森」(文藝文化 1941年9月号-12月号に連載)。第15巻短編15-20 2002-02-2002-07に所収。
  61. ^ a b 蓮田善明「編集後記」(文藝文化 1941年9月号に掲載)。再訂資料 2005-09, p. 116に掲載。
  62. ^ 平岡公威「惟神之道」(1941年9月22日執筆)。26巻評論1 2003-01に所収。
  63. ^ 三島由紀夫「大東亜戦争か 太平洋戦争か――歴史的事実なんだ」(サンデー毎日 1970年11月29日号に掲載)。36巻評論11 2003-11, p. 658に所収。
  64. ^ 三島由紀夫「ドイツ語の思ひ出」(ドイツ語 1957年5月号に掲載)。29巻評論4 2003-04に所収。
  65. ^ 対談「平野啓一郎が聞くドナルド・キーンの世界」(読売新聞 2007年7月31日、8月1日に掲載)
  66. ^ 三島由紀夫「大詔」(文藝文化 1942年4月号に掲載)。37巻詩歌 2004-01に所収。
  67. ^ 平岡公威「苧菟と瑪耶」(赤繪 1942年7月・創刊号に掲載)。第15巻短編15-20 2002-02-2002-07に所収。
  68. ^ a b 事典 2000-11
  69. ^ a b 三島由紀夫「序」(『東文彦作品集』)(執筆日1970年10月25日。講談社、1971年3月。講談社文芸文庫、2007年4月)。36巻評論11 2003-11に所収。
  70. ^ 平岡公威「挽歌一篇」(昭和17年8月26日執筆)。37巻詩歌 2004-01に所収。
  71. ^ 平岡公威「東文彦宛ての書簡」(昭和17年11月15日付)。十代書簡集 2002-10, pp. 136-141、38巻書簡 2004-03, pp. 129-133に所収。
  72. ^ 保田與重郎「天の時雨」(『新潮 三島由紀夫読本』)(新潮 1971年1月・臨時増刊号に掲載)。『保田與重郎全集第10巻 佐藤春夫・天の時雨』(講談社、1986年8月)に所収。福田和也「第五章 百合と山梔」(福田 1996-06, pp. 167-192)に抜粋掲載。
  73. ^ 三島由紀夫「『文芸文化』のころ」(『昭和批評大系2 昭和10年代』月報)(番町書房、1968年1月)。『蘭陵王』(新潮社、1971年5月)、34巻評論9 2003-09に所収。
  74. ^ 西法太郎「蓮田善明と三島由紀夫」(三島由紀夫の総合研究、2010年3月9日・通巻第383号)
  75. ^ a b 荒木 1971-11。西法太郎「三島由紀夫と神風連(壱)」(三島由紀夫の総合研究、2007年5月7日・通巻第143号)に抜粋掲載。
  76. ^ 「年譜」(昭和41年8月28日)(42巻年譜・書誌 2005-08, p. 283)
  77. ^ 三島由紀夫「社会料理三島亭」(婦人倶楽部 1960年1月号 - 12月号まで連載)。31巻評論6 2003-06に所収。
  78. ^ 「年譜」(昭和22年7月15日)(42巻年譜・書誌 2005-08, p. 146)
  79. ^ 「年譜」(昭和22年7月17日)(42巻年譜・書誌 2005-08, p. 146)
  80. ^ 三島由紀夫「川端康成宛ての書簡」(昭和22年7月17日付)。川端書簡 2000-11, pp. 50-53、38巻書簡 2004-03, pp. 258-261に所収。
  81. ^ 「年譜」(昭和22年7月3日)(42巻年譜・書誌 2005-08, p. 145)
  82. ^ a b c d 村松剛「序章――生家 雅の棘」(村松 1990-09, pp. 9-27、村松 1996-10
  83. ^ 平岡公威「東文彦宛ての書簡」(昭和16年9月25日付)。十代書簡集 2002-10, pp. 80-82、38巻書簡 2004-03, pp. 97-98に所収。
  84. ^ 「年譜」(昭和17年4月4日)(42巻年譜・書誌 2005-08, p. 74)
  85. ^ 原武史『滝山コミューン一九七四』(講談社、2007年6月)p.262
  86. ^ 「総務幹事日記」(昭和18年2月24日-8月2日)。補巻補遺・索引 2005-12に所収。
  87. ^ 三島由紀夫「神崎陽宛ての書簡」(昭和21年2月10日付)。38巻書簡 2004-03, pp. 313-318に所収。
  88. ^ 三島由紀夫「世々に残さん」(文藝文化 1943年3月号-10月号に連載)。第16巻短編15-20 2002-02-2002-07に所収。
  89. ^ a b 富士正晴「蓮田善明宛ての書簡」(昭和18年5月3日付)。安藤・日録 1996-04, pp. 56-57
  90. ^ a b c 林富士馬「死首の咲顔――三島由紀夫君追悼」(諸君! 1971年2月号に掲載)。追悼文 1999-04に所収。
  91. ^ a b 三島由紀夫「跋に代へて」(『花ざかりの森』)(七丈書院、1944年10月)。26巻評論1 2003-01に所収。
  92. ^ 富士正晴「林富士馬の詩」(文藝文化 1943年8月号に掲載)。安藤・日録 1996-04, p. 57
  93. ^ 蓮田善明(文學 1943年8月号に掲載)。安藤・日録 1996-04, pp. 57-58、北影 2006-11, pp. 49に抜粋掲載。
  94. ^ 蓮田善明「平岡公威宛ての葉書」(昭和18年8月16日付)。安藤・日録 1996-04, p. 58、猪瀬 1999-11, p. 226、佐藤 2006-02, p. 45に抜粋掲載。
  95. ^ 平岡公威「東文彦宛ての書簡」(昭和18年4月4日付)。十代書簡集 2002-10, pp. 173-175、38巻書簡 2004-03, pp. 154-155に所収。
  96. ^ a b 平岡公威「東文彦宛ての書簡」(昭和18年8月20日付)。十代書簡集 2002-10, pp. 201-204、38巻書簡 2004-03, pp. 173-175に所収。
  97. ^ 平岡公威「東文彦宛ての書簡」(昭和16年9月16日付)。十代書簡集 2002-10, pp. 77-80、38巻書簡 2004-03, pp. 94-96に所収。
  98. ^ 平岡公威「東文彦 弔詞」(昭和18年10月11日)。のち(新潮 1998年12月号に掲載)。十代書簡集 2002-10, pp. 211-213。26巻評論1 2003-01に所収。
  99. ^ 平岡公威「東徤兄を哭す」(昭和18年10月9日執筆。輔仁会雑誌 1943年12月25日・169号に掲載)。26巻評論1 2003-01に所収。
  100. ^ a b 持丸博・佐藤松男「第四章 三島事件前後の真相」(持丸・佐藤 2010-10, pp. 125-189)
  101. ^ a b 村松剛「II 自己改造をめざして――『仮面の告白』から『金閣寺』へ 『仮面』の創造」(村松 1990-09, pp. 123-149、村松 1996-10
  102. ^ 三島由紀夫「『盗賊』創作ノート」(第1巻長編 2000-11-2002-01
  103. ^ a b c 平岡公威「徳川義恭宛ての書簡」(昭和18年9月25日付)。十代書簡集 2002-10, pp. 227-230、38巻書簡 2004-03に所収。
  104. ^ a b c 村松剛「IV 行動者――『豊饒の海』の完結 訣別」(村松 1990-09, pp. 469-503、村松 1996-10
  105. ^ a b c 北影雄幸「第一章 三島由紀夫と日本浪曼派」(北影 2006-11, pp. 22-92)
  106. ^ a b 小高根二郎「蓮田善明とその死」(果樹園 1959年-1968年11がつ号に55回連載)。『蓮田善明とその死』(筑摩書房、1970年3月。島津書房、1979年8月)。再訂資料 2005-09, pp. 99-156、北影 2006-11, pp. 22-92に抜粋掲載。
  107. ^ 小高根二郎「善明と由紀夫の黙契」(新潮 1971年2月号に掲載)。追悼文 1999-04に所収。
  108. ^ a b 島内 2010-12
  109. ^ a b c d e f g 小高根二郎「十一 平明な主潮と太平洋戦争――2 『春の雪』と三島由紀夫」(小高根 1971-05, pp. 273-285)
  110. ^ a b c d 福島鑄郎「第三章 三島由紀夫の青春」(再訂資料 2005-09, pp. 99-156)
  111. ^ 伊東静雄「平岡公威宛ての書簡」(昭和19年11月22日付)。42巻年譜・書誌 2005-08, p. 97、アルバム 1983-12, p. 17(現物写真)に抜粋掲載。
  112. ^ a b 三島由紀夫「伊東静雄宛ての書簡」(昭和23年3月23日付)。38巻書簡 2004-03, pp. 200-202に所収。
  113. ^ a b c d 三島由紀夫「学習院の卒業式」(スタイル 1957年3月号に掲載)。29巻評論4 2003-04に所収。
  114. ^ 三島由紀夫「法律と文学」(東大緑会大会プログラム、1961年12月)。31巻評論6 2003-06に所収。
  115. ^ 三島由紀夫「私の小説作法」(毎日新聞 1964年5月10日に掲載)。33巻評論8 2003-08に所収。
  116. ^ 団藤重光「三島由紀夫と刑事訴訟法」(日本法律家協会「窓」3号 1971年)。のち、『この一筋につながる』(岩波書店、1986年4月)、『わが心の旅路』(有斐閣、追補版1993年6月)に所収。事典 2000-11, p. 430
  117. ^ 三島由紀夫「『花ざかりの森』出版のころ」(群像 1958年6月号に掲載)。30巻評論5 2003-05に所収。
  118. ^ 三島由紀夫「『花ざかりの森』のころ」(うえの 1968年1月号に掲載)。34巻評論9 2003-09に所収。
  119. ^ 橋川文三「三島由紀夫」(小林秀雄編『現代日本文学館42』)(文藝春秋、1966年8月)。『現代知識人の条件』(1967年11月。新版 弓立社、1974年11月)、『橋川文三著作集1』(筑摩書房、1985年8月)に所収。のち「II 三島由紀夫論――三島由紀夫伝」として橋川 1998-12, pp. 36-73に所収。
  120. ^ 秋山駿「『内部の人間』から始まった―秋山駿氏を囲んで―」(『三島由紀夫・禁色 三島由紀夫研究5』)(鼎書房、2008年1月)。同時代 2011-05に所収。
  121. ^ 平岡公威「三谷信宛ての書簡」(昭和20年1月20日付)。三谷 1985-07三谷 1999-12, pp. 32-33、38巻書簡 2004-03, pp. 905-906に所収。
  122. ^ 三島由紀夫「中世」第1回・第2回(文藝世紀 1945年2月号に掲載)。第16巻短編15-20 2002-02-2002-07に所収。
  123. ^ 平岡公威「中河与一宛ての書簡」(昭和20年2月23日付)。38巻書簡 2004-03, p. 711に所収。
  124. ^ 平岡公威「平岡梓・倭文重宛ての書簡」(昭和20年1月17日付)。38巻書簡 2004-03, pp. 815-816に所収。
  125. ^ 三島由紀夫「私の遺書」(文學界 1966年7月号に掲載)。遍歴エッセイ 1995-0434巻評論9 2003-09に所収。
  126. ^ 平岡公威「遺言」(昭和20年2月)。現物写真は、アルバム 1983-12, p. 21、写真集 2000-11太陽 2010-10, p. 23に掲載。
  127. ^ a b c d ネイスン 2000-08
  128. ^ 栗栖晋(突第10133部隊)「帰郷証明書」(昭和20年2月10日付)。三島由紀夫文学館所蔵。
  129. ^ a b 三島由紀夫「太陽と鉄」(批評 1965年11月号-1968年6月号に掲載)。『太陽と鉄』(講談社、1968年10月)。文学論集I 2006-0433巻評論8 2003-08に所収。
  130. ^ a b c d 三島由紀夫(古林尚との対談)「三島由紀夫 最後の言葉」(図書新聞 1970年12月12日、1971年1月1日掲載)。『三島由紀夫 最後の言葉』(新潮カセット、1989年4月。新版 新潮CD、2002年6月)。群像18 1990-0940巻対談2 2004-07に所収。
  131. ^ a b c 平岡公威「三谷信宛ての葉書」(昭和20年4月21日付)。三谷 1985-07三谷 1999-12, pp. 88-90、38巻書簡 2004-03, pp. 917-918に所収。
  132. ^ 三島由紀夫「エスガイの狩」(文藝 1945年5・6月号に掲載。8月下旬に発行)。第16巻短編15-20 2002-02-2002-07に所収。
  133. ^ 野田宇太郎『灰の季節』(修道社、1958年5月)。村松 1990-09, pp. 72ffに抜粋掲載。
  134. ^ a b 川端康成「三島由紀夫宛ての書簡」(昭和20年3月8日付)。川端書簡 2000-11, p. 11、川端補巻2・書簡 1984-05, p. 333に所収。
  135. ^ 平岡公威「川端康成宛ての書簡」(昭和20年3月16日付)。川端書簡 2000-11, p. 12、川端補巻2・書簡 1984-05, p. 326、38巻書簡 2004-03, p. 236に所収。
  136. ^ 岬にての物語」(群像 1946年11月号に掲載)。第16巻短編15-20 2002-02-2002-07に所収。
  137. ^ 三島由紀夫「民族的憤怒を思ひ起せ――私の中のヒロシマ」(週刊朝日 1967年8月11日号に掲載)。のち「私の中のヒロシマ――原爆の日によせて」と改題し、『蘭陵王』(新潮社、1971年5月)、34巻評論9 2003-09に所収。
  138. ^ 三島由紀夫「八月十五日前後」(毎日新聞 1955年8月14日号に掲載)。28巻評論3 2003-03に所収。
  139. ^ 三島由紀夫「故蓮田善明への献詩」(おもかげ 1946年11月17日に掲載)。再訂資料 2005-09, p. 152、北影 2006-11, pp. 87、島内 2010-12に掲載。37巻詩歌 2004-01に所収。
  140. ^ 平岡公威「三谷信宛ての書簡」(昭和20年8月22日付)。三谷 1985-07三谷 1999-12, pp. 112-113、38巻書簡 2004-03, pp. 921-922に所収。
  141. ^ 平岡公威「戦後語録」(昭和20年9月16日)。26巻評論1 2003-01に所収。
  142. ^ a b c d 三島由紀夫「終末感からの出発――昭和二十年の自画像」(新潮 1955年8月号に掲載)。28巻評論3 2003-03に所収。
  143. ^ a b 湯浅あつ子「三島由紀夫と『鏡子の家』秘話」(湯浅 1984-03, pp. 105-128
  144. ^ 村松剛「I 青春――『酸模』から『盗賊』へ 恋の破局」(村松 1990-09, pp. 9-27、村松 1996-10
  145. ^ a b 「解題――仮面の告白」(第1巻長編 2000-11-2002-01 pp.680-681)に掲載。
  146. ^ 越次倶子「IV 川端康成と三島由紀夫」(越次 1983-11, pp. 173-199)
  147. ^ 三島由紀夫「永遠の旅人―川端康成氏の人と作品」(別冊文藝春秋 51号、1956年4月に掲載)。29巻評論4 2003-04に所収。
  148. ^ 木村 1995-07
  149. ^ 『万葉集』(角川ソフィア文庫、2001年)40-42頁
  150. ^ 三島由紀夫「私のすぽーつ・セカンドウインド」(毎日新聞 1957年6月16日に掲載)。29巻評論4 2003-04に所収。
  151. ^ 中井英夫『LA BATEE』(立風書房、1981年)p.149
  152. ^ 「年譜」(昭和17年4月13日)(42巻年譜・書誌 2005-08, p. 74)
  153. ^ 三島由紀夫「三島由紀夫氏との50問50答」(婦人公論、1967年9月号に掲載)。34巻評論9 2003-09に所収。
  154. ^ 三島由紀夫「三島氏のプライバシー―なんでも相談 なんでも解答」(PocketパンチOh! 1968年7月号に掲載)。36巻評論11 2003-11に所収。
  155. ^ a b 徳岡 1996-11徳岡 1999-11
  156. ^ 「美智子さまと三島由紀夫のお見合いは小料理屋で行われた」(週刊新潮 2009年4月2日号掲載記事)
  157. ^ a b 椎根 2007-03椎根 2012-10
  158. ^ a b c d e 三島由紀夫「劇画における若者論」サンデー毎日 1970年2月1日号に掲載)。36巻評論11 2003-11に所収。
  159. ^ 三島由紀夫「『鏡子の家』そこで私が書いたもの」(「鏡子の家」広告用ちらし、1959年8月)。31巻評論6 2003-06に所収。
  160. ^ a b 三島由紀夫(大島渚との対談)「ファシストと革命家か」(映画芸術 1968年1月号に掲載)。39巻対談1 2004-05に所収。
  161. ^ 三島由紀夫「果たし得てゐない約束―私の中の二十五年」(サンケイ新聞夕刊 1970年7月7日号に掲載)。『蘭陵王――三島由紀夫 1967.1 - 1970.11』(新潮社、1971年5月)、『文化防衛論』(ちくま文庫、2006年11月)、36巻評論11 2003-11に所収。
  162. ^ 村松剛「III 死の栄光――『鏡子の家』から『英霊の聲』へ 二つの事件――脅迫と告訴」(村松 1990-09, pp. 305-324、村松 1996-10
  163. ^ 岸田今日子「わたしの中の三島さん」(第22巻月報戯曲21-25 2002-08-2002-12
  164. ^ 三島由紀夫「著者と一時間(「絹と明察」)」(朝日新聞 1964年11月23日に掲載)。33巻評論8 2003-08に所収。
  165. ^ a b 第1回三島文学シンポジウム
  166. ^ 藤井浩明「映画『憂国』の歩んだ道」(別巻映画「憂国」 2006-04ブックレット内)
  167. ^ 加藤典洋「その世界普遍性」(第21巻月報戯曲21-25 2002-08-2002-12
  168. ^ 「川端康成氏にノーベル文学賞」(毎日新聞 1968年10月18日号に掲載)
  169. ^ 三島由紀夫「川端康成宛ての書簡」(昭和36年5月30日付)。川端書簡 2000-11, pp. 150-151、38巻書簡 2004-03, p. 294に所収。
  170. ^ 三島由紀夫「1961年度ノーベル文学賞に川端康成氏を推薦する」(訳・佐伯彰一)(川端書簡 2000-11, pp. 238-239)
  171. ^ 川端康成、ノーベル賞は7年越し 谷崎・西脇も候補者 朝日新聞2012年9月20日。
  172. ^ [2](読売新聞 2012年3月23日)
  173. ^ a b 「三島ノーベル賞目前だった」(読売新聞 2014年1月4日号に掲載)
  174. ^ a b [3] 「三島、63年ノーベル賞候補最終6人に残り、あと一歩」(共同通信 2014年1月3日付)[4]
  175. ^ 谷崎、三島、川端、西脇が64年の文学賞候補に(産経ニュース 2015年1月2日号に掲載)
  176. ^ ノーベル文学賞 キーン氏に評価尋ねる(NHKニュース 2015年4月1日付)
  177. ^ a b c d 安藤・生涯 1998-09
  178. ^ 特集「知られざる家庭人・三島由紀夫」(女性自身 1970年12月12日号に掲載)
  179. ^ 伊藤勝彦『最後のロマンティーク 三島由紀夫』(新曜社、2006年)
  180. ^ a b 三島由紀夫「現代日本100人の生活と意見」(文藝春秋 1967年4月号に掲載)。36巻評論11 2003-11, p. 646に所収。
  181. ^ 名作&風景(1) 三島由紀夫『奔馬』と大神神社 2006年1月23日参照
  182. ^ a b c d 三島由紀夫「文化防衛論」(中央公論 1968年7月号に掲載)。『文化防衛論』(新潮社、1969年4月)刊行。『文化防衛論』(ちくま文庫、2006年11月)、35巻評論10 2003-10に所収。
  183. ^ 森川達也「解説」(文庫版『暁の寺』)(新潮文庫、1977年)p.431
  184. ^ a b 三島由紀夫「小説とは何か 十一」(波 1970年5・6月号に掲載)。『小説とは何か』(新潮社、1972年)、34巻評論9 2003-09に所収。
  185. ^ 辻井喬「三島由紀夫の復権」(第3巻月報長編1-14 2000-11-2002-01
  186. ^ a b 三島由紀夫「若きサムラヒのために――政治について」(PocketパンチOh! 1969年5月号に掲載)。『若きサムラヒのために』(日本教文社、1969年7月。文春文庫、1996年再刊)、35巻評論10 2003-10に所収。
  187. ^ a b 三島由紀夫『討論・三島由紀夫vs.東大全共闘―〈美と共同体と東大闘争〉』(新潮社、1969年6月。新版は角川文庫、2000年)。40巻対談2 2004-07に所収。
  188. ^ a b 林 1972-03
  189. ^ 村松剛「IV 行動者――『豊饒の海』の完結 集団という橋」(村松 1990-09, pp. 443-468、村松 1996-10
  190. ^ a b 山本憂悶 1980-06山本告白 2001-06
  191. ^ 松本健一「第一章 その死をめぐって」(健一・蓮田 1990-11, pp. 7-58)
  192. ^ 坊城俊民「三島由紀夫の手紙」(坊城 1971-11
  193. ^ 高橋英郎『三島あるいは優雅なる復讐』(飛鳥新社、2010年)
  194. ^ a b 小島千加子「最後の電話――衝撃の日」(ポリタイア 1973年6月号に掲載)。小島 1980-05小島 1996-04, pp. 8-24、群像18 1990-09に所収。
  195. ^ 舩坂弘『関ノ孫六 三島由紀夫、その死の秘密』(光文社カッパ・ブックス、1973年)
  196. ^ a b 横尾忠則『死の向こうへ』(光文社 2008年)
  197. ^ a b 横尾忠則「三島由紀夫氏のこと」『横尾忠則 画境の本懐(道の手帳)』(河出書房新社、2008年)
  198. ^ 横尾忠則『インドへ』(文藝春秋、1977年、文春文庫、1983年)
  199. ^ 村松友視『夢の始末書』(角川書店、1984年)
  200. ^ 武田泰淳「三島由紀夫氏の死ののちに」(中央公論 1971年1月号に掲載)、のち『評論集 滅亡について』(川西政明編、岩波文庫、1992年)、追悼文 1999-04などに収録
  201. ^ 川端香男里佐伯彰一の対談「恐るべき計画家・三島由紀夫――魂の対話を読み解く」(川端書簡 2000-11, pp. 205-237後記)
  202. ^ 西法太郎「三島と川端康成」『三島由紀夫研究会メルマガ』([5]
  203. ^ 虫明亜呂無「序文」(文学論集I 2006-04
  204. ^ 三島由紀夫「小説とは何か 七」(波 1969年9・10月号に掲載)。『小説とは何か』(新潮社、1972年)、34巻評論9 2003-09に所収。
  205. ^ 川端康成「序」(『盗賊』)(真光社、1948年)。『川端康成全集第34巻 雑纂1』(新潮社、1982年12月)に所収。松本徹 2010-07に抜粋掲載。
  206. ^ 英子 2007-10
  207. ^ 三島由紀夫(荻昌弘との対談)「映画・芸術の周辺」(スクリーン 1956年9月号に掲載)。映画論 1999-12に所収。
  208. ^ 井上隆史 2006-12
  209. ^ 井上隆史「『創作ノート』の楽しみ1 もう一つの『鏡子の家』」(第11巻月報長編1-14 2000-11-2002-01
  210. ^ 佐藤秀明「第一部 評伝 三島由紀夫――第三章 問題性の高い作家」(佐藤 2006-02, pp. 73-109)
  211. ^ 青海・帰還 2000-01
  212. ^ a b c d e f g 三島由紀夫「問題提起 第二章 戦争の放棄」(憲法改正草案研究会配布資料、1970年7月)。36巻評論11 2003-11に所収。
  213. ^ a b 三島由紀夫「『変革の思想』とは――道理の実現」(読売新聞夕刊 1970年1月19・21・22日に連載)。『蘭陵王―三島由紀夫 1967.1 - 1970.11』(新潮社、1971年5月)、36巻評論11 2003-11に所収。夢ムック 2012-04に再録。
  214. ^ a b 三島由紀夫「問題提起」(憲法改正草案研究会配布資料、1970年5・7・9月)。36巻評論11 2003-11に所収。
  215. ^ a b 松藤・血滾ル 2006-03松藤 2006-03松藤・手帳 2007-07
  216. ^ a b 三島由紀夫「檄」(市ヶ谷駐屯地にて撒布 1970年11月25日)
  217. ^ a b 西尾幹二「三島由紀夫の死と日本の核武装」(WILL 2011年2月号に掲載) [6]
  218. ^ 三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」(茨城大学講堂 1968 年11月16日)。『文化防衛論』(新潮社、1969年4月)、文庫版『文化防衛論』(ちくま文庫、2006年11月)323頁に所収。
  219. ^ a b c d 三島由紀夫(林房雄との対談)『対話・日本人論』(番町書房、1966年。夏目書房で新版、2002年)。39巻対談1 2004-05に所収。
  220. ^ 三島由紀夫「英霊の聲」(文藝 1966年6月号に掲載)。『英霊の聲』(河出書房新社、1966年6月)、第20巻 短編15-20 2002-02-2002-07に所収。
  221. ^ 三島由紀夫「三島由紀夫氏の“人間天皇”批判――小説「英霊の聲」が投げた波紋」(サンデー毎日 1966年6月5日号に掲載)。34巻評論9 2003-09に所収。
  222. ^ 続・中条 2005-11, p. 185
  223. ^ a b c 三島由紀夫(福田恆存との対談)「文武両道と死の哲学」(論争ジャーナル 1967年11月号に掲載)。持丸・佐藤 2010-1039巻対談1 2004-05に所収。
  224. ^ 鈴木邦男「『女帝』を認めた三島の真意」(鈴木 2010-09
  225. ^ 松本徹「三島は女系天皇をみとめていなかった―男系天皇論者であることは、三島の作品を読んで、その男女観からも明らか」(三島由紀夫の総合研究、2012年6月24日・通巻第662号)
  226. ^ 松藤 2006-03
  227. ^ 島田雅彦磯田光一「模造文化の時代」(新潮 1986年8月号に掲載)。「年譜」(昭和45年10月末)(42巻年譜・書誌 2005-08, p. 326)
  228. ^ 持丸博「第二章 たった一度の思考的対決――三島由紀夫と福田恆存」(持丸・佐藤 2010-10, pp. 25-74)
  229. ^ 健一 2005-11、『畏るべき昭和天皇』(毎日新聞社、2007年。新潮文庫、2011年)、原武史『昭和天皇』(岩波新書、2008年)など。
  230. ^ a b c 三島由紀夫「愛国心――官製のいやなことば」(朝日新聞夕刊 1968年1月8日号に掲載)。34巻評論9 2003-09に所収。
  231. ^ a b 旧事典 1976-01
  232. ^ 三島由紀夫「奔馬」(新潮 1967年2月号-1968年8月号に連載)。第13巻長編1-14 2000-11-2002-01に所収。
  233. ^ 三島由紀夫『葉隠入門』(光文社、1967年9月)。34巻評論9 2003-09に所収。
  234. ^ 三島由紀夫「栄誉の絆でつなげ菊と刀」(日本人及日本人1968年9月・10月合併号に掲載)。35巻評論10 2003-10に所収。
  235. ^ 三島由紀夫「お茶漬ナショナリズム」(文藝春秋 1966年4月号に掲載)。34巻評論9 2003-09に所収。
  236. ^ a b 平岡公威「昭和廿年八月の記念に」(1945年8月19日付)。(新潮 1979年3月号に掲載)。26巻評論1 2003-01に所収。
  237. ^ a b 三島由紀夫(鶴田浩二との対談)「刺客と組長――男の盟約」(週刊プレイボーイ 1969年7月8日号に掲載)。40巻対談2 2004-07に所収。
  238. ^ a b c 三島由紀夫「『青春監獄』の序」(宮崎清隆『青春監獄』)(東京ライフ社、1955年9月)。28巻評論3 2003-03に所収。
  239. ^ 三島由紀夫「日本への信条」(愛媛新聞 1967年1月1日に掲載)。34巻評論9 2003-09に所収。
  240. ^ 三島由紀夫「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」(文芸朝日 1964年7月号に掲載)。33巻評論8 2003-08に所収。
  241. ^ a b c 三島由紀夫「発射塔 古典現代語訳絶対反対」(読売新聞夕刊コラム 1960年7月6日 - 10月26日連載)。31巻評論6 2003-06に所収。
  242. ^ 島崎 1972-01
  243. ^ 大野茂『サンデーマガジン 創刊と死闘の15年』(光文社新書、2009年)
  244. ^ a b 猪瀬直樹「第四章 時計と日本刀」(猪瀬 1995-11, pp. 321-449、猪瀬 1999-11猪瀬 2001-11
  245. ^ 「宴のあと」事件 第一審判決 損害賠償請求事件(1964年(昭和39年)9月28日)判決
  246. ^ a b 板坂・真説 1998-08
  247. ^ 三島由紀夫の手紙無断使用事件 判例全文
  248. ^ a b c d e f 噂 1972-08板坂・鈴木 2010-11, pp. 78-93に所収。
  249. ^ a b c 野坂昭如「赫奕たる逆光 II」(オール讀物 1987年5月号に掲載)。野坂 1987-11野坂 1991-04, pp. 77-154
  250. ^ a b 藤井浩明「座談会 映画製作の現場から」(『三島由紀夫と映画 三島由紀夫研究2』)(鼎書房、2006年)
  251. ^ a b c d 岡山典弘「三島由紀夫と橋家 もう一つのルーツ」(『三島由紀夫と編集 三島由紀夫研究11』)(鼎書房、2011年)
  252. ^ 『斎藤茂吉全集』(岩波書店、1974年)
  253. ^ 紀平悌子「三島由紀夫の手紙」(週刊朝日 1974年12月13日号連載手記)
  254. ^ 猪瀬直樹・岸田今日子との対話「25周年 最後の秘話」(オール讀物1995年12月号に掲載)。猪瀬 2001-11, pp. 402-416「解題」内に所収。
  255. ^ 今村均『今村均回顧録』(芙蓉書房出版、新版1993年)
  256. ^ 小野繁『平岡家系図解説』(1971年)
  257. ^ a b c d e f g 板坂・極説 1997-06
  258. ^ 三島由紀夫「中村光夫宛ての書簡」(昭和38年9月2日付)。38巻書簡 2004-03, pp. 734-735に所収。
  259. ^ a b c 仲野羞々子「農民の劣等感―三島由紀夫の虚勢―」(農民文学第93号1971年2月号に掲載)。再訂資料 2005-09, pp. 67-68、噂 1972-08に抜粋掲載。
  260. ^ 三島由紀夫「フランスのテレビに初主演――文壇の若大将三島由紀夫氏」(毎日新聞夕刊 1966年3月10日に掲載)。34巻評論9 2003-09に所収。
  261. ^ 平岡梓「倅・三島由紀夫」(諸君! 1971年12月号-1972年4月号に連載)。「第五章」(梓 1972-05, pp. 203-252、梓 1996-11, pp. 165-205)
  262. ^ a b c d 福島鑄郎「第二章 祖父・平岡定太郎」(再訂資料 2005-09, pp. 63-98)
  263. ^ a b 岩下 2011-12
  264. ^ 裁判記録 1972-05
  265. ^ 福島鑄郎『資料・三島由紀夫』(双柿舎、1982年増補改訂版)。村松 1990-09, p. 35に抜粋掲載。
  266. ^ a b 村松剛「序章――生家 鹿鳴館の香水」(村松 1990-09, pp. 28-50、村松 1996-10
  267. ^ a b c 大屋敦私の履歴書 第22集』(日本経済新聞社、1964年)、『私の履歴書 経済人7』(日本経済新聞社出版局、1980年)
  268. ^ a b 永井亨『永井亨博士回顧録 思い出話』
  269. ^ 三島由紀夫「林房雄宛ての書簡」(昭和44年6月13日付)。38巻書簡 2004-03, pp. 798-799に所収。
  270. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r のち『源泉の感情 三島由紀夫対談集』(河出書房新社、1970年10月。河出文庫で2006年2月再刊)に所収。
  271. ^ a b c d e f g h i j k l m のち『尚武のこころ 三島由紀夫対談集』(日本教文社、1970年9月。1986年4月再刊)に所収。
  272. ^ a b c d e f g h i 41巻音声 2004-09に所収。
  273. ^ エレノア コッポラ『ノーツ―コッポラの黙示録』(マガジンハウス、1992年)
  274. ^ 松田和彦「肉体で描かれた三島由紀夫へのオマージュ―ベジャールの『M』」(『三島由紀夫論集III 世界の中の三島由紀夫』)(勉誠出版、2001年)
  275. ^ 山中湖文学の森・三島由紀夫文学館
  276. ^ 三島由紀夫「『黒蜥蜴』」(東横劇場プログラム 1968年4月に掲載)。34巻評論9 2003-09に所収。
  277. ^ 桶谷秀昭「三島由紀夫『春の雪』」(日本経済新聞 1969年1月12日号に掲載)。再訂資料 2005-09, p. 129、小高根 1971-05, p. 281に抜粋掲載。
  278. ^ 平岡公威「清水文雄宛ての書簡」(昭和17年7月23日付)。『師・清水文雄への手紙』(新潮社、2003年8月)、38巻書簡 2004-03, pp. 557-560に所収
  279. ^ a b 三島由紀夫「伊東静雄の詩―わが詩歌」(新潮 1966年11月号に掲載)。34巻評論9 2003-09に所収。
  280. ^ 三島由紀夫「伊東静雄全集推薦の辞」(果樹園 1960年10月号に掲載)。31巻評論6 2003-06に所収。
  281. ^ a b 三島由紀夫(村上一郎との対談)「尚武の心と憤怒の抒情―文化・ネーション・革命」(日本読書新聞 1969年12月29日 - 1970年1月5日合併号に掲載)。40巻対談2 2004-07に所収。
  282. ^ 石原慎太郎「三島由紀夫への弔辞」(週刊現代 1970年12月10日号に掲載)。追悼文 1999-04に所収。
  283. ^ 石原慎太郎「三島由紀夫の日蝕―その栄光と陶酔の虚構」(新潮「没後20年三島由紀夫特集」1990年12月号に掲載)。のち石原 1991-03で刊行。
  284. ^ 石原慎太郎「肉体の哲学―老いについて」(プレジデント 2001年7月13日号に掲載)
  285. ^ 宮崎 2006-11
  286. ^ 石原慎太郎「今、蘇る危うい予告」(太陽 2010-10, p. 167)
  287. ^ 三島由紀夫「清水文雄宛ての書簡」(昭和45年11月17日付)。『師・清水文雄への手紙』(新潮社、2003年8月)、38巻書簡 2004-03, pp. 628-630に所収。
  288. ^ 伊沢甲子麿「思い出の三島由紀夫」(39巻対談1 2004-05付録月報)
  289. ^ 三島由紀夫「日記」(新潮 1958年4月号-1959年9月号に連載)。のち『裸体と衣裳―日記』(新潮社、1959年11月)で刊行。30巻評論5 2003-05に所収。
  290. ^ 三島由紀夫「雷蔵丈のこと」(日生劇場プログラム 1964年1月に掲載)。32巻評論7 2003-07に所収。市川雷蔵『雷蔵、雷蔵を語る』(飛鳥新社、1995年)に序文として再録。
  291. ^ 藤井浩明による『雷蔵、雷蔵を語る』のあとがきより。
  292. ^ 大西望「市川雷蔵の『微笑』―三島原作映画の市川雷蔵」(『三島由紀夫と映画 三島由紀夫研究(2)』)(鼎書房、2006年)
  293. ^ a b 川端秀子「続・川端康成の思い出」(『川端康成全集 補巻2 書簡来簡抄』月報)(新潮社、1984年5月)
  294. ^ 村松剛「三島の死と川端康成」(新潮 1990年12月号に掲載)。「I 三島由紀夫――その死をめぐって 三島の死と川端康成」として村松・西欧 1994-02, pp. 9-29に所収。
  295. ^ 今東光「本当の自殺をした男」(文藝春秋 1972年6月号に掲載)
  296. ^ 岡山典弘「三十二 三島の霊と話をしていた川端康成」(岡山 2014-11, pp. 159-163)
  297. ^ 三島由紀夫『現代女優論――越路吹雪』(朝日新聞 1961年7月15日号に掲載)。31巻評論6 2003-06に所収。
  298. ^ 秋山大輔「話題作『ヒタメン』について」(三島由紀夫の総合研究、2012年3月19日・通巻第621号)
  299. ^ 宮崎正弘「書評」(三島由紀夫の総合研究、2006年12月18日・通巻第106号)澁澤龍彦・澁澤龍子『澁澤龍彦の古寺巡礼』(平凡社〈コロナ・ブックス〉、2006年)
  300. ^ 三島由紀夫「篠山紀信論」(『篠山紀信と28人のおんなたち』序文)(毎日新聞社、1968年11月)。『芸術断想――三島由紀夫のエッセイ4』(ちくま文庫、1995年8月。復刊2010年)、35巻評論10 2003-10に所収。
  301. ^ 三島由紀夫「大いなる過渡期の論理――行動する作家の思弁と責任」(潮1969年11月号に掲載)。高橋和巳『生涯にわたる阿修羅として』(徳間書店、1970年)、40巻対談2 2004-07に所収。
  302. ^ 野原一夫『回想 太宰治』(新潮社、1980年)
  303. ^ a b 「三島の理解者 堤清二氏が死去」(三島由紀夫の総合研究、2013年11月29日・通巻第773号)
  304. ^ 西尾 2008-11に収録。
  305. ^ 三島由紀夫「林房雄論」(新潮 1963年2月号に掲載)。『林房雄論』(1000部限定版 新潮社、1963年8月)で刊行。作家論 1974-0632巻評論7 2003-07に所収。
  306. ^ a b のち、横尾忠則装幀による『新輯 薔薇刑』(集英社、1971年)、復刻版『薔薇刑』(新版 集英社、1984年)が出版されている
  307. ^ ユリイカ 詩と批評 特集三島由紀夫」(1986年5月号、青土社)に掲載
  308. ^ a b 美輪明宏『愛の話 幸福の話』(集英社、2002年)243-245頁
  309. ^ 美輪明宏『紫の履歴書』(大光社、1968年。水書房、1992年)
  310. ^ 『保田與重郎全集(10)』(講談社、1986年)、および『作家論集 保田與重郎文庫(22)』(新学社、2000年)に所収。
  311. ^ 三島由紀夫「ポップコーンの心霊術――横尾忠則論」(1968年)。『芸術断想――三島由紀夫のエッセイ4』(ちくま文庫、1995年8月。復刊2010年)、補巻補遺・索引 2005-12に所収。
  312. ^ 「年譜」(昭和36年11月11日)(42巻年譜・書誌 2005-08, p. 250)
  313. ^ 三島由紀夫「一S・Fファンのわがままな希望」(宇宙塵 1963年9月・第71号に掲載)。32巻評論7 2003-07に所収。
  314. ^ 『三島由紀夫会見記』(乗杉綜合法律事務所ホームページ・エッセー欄 参照のこと)
  315. ^ 三島由紀夫「小説とは何か 十」(波 1970年3・4月号に掲載)。『小説とは何か』(新潮社、1972年)、34巻評論9 2003-09に所収。
  316. ^ 澁澤 1983-12澁澤 1986-11に所収。
  317. ^ ストークス 1985-11ストークス 1998-11
  318. ^ 新版は、『澁澤龍彦翻訳全集15巻』(河出書房新社、2003年)や、『ユルスナール・セレクション5.空間の旅・時間の旅』(白水社、2002年)にも収録、ISBN 4560047154
  319. ^ a b 憂国忌40 2010-10
  320. ^ 一水会公式サイト







三島由紀夫と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

三島由紀夫に関連した本

三島由紀夫に関係した商品

辞書ショートカット

カテゴリ一覧

全て

ビジネス

業界用語

コンピュータ

電車

自動車・バイク

工学

建築・不動産

学問

文化

生活

ヘルスケア

趣味

スポーツ

生物

食品

人名

方言

辞書・百科事典

すべての辞書の索引

「三島由紀夫」の関連用語

三島由紀夫のお隣キーワード

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   
検索ランキング

画像から探す

おれんじ九州

トリカラー・ダイヤモンド・エンゼル

ハブ

トロイ遺跡

横浜ラーメン

改装

バナナプラグ

猫谷第2堰堤





三島由紀夫のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの三島由紀夫 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2015 Weblio RSS