一之宮貫前神社 一之宮貫前神社の概要

一之宮貫前神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/04/07 03:21 UTC 版)

一之宮貫前神社
一之宮貫前神社
拝殿(左)と本殿(右)(ともに重要文化財)
所在地 群馬県富岡市一ノ宮1535
位置 北緯36度15分18.55秒
東経138度51分27.55秒
主祭神 経津主命
姫大神
社格 式内社名神大
上野国一宮
国幣中社
別表神社
創建 (伝)安閑天皇元年(531年?)
本殿の様式 貫前造
別名 抜鉾神社
例祭 3月15日
主な神事 水的神事、巫射、御戸開祭
鎮神事、酒御造行事
川瀬行事、鹿占神事
機織神事
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概要

群馬県南西部、鏑川左岸の河岸段丘上に鎮座し、信州街道に面する。当社は物部氏が祖神を祀ったことに始まり、古代には朝廷から、中世以降は武家からも崇敬された。

境内は正面参道からいったん石段を上がり、総門を潜ったところから石段を下ると社殿があるという、いわゆる「下り宮」と呼ばれる配置となっている。社殿は江戸時代に第3代将軍徳川家光・第5代綱吉により整えられ、本殿・拝殿・楼門等が重要文化財に指定されている。また、鹿占習俗(国選択・県指定無形民俗文化財)を始めとした多くの特殊神事を行っている。

祭神

祭神は以下の2柱。

葦原中国(日本)平定に功績があったとされる神。当社では物部氏の祖神と紹介している[注 1]
祭神の名前は不詳。一説には、綾女庄(当地の古い呼称)の養蚕機織の神とされる。

なお、『一宮巡詣記』では「本尊稚日女尊、相殿経津主命」と記載され主神は女神とされている[1][2]ほか、本殿の千木も内削ぎ(女神の特徴)となっている。

歴史

創建

社伝によると、創建は安閑天皇元年(531年?)3月15日、鷺宮(現 安中市の咲前神社に比定)に物部姓磯部氏が氏神である経津主神を祀り、荒船山に発する鏑川の流域で鷺宮の南方に位置する蓬ヶ丘綾女谷に社を定めたのが始まりといわれる。その後、天武天皇2年(私年号では白鳳2年、673年)に最初の奉幣が行われた。

一方、室町時代成立の『神道集』には、安閑天皇2年(532年?)3月中頃に抜鉾大明神が笹岡山に鉾を逆さに立てて御座、白鳳6年(677年[注 2]3月に菖蒲谷に社壇が建立されたと記載されている[2]

概史

現在の社名「一之宮貫前神社」は旧社格廃止に伴い改称したものであり、六国史をはじめとする古書には、「抜鉾神社」(ぬきほこ-)と「貫前神社」(ぬきさき-)の2つの名で記される(詳細は後述)。この2社が現神社の前身であるとすると、最初に記録に登場するのは大同元年(806年)、『新鈔格勅符抄』の神封部にある「上野抜鉾神 二戸」の記述である。延長5年(927年)には『延喜式神名帳』に貫前神社が名神大に列格されている。

宇多天皇の代、仁和4年(888年)に一代一度の奉幣として大神宝使を遣わすこととしたが、当社へは寛仁元年(1017年後一条天皇即位の際に遣わされている[注 3]

長元3年-4年(1030年-1031年)に成立したとされる『上野国交替実録帳』には「正一位勲十二等抜鉾大明神社」とあり、当時既に神階が正一位に達していたと思われる[注 4]

『本朝続文粋』の記述によれば、康和2年(1100年)4月に上野国目代平周真が降雨の祈願を行った時の奉献の文を国司上野介藤原敦基が執筆しており、当社が国司による特別の崇敬を受け、一宮的機能が12世紀初頭には確立したと考えられる[3]

中世において、当社は源頼義義家父子を始めとする武家の崇敬を集め、室町時代末期に越後上杉・相模後北条・甲斐武田の各氏に支配された際も庇護を受け、特に武田氏は譜代家老原昌胤取次を務め、造替費用を棟別に課して、上野国を越えた策を講じたとされる[3]

江戸時代には徳川家の庇護を受け、現在の社殿が整えられた。江戸当時は「抜鉾神社」が一般名称であった。

明治4年(1871年)に近代社格制度において国幣中社に指定され、延喜式での表記に倣い「貫前神社」と改称した。戦後は神社本庁が包括する別表神社となっている。

抜鉾神社と貫前神社

明治以前の歴史書には、当社に関して「抜鉾神社」と「貫前神社」という2つの記載がある。また『和名抄』には甘楽郡に「抜鉾郷」と「貫前郷」の記載もある。それら「抜鉾」と「貫前」の関係については議論があり、以下の2説が存在する。

2神2社説
抜鉾神を祀る神社と貫前神を祀る神社は別々の神社であったとする説。
『日本の神々』では、「貫前」の社名は明治維新後に「抜鉾」から改められたもので、本来は「貫前」と「抜鉾」の2神2社であったものが「抜鉾」時代に2神1社となり、明治になって公式には1神1社になった、と述べている。さらに続けて、実際には現在も男・女2神を祀り、2神1社の形は残されている、とも述べている。同書では、朱雀天皇承平年間931年-937年)の『和名抄上野国甘楽郡の項に「貫前郷」と「抜鉾郷」の名が見えることから、貫前神社と抜鉾神社は別地に建っていたと考察し、長元3年-4年(1030年-1031年)の『上野国交替実録帳』に「正一位勲十二等抜鉾大明神社」とあって「貫前」の名が無いこと、正一位で勲十二等と言う神階のおかしさ、この2点より『延喜式神名帳』成立後から『上野国交替実録帳』成立以前の間に「貫前」と「抜鉾」が混同されたと推測している。
『群馬県の地名』でも、初め2神2社でのちに2神1社となったとしている。なお2神の説明で、貫前神は甘楽郡鏑川に居住した渡来人の神、抜鉾神は碓氷郡・甘楽郡にいた物部氏一族の神としており、これが混同されたとしている[2]
1神1社説
抜鉾神社も貫前神社も同じ神社を指す異なる名であるとする説。
『中世諸国一宮制の基礎的研究』では、「貫前」と「抜鉾」いずれの名も六国史に見え、神階に預かる霊験高い神であるが、『延喜式神名帳』には「貫前神社」を1座としているので両神は1神と見るべきであろう、と述べている。付け加えて、別々の2神であれば、官社の幣帛に預かる2座の神とされたはずであり、『延喜臨時祭式』の「名神祭二百八十五座」の1つに「貫前神社一座或作抜鉾」とある注記は同一神であることを示している、と述べている。さらに、『左経記寛仁元年(1017年)10月2日条に記載の大神宝使に預かる「上野貫前」が、長元3年-4年(1030年-1031年)の国司交代時に作成した『上野国交替実録帳』の「抜鉾大明神」と別々であるとは考えられない、と述べている。

神階

  • 六国史
    • 承和6年(839年)6月甲申[注 5]、無位から従五位下 (『続日本後紀』) - 表記は「拔鋒神」。六国史に抜鉾神社が登場するのはこの記述のみ
    • 貞観元年(859年)1月27日、正五位下勳八等から従四位下勳八等 (『日本三代実録』) - 表記は「貫前神」
    • 貞観9年(867年)6月20日、従四位上勳八等 (『日本三代実録』) - 表記は「貫前神」
    • 貞観18年(876年)4月10日、正四位下 (『日本三代実録』) - 表記は「貫前神」
    • 元慶3年(879年)閏10月4日、正四位上勳八等 (『日本三代実録』) - 表記は「貫前神」
    • 元慶4年(880年)5月25日、正四位上勲八等から従三位勲七等 (『日本三代実録』) - 表記は「貫前神」
  • 六国史以後
    • 寛平3年(891年)8月28日、正三位勲七等 (『日本紀略』) - 表記は「貫前神」
    • 延喜16年(916年)1月、従二位 (『扶桑略記』)
    • 長元3年(1030年)頃、正一位勲十二等 (『上野国交替実録帳』) - 表記は「抜鉾大明神社」
    • 正一位 (『上野国神名帳』) - 表記は「抜鉾大明神」「抜鉾太神」[注 6]
    • 正一位勲五等 (勅額) - 表記は「抜鉾太神」[4]

境内

社殿の配置

当社の社殿の配置は独特で、本殿が境内入り口よりも低い位置にある。すなわち、正面参道から石段を上がり蓬ヶ丘上にある大鳥居・総門をくぐると、今度は石段を下ってから綾女谷の本殿に参拝することとなる。このような配置の神社は「下り宮」・「下り参りの宮」[5]と呼ばれている。

建造物

本殿(重要文化財)
本殿の雷神小窓
拝殿の彩色
楼門(重要文化財)
入母屋造

本殿、拝殿、楼門、回廊は、江戸幕府第3代将軍徳川家光による寛永12年(1635年)の造営。元禄11年(1698年)、第5代綱吉による大規模な修理で極彩色の漆が塗られ、現在の華麗な造りとなった。いずれも国の重要文化財に指定されている。

  • 本殿
    単層2階建てで「貫前造」と呼ばれる独特な造りである。また、内部は2階構造になっていて上段に神座が据えられ、稲含山に向けて「雷神小窓」が設けられている。
  • 勅使門(不明門(あかずのもん))
    朱雀天皇の代(930年-946年)に勅使参向の際に設けられた。普段は開門されず、1年に3回、春・秋の御戸開祭と流鏑馬神事の時に開かれる。
  • 勅額鳥居
    名前は清和天皇筆の額が掲げられていたことに由来する。一ノ宮大字田島にあったが、寛永12年に現在の勅使門裏手に移築した。現在は有栖川宮幟仁親王の額が掲げられている。
  • 銅製燈籠
    総門前両脇に立つ。慶応元年の作で、市指定文化財。
  • 経蔵址
    経蔵の建立年代は不明であるが、明治時代の廃仏毀釈で所蔵の諸経典・仏像とともに破却された。現在は礎石が残っている。
  • 三重塔礎石
    宝物殿裏手に所在。当社には三重塔のほか諸堂が建っていたが、天保12年(1841年)焼失した。以後再建されず礎石が残っている。

天然記念物

  • 藤太杉
    樹齢1200年といわれる大杉で、本殿の裏に立つ。平将門討伐のために出征した藤原秀郷が戦勝祈願として年齢と同じ36本の杉を奉納したうちの1本とされる。
  • 蛙の木
    総門東に立つタブノキで、太平洋戦争末期、蛙に似たサルノコシカケが出現。祭神の経津主神が勇武に優れていたことから「勝って蛙」「勝ち蛙」として兵士・家族の信仰を集めた。現在は交通安全の守護「無事蛙」として信仰される。
  • スダジイ
    樹齢推定1000年。数本の枝幹が成長して重なり合う。樹高15メートル、根回り4メートル。富岡市指定天然記念物、富岡の名木10選の1つ。
  • 銀杏
    富岡の名木10選の1つ。



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注釈

  1. ^ ただし、経津主神は物部氏の祖神とされないのが一般的である(詳しくは「経津主神#概要」を参照)。
  2. ^ 一説に白鳳7年。
  3. ^ 左経記寛仁元年(1017年)10月2日の条に、東山道上野貫前に紫綾蓋1蓋、平文野剣1腰、赤漆弓1張、箭(矢)4筋、平文鉾1本、五寸鏡1面、平文麻桶1口、平文線柱1本を神宝として奉したと記載されている。なお『神道史大辞典』(薗田稔・高橋政宣編、吉川弘文館、2004年7月)には、大神宝使とは由緒ある諸社に天皇即位を奉告するため大神宝大幣帛を奉る使いで、中世には派遣が途絶えたとの説明がある。
  4. ^ ただし、『日本の神々』では「正一位勲十二等と言う神階はおかしい」としている。
  5. ^ ただし、「6月甲申の日」となっているが、承和6年は6月15日が甲子なので、この月には甲申の日が無い。
  6. ^ 『上野国神名帳』の記載は写本により異同がある。
  7. ^ 月読神社に合祀されたのは、社久司神社(秋畑琵琶澤)、雷電神社(秋畑二ツ石)、湯前神社(秋畑裏根)、近戸神社(富岡市野上)の4社。
  8. ^ 日枝神社に合祀されたのは、和合神社(田島)、諏訪神社(宇田)、大臣神社(坂井)の3社。

出典

  1. ^ 『一宮巡詣記』元禄9年(1696年)6月15日条。
  2. ^ a b c 『群馬県の地名』貫前神社項。
  3. ^ a b 『中世諸国一宮制の基礎的研究』。
  4. ^ 集古十種. 扁額之部(近代デジタルライブラリー)13コマ。
  5. ^ 『全国一の宮めぐり』。
  6. ^ 摂末社の説明は、主に境内案内板の内容による。
  7. ^ a b 『群馬県の地名』甘楽郡下仁田町 荒船神社項。
  8. ^ a b 『群馬県の地名』甘楽郡甘楽町 稲含神社項。
  9. ^ 『群馬県の地名』富岡市 小船神社項。
  10. ^ 『群馬県の地名』安中市 咲前神社項、『群馬県の地名』上野国碓氷郡礒部郷項、鷺宮咲前神社を参考に記載。
  11. ^ 『群馬県の地名』上野国 碓氷郡礒部郷項。
  12. ^ 赤城神社 伝説(大洞赤城神社公式サイト)。


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