レブロン・ジェームズ レブロン・ジェームズの概要

レブロン・ジェームズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/11/16 07:05 UTC 版)

レブロン・ジェームズ
LeBron James
クリーブランド・キャバリアーズ  No.23
LeBron James at GSW.jpg
名前
本名 LeBron Raymone James
愛称 "King James"
"The Chosen One"
ラテン文字 LeBron James
基本情報
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
誕生日 1984年12月30日(29歳)
出身地 オハイオ州アクロン
身長 203cm
体重 113kg
足のサイズ 35.0cm
選手情報
ポジション SF
背番号 23
ドラフト 2003年 1位
経歴
2003-2010
2010-2014
2014-
クリーブランド・キャバリアーズ
マイアミ・ヒート
クリーブランド・キャバリアーズ
 
獲得メダル
アメリカ合衆国の旗 アメリカ
オリンピック
2004 アテネ バスケットボール
2008 北京 バスケットボール
2012 ロンドン バスケットボール
世界選手権
2006 日本 バスケットボール

生い立ちと高校時代

レブロンはアクロンの低所得者地区で生まれた。父親は側におらず、住居を転々としながら16歳の母親と継父によって育てられた。バスケットとアメリカン・フットボールに熱中した少年時代に、レブロンはバスケットのコーチの家に居候するようになった。新しい環境でさらにバスケットの腕を磨いたレブロンは、アマチュア・アスレチック・ユニオンの大会で頭角を現すようになった。

高校はセント・ビンセント=セント・メアリー高校でプレイ。レブロンは1年目からエースとなり、20得点6.2リバウンドの成績でチームを牽引、27戦全勝で州の第3部チャンピオンに上り詰めた。

2年目には25.2得点7.2リバウンド5.8アシストとさらに成績を伸ばす。レブロンの評判はすぐに広まり、高校はこのシーズンの開幕戦をアクロン大学のアリーナで開催し、観客5000人を集め、さらに連覇が掛かった州タイトルの決勝戦では17,000人が集まり、レブロンとチームは大観衆の前で見事に優勝を果たした。またレブロンは州史上2人目となる2年生でのオハイオ州ミスター・バスケットボールに選ばれ、またUSAトゥデイ紙選出のオールUSAファーストチームにも名を連ねた。すでに全国区となっていたレブロンはNBAのスカウト陣の注目も集め、NBAのワークアウトにも招かれた。アメリカン・フットボールワイドレシーバーとしても優秀だったレブロンは、このシーズンに州のオールファーストチームにも選ばれていたが、怪我をしてしまいバスケット一本に絞る様になった。

3年目のシーズン、チームは州の第2部に昇格したが、州タイトル3連覇は果たせなかった。レブロンは29.7得点8.3リバウンド5.7アシストの成績で、ゲータレード選出の年間最優秀選手に選ばれた。また高校生としてはケビン・ガーネット以来となるスラムマガジンの表紙を飾った。他にもスポーツ・イラストレイテッド、ESPNマガジンなど有名誌でも表紙を飾り、全米から大きな注目を集めた。

4年目のシーズン、レブロンは31.6得点9.6リバウンド4.6アシストの成績で3年連続のミスター・バスケットボール、オールUSAファーストチーム、2年連続のゲータレード年間最優秀選手に選ばれ、高校オールスターゲームであるマクドナルド・オールアメリカン・ゲームではMVPを受賞した。全米にテレビ中継された試合は高視聴率を収め、また州タイトル決勝戦では18,454人の観客を集めた。チームは40-36で勝利を収め、1年ぶりに州チャンピオンに返り咲いた。このシーズン中、レブロンの誕生日のために母親が高級車(ハマーH2)を贈ったことを、オハイオ高校体育協会が問題視し、レブロンは2試合の出場停止処分を受けている。

大学には進学せず、NBAドラフトにアーリーエントリーした。在学中にナイキと7年間で総額9,000万ドル(他にもアッパーデック(Upper Deck Company)と5年間で総額500万ドル)という契約を結ぶなど、商業的にも注目を集めていた。

NBA

キャリア初期

セント・ビンセント=セント・メアリー高校を卒業後、レブロンは2003年のNBAドラフト全体1位でクリーブランド・キャバリアーズに指名され、18歳の若さでNBA入りした。この年のドラフトはレブロンの他にもドウェイン・ウェイドカーメロ・アンソニーなど将来を嘱望される選手が多く、彼らを総称してレブロン世代と呼ぶこともある。

ルーキーイヤーとなった2003-04シーズン、レブロンは開幕戦で25得点6リバウンド9アシスト4スティールと前評判どおりのオールラウンドな働きをしてみせた。11月から翌年の4月までのイーストのルーキー・オブ・ザ・マンスを独占し、シーズン成績は20.9得点5.9アシスト5.5リバウンドだった。ルーキーイヤーに20得点5アシスト5リバウンド以上を達成したのは、オスカー・ロバートソン、マイケル・ジョーダンに続いて史上3人目であった。また、オールスターには出場できなかったものの、ルーキーチャレンジでは1年目選手のチーム最多の33得点を挙げた。キャバリアーズは前年より勝ち星を18勝増やし、35勝47敗の成績を残すがプレーオフ進出は叶わなかった。ルーキー・オブ・ザ・イヤー(新人王)の投票では得点、リバウンドで新人1位の成績を残しプレイオフに出場したデンバー・ナゲッツのカーメロ・アンソニーとの争いになったが、レブロンは508ポイントを獲得(カーメロ・アンソニーは430ポイント)し、ルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得した。

翌04-05シーズンにはこれまで苦手とされていたアウトサイドシュートが向上し、さらに得点力をアップ。2005年1月19日には最年少(20歳と20日)でのトリプルダブル達成、同年3月20日には最年少(20歳と80日)での1試合50得点以上を達成し、オールスターにも初出場を果たした。シーズン成績は27.2得点7.2アシスト7.4リバウンドで、オスカー・ロバートソン、ジョン・ハブリチェックラリー・バード、マイケル・ジョーダン以来5人目の27得点、7アシスト、7リバウンド以上達成となった。しかし、チームは42勝40敗と前年から更に勝ち星を増やすもののカンファレンス8位のニュージャージー・ネッツと同率の9位になり、プレーオフ出場はならなかった。

スーパースターへ

05-06シーズンは、レブロンにとってもチームにとっても勝負の年となった。レブロンはプロ入り3年目としてチームでの結果を求められ、チームはこのシーズン後にFAとなるレブロンと契約延長するためにも、より勝てるチーム作りをしなければならなかった。チームは補強に乗り出すが、目玉であったラリー・ヒューズは怪我でシーズンの大半を欠場し、その他の補強組も期待したほどの活躍を見せず、レブロンを取り巻くチーム状況にさして変化はなかった。しかしレブロンは自身初の決勝ブザービーターを決めるなど、これまで足りないと言われてきた勝負強さも兼ね備えるようになり、チームを勝利に導ける選手にまで成長。チームは大きく躍進を果たし、50勝32敗の成績で8年ぶりにプレーオフ進出。自身も2度目のオールスターゲーム出場で29得点6リバウンドをあげて最年少のオールスターMVPに輝き、レギュラーシーズンでは初の30得点オーバーとなる31.4得点7.0リバウンド6.4アシストという好成績を残した。またトッププレイヤーの証明であるオールNBAファーストチームに初めて名を連ね、MVP投票ではスティーブ・ナッシュに次いで2位だった。初のプレーオフでは1回戦のワシントン・ウィザーズとの第1戦で、いきなり31得点11リバウンド11アシストのトリプルダブルをたたき出す。シリーズを4勝2敗で制すると、カンファレンス準決勝ではレギュラーシーズン1位のデトロイト・ピストンズ相手に3勝2敗とリードを奪うが、そこから2連勝されて惜しくも敗退した。

06-07シーズン、チーム戦績は50勝32敗で前シーズンと変わらなかったが、プレーオフでは順調に勝ち上がり、自身初の、またチームとしては1992年以来のカンファレンス決勝に進出。前シーズンに敗れたデトロイト・ピストンズ相手に、ダブルオーバータイムまでもつれたシリーズ第5戦では48得点(オーバータイムではチームの全得点)をあげるなどのスーパースターにふさわしい活躍を見せ、4勝2敗でこのシリーズを制し、自身初の、そしてチーム史上初のNBAファイナルに進出した。夢のチャンピオンリングまであと4勝となったが、ファイナルサンアントニオ・スパーズとの対戦ではディフェンスのスペシャリストであるブルース・ボウエンのマッチアップと、スパーズの強固なチームディフェンスの前に苦しみ、4戦全敗で敗退。ファイナル中のレブロンはフィールドゴール成功率35%と精彩を欠いた。

07-08シーズンのレブロンの活躍は華々しく、得点の分野では年2月27日のボストン・セルティックス戦で通算10000得点を達成。史上最年少の23歳59日での達成はこれまでの最年少記録のコービー・ブライアントの24歳193日を大幅に更新した。またトリプルダブル7回達成はチーム最多記録、2試合連続トリプルダブル2回達成は1988年のマジック・ジョンソン以来の快挙であった。3月5日のニューヨーク・ニックス戦では50得点10アシスト以上を記録したリーグ3人目のプレイヤーとなった。オールスターゲームでは、2回目のオールスターMVPに輝いた。このシーズンの成績は30.0得点7.9リバウンド7.2アシストとMVP級の数字を残し、自身初のリーグ得点王に輝いた。目覚しい活躍を見せたレブロンだが、一方でチームはオフの補強が上手くいかず、シーズン序盤から苦戦を強いられ、45勝37敗とレブロンがキャブス入りして以来初めて勝率を落とした。プレーオフ1回戦ではウィザーズと3シーズン連続で対戦。このシリーズではウィザーズのデショーン・スティーブンソンによるレブロンへの挑発行為が話題を集めたが、チームは4勝2敗でウィザーズを退け、カンファレンス準決勝に進出した。準決勝の対戦相手はこのシーズンリーグ首位の成績を収めたボストン・セルティックス。レブロンはセルティックスの強力ディフェンスの前に苦しみ、得点が伸び悩んだが、チームはセルティックスを追い込み、最終第7戦まで粘った。第7戦でようやく本来の姿を取り戻したレブロンは、45得点を記録してセルティックスを追い詰めたが、惜しくも勝利は逃し、2シーズン連続のファイナル進出はならなかった。

08-09シーズン、レブロンは28.4得点7.6リバウンド7.2アシストを記録し、チームもリーグトップの66勝16敗をマーク。チームをカンファレンス1位に導き初のシーズンMVPを獲得した。プレーオフに入っても絶好調を維持し、1回戦、カンファレンス準決勝を共に4勝0敗で突破するなど優勝候補の最右翼となった。しかし、一転、オーランド・マジックとのカンファレンス決勝では激戦の末、ホームでの第1戦を落とす。第2戦、2点ビハインドで迎えた残り1秒で、スローインからボールを受けたレブロンが劇的な3ポイントのブザービーターを沈め1勝1敗としたが敵地オーランドで計3敗を喫し、結果として2勝4敗でプレーオフを終えた。試合後、相手のマジックの選手の健闘を称えず無言でコートを後にし、試合後の記者会見も放棄して帰った事で批判を浴びてしまった。レブロンはこの件について「チームは負けたかもしれないが、俺は勝者だ。」などと後に語っている。

09-10シーズン、レブロンは29.7得点7.3リバウンド8.6アシストを記録、チームとしても61勝21敗で2シーズン連続でリーグ勝率1位に導き、本人も2シーズン連続でシーズンMVPを獲得した。プレイオフではカンファレンス準決勝でボストン・セルティックスに2勝4敗で敗退した。

新天地

シーズン終了後、フリーエージェントとなった彼はキャバリアーズ、シカゴ・ブルズとも契約交渉を行っていたがマイアミ・ヒートと契約。ドラフト同期のドウェイン・ウェイドクリス・ボッシュらとチームメートとなった[1]

10-11シーズン、3人のスターが集まったヒートは大きな注目を集めたが、開幕一ヶ月は勝率5割前後と低迷し大きな批判を受けた。その後もチームプレーの完成度は一進一退であったがスリーキングス個々の圧倒的な個人技で勝ち星を重ねディビジョン優勝を果たした。3人のスターが存在する為ボールをシェアすることから個人成績は低下すると予想されたが、レブロンは26.7得点・7.5リバウンド・7.0アシストとキャブス時代と変わらぬハイレベルのスタッツを記録し、新チームでもエースとしての役割を務めオールNBAファーストチームに選出された。

プレーオフでも存分に活躍した。特にボストン・セルティックスとのカンファレンス・セミファイナルではシーズン中は精細を欠いていたウェイドの活躍もあり勝利、キャバリアーズに所属していた時から何度も煮え湯を飲まされてきた強敵へ勝利したことで男泣きする場面を見せた。カンファレンス・ファイナルでのシカゴ・ブルズとの試合でもこのシーズン史上最年少でMVPに輝いたデリック・ローズのマークをするなど、攻守に渡って充実したパフォーマンスを示して、自身4年ぶりとなるNBAファイナルに進出しダラス・マーベリックスと対戦。しかしファイナルを通して低調な内容に終わり、特に勝負所の4Qでの勝負弱さ、消極性にメディアからは批判が集中した。レブロンがファイナルで記録した平均17.8得点は、レギュラーシーズンの平均26.7得点からは実に8.9得点も下がっており、この落差はNBA歴代ワースト記録となってしまった。また、第5戦の試合前、風邪を押して出場していたダーク・ノビツキーをウェイドと共に茶化すような仕草がカメラに捉えられて騒動となった。結局ヒートは2勝4敗で敗退し、またしても優勝には届かなかった。オフシーズン、ヒートに移籍した経緯やファイナルで期待された活躍が出来なかった事からも、自身の評価を大きく下げると共に、NBAファンや関係者、メディアからは激しいバッシングが巻き起こった。

NFL転向?

2011-2012シーズンのNBAは、チームオーナー側と選手会の間での収益配分に関する労使交渉がまとまらず、プレシーズンゲームは全て中止となっただけでなく、当初11月始めに開幕する予定が少なくとも2週間以上遅延することが決定。このためオーナー側はチーム施設に対するロックアウトを行い、レブロンを含む選手はチームとしての練習が行えない状況となった。

この間にレブロンは、トレーニングを兼ねて高校のアメリカンフットボールの練習に参加したため、NFLへの転向が取りざたされた[2]。これを受けて、シアトル・シーホークスのピート・キャロルヘッドコーチが「NFL最低年俸でなら獲得しても良い」との意向を表明し、レブロンも「(ロックアウトで一銭も稼げない)今よりは良い」として同意[3]。しかしその後11月末にNBAの労使交渉が妥結しロックアウトが解除されたため、NFL転向話も自然消滅した。

悲願達成

オフシーズン、チームにローポストゲームが出来る選手が必要と感じと自らその役を買って出てアキーム・オラジュワンの下でポストムーブのイロハを学んだ。11-12シーズンはロックアウトの為、レギュラーシーズンが66試合となる短縮シーズンでの開幕となった。捲土重来を目指したレブロンは27.1得点・7.9リバウンド・6.2アシスト・フィールドゴール成功率53.1%と支配力を増し通算3回目のシーズンMVPを獲得した。

チームはカンファレンス2位でプレイオフに入ると、一回戦ではプロ入り前からライバルとされていたカーメロ・アンソニー率いるニューヨーク・ニックスと対戦、一回戦最大の注目カードかと思われたがヒートはメロとアマレの相性の悪さや守備でのモロさを露呈していたニックスを相手に危なげなく撃破した。カンファレンス準決勝インディアナ・ペイサーズとの第1戦でインサイドの要であるクリス・ボッシュが怪我で離脱してしまう。第1戦は勝利するも、第2戦、第3戦を落としてしまう。大差で負けた第3戦ではドウェイン・ウェイドが試合中にヘッドコーチと衝突する場面もみられ、チームは敗退の危機を迎える。しかし第4戦レブロンが奮起、40点18リバウンド9アシストの驚異的な活躍で敵地で貴重な勝ち星を上げ、ホームアドバンテージを取り戻した。この第4戦のレブロンに対し、まるでビデオゲームのようなパフォーマンスと形容され、ウェイドも「こんなに試合を支配できる選手は初めて見た」と脱帽した。この試合をきっかけにウェイドが本来の姿を取り戻し、チームもその勢いのまま4勝2敗でシリーズを突破する。カンファレンス決勝の相手はボストン・セルティックス、ヒートの手薄なインサイドをケビン・ガーネットにやられ、2勝3敗で再びホームアドバンテージを取られ追い詰められてしまう。負けたらプレイオフ敗退の第6戦、レブロンが敵地で45点15リバウンド5アシスト、フィールドゴール成功率73%と完全に試合を支配し再びチームの危機を救った。このシリーズの第5戦から復帰したボッシュの活躍もあり第7戦を制し、2年連続ファイナル出場を決めた。BIG3結成以来、ヒートはレブロンとウェイドどっちのチームかと度々言われ続けてきたが、ファイナルまでの道程で何度もピンチを救いチームを引っ張ったレブロンに対し、この時にウェイドは初めて「レブロンについて行く」とチームを譲るような発言をした。

2012年のマイアミでの優勝パレード

もう負けることは許されないファイナル3度目の挑戦の相手は得点王ケビン・デュラント率いるオクラホマシティ・サンダー。同ポジションのスーパースターによるマッチアップはレブロンがデュラントにディフェンスすることはあったが、ディフェンスに難のあるデュラントはレブロンにつけなかった。レブロンにディフェンスでつける選手をサンダーは持っておらず、常にミスマッチが発生しポストアップやドライブで果敢にゴールにアタックすると共に味方に良質なパスを供給するレブロンを止められずヒートが4勝1敗でシリーズを制した。特に第四戦では足の痙攣を起こしてベンチに引いたものの、その後足を引きずりながら出場して勝利を呼び込む3Pを決めた。ファイナル通して28.6得点・10.2リバウンド・7.4アシストと攻守に渡って活躍し、最終戦ではトリプル・ダブルも記録したレブロンは満場一致でファイナルMVPに選出された。シーズンMVPとファイナルMVPを同じシーズンに受賞したのは2003年のティム・ダンカン以来、NBA歴代でも10人しかいない。

連覇

12-13シーズン、悲願の優勝を果たし名実共にキングとなったレブロンは、1月16日ゴールデンステイト・ウォリアーズ戦で史上最年少で通算20000得点を達成、さらにNBA歴代2位の連勝新記録となる27連勝、リーグ最高勝率の66勝16敗とマイアミ・ヒートのチーム記録を塗り替える大きな原動力になった。76試合に出場し、26.8点・8.0リバウンド・7.2アシスト・フィールドゴール成功率56.5%・3P成功率40%とさらに安定感を増し、通算4回目のシーズンMVPを獲得した。初の満場一致のMVPになるかとも言われたが、一人だけカーメロ・アンソニーに入れた記者がいたためこれはならなかった。これまでシーズンMVPに4回以上選出されたのは、6回のカリーム・アブドゥル・ジャバーをはじめ、5回のマイケル・ジョーダンビル・ラッセル、4回のウィルト・チェンバレンだけで、レブロンはこの伝説的な選手達に続いて5人目の選手になった。

プレイオフ1回戦はミルウォーキー・バックスを難なくスイープ、2回戦のシカゴ・ブルズ相手にまさかの初戦を落とすもその後4連勝、そしてカンファレンス決勝の相手は昨シーズンも苦しんだインディアナ・ペイサーズだった。ヒートの弱点であるインサイドを付け込めるペイサーズに苦しめられるという下馬評通り、ゲームは交互に星を取り、第7戦までもつれた。レブロンは第1戦で逆転ブザービーターを決めるなどチームを引っ張り、3年連続でNBAファイナル進出を決めた。

ファイナルの相手は6年前キャバリアーズ時代の若きレブロンをファイナルでスイープをしたサンアントニオ・スパーズだった。22歳のレブロンのワンマンチームであった頃と、現王者でありリーグ最高の選手となったレブロンでは心技体全てが別のレベルにあるのは間違いはなく、本人もファイナル前の会見でスパーズへのリベンジへ自信を見せた。ところが、カンファレンス決勝までのレブロンとは違い、スパーズの徹底的にドライブを封じるディフェンスの前にレブロン中心のオフェンスが機能しなくなった。チームもスパーズの攻撃的なオフェンスに対処できず、2勝3敗で王手をかけられてしまう。ホームコートに戻り、負けたら敗退の第6戦、スパーズが優勢、4Q開始の時点で二桁のビハインドを負ったが、ここからレブロンがトレードマークのヘッドバンドが取れても気にすることなく、なりふり構わないアグレッシブさを発揮しなんとか試合を僅差まで持ち込む。残り28秒5点ビハンドで大方スパーズの優勝が決まったかに見えたが、ここからレブロンのスリー、そしてレイ・アレンの同点スリーでOTに持ち込み劇的逆転勝利、シリーズを第7戦に持ち込んでみせた。

勝てば優勝、負ければ敗退のNBAファイナル第7戦、やはり試合を決めたのはレブロンだった。スパーズのシリーズを通してレブロンのドライブを封じるという作戦の完全に裏を書くように、フィールドゴールのほとんどをジャンプシュートで決め、スリーを5本を含む37点(NBAファイナル第7戦の歴代最高得点タイ記録)、そして4Q終了までもつれた激戦をレブロンがジャンパーを沈め試合を決めた。最後に本来の働きを見せたレブロンが昨年に続きファイナルMVPを受賞した。またこのファイナルでは2回のトリプル・ダブルを記録しており、これはマジック・ジョンソン以来となるNBA史上二人目、二シーズン連続でシーズンMVPとファイナルMVPを同時受賞した選手はNBA史上マイケル・ジョーダンとレブロンの二人だけである。

スリーピートへ

13-14シーズン、レブロンはシャキール・オニール率いるレイカーズ以来となるスリーピートを目指すこととなった。そんな中11月5日のトロント・ラプターズ戦において、500試合連続二桁得点を達成することとなった。この記録はカリーム・アブドゥルジャバー、マイケル・ジョーダン、カール・マローン、モーゼス・マローンらに続き五人目となる快挙である。 2014年3月3日(現地)のシャーロット・ボブキャッツ戦に自身のキャリアハイ、ヒートのフランチャイズレコードとなる61得点を記録(FG 22/33、3P 8/10、FT 9/12)した。

ファイナルは昨季と同じスパーズが相手となったが、それまで噛み合っていたオフェンスがスパーズの堅い守備によって封じ込まれ、さらにスパーズの流れるようなパス回しにディフェンスが翻弄される。 レブロン1人が奮闘する場面が目立ち、結局ヒートは1勝4敗で敗退し、スリーピート達成とはならなかった。[4]

キャバリアーズ復帰

シーズン後、ヒートからFAとなっていたが、2014年7月11日にキャバリアーズへの復帰を発表した[5]




[ヘルプ]
  1. ^ レブロン、ヒートへの電撃移籍を発表!!!”. nba.co.jp (2010年7月9日). 2010年7月10日閲覧。
  2. ^ レブロンがNFL転向? 高校生とフル装備で練習 - NFL JAPAN・2011年10月6日
  3. ^ シーホークスHCは本気? レブロンのユニフォーム用意 - NFL JAPAN・2011年10月13日
  4. ^ 【NBA】なぜレブロンはダンカンに二度負けたのか?”. Sportiva (2014年6月17日). 2014年7月12日閲覧。
  5. ^ レブロンがキャバリアーズ復帰を表明、ヒート退団が確定”. AFPBB (2014年7月12日). 2014年7月12日閲覧。
  6. ^ Carmelo Anthony Named One of Three USA World Championship Team Captains”. nba.com (2006年8月17日). 2020年7月10日閲覧。
  7. ^ レブロン・ジェームズがヒート移籍 NBA2季連続MVP”. 日本経済新聞. 2010年7月10日閲覧。
  8. ^ スーパースター列伝第13回
  9. ^ Howard, Bryant headline 2008-09 NBA All-Defensive First Team”. nba.com (2009年5月6日). 2010年7月10日閲覧。
  10. ^ LeBron's girlfriend has couple's second son”. ESPN (2007年6月14日). 2010年7月10日閲覧。
  11. ^ “James Draws Criticism For Stand on Darfur Issue”. Yahoo.com. (2007年5月28日). http://sports.yahoo.com/nba/news;_ylt=AuUKIgRXZ7o9QUghAK6qsoM5nYcB?slug=stcavaliersjamesdarfur&prov=st&type=lgns 2010年7月10日閲覧。 
  12. ^ レブロンの行動が一部で批判されている”. 2010年7月10日閲覧。
  13. ^ Beck, Howard (2007年5月16日). “Cavalier Seeks Players' Support for Darfur”. ニューヨーク・タイムズ. http://www.nytimes.com/2007/05/16/sports/basketball/16cavaliers.html 2010年7月10日閲覧。 
  14. ^ http://www.cinematoday.jp/page/N0033058
  15. ^ The World's Highest-Paid Athletes Forbes.com 2014年6月発表。


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