レイライン
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ワトキンスと『古い直線路』
レイという概念は1921年6月30日、アルフレッド・ワトキンスによって提案された。 ワトキンスはイギリス中部のヘレフォードシャー州にあるブレッドウォーディン(en:Bredwardineを訪れ、近くにある丘陵が連なる地へと車で出かけた。 そのとき、丘の頂上をつなぐ小道同士が一直線につながっているように見えることに気付き、地図を確かめ、それらの場所が一直線に連なっていることを確認した。彼は後に息子にこの体験を「あらゆるものが瞬くように私の中へ入り込んだ」と語った。これを聞いた人の中には、彼の感じた「瞬き」というのはいわゆる神秘的な体験なのだろうと言ったものもいた[要出典]。
しかし、ワトキンスより以前の1870年9月にウィリアム・ヘンリー・ブラック(William Henry Black)がヘレフォードにあるイギリス考古学協会に「Boundaries and Landmarks(大地に引かれた境界と名所旧跡)」という説を主張していた。その中で、彼は「名所旧跡は、西ヨーロッパ全域に巨大な地理的な線を描くような位置に存在している」という仮説を立てた。ワトキンスが上記のように感じたのは、彼がこの仮説を読み、それを頭の片隅においていたからかもしれない。
古代、イギリスがもっと深い森に覆われていた頃、村と村はこの直線状の道が織り成すネットワークによってつながっており、小高い丘は案内板の役目を果たしていたのではないか、とワトキンスは考えた。 目印となる立石や塚、人造池などは古代ブリトン人の手によって作られたもので、ワトキンスはこれらの繋がりをレイ(妖精の鎖)と名付け、綿密に調査すれば太古の風景を蘇らせる事が可能になると考えた[1]。 この考察は1921年9月にヘレフォードのウールホープクラブ(Woolhope Club。ヘレフォードシャー州の郷土史、考古学などへの支援団体)で公に発表された。ワトキンスの功績は後に1882年発行の同クラブ会誌"G.H.Piper's" に取り上げられ、その中で、次のように書かれた。
- アスガリッド・ヴァウル山から北のアーサー石までひいた線は、ハタロルの丘、オールドキャッスル村、ロングタウン城、ユリシェイ城跡、スノッドヒル城を通る。これらの線を考え出したと想像される古代の測量士たちはドッドマン dodman(カタツムリの男[2])と呼ばれた。
しかし、その後の研究でドッドという言葉は道造りではなく畝を真っ直ぐする行為を意味することが分かり、ドッドマンに関する仮説は誤りである事が分かった[3]。
ワトキンスは自身の考察を『Early British Trackways(古代英国の軌道路)』と『The Old Straight Track(古い直線路)』という本に著した。しかし、考古学学会からは懐疑的な目で見られ一般にはあまり受け入れられなかった。考古学者O.G.S.カウフォード(en:O. G. S. Crawford)は学術誌『Antiquity』にこの本の宣伝を掲載することを拒み、これが一般の学者に受け入れられない事態を助長した。 学閥から否定された後もワトキンスは独自の研究会を組織し地図研究や情報交換を続けたが、その研究はラインが直線になっていないなど、重大な事実誤認が含まれている。
2004年ジョン・ブルーノ・エア (John Bruno Hare)は次のように記している。
- 「ワトキンスはレイラインと超自然的なものの関わりがあると主張したことはなかった。彼はレイラインが単に交易や記念碑的な意味合いで作られたものだと思っていたし、大変な昔まで遡ることができ、もしかすれば新石器時代、少なくともローマ時代以前に既に存在していたと考えていただけだ。彼のレイラインに対するこだわりも風景写真への興味や、イギリスの片田舎を愛していた心から自然に芽生えたものだ。古代の英知に対しても努めて論理的であろうとしたし、今日レイライン説が晒されている風当たりには少々残念な思いでいるのではないだろうか[4]。」
レイライン説に対する批判的な見方が強い一方で、専門家の中にはワトキンスと同じ考えを持つものもいる。巨石文化の研究者であるアレクサンダー・トム(en:Alexander Thom)は、複数の巨石の配置が直線的かどうかを詳細に検討することで、その巨石群を誰が作り上げたかを推し量ることが出来るのではないかと提案している。しかし、トムは巨石群の直線的配置に対しレイラインという用語を使うことは避けている。西欧人が南ペルーで発見した砂で描かれたナスカの地上絵が、巨石群のなす桁外れに長い直線に関する研究の助けとなっている。
- ^ ペニック 1998, pp. 19–25.
- ^ dod はカタツムリの古名だが、昔の測量士はカタツムリの角に似た測量尺を持っていたため、測量の意味もあった。(荒俣宏『神聖地相学世界編 風水先生レイラインを行く』集英社、1997年、ISBN9784087486568、p40 による)
- ^ ペニック 1998, p. 27.
- ^ [1]
- ^ ペニック 1998, pp. 31–33.
- ^ 訳者 注:Rosslyn chapel、Roselineの単語中に"ライン"らしき字と音を持つ
- ^ 抜粋はThe Leyhunter's Manual(レイライン探索マニュアル)1927年発行、88ページより)
- ^ a b c d 小澤毅『古代宮都と関連遺跡の研究』 吉川弘文館 2018年 ISBN 978-4-642-04643-5 pp.98-100.
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